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とある日のカフェーの一幕

作者: 那古久屋

よくある設定で書き始めたら、大正・昭和期の作品でありそうな作品になってしまいました。稚拙な文章ではありますが、楽しんでいただければと思います。

 私、高村総一郎にとってカフェーというところは、意外にも居心地の良いものだった。店内に漂うコーヒーの香りは、仕事に追われる日々の疲れを癒し、心を落ち着かせてくれる。もともとカフェーというところは人付き合いの良いものが来るものという思い込みから嫌厭していたが、実際にはそれほど敷居の高いものではなく、今では気軽に入れるところになっていた。

「いらっしゃい。総さん、来てくれたのね」

 このカフェー、プラネタリウムの女給、ナツはコーヒーを私の前に置くと、隣に腰かけ満面の笑みを浮かべた。彼女こそが私がプラネタリウムに通う目的であり、同時に大きな悩みの種である。

 丸く大きな瞳、形の良い鼻、厚く魅惑的な唇。美人でありつつもあどけなさが残った顔立ちはとても魅力的だ。そして、彼女自身それを商売上の武器としていた。

「総さんが来ないと私すごく寂しいのよ。本当は一日中居てほしいくらいなんだから」

 仕事があるし、それは無理だよというと、ナツは拗ねた様子で言ってみただけよと口を尖らせる。ほかの女給が同じしぐさをしてもただわがままな女としか映らないだろう。しかし、彼女がすると一変して魅力的な行為に様変わりする。それはナツ自身の魅力からきているのか、それとも私のナツに対する情からきているのか定かではない。おそらく両方だと思われるが、原因が何であれ、彼女が魅力的な事実に変わりはなかった。

 そもそも私がプラネタリウムに通うきっかけになったのは、彼女がきっかけだ。

 普段会社員として働いている私は、いつも仕事が終わるとまっすぐに帰路についた。もともと私自身、社交的なたちではなかったが、仕事を始めてからは余計に人と関わることを避けるようになっていた。それというのも出勤初日のあいさつで笑われたことが原因で、地元から出てきたばかりの私は話し方の差に驚き、無理に合わせようとした結果、ある種の見世物のようになってしまい、大恥をかいたのである。以来、人と話をすること自体が怖くなってしまい、同僚とは仕事をするうえで必要なこと以外はほとんどしゃべらないようになっていた。

 そんなある日、私は路地裏で野犬に囲まれたナツに出会った。恐怖のあまり半泣きになっていたナツを見たとたん、私の体は無意識のうちに動き、無我夢中で野犬を追い払っていた。あまりに必死だったため、どんなふうに追い払おうとしたのかは正直なところ覚えていない。ただ、気づいた時には目の前に野犬の姿はなく、腕の中には恐怖のあまり肩を震わせたナツの姿があった。私は心配になり、大丈夫かいと声をかけると、ナツは無理やり作った笑顔を浮かべながら、助かりました、と震える声で答えた。

 その後、私はナツを家に送った。道すがらナツから、プラネタリウムで女給として働いていること、両親と喧嘩別れし友人の家に厄介になっていることを聞いた。そして、今度店に来てくれないかと誘われたのである。

 以来、私は時間があるときには通うようになった。ナツと話をしながら、コーヒーを味わうことはひどく贅沢なことのように感じられた。

「ねえ、総さん。このコーヒー私が入れたのよ。おいしい?」

 おいしいよと答えると、ナツは顔を綻ばせた。

「総さんが前に苦いものは苦手だって言ってたでしょ? だから、あまり苦くなりすぎないように入れてみたの。コーヒーを入れるのって大変なのね。入れる豆によって味が全然違うんですもの。しばらくコーヒーは飲みたくないわ」

 よほど大変だったのだろう。ナツは顔をしかめた。

「でも、作っているときはとても楽しかったわ。総さんのためって思うと、なんだかとてもうれしい気持ちになったの。おいしいって言ってくれるのを想像しただけで、すごくドキドキしたのよ」

 あまりに直接的な物言いに私にほうがドキッとしてしまう。そしてこの後の流れは容易に予想がついた。

「ねえ、総さん。私こんなに頑張ったの。今日くらいいいでしょう?」

 そういうと、ナツは目を閉じ、私にしなだれかかる。先ほどまでとは一転し、色っぽい声。片方の手で指を絡め、もう一方の手で私のふとももをさすってきた。

「私、総さんのために頑張ったのよ。今日もダメなの?」

 指を絡めた私の手を、自身の太ももに這わせ、その上に手を重ねる。私はナツの太ももと手のぬくもりにぎょっとし、思わずナツのほうを振り向くと、ナツの魅惑的の首筋が目に飛び込んできた。彼女の肌はとてもきれいだ。白く透き通っていて、齢十六のみずみずしい肌は男を狂わせるには十分すぎるほどだ。加えてカフェーに漂うにおいとは明らかに違う甘い香りが鼻腔をくすぐると、私はめまいを感じずにはいられなかった。

「こんなこと総さんにしかしないわ。総さんだからするのよ」

 ナツとの距離が一層縮まり、より近くに彼女の存在を感じるようになった。

「ここにくるお客さんは私を見るとすごくいやらしい目で見てくるのよ。足とか腰とかたくさん触ってくるの。でも、総さんは違う。私がいいと言っているのに、自分から触ろうとしてくれたことはないのよ。私ってそんなに魅力がないのかしら」

 そんなことはないと私が慌てて否定すると、ナツは拗ねた様子で続ける。

「でも、実際そうじゃない。別にいやらしい目で見てほしいわけじゃないわ。でも、総さん私にあんまり関心がなさそう。ここに来るのはただの暇つぶし。気まぐれでここにきて、気まぐれに帰るだけ。私にはそんな風にしか見えないわ」

 話しているうちに気持ちが高ぶってきたのか、ナツは少しずつ涙声になっていった。

「私、総さんともっと楽しくしたいの。総さんが求めてくれれば、今すぐにでも一緒に二階に行くわ。総さんが満足してくれるように、一生懸命やるわ。でも、総さんはその機会さえくれない。私どうすればいいのよ」

 最後のほうは消え入りそうなほどか細い声になっていたが、私の耳にははっきりと聞こえていたし、罪悪感を感じずにはいられなかった。

 こんなことになってしまった原因ははっきりしている。私が悪いのだ。すべての原因は私の意気地のなさなのである。私が彼女に初めて会ったあの日、私は間違いなく彼女に見とれ、心を奪われた。彼女を助けた時、正直に言えば少なからず下心があった。彼女を家に送り届けたとき、彼女の話は正直上の空で、いかにして次に会う約束を取り付けるかということばかり考えていた。しかし、ついぞ私は行動に起こすことができなかった。そのかわりに、私がしたことと言えば、未練がましくプラネタリウムに通うことだったのである。そしてこれが最大の過ちであった。

 なぜなら、彼女は女給なのである。初めてプラネタリウムに訪れた夜、私は自身の不甲斐なさとあまりの浅はかさに自身を呪わずにはいられなかった。もし、彼女が私に特別な関心を持っていないようであれば、私は彼女と楽しい時間を過ごせるよう腐心したことだろう。だが、彼女は私に関心を持ち、さらには好意まで抱いていた。あの帰り道、意を決して彼女誘っていればこんなことにはならなかったであろう。すべては私の意気地のなさが招いた結果なのである。

 肩を震わせる彼女も、私が求めれば喜んでその身を捧げるだろう。しかし、彼女との関係はそこで止まり、私の求めるところに行きつくことはない。それは、私の不甲斐なさのもたらした結果であり、だからこそ、私には隣で泣く少女を抱き寄せる資格さえあるとは思えなかった。

 私は彼女の気持ちが落ち着くまで待って店を後にした。店を出る直前、すっかり冷めてしまったコーヒーは、なぜか苦みが強くなったように感じた。

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