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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

A room

作者: 樹 由磨

ばちん!という音は、ぼくの頭の中でそれはよく響いた。殆んど同時に右の頬がじんじん痛み、熱くなる。

「この、ゴミくず!」

おばさんが叫んだ。この人の声はきんきん高く、針山みたいなのでぼくは大嫌い。右頬を掌で包むとやっぱりすごく熱かった。鏡で見たら、多分赤くなっていると思う。きっとくっきり手の形になっていて、そのうちぷっくり腫れるんだろう。

「何見てるのよ」

おばさんの呼吸が荒い。鼻の穴が大きくなったり小さくなったりしていて、ドラゴンみたい。ぼくは次に来る何某かの衝撃に備えて一歩後ずさろうとしたけど、掴まれた髪の毛のせいで叶わなかった。

「何見てんのって言ってんのよ!」

ばちいん!さっきよりも大きな音がして、ぼくの身体は漫画みたいに吹っ飛んだ。おばさんの肩越し、キッチンでコーラを飲んでいたお兄ちゃんが、一瞬だけこっちを見た気がした。


「じゃあまあ、よろしくってことで」

お父さんが頭をへこっと下げる。どさっと乱暴に床に置いたボストンバッグ。その音にあまりにも躊躇がなかったから、ぼくは一瞬戸惑ってしまう。

「上がって上がってえ」

玄関で今にも弾み出しそうにしているおばさんは、そんなことは気にも留めないらしくて、その大きなバッグを両手で持ち上げようとしていた。細い腕がぐっと突っ張り、バッグはふらふらと頼りなさげに持ち上がる。

「おっもい!雄也(ゆうや)これ何が入ってるのよう!」

「あー、いや、色々」

「重い!ちょっとー、(しゅん)!」

俊ってば!。おばさんは廊下の向こう側に向かって二度程声を張り上げた。返事は返ってこない。

ちっ。

ぼくの頭上で、音がした。無意識に肩が跳ね上がる。お父さんの舌打ち。ぼくの身体を急激に冷やして固めてしまうもの。

「おじゃあっしゃす」

お父さんは靴を脱ぐと、するりとぼくの横を離れ、おばさんの肩にごく自然に腕を回した。

「いいよ。ありがとー」

「え、ああ、うん」

ボストンバッグはお父さんの大きな手に渡った。おばさんはむず痒そうな声でうっとりと返事して、二人は廊下を抜けていく。お父さんの背中でバックパックががちゃがちゃと音を立てて揺れ、それをぼんやり見ていたぼくも靴を脱いだ。お父さんの分も揃えてからおそるおそる床に足をつける。靴下越しでも、床はひんやりと冷たかった。

「お、お邪魔します……」

新宿からほど近い場所にあるこの家はこぢんまりしているけれど、玄関口のお洒落なランプや郵便受け、細かい模様の入った表札なんかを見るとなんだかお金をかけている感じがした。家の中も掃除が行き届いていて綺麗。日の光がカーテン越しに漏れて、リビングに置かれているソファの緑色を照らす。11月。外はすっかり冬めいていて寒いけれど、ぼくは丁度この時期の、澄みはじめた空気の冷たさが嫌いじゃない。お日様の暖かさも、心なしか夏よりも優しい気がする。

「何か飲む?」

おばさんが言う。「茶でいいよ」とお父さん。「ていうかお昼食べた?」「いや」。

でも腹減ってないからいい、とお父さんはジャケットを脱ぎながら言う。最近見るようになったミリタリージャケットは分厚くて、寒がりのお父さんをしっかり温めているようだった。多分、お客さんが買ってくれたやつ。ぼくが生まれる前、ホストをやっていたというお父さんのそばには今だに女の人が後を絶たなくて、昼間のパチンコのお店でも、夜のバーでも、派手だったり大人しそうだったり、色々な女の人がお父さん目当てでやってきていた、らしい。らしいというのは、お父さんが夜に働いていたバーのおじさんがぼくに教えてくれたから。「直輝(なおき)、お前のお父ちゃんは昔結構有名だったんだよ。歌舞伎町でギラギラしたスーツ着ちゃってさ」。おじさんは昔のお父さんをよく知っているらしくて、ぼくが行くとつまみの下準備をしながら色々話してくれる。汗をかくようなことしてないのに、頭にタオルを巻いていて、お父さんと同じくらい傷んだ金髪がその白い生地からぴょんぴょん飛び出ている。「あいつは女のお陰で生きてられるようなもんだからな」。そんなおじさんとも、先週お別れした。ぼくはお腹がすいたときおじさんにまかないを作ってもらったりしていたから、本当はお父さんにはあのお店を辞めないで欲しかったけど、仕方ないんだろう。

おばさんとお父さんはぴったり磁石みたいにくっついてソファに座っている。おばさんがお父さんの肩に頭をもたせかけて、お父さんはまるで気にしていない感じでお茶を飲んでいる。ねえ、とおばさんがお父さんの耳元でなにか囁いて、その指にするりと自分の指を絡めた。左手。指輪がついていない。お父さんの左手にもついていない。この女の人も、お父さんにとってきっと「都合がいい」んだ。おばさんは、今までお父さんが、お父さんとぼくがお世話になった女の人の中でも珍しい感じで、金髪でもないし、毛虫みたいなまつ毛や真っ赤な唇でもないし、ちょっと疲れちゃった感じのどこかぬめぬめした不健康な肌の色もしていない。さっぱりとしたセミロングの髪の毛は手入れされているけれど派手ではなく、健康そうな肌の色と体型、どこにでもいる女の人のようなブラウスとスカートを身に着けている。ぼくが今まで見てきた中で、見た目は一番普通っぽい人だった。家具をつくる会社で働いているのだとお父さんが言っていた。うん、どこにでもいるサラリーマンなのかもしれない。ホステスでも、カジノのバニーガールでもなく。恐いおじさん達に追われているわけでもなく、やっちゃいけないことをしているわけでもなく。どこにでもいる、というぼく的に希少な人。

お父さんとおばさんは、まるで二匹の猫みたいにしなやかに絡み合い、濃厚なキスをした。それから、おばさんがお父さんの腕を掴んで、お父さんは立ち上がり、おばさんも引っ張られるようにして立ち上がって、二人で奥の部屋に消えてしまった。

おばさんは、一度もぼくに話しかけてこなかった。名前を聞かなかった。これは、他の、今までの女の人達でもあったことだからぼくはもう構わない。ただ、お昼ご飯は出ない、ということはぼくを多少は落胆させた。

リビングダイニング。結構広い。空調が効いていて、暖かい。電気を切ったほうがいいかな。そもそもぼくはここにいるべき?。ぼんやりと湧き上がる疑問を持て余しながら、ぼくは部屋をゆっくりと歩く。

タ、タ、タ、タ。

廊下に続くリビングの入り口、頭上から足音がしてぼくは上を仰いだ。階上、白いくるぶしソックスが目に入る。さらに首を持ち上げるとその上、ささみのような脚、くっきりと青いトレーナー、首。

ぼくよりも大分年上だと思われる男の人(というには若い気もした)が、ズボンのポケットに手を突っ込んだままぼくを見降ろしていた。見事に明るい、白に近い金髪の頭が薄暗い空間でやけに目立っていた。

その人は、ぼくが目をそらすまでぼくに冷めた視線を送り、「はあ」と厚ぼったいため息を吐く。

「邪魔」

短くそう言うと、ぼくのすぐ横をすり抜け、それからは一度だって見向きもしないで外へ出かけていってしまった。ギイ、バタン。音を派手に立ててドアが締り、ぼくはぽつんと一人、リビングに立っている。


転校するのは三回目。どの学校でも特に思い出はない。転校したくないと思った学校もない。新しい通学路を覚えるのはそんなに大変じゃないし、使っている教科書は変わったりするけど、内容は大差はないし。だから別に、学校なんてどこだっていいと思ってる。

「お前この間っからおんなじ服着てんじゃん」

黒板には今日の日直のところには、内木直輝(うちきなおき)、渡辺ゆかりと丸っこい字が並んでいる。日直って何をするのと聞いたら、授業毎の黒板消しと号令、日直日誌の提出だと渡辺さんが教えてくれた。黒板消しでごしごしと擦っていると、クラスでも目立ってワルい(らしい)三人組がやって来て、ぼくにそう言い放った。

最初の授業後だから、黒板消しはさっさっと気持ちよくチョークを吸収していく。横一列に箇条書きされた漢字テストの回答。いいんかい。のむ。えきいん。じゃあく。せかい。ぼくは全部正解した。国語は好き。算数の次に。

「………うん」

ぼくは聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で答える。三人組のうちの一人が、なぜかとても嬉しそうに「ひゃあ」と声を上げた。

「きったねー!こいつ、風呂入ってんのかよ!」

「うわうわうーわ!まじかよー」

「くっせえくっせえ!」

残りの二人も続いて、三人でぼくをはやし立て始める。一人なんか、鼻をつまんで大げさなジェスチャーまでする。ぼくは一番端の回答、じつりょく、の文字が消えかけているのをちらりと見た。それから、やる気のない首のお陰で床を見る。先頭の奴の上履きが目に入る。ひどく汚れて、中央に村元、とマジックで書いてあった。村元。クラスでも声がでかくて、乱暴で、何かとクラスを仕切りたがるのだった。残りの二人はいつも一緒にいるけれど、名前は思い出せない。

「あ、えと…」

ぼくがあの家に、元の家(といってもバーの上にあった小さい部屋だ。どういういきさつでぼくとお父さんがそこに住めていたのかは分からないけれど、多分、店のあのおじさんのお陰かもしれない)から持ってきた服は、Tシャツ四枚とずぼん三本、上着が少しだけ。部屋の隅に積まれている着倒した衣類を想像した。それから、お父さんと、おばさんの顔が浮かぶ。

おばさんとお父さんは、家にいる間ずっと二人で奥の部屋に籠っている。おばさんは仕事に行くけれど、お父さんはおばさんがいない間、家の中でごろごろしたり、どこかへ出かけたりしているみたいだ。ぼくはあの家ですっかり迷子になっている。おばさんはぼくの存在なんかまるでないように暮らしていて、話しかけてもちらっとこっちを見るだけ。お父さんは、そのことについて何も言ってくれない。

「なあ、お前さ、家びんぼーなの?」

三人のうちの誰かが言った。くすくす。え、なになに?ほら、あれ。いつの間にか、教室は静かになっている。ちょっとやめなよう。あいつら何してんの。ふふ。うふふ。くすくす。

三人組以外の、他の人の視線がぼくの全身を容赦なく突き刺しているようだった。背中が寒い。ぼくは、顔を上げられずに、上履きの「村元」を必死に凝視していた。殆んど一度も洗っていないような灰色がかったそれ。ぼくの上履きの二倍は汚いのに、ぼくはとても自分が小さい、間違った存在である気がして顔を上げられずにいた。「あ…」絞り出した声は固く震えている。

「あ、ああ、あの」

「うわっ!寄るなよホームレス!」

ぎゃっと大げさな声を上げた村元が、ぼくの肩をぐっと押した。突然の衝撃に、ぼくは簡単によろつき、尻もちをつく。どすん、という音がして、それから尻にびりびりとした傷みが広がった。

「ぎゃあ!触っちまった!!」

ほらこれ触るとホームレスになるぞ!と叫んで、村元が隣にいた腰ぎんちゃくの一人にタッチする。「うわっ 最悪!」、そいつはまた隣の腰ぎんちゃくにタッチ。やがて周りのギャラリーまで巻き込んで、教室で鬼ごっこが始まった。「たーっち!」「きゃあ!」「あはは」。

尻もちをついたまま、ぼくはしばらく固まっていて、ボンドでくっつけられたように尻は持ち上がらなかった。授業のチャイムがなる少し前、ぼくはようやくゆっくりと腰を上げ、男子トイレに駆け込んで。嘔吐した。

号令が終わると、ぼくは一番に教室から出た。下駄箱のところで日直日誌のことを思い出したけど、渡辺さんに丸投げした。もうなんだか、とにかく教室からは出てしまいたかった。

あの後、昼休み前に一度だけ三人組がやってきてぼくを面白そうに眺めていったが、それ以外には特に何もなかった。暇を持て余した奴らが、たまたま変わっているぼくを見つけておもちゃにしただけだろう。相手にしなければそのうちなんでもなくなる。これまでの経験上、ぼくは無気力に落ち着いていた。多分、ぼくが本当に「異端児」だからなんだ。そのうち皆、からかったり、いじめたりする気も失せて、静かに距離を置く。ぼくが目の上を真紫に腫らしてきたり、脚に包帯を巻いてきたり、夏に突然長袖服を着てきたりするうちに。ぼくが、本物の「異端児」であることが分かれば徐々に。

(にしても…服はさすがに…)

洗濯。洗濯機を勝手に使ったらまずいということはなんとなく予想できる。お父さんに頼めば…いや、そうじゃない。あのおばさんが、ぼくの分を洗濯してくれるわけがない。食事だって作ってもらえないじゃないか。

どこからか夕方五時を告げるメロディが流れた。

なんだか。なんだかぼくは。なんのために生きているんだろう。

昔は、そんなこと考えたりしなかった。唯息をしているだけの生活に意味を求めたりしなかった。お父さんの子供に生まれたからにはお父さんと一緒にいることが当たり前で、一番自然なことで、だからぼくの生活はこうやって続いていくんだと。それが当たり前なんだと、思っていた。

お父さんの考えていることが分からない。分からなくて、イライラする。

通学路をわざと避けて歩いていたら、知らない道に出てしまった。

「あれ…うわ…」

どうしよう。左も右も住宅街だ。表通りに出れば帰り道は分かるけれど。そもそもどうやってここへ来たんだっけ。

振り返ったが誰もいないようだった。……まずい。

でもぼくの身体と心はなんだかとってもだるくて重たかった。それはもう鉛のごとくだった。まずいと思っていても、これ以上考えてつらい気持ちになりたくなかった。じゃり。コンクリートが鳴る。とにかく真っ直ぐ進むことにした。きっとどこかで誰か人に会えるだろう。そうしたら道を訊けばいい。

「まじだるいって」

「お前んちってただれてるよな」

「てかきめえ」

ぎゃはっと下品な笑い声が上がる。知っている声がした。ぼくは脚を止めた。家と家の間、細い一本道がある。声はその奥から聞こえてきているらしい。

「まじいつ出てくのっていうかさ、なんかババアやばいんだよ」

細道は、小学生のぼくがやっと入り込めるくらいの細さだった。ランドセルをお腹側にして、ぼくは進んだ。声のする方へ。背中に当たる誰かの家の塀は湿っている。日没前の強烈なオレンジ色の光が一瞬目をくらませ、道を抜けた先、地を踏んだその場所はただっ広い公園だった。そのくせ極端に遊具が少なく、向こう側に滑り台とブランコがあるだけだ。ブランコには数人の黒い服を着た男たちがたむろしていた。学生服……おそらく中学か高校の帰りの人たちだ。

全部で四人。そのうちの一人、ブランコをフラフラ漕いでいた人がぱっと顔をこちら側に向け、ぼくの方を見た。足元に視線を落とす。何か言ったようだけど、ぼくには聞き取れない。地面にしゃがみ込んでいたおにいちゃんは、ぼくからぱっと視線を逸らすと、首をかしげる動作をした。口にくわえた煙草から、わずかに煙が漂っている。この人、煙草吸うんだ。

「あ、あいつ?」

今度は聞き取れた。囲いの柵に腰かけている大柄な一人がおにいちゃんに尋ねた。ぼくは知りもしない人の家の塀と塀に挟まれておにいちゃんを見た。だけど、おにいちゃんはもうこっちを見ないだろう。丸まった背中が、そう決めている気がした。

おにいちゃんが何か言ったようだった。「ふうん」と三人のうちの誰かが言い、別の一人がぼくに向かって手を振る。

「もう帰んなー」

「おい」

おにいちゃんがその腕を抑える。

「だあってカワイソウじゃん」

他の二人が、面白そうにぼくを見ていた。何か意地悪な目だ。ぼくの中のアンテナがぴこんと反応する。長い時間をかけて研ぎ澄まされた高性能アンテナ。滅多にハズしたりしない。ぎゅうっとランドセルをお腹に押し付ける。そうしないと渦に飲まれる気がした。渦?なんの。何かの、渦。

ぼくはそのまま不格好な高速蟹歩きで元の道に戻った。それから、途中で出会った自転車のおじさんに道を聞いて、そのアバウトで効果音いっぱいの説明を訊いてなんとか、自力で表通りに出た。

ぼくはひとりでできるんだ。いつだってそうやってきたから、人は、本当は一人でも大丈夫なんだって、知っているんだ。

おにいちゃんが帰宅したのは夜の十時を回ってからで、お父さんとおばさんは奥の部屋で何かやっているようだったけれど、聞こえないふりをしてぼくは眠った。ぼくはやっぱりため込んだ服を洗濯に出すことが出来なかった。明日もきっと出来ないだろうと思う。思いながら、眠った。


はやせしゅん。おにいちゃんの名前だ。ぼくはそれをおにいちゃんの部屋の、キルト生地の青い手提げ袋を見つけて知った。幼稚園の頃に使っていたものだと思う。ある日学校から帰ってきて、自分の部屋(ということで合っているだろう。おにいちゃんの隣の部屋。お父さんが使っていいって言った)に入ろうとしたらたまたまおにいちゃんの部屋のドアが開いていて、見てしまった。勉強用机の椅子に引っかかっていたそれ。はやせしゅん。平仮名で、せの字が妙にハネていて、しの字が鏡文字。多分、というか明らかに、おにいちゃんが自分で書いた文字。はやせしゅん。おばさんは、やってくれなかったんだきっと。

机の上は買った当初同様、といった風に殺風景な木肌のままだった。その真ん中に紙が一枚乗っていて、気になってぼくはドアの隙間から覗き込んだけど、よく見えなかった。

(お腹すいた……)

ぼくがいる部屋には時計がないから、今が何時なのか分からない。だけど、窓の外はもう真っ暗だった。

あの日以来、ぼくが考えていたほどのいじめらしいものはなかった。次の日学校に行っても、黒板にデカデカと「こじき」と書かれていたりとか(実際に二回目の学校であった)、上履きがなくなっちゃってたりとか(これもあった)、そういうことはなかった。代わりに、なんだかちまちました嫌がらせみたいなものは、度々ある。廊下を歩いていて不自然に距離を置かれたりとか、遠くのほうでくすくす笑われたりとか。大体があの三人組とその周辺の連中だったけれど、まあ、前の学校みたいな派手なものが続くよりはいい。ああいうのは、面倒くさい。保護者呼び出しとかがあって、その度にお父さんが電話に出ないだの、お父さんの仕事がどうだの、挙句の果てには帰りの会を潰した「せんせいからのおはなし」とかが始まったりして、本当に面倒くさい。

なんだか頭の中がぼーっとしていた。少しうとうとしていたからかもしれないなあと思って、多分そうじゃないだろうなあと思った。肌寒いし、いつものごとく布団はなんだか湿っぽい。

(……風邪引いたらやだな…)

むくりと起き上がって、ぼくは部屋を出た。とんとん、階段を下りていく。何かあるかもしれない。おばさんは相変わらずぼくに食事を出さないけど、見つけたものは食べても怒られなかった。多分、気づいていないんだろう。おばさんはお父さんとべったりするとき以外は、仕事で忙しそうにしている。

一階は薄明るかった。かちゃかちゃ、と金属器がぶつかり合うような音が響いている。裸足の足に、フローリングが冷たい。リビングはとても静かで、ぼくが歩くたびにすり、すりという音がよく聞こえた。

キッチンに立つ背中があった。ぼくはぼんやりと見つめた。おにいちゃんが何か茹でているらしかった。いい匂いが僕の方までふわりと漂ってきて、お腹がきゅうっとなる。ぐう。あ、音が。

かちゃ。

おにいちゃんが振り返った。目が合った、と、思う。

「…………」

「…………」

静かで静かで、静かすぎるというのは、逆にうるさい。 例えばそういうことをぼくは知っている。

おにいちゃんの金色の髪の毛が、両耳に付いているいくつかのピアスが、白く光って。目が静かにぼくを見ていた。

「……あの、」

今日は見るんだ、とぼくは心の中で言った。ここへ来てから二週間くらいの間で、おにいちゃんがぼくをちゃんと見たことは一度もない。いや、あの公園の時以来、目を合わせたこともないかもしれなかった。いつも帰ってきてそのまま部屋にこもってしまうから、何をしているのかよくわからない。この家の人たちは、今のところみんな、自分の巣穴を持っていて、ぼくはやっぱり取り残されて迷子になってしまう。

あのぼくがいる部屋は、「ぼくの部屋」ではない。

「あの、お腹すいちゃって…」

無視される。分かっていた。それでも言ってしまったのは、おにいちゃんが、何か言いたげな目をしていたからかもしれない。この人はぼくのことをどう思っているんだろう、そういう好奇心もどこかにあって。

時計を見るのを忘れた、と一瞬だけぼくは思い出した。

「はあ」

炭酸が抜けたような気のない声を聞く。

ぺた、ぺた、かた、かちゃん。

おにいちゃんは、まるでぼくなんかいなかったみたいに食器棚を開けた。

あ。ええと。うん。…うん。

ふう。

ため息が出る。肩から、お腹から、ぷしゅうと空気が抜けた。うんうん。そう。そうだよ。そうに決まってんじゃん。

お父さんの背中が浮かんだ。今日は土曜日で、おばさんが仕事に出かけた後、お父さんは出かけていった。カーキのジャンパーに、多分新しいジーパン。いつだっていいものを身に着けているお父さん。こんなに夜が深くなって、お父さんもおばさんも帰ってこない。明日は日曜日。二人で一緒にどこかに行っているのかも。

ぼくはなるべく音をたてないように後ろを向いた。お腹がすいた。眠れないかもしれない。時計を見ると、深夜の一時。僕の部屋にもカーテンがあればいいのに。夜は外を見たくない。自分が深い穴の底にいるような気がしてしまうから。

「待てよ」

声がした。おにいちゃんの声は低くて、風邪を引いているみたいに少しだけ掠れている。

「食わないわけ」

ラーメン。ほかほか湯気を立てているのが見えた。おにいちゃんはそれを片手で軽々持って、ぼくの前を通過した。ことん。テーブルの上にそれは大人しく乗っかった。おにいちゃんがぼくを見た。

「え、あ、」

だってそれ、おにいちゃんのじゃないの。

「それ、あなたのじゃないんで、すか」

おにいちゃん、なんて言っていいのか分からなくて、変な言葉遣いになってしまった。

「今茹でてる」

何を。……………ああ、自分の分を?え、え。

ぼく、きょどきょどしすぎてめちゃくちゃおかしかったと思う。それでもおにいちゃんはくすりともしなかった。唇はへの字のまま、目は何か言いたげにこっちを見たまま。ラーメン。ものすごく懐かしい匂いだった。最後に食べたのはいつだったか思い出そうとしたけれど、だめだ、お腹がすきすぎて頭が働かない。きゅるる。あ、また鳴った。

ぼくはゆっくりと、猛獣使いが檻に近づくみたいにゆっくりとテーブルに近寄った。椅子を引いて、座る。ほかほかと湯気の立つどんぶりを見て、「あ…」と緩い声が漏れてしまう。おにいちゃんは、もう後ろを向いて鍋からざるに麺を上げていた。深夜、この人と二人っきり。おにいちゃんが茹でたラーメン。ラーメン。ラーメン。

ラーメン!!!

橋を掴んだら、エンジンをふかしたバイクみたいな勢いでぼくはラーメンを啜った。アクセル全開。ずず、ずぞぞぞ、という豪快な音がリビングに響く。おいしい。すごく、すっごく美味しい。昨日は夕飯、食べたっけ。そうだ、パン。ジャムパンを食べた。いや、あれは一昨日だったかも。

もう何も聞こえない。いや、もう何が聞こえても興味なんかない。ぼくはひたすら箸を動かして、その有り難すぎるごちそうを一心不乱に口に入れ、味わって意に収めた。味噌ラーメンだ。だめだ、これ、汁まで飲む。のどが渇くとか知らない。水ならまあ、台所のでも洗面所のでも飲んで……。

「あのさ」

投げやりな声がして、ぼくは急ブレーキをかけた。汁がはねて、服に飛ぶ。

「懐くなよ」

いつの間にか、おにいちゃんはぼくの真向かいに座っていた。目の前には同じどんぶり。同じラーメン。ぼくは頬をいっぱいに膨らませたまま、上目遣いにおにいちゃんを見た。

「そういうの、うざいから」

ラーメンは、美味しい。ぼくのお腹はあったかくなって、それから急にぎゅうっとなる。胃痙攣を起こしたのかもしれない。こくん、と頷く。おにいちゃんは箸をとってちょっと乱暴な動作でラーメンを啜った。大きな手はぼくと違ってごつごつしていて、細かった。

「お前そんな声なんだ」

「?」

「お前の声、初めて聞いた」

そうだっただろうか。そうかもしれない。ぼくは頷いた。

二人分の食事の音がする。静かで冷たい部屋が、急に温度を上げる。ラーメンの湯気とは関係のないところで。おにいちゃんは、眉毛が綺麗に整っていて、額にはうっすら汗をにじませていた。

ぼくはスープを全部飲んだ。おにいちゃんの方が早く食べ終わって、流しにどんぶりを持っていくと泡だらけの手でひったくられた。手の甲のところ、黒く汚れている。鉛筆で何か沢山書いたりしたときできる汚れ。

「あ、ありがとうございます」

激しい水音で聞き取れないかと思ったけど、分からない。無視されたのかもしれない。

「あのさ」

どうしたらいいのか分からず突っ立っているぼくにおにいちゃんが言った。

「みんな狂ってんだよ」

ぼくは俯いた。服。汁が飛んで、しみだらけになっていた。この人は、今、何を考えているんだろう。手提げ袋の名前書きを思い出して、ぼくは頷いた。いつもいつの間にか家にいなくて、いつの間にか帰ってきていて、部屋で過ごすおにいちゃんの、あの下手くそな鏡文字。思い出してぼくは頷いた。


『お父さん』

『あ、なに』

『来週、運動会があるんだ』

『……へえ』

『うん』

『…………』

『…………』


「この疫病神!!」

ぱちいん、といっそ小気味よい音がした。

おばさんがぼくを殴る。女の人は平手打ち、男の人はグーパンチが多い。ぼくの個人的な感想。

じん、と音がしそうなくらい頬が傷んでいる。ぼくは吹っ飛んだ先、ソファの下でうずくまって、すぐに耐性を整えようとした。容赦のない脚蹴り。お腹、潰れる。

「雄也がいなきゃあんたなんか入れなかったわよ!」

絹を裂くような声だった。女の人はよくこうやって怒鳴る。おばさんは何度も何度もぼくを蹴った。内臓を守るために、ぼくは背中を見せて丸くなる。反射神経が、本能がぼくを守ろうとするのはいつものことだ。ぼくはこんなに乾いた生活の中にいるのに、何に執着しているんだろう。分からない。なんだか不思議だ。ぼくは生きていたいのか。何のために生きているのかも分かってないのに。変なの。

「もう嫌!嫌!嫌!!」

お父さんが出て行った。一週間くらい前のことだ。昼頃に何とはなしに出かけて行って、それきり戻らなかった。ぼくはその日学校へ行っていて、朝、お父さんが奥の部屋で寝ていたときに出かけていた。だから最後にお父さんを見たのはその前日。夕方の六時ごろ、リビングのソファに横になってテレビを見ていたのが、多分ぼくが見た「最後のお父さん」だ。おかえりもただいまもなかった。お父さんがぼくに無反応なのはいつものことなのに。なのにぼくは、あの日ソファの上で腕を枕に横になるお父さんが、ぼくに何も言ってくれなかったことに気づいてから、お腹がぎゅうっとなって、少しの間息苦しくなる。

お父さんの部屋に、おばさんに宛てた手紙が置いてあったみたいだけど、ぼくには何もなかった。

「騙しやがってあの男……!!!」

ぼくは一瞬のスキをついて横にスライディングして、逃げ出そうとした。それでも修羅には勝てない。ぼくはあっさり首根っこを掴まれてしまう。そのまま、反対の手が伸びて、ぼくの前髪をわしづかみにした。鋭い痛みが走る。髪の毛が何本か抜けたと思う。

ばちん!という音は、ぼくの頭の中でそれはよく響いた。殆んど同時に右の頬がじんじん痛み、熱くなる。

「この、ゴミくず!」

おばさんが叫んだ。この人の声はきんきん高く、針山みたいなのでぼくは大嫌い。右頬を掌で包むとやっぱりすごく熱かった。鏡で見たら、多分赤くなっていると思う。きっとくっきり手の形になっていて、そのうちぷっくり腫れるんだ。

「何見てるのよ」

おばさんの呼吸が荒い。鼻の穴が大きくなったり小さくなったりしていて、ドラゴンみたい。ぼくは次に来る何某かの衝撃に備えて一歩後ずさろうとしたけれど、掴まれた髪の毛のせいで叶わなかった。

「何見てんのって言ってんのよ!」

ばちいん!さっきよりも大きな音がして、ぼくの身体は漫画みたいに吹っ飛んだ。おばさんの肩越し、キッチンでコーラを飲んでいたお兄ちゃんが、一瞬だけこっちを見た気がした。

(おにいちゃん)

ぼくは心の中だけでおにいちゃんを呼んでみた。おにいちゃんの着ている深緑色のTシャツは襟首が大分よれている。切れ長の一重の奥で、黒い瞳は何も語らない。おばさんが、ぼくの視線をたどり、ぐりんと勢いよく後ろを振り返った。

「俊」

「は?」

おにいちゃんがコップを置いた。カツン、いう音だけが一週間前と変わらない日常だったかもしれない。この一週間、家に帰ればぼくを殴りつけていたおばさん。そこかしこに痣やらこぶやらを作っているぼくを、おにいちゃんは少しでも気にかけてくれていただろうか。ひと月前、あの深夜のリビングダイニングで、ラーメンを茹でてくれたおにいちゃんの顔、手、足音。

「あんたこれに何かしたの」

床に付いた肘に人工的な温かさを感じる。床暖房。外は真っ暗、多分。そうだった気がする。夜中の何時か。これ、外に聞こえていないのかな。

「………いや」

「あ、そう」

再びこっちを向いたおばさんは、もうぼくのことなんか見えていないような顔をしていた。殴られた顔と、ぶつかった肘、蹴られたお腹が痛い。特にお腹は、熱いくらいに。

「ふ、ふふ」

おばさんが笑った。ぼくは次の衝撃に備えなければならないようだった。

お父さんが出て行ってしまった。おにいちゃんはぼくを見ない。ラーメン。別に構わない。あの夜は、嘘になってしまった。確かに実在したけれど、もうすっかり嘘みたいな、フィクションになってしまった。おにいちゃんは言った。懐くなよって言った。ぼくは自分に言い聞かせた。別に構わない。

すっかりぼんやりしていたぼくの肩に、傷みが弾けた。ぼくは仰向けに派手に転び、おばさんはその上からさらに蹴り上げる。

何のために生きているんだろう。

朦朧とした頭で、それだけがふと浮かぶ。おにいちゃんが、近づいてきて、おばさんの肩をぐっと掴んだ。ぼくはその時初めて、おばさんよりも若干、おにいちゃんの方が背が高いことを知った。

「何」

おばさんの冷えた声。おにいちゃんは、ぼくを見ていなかった。

「何よ、あっち行ってて」

次の瞬間。

がつん、と鈍い音がした。おばさんが頭を抱えてくずおれた。

がつん、がつん、と立て続けにさらに二回、おにいちゃんはおばさんを殴った。手には、銀色の何かが握られていて、それは灰皿だった。

「や」

もう二回殴る。おばさんの額を、つうと赤いものが流れた。

「やめて!」

おにいちゃんの手が止まった。ぼくの痛みに慣れた身体が、それでも痛い痛いと主張していて、ぼくは生きている。おにいちゃんの顔は能面のようにのっぺりとしていて、掌は大きく、大人の人みたいな形をしていた。

「死んじゃうよ」

おばさんは、肩で大きく息をしている。やり返さない。返せないのかもしれない。頭を抱えてうずくまっている。

おにいちゃんの長い脚が、空を裂いた。おばさんが、ぼくのすぐ横へどさりと倒れ、栗色の髪が散らばった。

「ねえ死んじゃうってば!」

本当にそうなのかまったくわからないくせにぼくは叫んだ。叫んだら、お腹がじんと傷んで、語尾が空気が抜けたみたいな音になった。おばさんは静かに、動かない。

「だから?」

おにいちゃんの低い声。おばさんは動かない。

「どうでもいいけど」

伏せ気味の目のまつげ。耳たぶの面積が小さく、無理やりねじこんだようなピアスが、そうだよと言わんばかりにつるりと光っていた。おにいちゃんは反応のないおばさんを見て、しばらく見て、それから、電話をかけて救急車を呼んだ。




がちゃがちゃという物音で目が覚める。起き上がろうとすると、背中が痛かった。ぼく、結局ソファで寝ちゃったんだな。頭に触ると、後ろの髪が一房くるんと巻いている。寝癖。

窓の外はまだ暗いものの、少しずつ白んできているようだった。朝が近い。時計を仰ぐと四時十分くらいだった。

昨日。灰皿で殴られて、意識がなくなったおばさんを救急車が乗せていったのは連絡してからどれくらいだったのか知らない。それでも、ぼくにはとても長い時間だった。おにいちゃんは、救急車が来るまでの間ベランダの近くで煙草を吸っていた。何もない、ただ真っ暗な夜を見つめながら、おばさんとぼくに背を向けて。ぼくはそんなおにいちゃんの口元から立ち上っているんだろう煙が、天井に向かって消えていくのを見ていた。

救急車が到着した後、おにいちゃんはおばさんと一緒に病院へ行った。ぼくは残るように言われたわけじゃないけど、おにいちゃんがあの何か言いたげな目でぼくを見たから、家に残って待つことにした。おにいちゃんが、帰ってくるのを。

しゅんしゅん、と金属の底を焦がすような音がした。背もたれ越しにぼくはおにいちゃんを見る。深緑色のTシャツが動く。やかんの色は優しいクリーム色で、なんとなくおにいちゃんが持つと心の奥がちくんとした。そのまま、マグカップに注ぐ。カップは二つ分ある。

「なあ」

おにいちゃんが振り返る。窓の外から、暖かい光が漏れていた。朝が、来た。明けない夜なんかないってこと、Jpopの歌詞に溢れるくらいあたり前なこと、本当はぼくだって知っている。それでも、明けない夜があるってことも。

おにいちゃんも知っている。きっと。

「夢なんか見るなよ」

おにいちゃんとぼくの距離は、三メートルくらい。おにいちゃんは暗いキッチンに立っていた。だから、その金色の髪に朝の光は当たらない。薄墨のような空間で、輪郭が曖昧にぼやけている。

「うん」

おにいちゃんのマグは緑色だった。緑が好きなんだろうか。ずず、と啜る音がして、立ち上っているほわほわとした煙は優しい。優しくて無知で。だけど煙草の煙のほうが本当はずっと優しいだろう。

かちりと音がしそうなくらい、シンクロ。おにいちゃんの目が真っすぐぼくに向かい、ぼくらはお互いの今日までの一切をこの一瞬のみ髄まで理解し合った。

「こっちに、来ませんか」

ぼくの唇が告げた。

「こっちに、」

例えばあごの下のかさぶた。ひざ頭の大きめの痣。肘の切り傷。何日か前にあった、手首についた指の跡。新しいものは生々しく、古いものはぼくの一部のような顔で。そういうものたちとぼくがどうやって一緒にやってきたか。誰にも話さないだろうあれこれを、おにいちゃんが知ってくれているような気がした。

おにいちゃんが赤い方のマグに牛乳を入れて、電子レンジに置き、ふたを閉める。ジーという電子音が部屋に響いた。おにいちゃんがこっちに向かって歩いてくるのを、ぼくは見ていた。背もたれに顎をつけて、一瞬のすきも見逃さないくらい、その顔を見ていた。

「嘘だよ」

おにいちゃんがぼくを見降ろしている。何か言いたげな目の、言わんとしていることを多分ぼくは知っている。

「うん」

例えば両耳に開いたいくつかのピアス。その金色の髪と、部屋の手提げかばん。おにいちゃんの誰にも知られることはないだろうあれこれを、ぼくは知っている。かちりと音がしそうなくらい。そのこと、おにいちゃんは喜ぶだろうか。分からない。

金髪がきらきら光って綺麗。朝が来たことを知らせている。ぼくの頬にあたたかい光が当たっていて、こんなに混沌としているのに、外は晴れだった。

チン、と電子レンジが鳴る。ぼくとおにいちゃんはしっかりお互いを認識している。

「おにいちゃん」

「……………うん」

「ぼく、あなたの絵を見た」

おにいちゃんは一瞬だけ目を見開いた。それから、口をぎゅうと引き結んで、「ふうん」とだけ言った。

手の甲にあの黒い汚れが、今あればいいのに、とぼくは思った。隣におにいちゃんが腰かけてくれないかと思った。そうして朝と、新しい一日の始まりを受け入れた。

キッチンの奥で、「チン」と電子レンジの音がした。
















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