プロローグ
視界いっぱいに広がるのは、星の鏤められた闇。眼下に広がるのは、青く輝く惑星。宇宙の只中に居た。
走っていた足を止めると、くるみ色のはねた髪が揺れる。
荒い息を整えつつ、数メートル先に居る男を見つめた。
男の顔は、自身の顔と瓜二つだった。
蔑むような目は、これまで見てきた表情とはまるで違う。疲れで流れたのとは違う、嫌な汗が頬を伝った。どうして、こんな事になったのだろうか。心臓が鷲掴みにされたように苦しい。
音は何もない。風もない。
それでも、同じ顔の男が握った物から放たれた小さな鉛の塊が、空気を切り裂いた。
パアンッと弾けた音が響き、直後、腹部に焼けるような痛みが走る。
何故、どうしてと、誰かの声が響き渡る。それは一体、誰の声なのだろうか。自分の声なのだろうか―――。
ハッとして目が覚めた。
息が切れ、額から汗が噴き出ている。
上半身を起こし、額に手を当て、頭を抱える。まだハッキリとしない頭。焦点の合わない目。今、何か心を抉られるような出来事があったような気がした。何も憶えてはいないけれど、額から離した手が汗でぐっしょりと濡れている。まるでシャワーを浴びたかのようではないか。
左脇腹がチリチリと痛む。
夢を見るなど、普通の人間のようではないかと葵惟は首を振り、黒髪が揺れると汗が散った。
「茜音……」
ただ一言、そう呟いた。今のは、葵惟の意思ではなかった。口から勝手に出ていた言葉だ。どうして今、その名を口にしたのか。それは葵惟自身も定かではない。
目を細め、葵惟は布団をがばっと乱暴に払いのけると、ベッドから降りた。
朝の食卓で椅子に座り、目の前に置かれた皿に乗ったトーストを手に取り、一口かじった。すでに冷えているトーストだが、腹の足しにはなるだろう。
食事をしながら、雑音として耳に入っているテレビのニュース番組に耳を傾けた。
「――市内で高校3年生の片瀬一悟君が行方不明となり、警察では、事件・事故の両方で捜査を進めています」
食パンに水分を取られ渇いた喉をアイスティで潤し、フォークで刺したサラダを口に運んだ時、テレビのチャンネルが変えられた。キッチンで未だ料理を作っている母親が変えたようだ。
母親はニュースに興味がなく、この時間になるといつも別の情報番組に変えてしまう。特にニュースが観たかった訳でもないのでそのまま画面を見れば、テレビの向こうで数人の男女が半円状になった机に向かい、並んで話をしている。
「外傷は無し。話を聞いたところ、仮想現実である《イリオン》内で怪我をしたのだという事です」
「最近、そういった怪我人が増えていますね」
「このような怪我を、《イリオスペイン》と呼んでいるようですよ」
「そもそも、イリオンとはどういうものなのか、改めて説明しましょう」
司会者らしき男の言葉に、中央の画面に映像が流れた。それはイリオン創設時のもので、当時、葵惟が食い入るように見ていたもの。そして今、それまで興味なく流し見をしていたテレビ画面を、当時と同じように見つめる。
映像の中にある画面を見ながら、リポーターの女性が説明をしている。
『VRMMOでお馴染みのフルダイブシステムが今、進化を遂げました。五感で体感をするだけで実際の体は動かないというものが、これまでのフルダイブシステムですが、何と生身の体のままバーチャルの中に行けるようになったんです。それを可能にするのが、このナノゲートです』
画面に映る、とある壁。四隅に拳ほどの大きさの装置が取り付けられていて、装置の内側は滝のように粒子が流れている。
『粒子の中に入ると体全体がスキャンされて、網膜・指紋・体型・顔を、予め登録していたデータと照合する事で個人を特定するというものです。更に、脳から発せられる電気信号から思考や記憶までをもデータ化する事ができ、それらのデータを基に仮想現実内にもう1人の自分を作るということです」
「それは、別の自分になるという事ですか?」
スタジオの司会者からの言葉に、女性リポーターは「いいえ」と否定した。
『現実の体と仮想現実の体が重なることで、通信回線上に存在しているイリオンへ入ることができるようになります。生身の体にデータを纏っているようなものですね』
『危険はないんですか?』
『全てをデータに変換すると、現代の技術で元の肉体を構成する事が困難だということです。腕が欠けたり、顔が変わったり、人の形を成さない危険性もあるという話でした。ですが、ナノゲートを使ってデータを纏うことによって、記憶と可視情報のみを変換するので危険性はゼロパーセントに近いとのことです』
画面には別の映像が流れ始めた。それは、光の花が咲き夜の闇を照らし木が家となっている街や、海中を航行する透明な四角い箱、クリスタルで出来た洞窟など、現実では有り得ないようなものばかりだ。
『そしてナノゲートの登場により、仮想現実・イリオンが実装されます。今、ご覧いただいている映像が、そのイリオンのエリアの一部です。全て、自分の体で体感できるなんて夢みたいですね』
そこで映像は途切れ、元の番組の司会者が口を開く。
「仮想現実であるイリオンが日本中で実装されてから5年。イリオスペインが初の不具合と言えますね。管理会社のテウクロスが安全面に配慮していたおかげでしょうか」
「それにしても、仮想現実で痛みがあるのって嫌ですよね。バーチャルなんだから、痛みくらい忘れたいですよ」
「しかし、痛みがなければ生きているとは言えないという、開発者の橘蒼斗さんの言っている事は尤もで……――」
こういった仮想現実についての論争を耳にするのは、もう何度目になるだろうか。
仮想現実・イリオン。インターネット上に1つの世界を作り上げた、虚構の世界。現実世界と隣り合わせにある、もう1つの現実。
人々は自由に虚構と現実を行き来する事が可能になったが、未だこうして何らかの話題に取り上げられている。
ここ最近は、専らイリオスペインの話で持ちきりだった。毎度、違う人間で同じような話をするなど、テレビというものは全くもって面倒くさいものだと葵惟は思う。最後には決まり文句か決まり事のように、「もう少し改善されれば良いですね」と曖昧な言葉で締めくくるというのに。
自分達で答えを出せないのであれば、論争には何の意味もない。それでは子どもの喧嘩と同じではないかと、少しばかり目を細めた。
「まーたイリオスペイン? 最近、多いなー」
妙に間延びした声が耳元で聞こえたかと思うと、後ろから伸びてきた手がベーコンを素手で摘み、そのまま口へ運んだ。まるでスナック菓子のように頬張っているのを、葵惟は横目で見て溜め息をついた。
「こら、茜音。行儀悪いことしないの」
「ほーい」
キッチンから母親の叱咤する声が飛んできたが、茜音は指に付いたベーコンの油を舐めながら、間の抜けた返事をする。そして、怒られた事などなかったかのように葵惟の隣の椅子の背に腕を置き、体重を預けると彼の顔を覗き込んできた。
左分けの前髪、サラサラとした明るい茶髪はワックスで撥ねさせていて、誰が見てもチャラいと言うような風貌をしている茜音。自分と同じ顔が、彼の目に映り込んだ。
「やっぱシステムの不具合とかなのかな。葵惟はどう思う?」
「……興味ない」
問いかけに対し、呟くようにぼそりと零してアイスティを一口含んだ。
素っ気ない態度を取ったからか、反応が気に食わなかったのか、茜音はムッと眉間に皺を寄せると椅子の背から腕を離し、葵惟の肩を掴む。
「何それ。葵惟にだって関係あることじゃん。どうでもいいことないだろ」
「興味ないと言ったんだ。関係あるないは問題じゃない」
「どっちだって同じことじゃんか」
「全く違う。関係あっても興味がない。そういう事だ」
面倒くさい、僕に関わるな。
そう言うように茜音の手を肩から払い除けると、茜音の眉間の皺が濃くなったけれど葵惟は一瞥しただけで視線をテレビへ向けた。
「あ、今、俺のことバカだと思ったろ」
「…………」
「黙ってるって事は思ってるんだ! そうだよな、葵惟は頭いいから他の奴はみんなバカだもんな!」
「そんな事は言っていない」
「言ってなくても態度で判るっつーの! ちょっと頭いいくらいで良い気になんなよな!」
ダンッとテーブルを拳で叩くと、テーブルに乗っていた空いた皿が音を立てた。
「何してるの! 早く学校行きなさい、遅刻するわよ!」
音に反応したのか喧嘩がヒートアップしたからか、母親からの二度目の叱咤の声が飛んでくる。毎度、こうして怒られているのに朝から突っかかってくる茜音は本当に学習しないなと半眼で見、葵惟は椅子を引いて立ち上がるとスタスタとリビングから出て行った。葵惟に完全に無視をされた上に、母親にも怒られ煮え切らない様子の茜音は慌てて後を追って出て来、葵惟の後ろにピタリとくっついている。
手ぶらのまま向かっているのは、玄関から続く廊下の奥。奥の壁には、四隅に装置が取り付けられ、滝のように粒子が流れている。今や日本中の家庭に必ず備えられている、ナノゲート。仮想現実・イリオンと現実世界を繋ぐ唯一のもの。
滝に入るようにナノゲートの中に2人同時に入った。周囲が土砂降りの雨のように流れる粒子に覆い尽くされたが、数秒もすると葵惟も茜音もナノゲートを潜り抜けた。
直後、視界いっぱいに広がったのは、球体や逆三角形などの風変わりな形をしているビル群だった。ビルと呼べない形状のビルが立ち並び、スケートボードに乗って人が空を飛んでいる都市。そんな場所に彼らは立っていた。
「あー、またそんな地味な格好してる」
不服そうな茜音の言葉に、葵惟は自分の服を改めて見る。
黒髪の長くも短くもない平凡な髪型に黒縁眼鏡。白い七分丈のワイシャツの袖はボタンを留めずに一つだけ折り返している。グレーのベストを着、黒地に細いグレーのストライプの入ったネクタイをきちっと締め、黒に近い色味の細見のジーンズを穿いている。
これが葵惟のスタンダードな服装だ。
「茜音が派手すぎるだけだ」
言い、隣の茜音を見やる。
鮮やかな赤い髪はもちろん染めているもので、黒い虎柄のような模様の入ったオレンジ色のファーの付いたフード付きパーカは、袖の内側部分が大きく開いた変わったデザインをしていて、太い飾りベルトで留められた細身のズボンを履き、フードと同じようなファー付きの膝丈のブーツを履いている。派手という言葉が似合う色合いとデザインだ。
それが茜音にとっては普通の服装。
「そんなことないって。周り見てみなよ。葵惟の方が浮いてるじゃん」
言われた通りに辺りを見回せば、確かに現実で着ているような普通の服装をしている者はほぼ皆無と言っていい光景だった。
「せっかく服も髪型も、髪とか目の色だって変えられんのにさ。勿体なくない?」
こうして自由に服装を変えられる事も、イリオンの特徴だ。仮想現実での体を構築する際に、自分の思い描いた服が情報として思考から抽出され、その情報が仮想現実の体に組み込まれる為に、イリオン内では姿が変わる。
ゲームや漫画に出てくる人物が着るように色鮮やかなものや奇抜な服装、装飾品をジャラジャラとつけている者やサイバー風の服装を身に纏っている者もいる。皆一様に言えるのは、どこか衣装めいているという事と、現実で普段着として着られるものではないデザインだという事。
つまり、シンプルな普通の服を着ている葵惟は浮いているという事だった。
「学校に行くだけだろう。僕には理解できない」
元々、派手な服装は苦手だ。地味な自分が派手な服を着ても、似合うと思えないというのが理由の1つなのだが。隣に立っている派手な格好の男が葵惟と瓜二つの顔をしていても、だ。
相手にしていられないと言うように溜め息をついて歩き出せば、背後の茜音からムカッという効果音が聞こえてきたような気がする。いつも通りの反応ならば、青筋を浮かべて眉間に皺を寄せているところだ。葵惟が気にするような事ではない。
このようなやり取りは日常茶飯事で、取るに足らない事なのだから。葵惟が茜音を怒らせる事も、つまらない事で茜音が葵惟に突っかかってくる事も。
だから特に気にする事無く茜音から離れると、すぐさま茜音の周りに彼の友人が集まって来た。「また凄い服だな」「茜音じゃなきゃ着れないよな」など、褒めているのか馬鹿にしているのか判らないような事を言っているが、ちやほやされて気分が良いのか茜音は得意気だ。
遠のいていくくだらない会話を聞きながら葵惟は、ずれた眼鏡を指で押し上げ、珍妙な建造物の間を歩いて行くのだった。
高校では、モニター越しの退屈な授業を受ける。
ここはコンピュータで全てが管理された世界だ。
この世に存在している2つの現実。元々存在していた現実の世界と、仮想現実であるイリオン。仮想現実と言えども見えている景色は本物の現実と変わらない、作り物の世界。
人間の情報をデータに変換し、仮想現実内でデータとなった情報を身に纏う事によって、人間はバーチャルの中で生きる事が出来るようになった。今はまだ日本で試験的に取り入れられている状態だが、数年後には世界中でナノゲートが始動する事になるだろうという話だった。
第2の現実と言えば聞こえは良いが、実際は管理され支配された世界を創ったにすぎない。ひどく窮屈で、息が詰まりそうになる。常に監視されているような気がして、葵惟はイリオンが好きではなかった。
誰かが創った誰かの理想の未来の街。市や県のように分割されたエリアは10×10のマスに番号順に振り分けられている。そのどれもが、誰かの願った世界。こういう世界があってほしいという理想を押し付けられているようで気分が悪くなる。それが、葵惟にとっての仮想現実でありイリオンだった。
数時間の授業、葵惟にとっては無駄な時間が終わるとすぐに建物を出、ナノゲートへ向かって歩いていた。
一刻も早くこの場所から居なくなりたい。今の葵惟にはそれだけで、ナノゲートへ向かう足も自然と早足になる。
そうして歩いていると不意に、背後から呼び止められた。
「葵惟、待って!」
この煩わしい声は片割れのもの。
しかし葵惟は全く速度を緩めず、むしろ速度を上げてスタスタ歩いていると、焦った茜音は猛ダッシュで葵惟の前に回り込んだ。
行く手を阻まれた事で仕方なしに止まった葵惟に、茜音はここぞとばかりに言葉を投げかける。
「待ってって言ってんじゃん。何で無視するわけ?」
「……」
「俺さ――」
「断る」
言葉を遮って即座に拒否をする葵惟に、茜音は眉を顰めるものの、逃すものかと必死に食い下がる。
「まだ何も言ってないじゃん!」
「言わなくたって分かる。遊びに行くのは勝手だが、自分で言え」
「これからすぐにみんなで行くんだって。だから遅くなるって母さんに……あーもう! とにかく頼んだからな!」
言いながら走り出していた茜音は振り返る事無く街の中へ消えて行き、葵惟は深い溜め息をついた。
いつもこうだ。面倒な事は全て葵惟に押し付けて勝手に居なくなる。昔から何も変わらない。生まれた時間が早いというだけで兄となった茜音は昔から、兄の言う事は絶対だと葵惟に命令していた。
兄など、本当に形だけのものだ。生まれる順番が違えば、兄と弟の立場など簡単に逆転していた。最初は素直に従っていた葵惟だったが、すぐに形式だけで何も違わないと知るなり完全無視を決め込んだ。それでも茜音のお願いという名の押し付けが尽きる事はなく、こうして今に至っている。
それはずっと続く事で、一生付き合って行かねばならないとどこかで覚悟は決めていた。
それに、煩わしいと思っても、鬱陶しいと思っても、茜音の事を拒みきれない事は分かっていた。葵惟にとって、茜音は特別なのだから。生まれる前から共にあり、運命を共にする者。
それが、葵惟にとっての茜音だ。
その夜、茜音は帰って来なかった。
1週間後、茜音は何の前触れもなく帰って来た。
その翌日、葵惟は学校をやめ、失踪した。