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テティをこの船に連れてきてだいぶ経った。
はじめは船室にこもりきりだったテティも今ではよく船内を歩くようになったし、甲板に出てぼうっと海を眺めることも多くなった。そしてそのおかげで野郎どもに声をかけられているテティの姿もよく見るようになったのだ。それにもはじめはビビってたけど、最近では慣れてきたのか野郎どものでかい声に驚く姿も見なくなったな。そういう成長が嬉しいのと同時に、少しだけ、寂しくもあったりして。
まあ、つまり、テティもようやくこの船に少しだけ馴染んできたと言えるんだろう。
それでも船内を歩くテティは、甲板に出てぼうっと海を眺めるテティはまだ。
まだ一度も、笑わない。
マーリンに言いつけられた報告書をやっとの思いで書きあげて一息つこうと出てきた甲板に、テティの姿を見つけた。手すりに両手をかけて、じっと海を見ている。その顔はやっぱり、笑っていない。
あんまり海を眺める時間が多いもんだから、海が好きなのかと思ってそう聞いてもテティは首を横に振るだけだった。まあ、海の上じゃ他にやることもねえしな、海を眺める時間が多くなるのも仕方ないとは思うけど。いや、それにしたってテティが海を見ている時の顔は、あの表情は。
どこか、とても、悲しそうなのだった。
テティが気づくように足音を立てて近づいていく。あ、足音に気づいたテティが振り返った。よう、と声をかけるが返事はない。まあ、いつものことだから気にしてねえけど。
テティはこちらを一瞥すると、また海へと視線を戻した。まあ、それも気にせずテティの隣に立つ。はじめはこうして隣に立っただけで睨まれていたのだけど、すっかりそれもなくなった。かといってあたたかく迎え入れるという雰囲気ではまったくないのでたぶん諦めたんだろう、睨んでも俺は立ち退かないからなあ。
ああ、またそんな辛気臭い顔して海を見る。
「パパは、海が好きなのか?」
そう聞くとテティがこちらを見た。驚いたように、その青い目を大きく見開いて。俺も少し驚いている、こっち向くかなと思って言ったは言ったけどこんなに大きな反応されるとは思ってなかったからだ。しかしテティの方が驚きが大きいのか何も言わないから、俺が口火を切らねえと。ええっと。
「あー、テティってのは、海の女神の名前だろ?だからほら、そういう名前をつけるってことは海が好きなんじゃねえかと」
それにもしかすると、海を眺めるテティの顔が悲しそうなのはきっと、そういう理由じゃないかと。それは、口には出さねえけど。そしてたぶん、この驚いた顔を見るに俺の考えは当たっている。
テティは次第にその顔に落ち着きを取り戻していくと、ふいと俺から視線をそらしてまた海を見た。やっぱり、悲しそうな顔をしている。
「目を覚ましたわたしにパパはこう言ったの」
そんな顔のまま、テティはそう言った。
「お前のノドには風を閉じ込めた、お前の目には、海を、閉じ込めた」
テティの口から紡がれる言葉は、なぜだか心地がいい。
「お前の歌は船を運ぶ風、お前の目は、船を乗せる海」
それはまるで、歌詞の一節のようで。
「だからお前の名前は、テティ」
いつのまにか見とれてしまっていたテティの顔は、まだ、悲しそうなそれだった。
テティはゆっくりと悲しそうなそれを、俺へと向ける。閉じ込められた青い海は、ゆらゆらと揺れていた。
「あなたは本当に、何も知らないみたいだから教えてあげるわ」
ああ、まただ。
またこいつは、強がっている。強くなんか、ないくせに。
「わたしを欲しがる金持ちがたくさんいるのはなぜだと思う?それはね、わたしの歌に特別な力があると思っているからよ」
「特別な、力?」
聞き返すと、じろりと睨まれてしまった。また俺の目の色をうかがったのかもしれない。
「海の女神の名をもらったわたしが歌えば海の女神の祝福を受けることができる、祝福を受けた船は、沈むことはない、金持ちはそんなことを信じているのよ、だからわたしに、歌えと言うの」
やはりテティの目は俺の目の色をうかがうようにじろりとこちらを見てくる。まるで、お前もそうなのだろうと、言うように。まあテティの言うことはたしかに魅力的だ。魅力的、だけれども。
「それが事実だろうとそうじゃなかろうと、そんな力にすがるほど俺は落ちぶれちゃいねえよ」
テティの青い目をじっと見つめたまま、そう言ってやる。目をわずかに見開いたのが見えた。
「船を沈めるかそうでないかは船乗りの腕だ、そりゃあまあ、奇跡なんてのもたまにあるけどよ、それだって船乗りの実力に裏付けされたモンだ」
閉じ込められた青い海が大きく波を立てているのがわかる。大シケだなあ、ありゃあ。
「テティの歌はおまじないみたいなもんだろ?それだったら、お前が歌いたいと思ったときに歌ってくれりゃあいい」
今だってこんなにキレイな声なんだ。
「きっと、キレイな歌声なんだろうな」
想像してみただけで、自然と口元が綻んだ。
その一方で青い海を大きく揺らしているテティはいよいよ爆発しそう、といった表情だった。
「…どうして」
ああ、導火線が燃え尽きた、と思った。
「どうしてそんなことを言うの!」
俺を睨み付けるその目の、青い海は、恐ろしいぐらいに荒れていて、思わず、息をのむほど。
「あなたは!何が目的なの!守るためなんて嘘に決まってる!本当のことを言いなさいよ!あなただってわたしに歌えと言うんでしょう!ただ歌って!そこにいるだけでいいんだと怒鳴るんでしょう!わたしは所詮モノだって!ただの人形だって!みんな、みんなそうだった!優しくしたら油断するなんて思わないで!どうせ同じ、どうせ!」
言葉よりも先に、手が出た。
テティ、と名前を呼んで、その細い腕を掴んで引き寄せる。テティは腕の中にすっぽりと収まって、ああ、こんなに小さかったのか、と思った。もう一度、テティ、と名前を呼ぶ。テティは腕の中で、すっかり押し黙ってしまった。
「…テティ」
どんな言葉ならテティの心に届くのか、それは、わからなかった。テティの抱えているモノはそれはでかいモノだろうとは思っていたが、まさかこんなにでかいとは思っていなかったから、情けない話戸惑っているのだ。
でも、けれど、なにか言葉にして言わないといけない。そうじゃないと何も伝わらない、何も、変えられない。うまく言おうとするからダメなんだ、ただ俺の中にある言葉を、テティには言わずに隠しておいたことも、全部。
「たしかに、テティを守るためっていうのは嘘かもしれない」
必死の思いで出した自分の声に、驚いた。少し震えている。いや、仕方がないことだ。隠し事を打ち明けるのは、いつだって苦しいことで、勇気がいることで。
「一目惚れ、だった」
その隠し事がこういうことなら、尚更、だと思う。
「あの部屋でテティを一目見て、キレイだと思った、たぶんこの世の他の何よりも」
ああ、そうじゃない、こんな言い訳じみた言葉じゃなくてもっと、俺が隠しているのはもっと。
「俺だけのものにしたいと思った、他の奴によこしたくない、俺の、俺が、これを手に入れるんだと」
もっとどす黒い、テティを苦しめた奴らと変わらないことを。
「…テティの言うとおりだ、俺だって、お前を苦しめた金持ちと変わらない、…だから、ごめん」
テティは、何も言わない。いや、こんなこと言われて、何か言えるはずが、ないのだ。俺が、傷つけた。どす黒い気持ちを隠したままで、中途半端に、テティの傷に触れたから。
テティを俺だけのものにしたい。他の誰かにくれてやるなんざしたくない。できるなら閉じ込めておきたい。でも、テティはそれを望まない。テティはそのせいで傷ついている。テティは、そのせいで、笑わない。
「ただ、お前が、テティが苦しんでんのは、辛い」
テティが笑わないことは、とても、辛い。
「諦めたようなふりして、どっかで辛いって叫んでる、そういう、テティが強がってんのが辛いんだ」
強くなんか、ないくせに。
「信じてくれとは言えないけどよ」
俺はテティを、傷つけたから。
「でも、頼むから、強がらないでくれ」
でも、でももしも、テティがチャンスをくれたのなら。いやそんなこと、俺から言えることじゃないのはわかってるけど。でも、それでも俺は。
「テティが1人じゃないってことだけ、わかってくれ…!」
テティを守りたいというのも、本当に、嘘じゃないはずだから。
「……」
かすかな、消えそうな声が、聞こえた気がした。俺の、腕の中からだ。
「…ない」
その消えそうな声が、たしかに、「わからない」と言ったのが聞こえた。
それから耳の奥に、どくん、どくん、と響く音。ああ、俺はずっと、緊張していたのか。
ああ、なんて、情けないんだろうか、俺は。




