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それは、翌日の事だった。
朝食をともにしたくて、俺は前日の夕食の時に明日の朝迎えに行くという約束をとりつけていた。我ながらこんなに積極的なことをするとは驚きだった。姉さんの言うように、恋というのは不思議なものだ。相手を想うだけで、胸があたたかくなる気がする。そして掃除屋さんのことを知りたいと、そう思うのだ。朝食の時には何を聞こうか、食事の場だから、やはり好きな食べ物の話かな。
そうして浮かれながら、俺は掃除屋さんの部屋の前へたどり着いたのだった。そして扉をノックしようとして。
「駐在さんは―」
手が、止まった。
掃除屋さんの声に相槌を打っているのは、総長の声だ。けれど、俺が手を止めた理由はそれではなく。
掃除屋さんの、「駐在さん」と言う声が、とても、嬉しそうで、少し恥ずかしそうで、それでいてとても、とても。
俺は少しの間、ただ扉の前に立ち尽くすことしかできなかった。
しばらくしてからようやく少しだけ立ち直って扉の向こうへ声をかけることができたけれど、その日は一日中落ち込んでしまっていたらしい。掃除屋さんが気を遣ってくれているのが言葉の端々に感じることが出来た。ああ、やはり、優しい人だ。
その日は夕飯の後、部屋に戻ってもどこか落ち着かないので俺は宿舎の中を歩いていた。
駐在さん、掃除屋さんがそう呼ぶ人物のことを、俺はまだ聞けていない。聞く、勇気がない。なぜだろう。
掃除屋さんがあの時「駐在さん」と呼んだ声は、とても嬉しそうで、少し恥ずかしそうで、それでいてとても、とても。
とても、恋しそうで。
「ようランス」
呼ばれた自分の名前に驚いた。
後ろを振り返ると、そこにはいつものように笑ったアンさんがいる。こんなに、すぐ後ろにいたのにその気配に気が付かないほど、俺は考え込んでしまっていたのか。
声も出せないでいる俺に、アンさんは呆れたように笑った。
「はは、聞いてた以上に元気がないねえ、眠れないならホットミルク用意してやるからついてきな」
そう言ってくれるアンさんの笑顔に、肩の力が抜けていくのがわかった。
「で、どうしたって?話せることだけでいいから、話してみなよ」
連れられた食堂で、アンさんの用意してくれたホットミルクに両手を添えながら俺は心の内を話した。
朝、掃除屋さんを迎えに行ったとき、部屋の前で聞いてしまったこと。掃除屋さんが「駐在さん」と言う声を。その声が、とても嬉しそうで、少し恥ずかしそうで、それでいてとても、とても、恋しく聞こえて。
俺は、自分でもよくわからないけれど、なぜだかそれが、とても辛く感じてしまって。
話している間、胸がぎゅうとしめつけられて、とても苦しい思いだった。恋とは、こんなに苦しいものだったのだろうか。姉さんは、そんなことは一言も言わなかった。
「まあ、そうだね」
俺の話すことをじっと聞いていてくれたアンさんが口を開く。優しい、声だった。
「たしかに、好きな人に好きな人がいるってのは辛いことだ、相手はこっちを振り向いてくれない、相手の迷惑になるかもしれない、そう思うよな」
よくわからなかった辛さに、明確な言葉が与えられた気がした。
それと同時に俺は自分に対して驚いた。嫌悪と言ってもいいかもしれない。
俺は、掃除屋さんに振り向いてもらいたい、そんなことまで考えてしまっていたのか。それはなんて、自分勝手な事なのか。驕ってはいけない、わがままを言ってはいけないと、そう教えられてきたのに。そう、生きてきたはずなのに。
「ああ、ほら、そんな追い詰められたような顔するなよランス」
「でも、俺は、自分がこんなにわがまま、だとは」
「わがまま?」
アンさんの優しさに甘えるように、俺は心情を吐露した。
恋をした相手に、自分にも恋をしてもらいたいと思うなんて、そんなことは、わがままで、でもそれを望んでいる自分は、自分が、こんなにわがままだったとは、とても、恥ずかしいことで。
突然、頭にぼふんと何かが降ってきた。
わしゃわしゃと俺の髪をかき乱すそれは、アンさんの手のようだった。
「ランス」
アンさんが、力強く俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「そんなのはね、恋をしたら当然の気持ちなんだから自分を責めることないんだよ」
俺を叱るような、慰めるような、アンさんの力強くて優しい言葉が俺の頭を揺らした。
「それにそうして落ち込んでるより、恋愛初心者のあんたにはもっとやるべきことがあるだろ」
アンさんの言葉に、俺は思わず伏せていた顔を上げた。
やるべきこと、それは、なんだろう。アンさんの顔をじっと見ても、答えは出せなかった。アンさんはそんな俺に対して、やはり、優しく笑った。
「掃除屋さんのことがもっと知りたいでしょ?」
アンさんの言葉に、強く頭を叩かれた気がした。曇っていた空が晴れていくようだった。
「あんたはただ、掃除屋さんとの時間を楽しめばいいの、全力で恋してるだけでいいんだよ」
アンさんは「な?」と言って笑うと、俺の頭をぼふぼふと叩いた。
俺はといえば、声を出すこともできず、ただ、アンさんの言葉がずっと頭の中に響いていた。恋をしてるだけでいい。それだけ、でいい。
恋、というのは、どんな気持ちだっただろうか。相手にも想われたい、そんな、わがままな気持ちだ。けれど、そう思う前に俺が感じていたのは、もっと違うものだった。それはもっと、単純で。一目見たその笑顔が忘れられなくて。その笑顔を思い出すだけで、胸があたたかくなって。
掃除屋さんを想うだけで、幸せで。
「…姉さんの、言うとおりだ」
「姉さん?」
思わず口をついて出た言葉に慌ててしまう。いや、これは、アンさんのことを姉さんと言ってしまったわけではなくて。そう言い訳をするとアンさんはただ笑うだけだった。だから俺は更なる弁解を重ねる。
「姉さん、姉が言ったんです、恋というのは、とても不思議なものだと」
「へえ」
アンさんが俺の頭から手をはなした。それがどこかさみしい、と感じてしまったのは、ぬくもりが急に無くなってしまったからだろうか。当然そんなことをアンさんに言えるはずはなかった。
「恋をしたその相手にもう一度会えたならその時は、全身全霊で恋をしなくてはだめだと、アンさんと同じことを言ったので、姉さんの言うとおりだと思ったんです」
「そうかあ、じゃああたしがわざわざ言うことも無かったかな」
「いえ、それは」
姉さんに言われた言葉とアンさんに言われた言葉は、たしかに似ているかもしれなかった。けれど、状況が違えば感じる思いも違う。
「アンさんの言葉はとても嬉しかったです、本当に、ありがとうございます」
「はは、どういたしまして」
きっと、アンさんの言葉だから、こんなにも俺の胸に響いたのだろう。笑うアンさんの顔を見ながら、俺はそう思っていた。
「ま、またなんか思い悩むことがあったらあたしに話しなよ、聞いてやるから、ほらホットミルク、さっさと飲まないと冷めるよ、今日はそれ飲んでさっさと寝ちゃいな」
アンさんにそう言われて、俺はようやく自分の手にあるマグカップの存在を思い出した。その中に注がれた甘いホットミルクをすすりながら考えた。掃除屋さんは、眠れない夜は何を飲むのだろう。ホットミルクは好きだろうか、角砂糖は、何個入れるだろう。
そうだ、明日、聞いてみよう。




