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「ねえランスリッド、恋というのは、とても不思議なものなの、あなたが強く望んでも、もし望まなくても、きっとその子にもう一度会えるわ、でもね、それはもう一度きり、その一度をけして無駄にしてはいけないわ、だからねランスリッド、その時が来たら、あなたは全身全霊で、恋をしなくてはだめよ」
扉の前で隊長に呼ばれるのを待ちながら、俺はなぜだか、あの日姉に言われたそんな言葉を思い出していた。
この度本部騎士団は、敷地内の建物の掃除を噂の掃除屋に依頼した。なんでも、天井のほこりを落とすことから始めるのだとか。しかもそのために、なにか特殊な道具まで使うらしい。これだけ聞くとなんとも奇妙な話だけれど、依頼人からは大変満足だという声が多数なのだそう。まあ、アルベルト隊長が自ら仕事を依頼されたのだから信頼のおける業者ではあるのだろうけれど、なにせ未知なのでなんというか、少しだけ、不安だ。
ああ、今隊長の「入れ」という声が聞こえた。俺は返事をして、目の前の扉を開けた。中へ入ると、扉の前で一礼をして挨拶をする。
「ランスリッド・カーマインです、どうぞランスと呼んでください」
そして件の掃除屋の顔を見てみる。
あ。
「ランスには掃除屋さんの補佐を務めてもらおうと思っているんです」
「え、補佐、ですか?」
隊長の言葉に、はっと我にかえる。今、俺はどんな顔をしていた?いけない、隊長の前だ、こんな間抜けな顔をしてはいられない。表情だけは取り繕うが、心臓は大きく脈を打ち、頭の中がぐるぐるとして混乱しているようだ。
さっきは息が止まっていた。それがあまりに衝撃的で、信じられなくて、でも、これは現実だ。こんなことがあるのだろうか。
姉さんの言っていたことは本当だった。俺はもう一度だけ、また、あの少女に会えると。
そしてその一度だけのチャンスが、今、訪れたのだ。
「あの、では、よろしくお願いします」
掃除屋がソファから立ち上がり、俺に向かってそう言うと一礼をする。
顔を上げたその顔は、あの日見た少女そのもので、紛れもなく、本人なのだった。俺は取り繕った表情のまま、「こちらこそよろしくお願いします」と言うのが精いっぱいだった。
俺は彼女を、彼女の希望もあって、「掃除屋さん」と呼ぶことになった。
そしてその時に、思い切って聞いてみたのだった。自分のことを、覚えているかと。答えは、当然だけれど、いいえだった。申し訳なさそうにする掃除屋さんをフォローしたくて、思い違いかもしれませんとまで言ってしまったがもちろんそんなことは決してない。彼女は、あの時の少女だ。
黒い髪を二つにしばった、少し幼い顔に浮かべるあの無邪気な笑顔がとても魅力的な、あの少女なのだ。
廊下や部屋の天井を見上げる姿も、なにか気合いを入れるように引き締めた表情も、ゴーロさんの怖い顔に少し怯えた様子も、アンさんのアジフライを前にお腹を鳴らして恥ずかしげな姿も、全てが魅力的だった。
そしてなにより、アンさんのアジフライをとても嬉しそうに頬張る姿は、俺の知っている言葉では語りつくせないほどに、魅力にあふれている。
「はは、これじゃ男どもが放っておかないだろ、なあランス?」
「ぶっ、げほっ」
そんなことを考えていたものだから、アンさんの言葉に驚いてすすっていた味噌汁が気管に入ってしまう。アンさんの言い方はまるで、俺がまさにその放っておかない男どもだと言っているようで、なんというか、心臓に悪い。その意図が掃除屋さんにまで伝わってしまったらどうするんだ。
そう思いながら咳き込んでいると、掃除屋さんの手が俺の背中にそっと触れた。
その感触に驚いて肩を跳ね上げてしまう。掃除屋さんを見ると、少し気まずそうな顔をしていた。
「すみません、辛そうだったので、あの、背中をさすったら楽になるかと思いまして」
「あ、いえ、その、驚いてしまっただけで、げほっ、すみませんが、お願いしてよろしいでしょうか」
「あ、はい」
俺がそうお願いをすると、掃除屋さんはほっとした顔をしてから背中をさすってくれる。ああ、優しい、人だ。その手の柔らかさが服越しにでもわかるようだ。
「ねえ掃除屋さん、今はこんなだけど、ランスは将来を期待されてるすっげー奴なんだよ、見ての通り顔もいいし性格もちょっと真面目すぎるけどいい奴だ」
俺が咳き込んでいてアンさんを止めることができないのをいいことに、アンさんはそんなことを掃除屋さんに吹き込んだ。そ、そんなにニマニマと笑って、やはりアンさんは俺がまさにその放っておかない男だと知っていてああ言ったのだ。
掃除屋さんが隣で、「わかります」と笑顔で返したことに浮かれている場合じゃない。
「アンさん」
なんとか声をふりしぼってアンさんの名前を呼びけん制すると、アンさんはわざとらしく肩をすくめてみせた。いろいろと言いたいことはあるけれど、このままではいらないことまでつい口を滑らせてしまいそうだ。アンさんのまだにんまりとした笑顔は気になるけれど、この場はとりあえず反論することは諦めよう。一度目を閉じて、もう一度開く。ああ、すっかり箸が止まってしまっていた。
「すっかり箸が止まってしまいましたね」
俺がそう言うと、掃除屋さんは「そうですね」と笑ってから、アジフライの最後の一口をぱくりと食べた。
夕飯が終わり、食堂に誰も居なくなる時間を見計らって俺は食堂へアンさんを訪ねた。
一仕事を終えてようやくゆっくりと休んでいたらしいアンさんはマグカップを片手にして、俺の姿を見ると「よう」と片手を上げた。いつもならどこかほっとする仕草なのだけど、今の俺にはそんなことを感じている余裕はない。
俺は「アンさん」と力強く名前を呼んだ。アンさんはきょとんとした顔をする。
「あの、掃除屋さんの前で余計な事を言うのは、やめてください」
「余計な事?」
俺が意を決してそう言うと、アンさんはマグカップ片手に、にんまりという表現が似合うように笑った。
「あー、例えば、ランスが掃除屋さんのことを好きな事とか?」
「……!」
やはり、アンさんは、わかっていたのだ。
「いやそんな、どうしてみたいな顔されてもねえ、あんたが掃除屋さんを見る目を見てりゃすぐわかるさ」
アンさんが少し呆れたようにそう言う。わかって、しまうのだろうか。なんだか恥ずかしい。きっと今、俺は顔を赤くしてしまっているのだろう。
「大丈夫、アンさんはあんたの味方だよ、もう余計なことは言わないから安心しな」
アンさんはそう言って、笑った。
あんな意地悪な事をされたのに、不思議なことに俺はその笑顔を、言葉を、信用しているのだった。
アンさんが「あんたも飲むか」と聞くのでうなずいた。俺の返事を受けて、立ちあがり厨房へ向かうアンさんの背中を見ながら、すっかり肩の力は抜けていた。




