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1 仮想現実

 イリオン内、072サンセットエリア。

 高校生の少年が1人、夕陽の浜辺に立っていた。

 くるみ色の長く伸びた前髪は目にかからないように適度に分けられていて、ワックスで撥ねさせた後ろ髪は右分けにされている。筋肉のあまりついていない細身の体を隠すような、袖口の折られたシャツに襟とフードのついた長めのベストを着ている。細身のスラックスの上から紐のついたブーツを履き、色は全体的に暖色系で纏められていて、派手すぎない色味になっている。

 そんな彼を囲むように、数人の同年代の少年が立っていて、その中の1人が彼に掴みかかった。

「茜音~! どこ行ってたんだよ、心配したんだぞ!」

 突然、泣き付かれてしまった茜音と呼ばれた彼は、思いもよらぬ行動を取られた事によって拍子抜けしたように、泣き付いてくる男を見つめる。

 目つきもガラも悪い男達に囲まれたからてっきり暴力でも振るわれるのかと思っていれば、泣き付いている男の後ろに居る、2人の男も涙目になっている。好意的だという事はその表情を見ただけで判るのだが、見た目が一昔前のヤンキー風なだけに見るに堪えない光景だった。

 若干と言うよりドン引きしている茜音に構う事無く、男達は涙も鼻水も垂れ流している。

「1週間もいなくなりやがって……良かった、良かったよぉ!」

「もう二度と帰ってこねんじゃねってもう毎晩、泣いて泣いて……!」

 犬の遠吠えのように泣きじゃくる男達。嗚咽で何を言っているのか聞き取り辛いが、本気で心配していたという事だけは伝わってくるものの、良い年した男達がわんわんと大声で夕陽の浜辺で泣いている画というのは少しばかり恥ずかしい。

 茜音は顔を引き攣らせながらも、とりあえず落ち着かせようと口を開いた。

「あー、心配してくれんのは嬉しいけど……誰だっけ」

 瞬間、ピタリと涙も嗚咽も鼻水も動きも止まった。

 驚いたように目を丸くしたまま、瞬き一つせずに3人から凝視された茜音は、妙な怖さに思わず身震いする。

 あれだけ馴れ馴れしく接してきたからには相当仲が良いと見える為、誰と言われれば驚くのも当然だろう。

「な……何、言ってんだよ! オレだよ、オレ! 忘れちまったのか!?」

「あー、悪い。ちょっと記憶が曖昧で……」

 よく憶えていないんだと言うと、記憶になかった事がよほどショックだったらしい男達は完全に思考停止してしまった。そう思った次の瞬間、混乱する男に肩をがっちりと掴まれ、身動き一つとれなくなる。

「そんなこと言うなよ、オレらマブダチだろ!?」

 唾のかかりそうな勢いと距離に、茜音は顔を引き攣らせながらさっと顔を背けた。

「マブダチって、言葉古すぎだろ。こんな頭の悪い連中と深い付き合いとか信じられん」

「え?」

「ああ、何でもない」

 呟いたおかげか聞こえていなかったらしく、ホッと安堵しつつ取り繕うように笑えば「どうして忘れちまったんだよ」と、何故か再び泣き付かれた。いい加減にしてほしいものだと思うが強く言えず、仕方がないからと話題を変えて直球で質問を投げかけてみた。

 すると男達は一様にキョトンとした顔になる。

「え? 茜音の仲良い奴?」

「そう。友人関係がどうも曖昧でさ……誰か知ってるか?」

 他の友人について知りたいと言えば、う~んと唸り声を上げながら3人で一生懸命に思い出そうとしている。本当に一生懸命に、無い頭をフル回転させている。

 都築茜音という人間の為に。それが何だか、奇妙な光景に思えた。普段、頭を使うような人間にはとても見えないというのに、都築茜音の為にはそこまでするのだろうか、と。

「そういや、ナイトハイダークネスエリアの、赤い小太りと緑のひょろ長い2人組がいて、そいつらとつるんでるって言ってたような言ってなかったような」

 ひどく曖昧で不確かな情報だが、何の情報もないよりずっと良い。

 礼を言って踵を返し、そそくさとその場から居なくなろうとした茜音に、一番慣れ慣れしく接してきた男が不意に声を漏らした。

「そういや……――」


 071ナイトハイダークネスエリアへやって来たのは、3人組と別れて数分後の事だ。

 ここは常夜エリアと呼ばれ夜しか存在しないエリアだ。月は常に空にあり、辺りを包むのは夜の闇。月光と月光花の灯りのみの、名前の割にファンタジー感の漂うエリア。

 この中で、先程サンセットエリアで聞いたコンビを捜さねばならないのだが、1つのエリアが現実世界の町程の大きさがあるので少々骨が折れる。

 先が思いやられると足取り重く歩いている時だった。

 突然、フードを掴まれたかと思うと強い力で後ろ向きに草むらの中へ引きずり込まれ、そのまま乱暴に放り投げられた。勢いが良かった為にバランスを崩し、うつ伏せに地面に倒れ込む。

 打ち付けた所が痛んだけれど、すぐに視線を、引きずり込んだであろう男達へ向けた。その数は、2。

「まさかノコノコ常夜エリアにやって来るなんて、捜す手間が省けたぜ」

 茜音の事を捜していたと言う、小太りの赤い服の男。逆光のせいで顔はハッキリ見えないが、それが誰なのかという大よその見当はついていた。恐らくは捜していた人物。サンセットエリアの男達が言っていた特徴と一致する事から、例の2人組で間違いないだろう。

 地面に手をついて上半身を起こしてみたが、それでもやはり逆光から顔はハッキリ見えない。眩しさに目を眇めた時、チッと舌打ちが聞こえたかと思うと細長いシルエットの方から回し蹴りが繰り出され、反射的に腕でガードするものの再び地面に倒された。

「お前の命運もここまでだな、茜音!」

 そんな事を口走り怒鳴り声を上げる男の言葉を聞きながら茜音は、どこの小悪党だと思って半眼になった。しかしこの2人も先刻、出会ったヤンキー風の3人組と頭のレベルはほぼ同じなのだろうと思うと小さく息をついた。

 こういった連中には、細かい事も常識も何もかもが通用しないと知っているのだから。そのまま体を起こす事もせずに黙っていると、小太りの方に胸倉を掴まれて無理やり上半身を起こされた。襟元を絞められた事で首が絞まり、息苦しさに顔を歪める。

「オレらの可愛いモモに手ぇ出して、タダで済むとは思ってないだろうな?」

 だが、聞こえてきた小太りの言葉は想像していた言葉とはかけ離れていて、拍子抜けしたように茜音は数回、瞬きをする。

「……桃?」

「違うわ! 果物の桃じゃなくてモモちゃんだ!」

「いや、そうじゃなくて……手を出したって何の話だよ」

 唐突過ぎて全く話についていけず、いつどこで誰が何をしたのかと問えば、憤慨し始める毬夫と類次。惚けるなよ、と目を血走らせていて胸倉を掴む手に力を込めるので、息が詰まりそうだ。

 しかし、そう言われても茜音には何の事だかさっぱり分からない。身に覚えなどなく、そもそも手を出したの何だのと言われる理由が見当たらない。

「しらばっくれようったってそうはいかねえぞ!」

「違、そうじゃなくて、それは有り得ないんだ。俺……女に興味ないから」

 強めの口調で言い放つと、暫しの沈黙が降りる。

 これで解放してもらえるだろうかと思ったのだが、すぐに男達の眉間に皺が寄った。

「嘘つけぇい! 今まで散々、女を手玉に取っておいて、どの面下げて言ってやがる!」

「10人や20人じゃきかねえほど聞いてんだよ!」

 それから女の名を次々と言っていく毬夫と類次の声を聞きながら、どれだけ女好きだったのかと都築茜音という人間の事を恨めしく思う。それだけの女性と浮ついた話があるのであれば、声をかけた女性が他人の彼女だったり、他の男から横取りしたりという事も少なくはなかったのだろうと容易に想像がつく。他人の浮ついた話に出てきた女性の名を全て憶えている、この赤と緑の2人組には別の意味で驚きだが。

 しかし、こうして因縁をつけられても仕方がないのではないだろうかと思う自分がいる。今回の件が事実かそうでないかは別としても。

 そして、これが彼らの本性なのかもしれないが、こうして怒り狂って我を忘れている人間に対して記憶云々の話をしたところで意味がないだろう。言い訳としか受け取られないのが関の山だ。

 こうなったら強硬手段を取るしかなく、茜音はハーッと肺の中の空気を全て吐き出すような大きな溜め息をつくと、胸倉を掴んでいる手を掴み返した。抵抗する気かと身構える2人組。特に胸倉を掴んでいる小太りの顔には怪訝の色が浮かんでいる。

「以前はそうだったかもしれないけど、今後はそういう事は一切ない」

「そんな言葉信じられるか!」

「何故なら、今は俺……男が好きだから」

 再びの沈黙。

 唖然と茫然の入り混じった妙な表情の赤と緑の2人組。動きを止め、少しばかり手の力も弱まっている。今がチャンスとばかりにそっと胸倉から小太りの手を外し、そのまま自分の両の手で優しくその手を包み込んだ。

 そして、じっと小太りを見つめる。

「そういう訳だから今後、二度と女には手を出さない」

 女には、を強調する。するとゾワゾワっと赤と緑の2人組の背筋に悪寒が走り、凄まじい勢いで鳥肌が立っているのが目に見えた。まさに、ドン引きといった様子の2人。そして身の危険を感じたらしく、ざっと一瞬にして茜音から数メートル距離を置いている。

 どうやら信用したらしいその行動に、茜音は心の中でほくそ笑んだ。馬鹿で良かったと、この時ほど思った事はないだろう。

 それから暫しの間、脅えた様子だった赤と緑の2人組。襲われるとでも思っているのだろうか。小心者らしい態度を見ると、やはり小物だったかと思う。最初とは打って変わってビクビクとしている赤と緑の2人組は訊いた事には何でも答えてくれて、他のエリアにも自分を知っている者がいるという情報も得る事が出来た。

 訊きたい事を全て聞き終えたので次のエリアに行こうとしていた茜音だったが、恐る恐る小太りの方に声をかけられた事で足を止めた。

「そういえば、さ……――」


 その後も様々なエリアを転々として、友人・知人を捜し回った。けれど、捜すよりも早く相手から声をかけられる事が多く、それは老若男女を問わなかった。

 同年代の男女に神と崇められ、幼稚園児くらいの幼女達に結婚宣言され、老夫婦にまた遊びにおいでと言われ、セクシーなお姉さんに口説かれ、性別不明のお姉様方に取り合いされ、警官だと名乗る人物に説教され、明らかにヤのつく組の人間だと思う人物に絡まれる。

 その誰とも一切、面識はなかった。知り合いの居るエリアを聞いては特徴を窺って捜していても、目的の人物以外からも度々声をかけられていた。どこでどう過ごしていれば知り合いになるのか分からない者が多く、話しかけられる人物も回数も多かった為に、捜し回るよりも遥かに疲労は溜まっていた。

 その中でハッキリした事が1つだけある。都築茜音ツヅキ アカネという人間は、良くも悪くも顔が広いという事だ。恨み言や色恋沙汰が多かったのが人間性を表しているような気がして、正直、途中で挫折しかかっていた。

 それから、友人・知人巡りは3日に渡って行われ、現在は海底エリアと言われている042ブルーオーシャンエリアで暫しの休息を取っている。

 透明なチューブで出来た広い通路の壁際に佇み、通路を行き交う人達に目もくれずに天井を仰いだ。空と見紛う青い海が広がり、巨大な鯨が真上を通り過ぎて行った。光を反射する事のないその透明なチューブは完全に透過している。壁に触れなければどこが海との境目かも判らず、本当に海の中に居るかのようだ。

 エリアによって季節や時間帯が設定されている所が多い為、イリオンに居ると時間の感覚が狂う。今は一体、何時なのだろうか。朝から行動していた茜音にとって今がまともな休息と言ってもいい程で、時間を確認する事など一切していなかった為に時間の感覚は皆無に等しい。

 どれだけ時間をかけても声をかけられない事がないというのもある意味凄いなと思い、また、出会った人物達を思い出すと一気に疲労感が押し寄せてくるような気がして、だるくなった体を壁に預ける。少しでも体力を回復しようと思いながら、真上を通り過ぎて行く魚達を眺めていた、そんな時だった。

「あーかーねー!」

 遠くから名を叫びながら猛ダッシュしてくる人影。ここまでくると、さすがに予想はつく。否、それ以外には思い当たらない。声の感じから察するに好意的なのだろうが、茜音があまり関わり合いになりたくないタイプのようだ。

 しかし、情報源である事に変わりはないので腹を括る事にし、壁から体を離す。意を決しその人物の方を見て先ず目に入ったのは、遠目からでも目立つド派手な金髪だった。そして独特な色合いのカラフルな服装。

 それが物凄いスピードで向かって来るなり、飛びついてきた。

「会いたかった、茜音!」

 長い間会っていなかった恋人と再会したかのような言い方と行動に、茜音は思わず嫌悪と怪訝に顔を引き攣らせる。その人物はチャラいという言葉がよく似合う、同年代の少年だった。半袖のパーカに膝下までのハーフパンツ。原色系の色を使ったその服は、誰が見ても派手と言うだろう。チャラさ加減は茜音以上だ。

「心配したんだからなっ!」

 続けざまの言動に、背筋にゾクリと悪寒が走る。そんな筈はない、絶対に有り得ないと心の中で首を振りながらも、とりあえず「すまん」と謝ってみる。だが、本当に恋人という事はない筈だ。ここまで散々、女問題で絡まれ散々な目に合ってきたのだからそれは確信している。同性愛はどう考えても有り得ない。

 事情を話せば何か判るかと、渋々、口火を切った。

「あー。その、非常に言い辛いんだが……誰」

 瞬間、この世の終わりかと思えるような顔をされた。悪いのはこちらなのだろうから仕方がないのだが、そこまでショックだったかと思うと少しばかり罪悪感が沸き起こる。

「酷い! あんなことやこんなこともした仲なのに、俺のことを忘れるなんて! 愛の言葉の数々は嘘だったのか!?」

 本当に恋人だと言うのだろうか、この人物は。身に覚えなどなく、男が好きだと自分の口で言った事は言ったが、しつこい連中をやり過ごす為の嘘だった訳で、本当のところは恋愛など興味がない。

 性別を抜きにしても、この人物が恋人という事が先ず有り得ない。友達というだけでも遠慮したいタイプなのだから。

「記憶が曖昧になっててな……正直、交友関係は殆ど憶えてない」

「……ん? つまりあれか、記憶ソーシツ的な?」

「まあ、そんなところだ……友人、で、いいんだよな……?」

 恐る恐る訊ねてみる。これで「違う」と言われたら、全速力で逃げるかもしれない。

「友人ってか……」

「えっ?」

「大親友だ! 心の友、一心同体、むしろ俺が茜音、みたいな!」

「それはない」

 何故か暴走を始めたのできっぱり否定すれば、「何でだよー」と口を尖らせている。恋人ではない事にホッと安堵するものの、これが大親友かと思うと落胆したのもまた事実だ。

「でもあれだな、記憶ソーシツってんなら、何か納得かな」

「何が?」

「茜音、前と全然フインキ違うじゃん。髪の色もそうだけど、服も茜音にしちゃあ地味だし。記憶がなくなると性格とかも変わるんだな」

「さ……さあ」

 苦笑いを浮かべて曖昧な返事をすれば目の前にいる自称大親友は突然、はたっと動きを止めた。そして、「あれあれ?」と大袈裟に訝りながら顔を覗きこんできたので茜音は思わず一歩、後退する。

 今度は一体何なのだと身構えていれば、その人物は眉を顰めた。

「あんた……茜音じゃない」

 真面目な顔をして言われた瞬間、ピクリと茜音の眉が動いた。

 じっと何かを見定めるかのように見つめられる。その目は、目の前にいる軽い見た目の、頭の悪そうな男の目ではないように見えて、鼓動が早くなるのを感じた。ひどく煩く感じる自分の鼓動。数秒が、永遠かにも思われた。

 見つめられ、大親友だと言う人物が突然、目を見開いたのは僅か5秒後。

「……あお、い……!」

 振り絞るかのような声に茜音は苦笑したまま、けれども頬を引き攣らせる。

「何、言って……」

「だって分け目が違う! 茜音は右分けじゃなく左分けだ! それに茜音より目の色がちょっとだけ薄いし!」

 ビシッと指を差され、自信満々に言いきった男を数秒見つめると茜音は顔から笑みを消した。

 そして大袈裟な程の盛大な溜め息をつき、不機嫌さをまるで隠す事なく睨むように目を細めると右手で前髪を掻き上げた。

「こんな馬鹿に見破られるのは心外だが、ヘラヘラしているのもいい加減、疲れたからな。愛敬を振り撒くのは性に合わん。察しの通り、僕は都築葵惟だ」

 これまでの鬱憤を吐き出すかのように、低音でテンションも落として淡々と述べる茜音――基、葵惟。

 今までの人当たりの良さのようなものは全て演技で、本性がこちらなのだろうという事は確認するまでもなく、葵惟は不機嫌オーラ全開だ。相手をする事すらバカバカしいと、隠す事なく目の前の男へ向けている。

 ハッキリ葵惟だと名乗り、見下すような不機嫌そうな目で見つめれば、自称大親友は悔し気に唇を噛んだ。

「く……不覚だったぜ。俺の茜音と弟くんを間違えるとは……」

「本当に親友なのか疑わしいところだな。流石は《自称》大親友」

「しょ、しょうがないだろ!」

「何がどう仕様がないと言うんだ」

 大親友、心の友とまで言っていた者が弟と親友を間違えるなど、どう言い訳したとしても親友として最低ではないだろうか。そう思った葵惟だったが、すぐにふぅっと息をつく。

「別にどうでもいい事だがな」

「うーわ、可愛くねー。マジ何で弟くんと茜音を間違えたのかわかんねーよ。つーか弟くん、演技上手いな。ビックリだよ、何か素を見てるとさっきまでのが嘘みてー」

 心底、不思議そうにじろじろとあちこち見てくる、自称大親友の視線がとても鬱陶しい。

 視線が煩い、と眉を顰める。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。茜音の自称大親友なだけあって、言動が茜音と似ている。このまま騒がせておくと耳がおかしくなりそうだ。

 そう思い、黙らせる為に平手で頭を叩こうとして、けれどそれより先に自称大親友が葵惟の顔を見上げた。

「でも何でこんなことしてんの。茜音になりすましてさ。何、茜音になろうとしてるわけ?」

 直球だなと葵惟は思う。あまり深く物事を考えていないのか、ズカズカと土足で踏み込んで良いと思っているのか――どちらにせよ、気を使う事も遠慮する気もないという事だけは分かる。

 葵惟も茜音に扮していた時とはまるで別人のような態度だが、自称大親友も先程と態度があまりに違い過ぎる。茜音と葵惟の差といったところか。

 考えを口にした自称大親友は、葵惟に振ったものの結論は自分の中で出ているのか葵惟の言葉を待たず、更に言葉を紡いでいく。

「ま、無理だろうけどな。何せ茜音はカリスマ的存在だからな。カッコよくてスポーツ万能で派手で女の子にモテまくって爽やかでカッコよくて女の子がいつも周りにいて……茜音はやっぱ最高だよなー」

「お前の茜音に対するイメージは大体分かった。そんなナリしてモテないのか……不憫だな、自称大親友……不憫だ」

「不憫とか言うな! 2回も!」

 派手な金髪に一部を編み込みにしたチャラチャラとした髪型に石だけの小さなピアス。全身からモテたいという空気なりオーラなりがかもし出されているというのに、茜音を羨んでいると云う事は女性が寄って来ないという事を示している。

 それを不憫と言わず何を不憫と言うのだろうかというほどの憐れみの視線を葵惟は向けていて、それが心の傷をえぐっていたのだろうか、茜音の親友であるその人物は話題を変えようと声を張り上げた。

「ってかさ、その自称大親友って言うのやめてくれない? 俺には夏野ナツノって名前があるの!」

「夏野……親友なのに名字呼びか。切ないな」

「ちっがーう! 名前だってば、な・ま・え! 夏野が名前なの!」

 これでもかと、しつこいほどに名前だという事を主張してくる夏野という同年代のその人物。苗字と間違えた事がそれほどまでに癇に障ったのだろうか。

 名前に関しては、葵惟も多少なりとも憶えがある。茜音と葵惟、女みたいだとからかわれたり間違われたり、子どもの頃は特に多かった。虐められるほどではなかったが、それでもあまり気分の良いものではない。

 もしかしたら、この夏野という男もそうなのかもしれない。そうだとしたら、少し軽率な事を言ってしまったのではないだろうか。

「そう名前! だから俺と茜音は親友! 切なくないの!」

 そうでもなかったらしい事に、今し方、心を痛めかけた事に対して葵惟は溜め息をついた。

 やはり、茜音の周りに集まる人間はこういう人種なのだと改めて思い知らされたような気がした。短慮で浅はか。何も考えずに日々を過ごしているような連中に深く関わってもロクな事がないと思われる。茜音と共にいた時は、実際にそうだったのだから。

「で、何で茜音になりすましてんの? はぐらかしたってことは、やっぱそうなの? 茜音になんの?」

 しかし、夏野という男はそうではないらしい。やはり何も考えていないらしく、葵惟のあまり触れられたくない事をぬけぬけと訊いてくる。そうは言っても、そこまで気にしている訳でもないので言葉を返すのだが。

「話題を変えたのはお前だろう」

「あ! でもさ、茜音って戻って来たんでしょ? だったらなりすましって無理じゃね?」

「だから――」

「イリオンならエリア沢山あるしバレないってこと? いやそれ無理あるって」

 質問をしてきているのにもかかわらず、葵惟を遮って話を進める夏野の言葉を聞きながら、葵惟は紡ごうとしていた言葉を全て呑み込んだ。口からは、疲れたように何度目かになる深い溜め息が漏れる。

 初めて見た時の印象から大体予想はしていたが、まともに相手が出来るタイプではないようだ。永年の経験と記憶が告げている。夏野は茜音と同類である、と。

 正直、苦手で若干毛嫌いするタイプだが、扱いやすくもあるという事は今の葵惟にとっては幸運で、その辺は兄に感謝といったところだろうか。実際に感謝はしないのだが。

「僕は茜音になろうとは思っていない」

「じゃあ何で? 茜音は帰って来たのに」

「あれは茜音ではない」

 断定する言葉。不機嫌に細められる葵惟の目。

 夏野にはその言葉が理解できなかったらしく、間の抜けた声を漏らし、呆けたように口をぽかんと開けている。

「茜音の姿をしている別の物だ」

「それ、どういう……っつーか、何か? 弟くんは本物の茜音を見つけようとしてるってこと?」

 帰って来たと思われていた茜音が別人であるとするならば、本物の茜音は未だ失踪したままという事になる。見つけ出す為に、情報は不可欠となるだろう。その為に茜音になりすましているのだとしたら、それは危険を伴う筈だ。

 失踪の原因が何であれ、その原因を刺激する事になるのだから。

 しかし。

「違う」

「えっ?」

「茜音を捜すつもりはない。あいつがどうなろうと僕の知ったことではない」

 しかし、葵惟はそんな夏野の思考を即座に否定した。これまで一度も考えた事などないと言うかのように。

「僕はただ知りたいだけだ。真実を。その為には茜音の姿になる必要があった。皮肉だがな」

 夏野の口から言葉は無かった。

 いくら仲の悪い兄弟だからと言って、ここまで心配しないものだろうか。1週間の失踪。そして戻って来たのが本人ではないと知って、それでもどうなろうと関係ないなどと、普通ではない。彼らはただの兄弟ではなく、この世に同時に生を受けた双子なのだから。

「それに僕は決して茜音にはなれない。僕は……茜音になり損ねた人間だからな」

 それが、全てを物語っていたのかもしれない。

 何となく悪くなった空気に居心地の悪さを感じたらしい夏野は、はぐらかすように誤魔化すように頭を掻き、唐突に話題を変えた。

「ところでさ、真実を知るって具体的にどうするか決めてんの?」

 それが不自然だと気付かない葵惟ではないが、その前にしていた話に戻す理由も必要性も感じない為に夏野の話に乗ってやる事にする。

「何か知っている者がいないかと茜音の知り合いを回ってみたが、無駄足だったようだ」

「茜音、交友関係広いけど、あんま良くはないからなー」

「お前も含めて、な」

「ひどっ!」

「だから別の方法で情報を集める」

 別の方法と言われて頭を捻っている夏野に対して、何故そこで答えがすぐに出ないのか理解できずに葵惟は半眼になる。茜音の友人というのは、どうしてこう頭の回らない人間ばかりなのかと思うと心底、嫌気がさした。

 そして同時に、これ以上同じ空気を吸っていられないと感じた。このままではストレスが蓄積される一方で、葵惟にとっては何のメリットもない、と。

 冷たい視線を向けると、冷たく突き放すように言葉を吐き捨てる。

「自分で考えろ」

「は? 教えてくんないの?」

「何故そこまで話す必要がある。義理も何もないお前に」

「あるじゃん。俺も茜音のこと捜したい!」

「勝手にしろ。僕は協力するつもりはない」

 スッと視線を外し、スタスタと歩き始める葵惟。後ろの方で夏野がわーわーと何かをわめいていたのだが、大方文句だろうからと一切振り返る事も耳を傾ける事もなく、葵惟は真っ直ぐにエリアとエリアを繋ぐ転送装置である《トランスポート》へ向かった。

 イリオン内でのエリアの移動には3通りある。エリアの境界線上にあるナノゲートとは別の粒子の扉を潜るか、エリア同士を繋ぐトランスポートで瞬時に移動するか、一度現実に戻ってナノゲートの目的地を変更して再度イリオンに来るか。

 隣同士のエリアを行き来する場合を除けば、トランスポートを使う方法が一般的だ。ゲームに精通している人間にとっては分かり易く使い易いからだろう。

 宙に球体の浮いた紋様の刻み込まれた円形の台に乗り、行き先を選択すると光の粒子に包まれ、一瞬にして葵惟の姿が消えた。

 次の瞬間には、白に覆われた広々とした空間に立っていた。

 003エレクティオンエリア。サイバーライブラリィと呼ばれる、情報の図書館。円柱状の吹き抜けになったエントランスには3D映像があちこちで流れ、電光掲示板のように文字が宙を飛び交っている。人々は動物の姿をモチーフにした手のひらサイズのナビゲーターを引き連れて歩き回ったり、流れている映像を観たり、光で出来たキーボードを操作したりしている。エントランスからは細い通路が幾つも伸びていて、見上げれば天井は遥か上空にあり、上階も同じように細い通路が枝分かれしている。

 だだっ広いエントランスに佇み、通路を見回す。通路の先も幾つも枝分かれしていて最奥には小部屋があり、そのどれかに葵惟が探しているものがある筈なのだ。

 何百、何千とある中から見つけるのは骨が折れると思いながらも近場から一つ一つ確認して行こうと思っていたのだが、歩き出そうとした時に目に入ったものに、葵惟は怪訝そうに眉を顰めた。少し離れた所に居る、ド派手な金髪と変わった色合いの服。

 暫し茫然とその人物を見つめていれば目が合った。瞬間、葵惟は思いきり顔を背けた。

「ちょ! 酷くない!? シカトしないでよ!」

 離れたままの状態で抗議してきた夏野の声は広いエントランス内に響き渡り、静かなこの場では目立つ上に人騒がせで、周りの視線が夏野だけではなく葵惟にまで痛いほど突き刺さっている。

 どうやら完全に、夏野と知り合いだと思われているらしい。なるべくなら人目を避けて行動したい葵惟は、追い出される可能性を一番に排除する為にツカツカと夏野に歩み寄るなり、ばしっと強めに頭を叩くと首根っこを引っ掴み、エントランスの端に向かった。

 ズルズルと後ろ向きに引きずられていた夏野は叩かれた頭の痛みに耐えるのが精一杯で声が出ないのか、黙って引っ張られて来ると葵惟に手を離された事で床に尻餅をついた。しかし、そんな夏野を気遣う事もせずに葵惟は腕組みしながら、不機嫌そうに眉間に皺を寄せて夏野を見下ろしていて、頭と尻の両方の痛みを気にしながら夏野は座ったまま葵惟を見上げる。

「ちょっと、扱い酷くない?」

「何故ここにいる」

「そりゃ、弟くんにとって俺はただのイケメンだけどさ」

「とりあえず喋るな」

「それとも何? やっぱ茜音に嫉妬してんの?」

「何故、後に来た筈のお前が先に着いているんだ」

「それは企業秘密」

 散々かみ合わない話をしていたというのに、最後の葵惟の疑問にはニッコリと営業スマイルを浮かべて答えた夏野。一体どういう神経をしているのか、全くもって理解できない。そもそも理解しようとも思わないのだが。

 話をするつもりはあるらしい夏野はそこで立ち上がり、ここに来た経緯を語り始めた。

「情報集めるって弟くん言ってたじゃん? だったらここしかないかなって。エレクティオンエリア、通称サイバーライブラリィ。企業や団体、その他いろんなサーバーに直結してるから、情報量が凄いもんな」

 イリオンは、言わばインターネットの中にいるのと同じ事。インターネットを通じて、日本中の様々なコンピュータと繋がっている。

 ナノゲートは今や各家庭だけではなく、会社や病院のような施設などありとあらゆる所に設置されていて、ナノゲートのある所はイリオンとサーバーも直結している事になる。それぞれの施設のサーバーにアクセス出来る唯一のエリアがここ、エレクティオンエリアである。

 だからこの場所に来たのだと自信満々に言う夏野。その考えは正しいしのだが、しかし。

「そのくらい誰でも考え付く。情報を集めるというヒントは出していたのだからな。思い当たらなかったとしたら、子ども以下だったところだ」

 淡々と告げられる言葉が容赦なくグサグサと夏野の心に突き刺さり、がっくりと項垂れる。そんな夏野の事を気にかける事もなく葵惟は無表情のまま、夏野からの恨めしい視線を受けながら、翼の生えたイルカの姿をしたエレクティオンエリア専用のナビゲーションを呼び出して質問を開始した。

 何千と枝分かれしているこのエリアでは必要不可欠な存在で、ナビゲーターを連れている人が多いのはその為だった。背後で暇を持て余しているらしい夏野にかまける事無く、知りたい事を得た為にナビゲーターを消した直後、ここぞとばかりに夏野が声をかけてくる。

「弟くんの探してる部屋、どこだって?」

 瞬間、葵惟は至極不機嫌そうに眉を顰めながら半眼で夏野を見やる。いつまで付き纏うつもりだ、付いて来るな。そう、空気だけではなく顔にも出しているのだが、夏野は一切退こうとしない。

「俺は、茜音が心配なの。今こうしてる間もどうなってるか分かんないし。俺ひとりで捜すより弟くんと一緒のが絶対早く見つかるんだよ」

 こうなったら押しの一手だとでも言うように懇願してくる夏野。顔の前で手を合わせ、頭を下げている。チラッと上目に葵惟を見てきたその姿が、悪戯をした子どもが怒られないように言い訳をしているように見えて、葵惟は息をついた。

「自分で捜せないから他人を頼る、か。確かに茜音の親友だな。そういうところもそっくりだ」

「うわ。すげー嫌味。言い返せないけど」

「……E2区画2018」

 突如、葵惟の口から漏れた言葉。

「何それ、呪文?」

 聞いただけではそれが何なのか理解できなかったらしく、ぽかんと口を開けて間の抜けた顔をしている夏野に今一度、息をつくと葵惟は壁に沿って歩き始めた。

 説明をする気にならなかったので先程と同じように置いて行こうとしたのだが、先程と違って後を追って来ているところを見ると、どうやら本当に退く気はないらしい。これ以上相手をしている時間が勿体無いので仕方なしに放っておく事にし、葵惟は目的の場所を目指した。

 エントランスの端に幾つもある透明な筒状のエレベーターの一つに乗り込む葵惟と夏野。すると瞬時にビルの五階ほどの高さまで上昇し、エレベーターから降りると壁に沿って輪になっている通路を時計回りに数メートル進み、1つの通路に入って行った。それから何度か右に左に道を曲がり、道なりに進んで行く。

 迷う事も戸惑う事もせずに歩き続ける葵惟。細い通路を抜けた先には、長方形の腰ほどの高さの台が置かれているだけの白い小部屋があった。中に入るなり葵惟は台の前に立ち、台に触れるとキーボードが浮かび上がる。慣れた手つきで操作していく葵惟の事を感心するように後方から眺めている夏野は完全に傍観者で、そんな夏野を気にする事無く葵惟は作業に集中する。

 すぐに台の上に半透明なモニターが浮かび上がった。手元を見ずによく操作できるな、と呑気な事を夏野が考えていると、画面に高校生くらいの男の顔写真と短い文章が映し出された。文章の部分には名前「片瀬一悟」年齢「17歳」身長「177」出身地「大分県」などと書かれている。

「これ、何のデータ? つかこれ、個人情報じゃ……」

「そうだ」

「そう……って、見ていいわけ?」

「公開しているのだから良いのだろう。そもそもここは、そういう情報を見られる場所だ」

 首を傾げている夏野はどういう事なのか理解していないようで、ここまで言っていて何故気が付かないのかと溜め息をついてから説明してやる。

「ここは警察のデータベースを閲覧できる部屋だ。個人情報を公開していてもおかしくはないだろう」

「警察? え、どういうこと? この人、犯人ってこと?」

「彼は被害者だ」

 言いながら手元のキーボードについているボタンに触れればモニターの画面が切り替わり、ニュース映像が流れ始める。それは先程映っていた少年が行方不明になったというもの。時期は、今から14日ほど前。茜音が失踪する3日前の事だ。

「2週間経っているが、未だ行方不明のままという事だ。公開捜査もしているから、こうして個人情報も公開されている」

 顔は勿論の事、年齢や身長や体格、住んでいる地域やどこで失踪したかなど、捜査に役立つような情報を開示し行方を追っている。こうしてデータベースに載せているのは、イリオン内にいる可能性を考慮してという事と、葵惟のように警察のデータベースにアクセスする人間も少なくないという事からだ。

 イリオンでは基本的に髪の色や服装以外の情報は変更できない事になっている。顔や声を変えれば本人と断定できなくなる事が理由だ。そして、それ以上の変更をしてしまうと現実世界に戻った時に情報を復元できなくなる可能性もあるからだと言う。主な理由は恐らく後者であるが、民衆がどこまで理解しているか、どれほど重要な事と捉えているかは不明だ。だが、そのような事態が起こればイリオンは閉鎖されるだろうと容易に想像できる。

 イリオンは危険だと認識される事になるのだから。

 流れているニュース映像に意識を戻すと、失踪から3日経過しているとニュースキャスターが告げていた。

「茜音が消えた日の朝のニュースだ」

「捜査するまで3日かかったってこと? ってことは、行方不明って判ったの3日後ってことか」

「もしくは届けが出されるまで3日かかったか。そこはどうでもいいがな」

 淡々とした口調でバッサリ切り捨てると、葵惟は再びキーボードの操作を始めた。

 モニターには違う人物の顔写真とその横に個人情報が映し出され、ニュース映像が流れて記事が文字で綴られる。数秒もするとまた別の人間の顔写真と個人情報が映し出され、その人物に関連するニュース映像が流れ記事が綴られる。

 それが人を変えて何度も同じようなものが流れていて、目まぐるしく変わっていくデータに夏野はすぐについていけなくなったらしく、葵惟の後方で室内をウロウロ歩き回ったり床に座り込んだりと暇を持て余している。

 それでも過ぎた時間はほんの5分くらいだっただろうか。引っ切り無しに動いていた葵惟の手がピタリと動きを止め、そして息をつくのと同時に小さく呟いた。

「なるほどな……」

 全ての記事を見ていて判った事が幾つかある。やはり、ここに来て良かったと思えるような事だった。否、ここでなければ分からなかったであろう情報だった。

「何なに、何がなるほど?」

 いつの間にやら右隣に立っていた夏野を横目で見ると、早く教えてとせがむような視線を向けてくる。まるでご飯をねだっている子犬のように見えて葵惟は半眼になるが、そんな葵惟の様子などまるで気にしていないかのように早くしてよと駄々をこね始めている夏野に、溜め息が自然と漏れた。

 自分と同い年であるならばもう15歳だ。それにしては幼すぎると思うものの、自分の片割れも同じだという事を思い出し、小さく溜め息をつくとモニターに視線を戻した。

 今は顔写真が、横6列、縦7~8列ほどでずらりと並んでいる。それは老若男女を問わず、無作為に並べられていた。

「この人達は、ここ数年の間に行方不明になった者だ」

「ふ~ん。結構いるんだなぁ」

「全体からすると少なすぎるがな。だが、これら全ての人間がイリオン内で失踪している」

 先程気付いた事を述べてみたのだが、夏野から返ってきたのは「ふぅん」という気のない声で、葵惟は今一度、夏野を見やる。すると視線に気が付いて、けれども何故見られているのか分かっていないらしい夏野はキョトンとしたまま見返してくるだけだった。

 言葉の意味を理解できていないだけなのか。そう思い、説明を続ける。

「エリアも年齢も性別も住んでいる地域も統一性はない。だが、イリオンでというところだけは一致している」

「でも、それってただの偶然じゃないの?」

 何でそんな事が気になるんだと言うような夏野の口調に、葵惟は信じられないものを見るかのように驚いた表情になっていて、そんな葵惟の反応に夏野は更に不思議そうに怪訝けげんそうに眉を顰める。

 理解していないのか、それとも。

 そう考え、葵惟から溜め息が漏れた。

「茜音が心配だと言う割には無関心だな。頭の回転が遅いか、物事を考えていないのでなければ」

「そ、そんなことないって! 今だって心配してるし……分かんないものは分かんないの!」

「そうか、頭が悪いと認めるのならば仕方がないな」

 酷い言われようだが今し方、墓穴を掘ってしまった手前、反論する言葉を持ち合わせていないらしい夏野は黙ってしまい、夏野の頭の悪さを非難したい訳でもないので葵惟は再び説明を始めた。

 ただイリオン内で失踪しているというだけでは、葵惟とて引っかかりはしない。その他にも確かな理由がある。

「失踪は全て、ここ2年の間に起きている。イリオンは、管理会社である《テウクロス》によって安全を管理されている。24時間、365日監視されているという事だ。失踪など、本来は有り得ないと言っていい」

「その管理ってさ、どういうことをしてるわけ? 俺、よく分かってないんだけど」

 率直に訊ねられた直後、葵惟は物凄い勢いで夏野を睨み付ける。

 あまりの鋭さに、一瞬ビクリと身を震わせた夏野。しかしすぐに葵惟が元の表情に戻った事で、夏野はホッと胸を撫で下ろした。

「オンラインゲームと同じようなものだと思えばいい」

 そのくらいは分かるだろうと夏野に話を振ると、夏野から返って来たのは「何となく」という言葉だった。

 もうこの男には何も期待しまいと可哀想なものを見る目を向け、仕方がないと常識に当てはまる事柄を説明し始めた。

「ナノゲートを潜る際に僕達の体はスキャニングされるだろう」

「情報を読み取るってヤツね。あれで個人を特定してるんだもんな」

「その際に自動でイリオンにログインしていて、その情報はテウクロスへ送信され、ログという記録が残る。いつ、誰が、何処から、何処のエリアに行ったのかという記録がな」

 だが、エリア内にいる間の詳細まで送られる事はないので、それ以外はエリア内をモニタリングしている。

「現実世界に戻る時にはログアウトをする事になる。エリアを移動する際にも情報は送信される。つまり、いつ誰がイリオンを出入りし、どのエリアにいるかという事は把握しているという訳だ。その他の事は、一般には公開されていないから知らないがな」

 簡単に説明してやると、夏野の口から感嘆の声が漏れている。そのくらいの事は常識だと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。だとするならば、夏野は何をどう管理されているかも知らない場所に平然と来ていた事になる。何の情報もなしに未開の地に足を踏み入れようとする夏野の感覚が、葵惟にはさっぱり理解できなかった。

 恐らくその辺の感覚は、この夏野という男には殆どないのだろう。誰かが安全だと言えば信じ込むようなタイプとでもいうのか、危機感に関しては皆無なのかもしれない。

「話を戻す。イリオンが創設されて5年、その内の2年でこれだけの数の失踪者。そしてそれが表沙汰になっていない。偶然で済ませられるレベルではないだろう。そして、2年前と言えば」

 そこで言葉を区切り、キーボードのボタンを押すと別の記事が映し出される。今までとは少し違う内容のもの。

「初めてイリオスペインが起こった年だ」

「え? でもあれって、半年くらい前からじゃなかったっけ?」

「最近増えたというだけで、2年前から幾度かはあった」

 イリオスペインに関する記事は自動でスクロールされていて、そこに書かれている事を葵惟は読み上げる。

 半年ほど前に女性がイリオン内で高所から落ち、足に酷い痛みを感じてすぐに現実世界に戻り病院に行ったが、異常はないと診断された。そんな筈はないと女性が言うので病院側は精密検査をしてみたけれど、結果は異常無し。それでも女性は納得できなかったようでテウクロスに問い合わせをしたところ、「イリオンで怪我をする事などあり得ません」と一蹴された為にその事実を公表し、マスコミに事件として報道された事がきっかけとなり、警察も動かざるを得なくなり捜査された。

 それを発端に似たような症例が次から次へと浮上し、その後も増え続けた事によりイリオスペインという名がつけられるまでになったようだ。

「捜査を進める内に被害者は続々と出てきて、更に追いかけてみれば事件は遡っていき、最初に病院に駆け込んだ人物が2年前だったという事が判明した」

「でも何でそんなことが起こるわけ? バーチャルでもケガはケガじゃないの?」

「いや、イリオンでは痛みは感じても実際に怪我をする訳ではない。怪我という情報がイリオンには存在しない為だ。だから例えビルの屋上から飛び降りても、無傷という事だ。だが、痛みを感じれば怪我をしているという認識が人にはある。現実世界では結びついている事だからな。つまり、怪我をしたと思い込んでいる状態になる」

「えっと……つまり、勘違いってこと?」

「現実では事実でも、イリオンでは事実ではなく空想となるという事だ。そして怪我をした事実がなければ、現実に戻った時には痛かったという記憶しか残らない。だから病院に行ったところで異常は見つからない」

「……記憶もデータなのに?」

「記憶上で怪我をしていても体に変化がなければ、ナノゲートを通る際に《記憶》と《体》の二つの情報は別々に生身の体へ還る。怪我をしたという記憶と、怪我をしていない体。そこに差が出る事は当然だろう」

 葵惟は至極簡単に分かり易く説明をしているつもりなのだが、夏野の表情は険しくなるばかりでちっとも理解できていない事など見ているだけで手に取るように分かり、葵惟はまた小さく溜め息をついた。

 どうしてこう、説明をするだけで疲れなければならないのか……。

 こうなる事は目に見えていたというのに夏野の同行を許したのも、相手をしたのも葵惟自身なので捨て置く事は出来ず、頭を捻り別の言葉を探す。

「フルダイブシステムのオンラインゲームで怪我人が出ない理由は分かるか?」

 突然オンラインゲームの話を振られ、一瞬、戸惑ったような表情を見せた夏野。

「ごめん、フルダイブシステムって何だっけ」

 瞬間、葵惟はこれでもかと言う程に眉間に皺を寄せた。

 夏野と話をする為には、一から全て説明しなくてはならないようだ。

「人の体は脳から電気信号を送る事で動くというのは知っているな」

「聞いたことはあるけど」

「……要するに、脳から送られる電気信号をゲームとリンクさせる事でゲームの中にいるかのような既視感を持たせるのがフルダイブシステムだ」

 本当は脳から送られる電気信号と機械の電気は別物なのだが、恐らくそこまで詳しい説明をしたところで夏野には理解できまい。このままでは本題に進む事無く延々と説明し続けなければならなくなり、そこまで付き合うのはさすがにごめんだと説明を省いた。詳しく知りたいとも思っていないだろうから、と。

「で、それが何だっけ?」

「何故、フルダイブシステムで怪我人が出ないかという質問だ」

 すると夏野は難しい顔をし、脳を働かせ訊ねられた答えを探し始める。

「えっと、何かで護られてるから? バリアーみたいな」

 間髪入れずに葵惟から盛大な溜め息が漏れた。

「フルダイブシステムのオンラインゲームは脳をゲームとリンクさせると言っただろう。つまり、脳以外に影響が出る事はなく、身体的な怪我が反映される事はない。だが、脳に強い衝撃を受ければ身体にも影響を及ぼす事になる。脳の障害で体のどこかが麻痺するようにな」

「あー、なるほど?」

「……打ち身、捻挫、切り傷などの小さな怪我では脳に与える影響はないだろう。それと同じだ。重傷を負わない限りは人体や脳には何もなかった事と変わらない。故に、現実世界では何もなかった事になる。それがイリオスペインの正体という訳だ」

 ここまで砕いて話して漸く理解されるというのも少々困りものだが、頷いているだけで理解などしていないように見えるのが何よりも問題だろうと葵惟は思う。今の話ならば簡単に理解できて良いどころか、そこまで馬鹿にするなと怒っても良いところ。けれども感心しきった様子の夏野は自分がどれだけ低レベルな次元で話をされていたのか分かっていないのだろう。

 それを敢えて言う必要はなく、本人が理解できたと頷いている以上、この話を続けるつもりはないので気付かないフリをし、話を進める事にする。

 何時間あっても夏野に全てを理解させる事は出来ないと直感的に思った事と、そこまでわざわざ付き合ってやる義理もない事だから。

「イリオスペインと失踪。この両者が何の関係性もないのであれば問題はないが、偶然で片付けるにはどこか引っかかる」

「イリオンで何か起こってるってこと?」

「恐らくは」

 どちらもイリオン内での出来事なのだから、イリオンに何か原因があると考えるのが当然だろう。失踪とイリオスペインの二つが同時期に偶然起こり得る可能性など、ゼロに近いのだから。

 けれども、その詳細は未だ不明瞭であり、これ以上の情報をここで得られるとは思えないのが現状だ。そもそもここに来た目的は失踪者の事を調べる為だったのだから、目的は達成されたと言っていい。

 ここから先の事はまた別の場所に行かねばならず、葵惟がキーボードから手を離せばモニターもキーボードも消え去り、ただ台があるだけの小部屋へ戻った。

 もう少し関連性が見い出せれば良かったのだが、失踪者とイリオスペインについてのデータは別々に保管されていて、両者の関連性を疑っているのは恐らく葵惟のみ。そもそも、失踪者とイリオンの関連性を疑ってすらいないような記事の内容だった為にその辺の事をデータベース上から見つける事は難しいようだ。つまり、ここから先は個人で調査するしかないという事で、葵惟は踵を返すと来た道を戻り始めた。

 当然のように夏野も後をついて来ている。

「次はどこ行くつもり?」

「少なくともここに用はない」

「あー、また隠す。何でそう邪険にするかな」

「好意的に接する理由が見当たらん」

「え、どういう意味?」

「それが分からないような人間だからだ」

 理解できないと今の言葉を訊き返されれば、最早言う事はそれしか見当たらない。それでも首を傾げている夏野は救いようがないだろう。

 夏野とこういったやり取りをしていると、どうしても茜音の姿がチラつく。

 茜音が消えたあの日の朝もそうだった。何気ない会話をしていて、葵惟にとっては普通の事を言ったつもりでも茜音には違うニュアンスで伝わり、機嫌を損ねる。考え方の違いだけは、何年経っても変わらなかった。双子なのにどうしてそんなに違うのと言われる事も多かった。他はそっくりなのにね、と。

 ずっと夏野の姿が茜音とダブって見え、もやもやとした感情が渦巻いているのを葵惟は夏野に会った時から感じている。具体的にどういうものなのか、どういった感情なのかという事を明確に出来ないけれど、確かにその感情は葵惟の胸の内にある。

 それがもどかしく、ひどく気持ち悪くもあった。

 結局、夏野のこれからどこに行くのかという質問に答える事はせずに通路を歩いて行く。カプセルのようなエレベーターに乗ってエントランスまで降り、エントランスを横切ってトランスポートの前まで戻って来たのだが、葵惟はトランスポートには見向きもせずに通り過ぎて更に奥へ向かっていて、慌てたように夏野が後方から声をかけてくる。

「ちょ、弟くんどこ行くの? 移動ならこっちのが早いじゃん」

 立ち止まってトランスポートを指差しているが葵惟が振り返る事はなく、焦ったように追いかけて来た夏野は更に言葉を紡ぐ。

「何、隣のエリアなの? エレクティオンの隣って何か堅苦しいエリアしかなかった気がするんだけど」

「移動するなら勝手にすればいいだろう」

「え、移動するんじゃないの?」

「そんな事は一言も言っていないが」

「いや、言ってないけどさ……」

 確かに言っていないがそういう事ではないだろうと、納得のいっていないらしい夏野はぶつぶつと文句を言いながらハーフパンツのポケットに手を突っ込み、口を尖らせながら葵惟の斜め後ろを歩いていて、そんな夏野を横目で見るとどこの小学生だと葵惟は疲れたように溜め息をついた。

 ふと、脳裏を過る小学生の頃の茜音の姿。何でもかんでも葵惟に訊いてきて、そのくせ葵惟の回答が理解できず、それでも何でと訊いてきて、面倒くさくなって放っておくと不貞腐れる。そんな茜音を見て仕方がないと思い、相手をしてやろうとした時にはすでに茜音は別の事に興味を示していて、そんな茜音にどれだけ振り回された事か。

 そして今、夏野にも同じように振り回されている自分がいて、とても複雑な気分になる。

 そんな事を考えながら歩いていれば、いつの間にやら目的の場所に辿り着いていたらしくその場で立ち止まった。葵惟の目の前にあるのはナノゲート。

「あれ、現実世界に戻るんだ」

 家に帰るんならエリアの移動じゃないかと納得しかけた夏野だったが、すぐに、はたっと動きを止めた。嫌な予感がする、と。

「……あのさ、まさかとは思うけど、テウクロスに行くわけじゃないよね?」

「まさか」

「ですよねー」

「直接、橘蒼斗に会いに行く」

「……は?!」

 驚く夏野を余所に、葵惟は思考を巡らせる。

 ずっと考えていた。この先に進む為にはどうすれば良いのか。

 答えは簡単だった。イリオンに関係しているのだからイリオンに一番詳しい者に直接、訊ねれば良い。現状、イリオンに最も詳しいと言えばテウクロスという事になる。そしてその中でもイリオン創設者の橘蒼斗であれば間違いはない。

 だが、夏野は即座に葵惟の言葉を否定する。

「ちょ、それ無理、もっとダメ!」

「何故だ。テウクロスでは門前払いされるだろうから本人に会いに行くというのは当然の事だろう」

「当然じゃないよ! 会社すっ飛ばして社長の自宅に商品の文句を言いに行くようなものだから! そもそも、今日はもう会社も個人も押しかけちゃダメだし。今、何時だと思ってるわけ。もうすぐ九時だよ」

 ほら、と吹き抜けになっているエントランスの中央部を指差せば、20:53と大きく表示されている。いつの間にか夜になっていたらしい。

 夜の九時ともなれば、誰かを訪ねて良い時間ではない。気心の知れた友人ならばいざ知らず、面識のない人物では尚更だ。

 現在時刻を知り、さすがに納得し頷く葵惟。

「確かにそうだな。時間までは気が回らなかった」

「弟くん、常識あるのかないのか、しっかりしてるのか抜けてるのか判んないね」

 ぷぷっと小馬鹿にしたように口元に手をあてて笑いを堪えている夏野は、まるで葵惟の弱点を見つけて喜んでいるようで、そんな言動に葵惟はチラリと夏野を見てからすぐに視線を逸らした。

「全てが残念な人間よりは常識的でしっかりしているつもりだが」

 冷ややかな視線を向けながら淡々とキツイ言葉を述べれば、夏野にグサグサと言葉の矢が刺さっていて、胸元を抑えて沈み込んでいるところを見ると自分でも否定できないらしい。そんな夏野を憐れだなと思い、葵惟は息をついた。

 自分から吹っかけて言い負かされるなど、憐れ以外の言葉が見当たらない。

 墓穴を掘った夏野の事は放っておいて、これからどうしようかと顎に手を当てて思案し始める。そこで、不意に肩をがっしりと掴まれた。

「弟くん、これからどうするの?」

 あれほど落ち込んでいたのに今はもうケロッとしている夏野の手を肩から払い除けると、腕組みしたまま視線だけを夏野へ向ける。

「それを考えていたところだが……これ以上、先に進めそうにない」

「そっか。じゃあ、今日はここで解散ってことね。家に帰んなきゃだし、当然か」

 そこまで言って、ふと夏野の言葉が途切れた。思案するように宙を仰ぎ、首を傾げ、口を開く。

「あれ? でも確か弟くん、学校辞めていなくなったって……」

「ああ。僕も失踪中の身だ」

 さも当たり前のように告げる葵惟に対して、当然の事ながら「えーっ!?」と驚きの声を上げる夏野。至近距離で叫ばれた為にキーンと頭に響き、咄嗟に耳を抑えたけれど意味はなかった。煩いと眉を顰めているが、失踪中だと告げればこのような反応を示される事は予測済みだった為に、対処が遅れた自分自身に対して苛立っている部分も大きかった。

 驚く理由は、失踪中の人間が堂々と人前に出ているどころか失踪中だと自ら口に出したというところだろう。

 だが、当の本人である葵惟にとっては失踪している事にあまり頓着がなく、そんな事よりもと話題を変える。

「どうして茜音の知り合いは揃いも揃って僕の事を口にするんだ。この3日間、出会った全ての人間に言われた。誰一人、例外なく、だ」

 この3日、茜音の友人関係を回り情報集めをする中で多くの人間と関わった。関わったと言うよりは絡まれたと言った方が適格だろう。その中で一度は必ず触れられた事がある。それは「弟くん、学校を辞めていなくなったんだって?」という事。

 茜音の友人と葵惟は殆ど面識がなく、登下校の最中や学校にいる間に多少顔を合わせる程度で話をした事など一度もない。それどころか、一生の内に出会う事などない人物が多かったように思う。それなのにもかかわらず、皆が口を揃えて葵惟の話をするというのはあまりにも不自然だった。

 けれど夏野はどこか呆けたような表情をしている。

「そんなの、茜音が会う人会う人に葵惟のこと話してたからに決まってるじゃん」

「……決まっているのか?」

「いや、そこはそうでしょ。でなきゃ弟くんの話はしないって。茜音と話してて、弟くんの話が出ないことはないよ。茜音、弟くんのこと大好きだからさ」

 微笑み、懐かしむように話す夏野から、茜音がどんな風に葵惟の話をしていたのかが容易に想像がつく。否、夏野に言われるまでもない。

「知っている。好かれている事など、とうに。鬱陶しい程にな」

 面倒くさそうな物言いとは裏腹に、気持ちはひどく穏やかで、何だか温かい気持ちになって嬉しさを感じている自分がいる。茜音の事は煩くて鬱陶しく暑苦しいと思う反面、そんな茜音の存在がとても大きいという事を気付かされる事がある。

 慈しみの見て取れるような表情の葵惟を茫然と見つめていた夏野は驚きつつも、へへっとしまりのないにやけた顔で笑っていて、その瞬間に、和やかだった空気が一瞬にして冷ややかなものへ変わった。

「何を笑っているんだ」

 淡々とした声音で言えば夏野がこちらを見つめてくる。先程までの嬉しそうな表情などどこへいったのかというような無表情と、引いているというのが見て取れる様子に切なくなるが、緩んだ口元はそう簡単に戻らない。

「いや、何か嬉しくってさ」

「何故、お前が喜ぶ」

「弟くんも茜音のこと、やっぱり大事なんだなって思ったら嬉しいよ。親友が嫌われてるのはやっぱさ、辛いじゃん」

「どうでもいいとは言ったが、嫌っているとは言っていないだろう」

「あれ、そうだっけ? まあいいじゃん」

 あっけらかんとしたように言いながら肩を組んでくる夏野の馴れ馴れしい態度に、鬱陶しいと眉をひそめながら逃げようとするが、それでもべたべたと接してくる夏野。

 一体どういう風の吹き回しかと思う。葵惟にはほぼ無関心だった筈なのに、この度の過ぎたスキンシップは恐らく茜音が絡んでいるからだろうとは思う。茜音と本当に仲が良かったのだな、と改めて感じた。

 それでも引っ付かれるのを大目に見る事は出来ず、無理やり引っぺがすとこれからの事を再び考え始めた。

 今日はこれ以上、出来る事がないので休息を取る必要があるのだが。

「そういや、弟くん今、家出中でしょ? 三日もどうしてたわけ?」

「草原のあるエリアや人の居ない所で眠っていた」

「ちょ、それって野宿してたってこと?!」

「そうなるな。下手なエリアを選ばなければ問題はない」

「いやいや、大有りだって! いくらイリオン内だからってさ、不審者がいない訳でもないし。まさか、今日も野宿するつもりじゃないよね?」

「そのつもりだが?」

 腰に手を当て、何を言っているんだ当たり前だろうと言うような表情の葵惟に、夏野は悲鳴を上げそうなほど驚くなり葵惟の肩をがっしりと掴んだ。

「ダメ! それはぜーったいダメ!」

「他に方法がない」

「それは……」

 つい3日前まで普通に高校に通っていた葵惟がホテルや宿に泊まるお金など持ち合わせている筈がなく、又、失踪中という事で誰かを頼る事の出来ない葵惟が一夜を過ごせる場所などイリオン内しか見当たらない。

 しかし、だからと言って野宿は野宿でありそれ以上でもそれ以下でもない。故に、このまま放っておく事は夏野には出来なかった。

「そうだ! 野宿するくらいならさ、うちに来ればいいよ。茜音の弟くんだし、放っとけない」

 これなら問題ないだろうと得意気な顔で言えば、不機嫌さ全開で嫌だと前面に押し出すように眉間に皺を寄せる葵惟。

「何で、ここでそんな嫌そうな顔するかなぁ! ほら、文句言わない!」

 有無を言わせず葵惟の手首を掴むと夏野はスタスタと歩き始めてしまい、文句は言っていないと思いながらも他に良い方法が思いつかない葵惟は、半ば強引に夏野の家へ連行されるのだった。


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