海辺の家族
久々の投稿です。
これまでの作品とはやや傾向が異なりますが、こちらの方が本来の私の作風のような気がします。
ある夜、不思議な光を見た。
不安げにゆれるそれはふらふらと水面に至り、やがてプツリと消えた。
それにつられるようにいくつもの光がとぷりとぷりとあらわれては消えた。
夢のように穏やかなそれはしかし、私の心をざわつかせた。
「それって人魂ってやつじゃないの。よく言うじゃないか。人は死んでも魂はこの世に残るって」
あの夜からもう五年が経った今日、ふと思い出して幼馴染に話してみた。
「そうかもしれない。ちょうど、あの嵐の次の日だったから」
「ああ、あれからもう五年も経つんだな」
そう、私たちの地区を襲った巨大な嵐。そして、私の大好きなお母さんを奪っていった嵐。
「あのとき、お前大変だったな」
「そうだね」
「でも、泣かなかったよな、お前」
「うん」
しばしの沈黙。波の音だけがはじけては消える。
ぶるぶるぶる ぶるぶるぶる
ポケットで携帯電話が苦しそうなうなりをあげる。姉ちゃんからの買い出しの催促だ。
「じゃ、私帰るね」
私は両手に提げたビニール袋を持ち直して歩く。
五年前、十七歳にして一家の主婦になった姉ちゃんは今や完全におかんである。妹である私にとても口うるさい。きっと玄関を開けたらすぐに怒鳴られることだろう。スーパーへの買い出しに何時間かけるのと。
私は家に続くだらだらとした坂道を2Lが2本入ったビニル袋を握りしめてのぼる。後ろから潮風が私の髪を乱すけれど、それをかきあげる気力すら失う暑さだ。ショートパンツから出た足に当たるビニールの感触が何とも言えず気持ち悪い。
「遅い!」
案の定、玄関に一歩上がるか上がらないかの内に姉ちゃんからの怒号が飛んできた。
「だって、そこで宗介にあってさ」
「言い訳しない」
私の左手から重いほうのビニール袋をひったくり、台所へと戻る。私がだらだらと台所に入るころにはもう手際よく冷蔵庫に放り込み始めていた。
「ねえ、姉ちゃんってさ、五年前泣いた?」
「何を唐突に」
「なんとなく」
「どうだったかな。忘れた。すっごくバタバタしてたし」
姉ちゃんの手はてきぱきと動き続ける。さっきまで私を苦しめていたビニル袋はもう姉ちゃんによってぺったんこだ。なんだか少し哀れな姿。それに対してぎゅうぎゅうに詰められた冷蔵庫。
今夜はたぶん肉じゃがだ。母さんの大好物で、得意料理だった。だから、毎年この日には姉ちゃんが作って仏壇にお供えする。そして少し早めに帰ってきた父さんと姉ちゃんと三人で食べる。母さんの味と少し違った姉ちゃんの味。それは少し懐かしくてとてもさみしい。今夜の夕飯の光景は簡単に想像できる。私は手伝えと呼び戻す姉ちゃんの声を背中で聞きながらとび出した。
太陽は少し傾いたが、それでもまだその力を緩めようとはしない。海に向かって立つと、跳ね返るその光が目に沁みる。もう少しすると空は赤く染まるだろう。そうすると逢魔が時だ。母さんが死んでから姉ちゃんが教えてくれた。お化けが出る時間だって。なら、お母さんの幽霊も出るかもしれないって二人で海を見ながら待った。何も起こらなかったけれど。
「手伝いは終わったのか」
宗介が少しからかうように笑っていた。
「終わったといえば終わった」
「でも、終わっていないといえば終わっていない」
「あたり」
「なんだよそれ、放り出してきたのかよ。紗智ねえに怒られるぞ」
「うん、でもさ、姉ちゃんが肉じゃが作るとこ見たくなかったんだよね」
小さいときはよく宗介と姉ちゃんで遊んだ。そして、宗介と二人で小さないたずらを仕掛けては姉ちゃんに怒られた。でも、いつの間にか3人でこの海を見ていた。
そんなある日、姉ちゃんが私たちに教えてくれた。このとっても大きな海は地球の大半を占めていて、広く見えるこの陸地など、ほんのわずかなものだと。人間は星の数ほどいるように見えるし、何でもできそうな気がする。でも、せいぜい広い宇宙の中の小さな星の中のさらにわずかな陸の上にかろうじて立っている、吹けば飛ぶような存在。私たちはさらにその一部でしかない。
あの時感じた悲しみに似た感情はたぶんそいうことなのだと今なら分かる。大切な人を奪う自然をどんなに恨んでみても、自然がなくなれば困るのもきっと人間がちっぽけだからなのだ。
「白石悠実さん?」
唐突に呼ばれて私の意識は引き戻される。そして、声の主を見て私は固まってしまった。幼いころから聞きなれたその声。声を聞いた瞬間に気づいてはいた。しかし、それは一瞬であるはずないと否定された結論だった。
「母さん……。」
私の後ろに立つその女性は私の母さんだった。いや、そんなことあり得ない。そうわかっていてもそう思ってしまうほどによく似ていた。
「私はあなたのお母さんなのかしら」
まさか……。
「そんなはずありません。こいつのお母さんは五年前に死にましたから。なあ?」
宗介が慌てて説明している。こんなにあせった宗介を見るのは初めてだとどこか冷静な私は考えていた。しかし、問いかけられたことへの返答は見つけられない。私はどう言葉をつないで良いのか分からなくなった。まるで、しゃべり方を忘れてしまったように私はただ立ち尽くしていた。それでいて、頭の中では暴力的なまでの思考と感情が錯綜していた。そして、彼女の腕をつかむと家まで引っ張っていった。
「姉ちゃん!」
バタンといういつもより大きいドアの音。
パタパタと姉ちゃんが玄関まで出てくる。
「悠実、あんた、手伝いもせず……!?」
大抵のことには動じない姉ちゃんも硬直してしまった。その後ろでは父さんもあんぐりと口を開けている。
「母さん……」
「私は……。あなた方の家族なのでしょうか」
違う……。
違うに決まっている。
だって、母さんは死んだのだ。
「とりあえず、上がってください」
姉ちゃんは早くも立ち直って来客用のスリッパを出す。しかし、その指先が小刻みに震えていることに私は気づいていた。
「悠実、大変だったんだって?」
翌日、私は教室に入るなり心配とほんの少しの好奇心が溶け合った表情の麻衣に問い詰められていた。小さな村では噂はものすごいスピードで駆け抜けていく。宗介も遠くの席から心配そうな視線を送ってきている。そういえば昨日、宗介を置き去りにしてしまった。
「大変なんてものじゃないよ」
あの後、母さんに似た女性を前に私たちは質問を次々と投げた。
しかし、その結果分かったことはほとんどなかった。どこの誰なのか、どうしてここに来たのか、どうやって来たのか。何もかも分からなかった。ふと気が付くと私の背中が目の前にあって、なぜか白石悠実という名が浮かんだ。そして思わずつぶやいてしまった。ただそれだけ。それ以前の記憶も全くない。所持品もなし。つまり、彼女には今夜寝る場所もない。
追い出すわけにもいかなくて、彼女は我が家に滞在することになった。必要なものは母さんのを貸した。母さんの寝巻を着て、母さんの部屋にいる彼女は全く母さんそのものに見えた。
今朝は懐かしい香りで目が覚めた。朝の弱い姉ちゃんは私より先に起きるはずがない。朝食はいつも私の当番。私はそっと台所の扉を開ける。そこにいたのは母さん……なはずはない。昨日の彼女だった。
その手には白い皿。食べてと言わんばかりのかがやきを放つ目玉焼きとソーセージが乗っている。そしてコンロの上で湯気をあげているのはおそらくお味噌汁。テーブルの上にはおにぎりが数個と、トースターも稼働中。
和洋入り混じった朝ごはんは昔からの白石家の日常。どうして知っているの?私の目の問いかけに気づいたのか、母さんの笑顔でその人は答えた。これでいいのよねと。いつもの、本当にいつもの朝ごはん。それがうれしくて、でも悔しくて悲しくて寂しくて。結局いつものように食べてしまう自分にも腹立たしくて。
そんな複雑な感情を抱きながら私は登校した。あんな人、どうして家に来たのだろう。まるで母さんが帰ってきたみたいに錯覚しては目が覚め、寂しさが膨らんでいく。無用な期待を抱かせる彼女に罪はない。それでも、憎らしく思ってしまう。
「悠実、大丈夫?」
「大丈夫。……じゃないかも。」
「今日は早退すれば?顔色最悪だよ?」
「帰ったってあれだもん」
不調の原因ははっきりしている。それでも解決できやしないから不調なのだ。
「そうだ!」
「急に何?人が苦しんでいるのに」
「明日、うちに泊まりにおいでよ。んで、一緒に浴衣着てお祭り行こう」
「ああ、神社のお祭りって明日だっけ?」
「うん、気分転換にもなるでしょ」
毎年恒例の神社のお祭り。たくさん並ぶ露店が楽しみで、走っていってはお参りが先よっておばあちゃんに叱られた。小さい頃の話だ。
そんなお祭りの開かれる神社にはあの嵐の被害者の慰霊碑が建てられ、毎年慰霊祭が行われている。私たち家族も毎年欠かさずに参加していた。嵐の翌年には姉ちゃんと浴衣を探して家を引っ掻き回した。母さんが大事にしまっていてくれたはずの浴衣はあれから行方不明だ。淡い桃色に兎が遊ぶ浴衣は結構お気に入りだったのに。
「行く!でも、浴衣は持ってないから洋服で行くよ」
「そうなんだ。じゃあ、明日お祭りの行きがけに家によってくれる?」
「分かった」
「じゃあ、明日ね。」
次の日、私は浴衣で着飾った麻衣と一緒に安っぽい賑わいの中を歩いていた。すでにお参りは済ませた。そして、手にはミルクせんべい。
「ほんとにそれ好きだね」
麻衣のあきれたような目。
「いいじゃん」
「毎年、はずればっかり引いてるのに物好きだねぇ」
「おいしいからいいの。あたりは来年にとっておいたんだよ」
「それ去年も聞いた」
「そうだったっけ」
毎年、このお祭りにくるとミルクせんべいを一番に食べる。でも、一度もあたりは引いたことがない。たまにすれ違う分厚いミルクせんべいを口をべたべたにしながら食べている幼児を横目で見ては、手の中の薄いそれに負け惜しみのようにかぶりつくのだ。この薄さに二百円は高すぎるよな、原価いくらだろうと取り留めもないことを考えながら。
「悠実、これ」
麻衣が指さすのは麻衣の腰の高さほどの石碑。その根元にはいくつもの鮮やかな花束がきれいに並べられている。そして、石碑には人の名前がずらりと並んでいる。その下の段、やや左よりには母さんの名前もひっそりと彫られている。
「ちょっと手合わせていこうか」
今日は慰霊祭に行けなかった。麻衣の家でおしゃべりに興じているうちに時間が過ぎてしまっていたのだ。毎年必ず参加していた慰霊祭に行かないのは妙にすわりが悪く、また一抹の罪悪感を抱かせた。
実は私はしゃべりながらも時計を気にしていた。でも、麻衣には言わなかった。なぜかは私にも分からない。ただ、麻衣とのおしゃべりの時間が惜しかっただけかもしれないし、慰霊祭に行けば現在の混乱した状況を考えずにはいられないからかもしれない。本当に彼女は母さんなのだろうか。もしそうなら、この慰霊碑に刻まれた母さんの名前は何なのだろう。五年前の悲愴に満ちたお葬式は、毎年供えられる姉ちゃんの肉じゃがは無意味だったのだろうか。母さん、母さん、あなたは遠くに行ってしまったのではなかったの?本当はこのちっぽけな地上に母さんも立っていたの?
麻衣がせっかく誘い出してくれたのに私の思考はどうしてもそこに帰着する。
今朝、また起きると出来上がっていた朝食。それを見た父さんの目頭が潤んでいたことを私は知っている。姉ちゃんはまるで母さんに話すように他愛もないことを楽しげに話していた。二人とも、まるで母さんが帰ってきたとでも思っているような表情で。その二人を見て、少し腹立たしくなる。しかし、その一方で、ふとした瞬間に彼女を母さんとして見ている自分に戸惑いを覚えた。石碑に刻まれた母さんの名前を人差し指でなぞる。白石美佐子。
ちょうど「子」の文字を書き終えたその時、隣から小さな悲鳴が聞こえた。
「悠実!あの人……」
そこに立っていたのは彼女だった。母さんが夏になると必ずはいていたスカートをはいて。
「悠実」
軽やかにその口が開かれる。
「ゆうちゃん」
それは私が小学校三年生頃まで家庭内で私の呼称だった。参観日にガキ大将がそれを知ってからかった。当時流行っていたアニメのいじめられっ子がそう呼ばれていたのだ。それが嫌で泣きじゃくってやめてもらった。少し悲しくて、でもとても懐かしい大切な思い出の呼び名。
「母さんね、思い出したよ。」
「母さん……?」
「そうよ。おいで、ゆうちゃん」
そう言って手を差し出す。私はそれを振り払う。ぱちん、という小気味の良い音がする
「やめて!!母さんは死んだの。もういないの!!」
「ここにいるわ」
「違う、そんなのあり得ない」
私は境内の奥に向かって走り出した。人混みがさっと両脇にひけた。それほど異様な光景だったのかもしれない。そのまま神社の隣の公園に抜けた。緑の多いそこはいたるところに根が張り巡らされていて、走りづらい。自然と私のペースも落ちる。それに反比例して、涙があふれる。視界はゆがみ、ほとんど見えない。
「ゆうちゃん、」
「や、やめ、て」
息が詰まってうまく話せない。
「ここ、懐かしいね」
私がもう走れなくてしゃがみこんでしまったことを良いことに、彼女は私の隣にかがんだ。
「あのブランコ覚えてる?宗介くんと取り合って、よくけんかしてたわね。順番ねって言っても二人とも頑固で聞きやしないのよ」
……。
「あっちの滑り台では何を思ったか飛び降りてこぶ作ってたわね。こぶ程度ですんでよかったけれど。なぜか紗智の方が泣いて泣いて。よく分からないし、心配だし、あの時は私も焦ったわ」
……。
「お花見しようと思ったらその日に雨降っちゃって。あんたたち二人ともご機嫌斜めになって。でも、桜餅買ってきたら、ころっとなおっちゃうんだもの。誰に似たのか二人とも甘いもの好きだもんねぇ」
……。
「……母さん。なの」
「だからそうだって言ってるじゃない」
「本当に?」
「そうよ、ゆうちゃん、あなたの母さんよ」
「その呼び方やめてってば」
「いいじゃない、もう十七なんだから少しは寛容になんなさい」
「やだ」
ずっとずっと寂しくて本当は駄々をこねて取り戻したかった母さんの腕の中。でも、中途半端に大人だった十二の私にはそれができなくて、平気なふりをした。五年分の寂しさを埋めるように私は母さんの手をぎゅっと握った。
「帰ろう、母さん」
うんとうなづいた母さんの笑顔はなぜか少し寂しそうだった。
五年ぶりに本当に家族で囲む夕食。母さんの肉じゃがを食べたいという姉ちゃんの一言で、夕飯は肉じゃがと卵焼きとお味噌汁。三人でキッチンに立つ。紗智も悠実もうまくなったねなんて言うけれど、当然だ。二人でずっとやってきたのだもの。そりゃ、姉ちゃんに押し付けた部分もあったけれど、味見も朝食づくりも立派な私の仕事だった。姉ちゃんは朝に弱いし、少し味覚音痴なところがある。味の調整を任せるには不安が大きい。だから、味見と調整は私の仕事。もっとも、最近は姉ちゃんの腕が上がって、調整の必要はほとんどなくなっていたけれど。
「いただきます」
五年ぶりに重なる四つの声。一つ足りなかったパズルのピースがようやくぴたりとはまった。
「おいしい?」
「うん」
肉じゃがも卵焼きも味噌汁も当然だけれど、当然じゃない母さんの味がした。
「お祭りは楽しかった?」
「うん」
「あの麻衣ちゃんって子は高校でできたお友達?」
「ううん、中学から」
「そうなの、良かったね。よい友達に巡り合えて」
「紗智は?大学は楽しい?」
「まあまあ。でも、バイトは楽しいよ」
「あら、何をしているの?」
「塾の先生」
「紗智は昔から人のお世話をするのが上手だったもんね」
私たちは五年分を取り返すようにしゃべった。父さんはやっぱり無口だけれど、とてもうれしそう。どうして母さんは五年もいなかったんだろうとか、どうしてすべて忘れてしまっていたのだろうとか、まだ分からないことはたくさんある。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、ここに母さんがいる。そのことだけがうれしくて、安心で、温かかった。今度こそは何十年も続く平和だと信じていた。
「悠実、紗智、ちょっとおいで」
和室から母さんの声がする。麻衣にメールを売っている最中だったけれど、まあいいか。あれから麻衣には何も言わずに帰ってきてしまった。ここまで遅くなってしまったら、もう母さんの用事が済んでしまってからでも大差はないだろう。
「なにー?」
ふすまを開けるとそこにはもう姉ちゃんがいて。その足元には浴衣。
その鮮やかさが懐かしい。少し幼い柄のそれは確かに五年前まで来ていたものだった。
「こっちおいで」
二人で一斉に洋服を脱いで母さんの方へ。
「いっせいには無理だよ。一人ずつ」
こういう時に引くのは姉ちゃん。
「じゃあ、悠実からね、紗智は見ながら自分でやってみれば?」
母さんはしゅるしゅると紐を巻き付けては縛っていく。それに合わせて私も後ろを向いたり、また戻ったり。浴衣を着終わったころには三人ともへとへとだった。
「せっかくだから少しお散歩に行きましょうか。」
「「行こう!」」
「じゃあ、二人は先に行っててくれる?すぐに追いかけるから」
玄関にはちゃんと草履が置いてあって。母さんらしいそつのなさに笑みがこぼれる。私たちはゆっくりと海に向けて歩き出す。神社の喧騒は次第に遠のいていった。母さんがすぐに追いつけるよう、一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと。母さんはすぐに追いついてきた。少しふざけて走ってみたけれど、浴衣に草履ではすぐに追いつかれてしまう。日は完全に沈んで暗闇が広がる。そして鮮やかな二人と一人。賑やかにはしゃいでいた三人はやがて静まる。漆黒の海に向かって、ただ流れる沈黙。完全に心許しあう仲のみに許される心地よい沈黙。そこに他者は介入しえない。時間すらも。
「母さんね、まだ二人に話してないことがある」
ぽつりとこぼされる一言。聞きたくない。なぜかとっさにそう思った。
「もう帰らなきゃ。父さんが心配するよ」
姉ちゃんが母さんの右手、私が左手の袖をぎゅっとつかんだ。そして、振りほどかれる。その衝撃に立ちすくむ。
「そうね、帰らなきゃ。でも、母さんは一緒にいけない」
「どうして。やっと一緒に帰れるのに」
「ごめんなさい。でも、もう駄目なの」
母さんは五年前に死んだ。でも、今こうして帰ってきた。ここに居るじゃない。帰ってきたんでしょう?これから、ずっと一緒に暮らすんでしょう?
「悠実、紗智、あなたたち覚えているでしょう。私はあなたたちの目の前で死んだ。」
そうだった。母さんは私の目の前で私たちをかばって。
「だから、あんたたち泣かなかったでしょう」
そう……かもしれない。私に泣く資格なんてない。私のせいだから。泣きたかった。泣けなかった。泣いちゃいけなかった。
「いけなくなんかない。泣きたいときは泣けばいいでしょう」
良くないんだよ。良いわけないんだよ。私のせいだもん。私が死ぬはずだった。そうなればよかったのに。
「そんなの良くないに決まってるでしょ」
私はとっさに目を閉じる。一拍遅れて私の左の方で小気味の良い破裂音が響く。左隣りでは姉ちゃんも頬を抑えている。でも、当てられたその手はこの世のものではないみたいに冷たくて軽くて。
「母さんがいいって言ってるんだよ。母さんはあなたたちを助けるためなら命なんて惜しくなかったんだよ」
気が付けば私の手を握る母さんの手の甲に水滴が一粒、二粒。あいている右手でぬぐうけれど、間に合わない。それから私たちは声を上げて泣いた。五年前流せなかった涙。遠くで響いていた神社の喧騒はいつの間にか静寂に変わっていた。私たちのしゃくりあげる声だけが響いていた。母さんの軽い手が私の頭をぽんぽんと撫でる。その手は優しくて、でもさっきよりもさらに軽かった。やがてその手の感触は羽毛の一枚よりも軽くなってふんわりと消えた。顔をあげるとそこに母さんはいなかった。
その夜、私は夢を見た。
私は海を眺めていた。
その水面に小さな、それでいてはっきりとした光が浮かんでいた。
それはふわふわと私の方にやってきて、私の周りで楽しげに踊っていた。
どこか温かい光だった。
その光は消えることなく、いつまでも私の周りをくるくるとまわっていた。
お読みいただきありがとうございます。
お時間ございましたら、ご意見ご感想をいただきたく存じます。