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事件は夕方に起きた。
2日ぶりに港の傍へ豆腐を買いに出かけた時だった。港で集まっている漁師のおじさんたちが見えた。こちらに向かって背を向けて、たぶん網の点検とかしてるんだと思う、わたしには気が付かない様子だった。声をかけようとしたのだけれど、おじさんたちの会話が耳に入ったためにそれは未遂に終わった。
「お父さんか、マーリンさんもショックだったろうね」
「ま、寝言みたいなもんだしまだ絶望することないよ」
お父さん?マーリンさん?寝言?これらのキーワードにわたしの心はざわついた。
「でも寂しい思いさせてるって、マーリンさん少し落ち込んでたなあ」
「どんなにしたって父親の代わりにはなれねえからな」
駐在さんが落ち込んでた?それはもしかして、あれが夢じゃなかったから?
「しかしまあ、寝ぼけてたとはいえ嬢ちゃんにお父さんて呼ばれるってな、マーリンさんも気の毒にね」
「でも俺たちがあんまり野暮言ってもね、若い2人の話だから」
「はは、ちがいねえ」
やはりそうだ。あれは、夢じゃなかった。どうしよう。気まずい。駐在さんのこと間違えてお父さんって呼んじゃったなんて、どんな顔して会えばいいんだ。
「おい、アカネ?」
「ひえっ」
突然肩に手を置かれて、心臓が止まるかと思った。ぐるぐると考え込んでいたせいで周りのことになにも気が付いていなかったらしい。わたしの肩に手を置いたのは駐在さんだった。
「呼んでも気が付かないから、どうしたんだ」
「あの、おとっ…あ、ちがう、えっと」
気まずいと思っていたところに駐在さんが表れて、心の準備ができていないから頭がぐるぐるして何を言えばいいかわからない。どうしよう、いつもより駐在さんの顔が怖く見える。泣き虫なわたしは何も言えなくて泣いてしまう。
「あーそういうことか…誰かから聞いたな、まあなんだ、とにかく帰ろう、な?」
駐在さんはわたしの涙をぐいと拭いた。ちょっと痛かった。わたしは駐在さんの手を握った。ぎゅっと握った。
駐在さんはわたしを暖炉の前に連れて行った。わたしはまだ駐在さんの手を離さなかったので、駐在さんがあぐらをかいて座ると、わたしも引っ張られて床に座り込んだ。木の床はひやりとした。
「ごめんなさい」
思わずそんなことを言ってしまう。駐在さんの声は優しかった。
「お前はなにをそんなに申し訳ないと思ってるんだ?」
「わか、わからないです、けど、まずは、間違えて、お父さんって呼んじゃった、こと、とか」
ぽふ、と頭が重くなった。駐在さんがわたしの頭に手を置いてくれたのだ。
「大丈夫だ、気にしてないから」
それからゆるりと頭を撫でるように駐在さんの手は動いた。頭のてっぺんがあたたかくなると、なんだか安心する。
「あの、お父さんって呼んじゃったけど、駐在さんと似てるからってわけじゃないんですよ」
「ん」
「お父さんのほうがお腹出てて、もっと怖い顔してて、魚釣りが、じょうずで」
「ん」
駐在さんの手はだんだんとわたしの後頭部へずれていって、わたしの頭を包み込んでいるようだった。それは、わたしがだんだんと駐在さんの胸へすがりついていく動きに連動していたらしい。駐在さんの胸板がおでこにあたる。
「泣き虫なお前が、ここまでよく頑張ったな」
「う」
「たまには大声出して泣いていいんだぞ」
「うえ…」
おでこに駐在さんの心臓がどきどきしているのが伝わってくる。
「うあ…うあああああああああん…うう、うああ…」
わたしは駐在さんの腕の中で、ちいさなこどものように泣いた。泣き疲れて眠るまで、泣いた。