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駐在さんの名前はマーリン・グロブリ。この港町に居るただひとりの駐在さんで、怖い顔にもかかわらず町の人や漁師さんたちからの信頼は厚い。その信頼は世代を問わず「マーリンさん」と親しげに呼びかけられることによく表れているとおもう。年齢はおじさんとお兄さんのはざまで揺れる30歳だそうで、町の人にはそれを気遣われているのか子どもが「おじさん」と呼ぶたびお母さんが「お兄さんでしょ!」と叱る姿をよく見かける。たぶんその気遣いは余計駐在さんの心に傷をつけていると思うのだけどタイミングがわからなくて言い出せずにいるわたしを駐在さんには許してほしい。
駐在さんの朝は日の出とともにはじまる。だから日の出の早い時期は早起きになるし、遅い時期は遅く起きてくる。あるいは曇りや雨の日は寝坊することがしばしばある。
朝一番の仕事は愛車のマグロ号に乗って町中のパトロールから始まる。ちなみに愛車のマグロ号は自転車である。わたしはニワトリの鳴き声で目を覚ますので、起きて部屋から出てきたころに駐在さんはもう出かけている。この町のニワトリは朝ご飯を食べてから鳴くのだ。そして駐在さんが町の人からのおすそわけをマグロ号の荷台に積んで帰って来るころ、朝ご飯を用意して待っているのがわたしの仕事だ。
「おかえりなさい、おはようございます駐在さん」
「ああ、ただいま、おはよう」
駐在さんは怖い顔だけどとても律義で礼儀正しい人だ。おはよう、おやすみ、いただきます、ごちそうさま、ありがとう、すまない、折々の言葉はきちんと言ってくれる。それに顔は怖いけれどあの稲穂のような黄金色をした目はとても優しい。怖い顔してても目が笑っていれば悪い人ではないのだ。
朝食を済ませると駐在さんは交番勤務に、わたしは表に立て看板を出して掃除代行のお仕事にとりかかる。掃除代行のお仕事といっても、予約があれば依頼者のおうちへ出向いて掃除をして、予約が無ければ交番の一角に設けられた受付スペースで予約に訪れるお客さんを待つのだ。だから交番勤務をしている駐在さんを観察できるのは予約が無い日に限られる。
駐在さんはまずなにか冊子を開くことから始める。これは毎日のことで、何をしてるんですかと聞いたら、朝のパトロールのことを書いているんだと教えてくれた。業務日誌のようなものらしい。見せてもらった業務日誌に書かれた文字はとてもきれいだった。字がきれいですねと言ったら駐在さんは照れた。怖い顔して駐在さんは褒められるとすぐに照れる。照れる駐在さんは、怒られるかもしれないけれど、少しかわいい。
昼食は決まってサンドイッチだ。それは仕事の片手間に食べられることと、もうひとつ作り置きができることが理由である。サンドイッチといえば、わたしがサンドイッチを作るときに傍にいた駐在さんが「あっ」と声を出したことがある。どうしたのかと振り返ってみると、駐在さんはその怖い顔に気まずい表情を浮かべて、なんでもないと言うだけ。しかしわたしが食い下がると駐在さんは気まずそうに、実はトマトが苦手だと言った。そうなんですね、じゃあ外しましょうとわたしが言うと駐在さんは驚いた。食わず嫌いじゃなければ、苦手なものは無理に食べなくてもいいと思いますと言うと、駐在さんは優しく笑って、すまないありがとう、と言ってくれた。
駐在さんは、トマトが苦手。