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ごぽり、と音がした。
もしかしてわたしは、あちらに着いてしまったのかと思った。けれど目が覚めたこの場所は、水の中だった。わたしの体は水の中に浮いている。手足の自由がきかない。けれど、呼吸は苦しくない。なんだかふわふわして、とても心地がいい。やはりここは、あちらなのかもしれない。
ああ、わたしはきっと消えてしまったんだ。だからあちらにたどり着いたのだ。水の中にいると、やっぱり人魚姫のような気分。わたしはこのまま、泡になっていくのだろうか。それならば、とわたしは目を閉じた。ああ、やっぱり、ふわふわして、とても心地がいい。
どれぐらいそうしていただろう。
頭の中に声が響いた。聞こえてきたのではない。本当に、頭に直接呼びかけられているような感覚。なんだろう、なんて言っているんだろう。
―…ね、…か
わたしはゆっくりと目を開けてみた。だんだんと光が見えてくる。
―茜
わたしは目を見開いた。今、声はわたしの名前を呼んだ。アカネではなく、茜、と。
目を開いてみて、わたしは抱きしめられているということに気が付いた。あたたかいこの腕は、懐かしくて、優しくて、とても落ち着く。やはりわたしはあちらに来たのだ。けれど不思議なことに、わたしはその事実に嬉しいとも悲しいとも思わなかった。ただ、ああそうなんだと思うだけだった。これが死ぬということなのだろうか。
―茜
声がまたわたしの名前を呼んだ。少し、悲しげだった。どうしたの、わたしやっとこっちに来れたのに、どうして悲しいの。
―あなたが、幸せになることが、一番なのよ
しあわせ?しあわせって、しあわせ。しあわせって、どういうことだっけ。
―だからね、茜、心のシミがキレイになれば、きっと
こころの、シミ?
―幸せに、なれるのよ
わたしは自分の体が浮き上がっていっていることに気が付いた。わたしを抱きしめていた腕が離れていく。わたしはすがるようにその腕に手を伸ばした。腕はするりとわたしが伸ばした手を撫でた。でも、それだけだった。
浮き上がっていくわたしを見つめて、お母さんは笑っていた。
「ぶ、はっ!」
大きく息を吸う。頭からびっしょりと濡れているのが分かる。
何度か息を吸って落ち着くと、だんだんと状況が把握できてきた。
ここは、お風呂場。わたしは湯船につかりながら、どうやら寝てしまっていたらしい。それで湯船の中に頭までつかっていたのか。なんだか、3度目の生を受けた気分。
そしてそれはなんだか、すっきりした気分なのだった。
そんな気分のままわたしはお風呂を出た。不思議と落ち着いていた。
もしも駐在さんが迎えに来るまで、運良くこの体が消えていなかったとしたら、その時駐在さんに打ち明けよう。
タオルを頭にかぶったまま椅子の上で膝を抱えていたわたしは、そう考えながらまた眠ってしまっていたらしい。ランスさんに揺り起こされてようやく朝が来たことに気が付いた。
朝日が、まぶしい。
「こんなところで寝て、どうしたんです」
「すいません、明け方目を覚まして、お風呂に入ったんですけど、あがってからそのまま寝ちゃったみたいです」
「そう、でしたか」
ランスさんはほっとため息をついた。心配をかけてしまっていたらしい。
わたしはランスさんに笑ってみせた。
「そういえばランスさん、昨日はありがとうございました」
「昨日ですか?」
「アンさんにいわしハンバーグを作ってくれるようにお願いしてくれたのはランスさんだって聞きました、おかげでもう元気です」
わたしがそう言うとランスさんは合点がいったようで、ああと嬉しそうな顔をしてくれた。
「お役にたてたのなら、なによりです」
そう言ってランスさんは笑った。
わたしはお風呂から出る時にすでに仕事着に着替えていたので、そのままランスさんと朝食に向かうことにした。そしてそこで今日の仕事内容の説明を受けるのだった。
いわく、本部建物の玄関を掃除してほしいとのこと。
そうか、入り口の内側のほうは掃除したけれど、外側はしていなかったなあ。玄関はキレイにしておくに越したことはないよね。最後に玄関をキレイにして帰るっていうのもなんだか気持ちがいい気がする。
朝食を終えると、ランスさんとゴーロさんに荷物を持ってもらって、わたしは玄関へと勇んで向かうのだった。
清掃中、と書かれた立て看板を置いてから準備を始める。まず横幅の広い脚立を広げることにした。上の方に溜まっているのはたぶん砂なのでほこりバスターEXは使えない。ほうきで掃き落とすしかないのだ。
わたしはほうきを手に脚立を上っていく。踏み外さないように、一歩一歩確実に。
そうして脚立のてっぺんにたどり着くと、やはり上の方には砂が溜まっていた。それをほうきで少しずつ下へ落としていく。この小さなほうきは、アルちゃんと王都観光に行ったあの日に買ったものなのでとても使い心地がいい。それこそ、浮かれて鼻歌なんて出ちゃうほどに心地がいいのだ。
予想外の事態は、いつも浮かれた時にやってくる。
いきなり足の支えが無くなった。
わたしが足を踏み外したのか、脚立の足場が外れたのか。わからないまま、背中が引っ張られるように、あるいは、おでこを思い切り押されたように。
わたしの体は後ろに倒れていく。




