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さくら

ちょっと前に書いた短編小説を訂正してあげました。

 燦燦と輝く陽に照らされて、一本の桜木が風に揺られていた。春の陽気に誘われて蕾はほころび、綺麗な花が、今にも散ってしまいそうな勢いで咲いている。その木陰にふたりの男女。こう言えば、どのような顔がふたりの顔として思い浮かぶだろうか。どのような男女が桜の木の下に似合わしいだろうか。桜の木の下の約束と言えばどのようなものを思い浮かべるだろうか。



「ふぇっくしゅい!」



 ナースセンターに轟くほどの大きなくしゃみをひとつ。ようやく冬の寒さが終わったと思えば、間髪入れずにこれがやってくる。鼻の奥の蛇口が弛んでいるようで、無益な鼻水を途方もなくどばどばと大量生産している。これさえなければ、4月の憂鬱から5月病まで飛んで行ってバリバリ働けるのに。そんな無益な愚痴も頭の中で四六時中垂れ流しだ。


「千春ちゃんのくしゃみ、鼻水すする音……。すっかり春だねえ」

「他人の苦しみで春を感じないでくれる?」


「あ、見てくださいよ先輩! 病院の庭の桜が咲き始めてますよ!」

「本当だ、やっぱり千春ちゃんの春の知らせは間違いないわ」

「春の知らせ、逆だよね? 桜の咲き始めに春を感じろよ!」


 こっちが苦しんでいるというのに、同情の言葉も差し向けないどころか、『春の知らせ』と呑気な言葉を抜かす。先輩や同僚たちの態度にあきれ果て、千春は大きなため息をひとつ。周りを見渡せば、窓の外を見てまどろんでいる皆が羨ましくてたまらなくなる。自分が窓から目を背けて机の上の書類に目を通しているのは、外からの空気が流れ込んでくる窓の方を見やれば、目がしょぼしょぼして涙が止まらなくなってしまうからだ。


「ああ~そう言えば千春ちゃん、昨日の飲み会来なかったね。同じ日に夜勤替わってもらってたんだから、来ればよかったのに」

「こっちは、花粉症で熱が出てたんですよ。38℃だったんですからね」

「え? 花粉症って熱出るの?」

「ひどい人はそうらしいですよ」

「花粉て怖いのねぇ」


「あ、そんなことより千春先輩! 昨日の飲み会すっごく盛り上がったんですよ! うちの病院うざい患者ランキングって」

「あのじじいが一番だったやつでしょ? あたしもほんと困っててさ。あのじじい、話しかけても無視か文句しか言わないし」

「まあでも、糖尿病も痴呆も進んで親類からは見放されてるみたいで、捻くれるのも無理はないと思うけど。そろそろお迎えが来るかもね」

「あ、それ助かるわ」


 人の命を扱う仕事が、すぐ傍の重症患者を他人事。病院の他の患者を格付けした挙句、その死を喜ぶかのような言動、看護婦としてどころか人間としてあるまじき行為だ。思わず拳を振り上げてやりたくなるところに、またひとつくしゃみが舞い込み、意気を消沈させた。千春は力尽き、机の上に倒れ伏して息絶えてしまった。


「あ、あのー、すみませーん。ちょっと人探しに付き合ってくれませんか?

 忙しくなければでいいんで」


 呼ぶ声がして、千春は俯けていた顔を上げる。受付口に一番近い千春がそこまで歩いて行き、応答した。


「は、はい?」

「久しぶりにこっちに来たんで、お見舞いしておこうかと思いまして。

 あ、あたし、羽芝さくらと言います」


 そう言って頭を下げるのは、胸元に可愛らしい紅いリボンの揺れる学生服を身にまとった少女だった。おそらくは、この春から高校生といったところだろうか。10年ほど前は自分も学生服に身を包んでいた。そのことを思い出して少し懐かしい気持ちになりながらも、千春はさくらが持ち掛けてきた『人探し』の内容について尋ねる。


「それが……、名前が分からなくて困ってるんです。覚えているのは桜の木の下でかわした約束だけで」


 これは困ったことだ。聞くところによると、さくらが入院していた際、よく話していた人で、その人もこの病院の患者の男性だというところまでは分かっているが、その先は分からない。覚えているのは桜の木とその約束のことだけだということだ。赤の他人である千春が、さくらの尋ね人を探すのは少し骨が折れるかもしれない。それでも力になりたいと熱心に耳を傾けていると、もうひとり肩を並べてうんうんとしきりに頷く者がいた。


「それでそれで、もっと聞かせてくださいよー! その素敵な話! 相手は誰? その人イケメン? それともダンディなかんじ?」


 さっきまで窓の外を眺めていたはずの新米看護婦、紗栄子だ。新米よろしく『千春先輩』、『先輩』などと話しかけるのはいいとして、とにかく落ち着きがない。言動が軽率すぎる。千春は彼女が少し苦手だった。


「ダンディというわけじゃないですけど。本当は優しいのに素直じゃない人で、ぶっきらぼうって言うんですかね」

「なにそれっ! ちょっとしたツンデレっていうやつじゃないですかっ! 千春先輩、一緒に探してあげましょうよー!」


 本当に調子のいい奴だ。人助けのふりをして他人の色恋に首を突っ込みたいだけなのがバレバレなのにもかかわらず、それを勢いでごまかそうとしているのが腹立たしい。だが紗栄子が来ると話が早まることもある。言動が軽率なゆえ、行動に移すのも一瞬なのだ。

 



「……、この場所です」




 さくらのその言葉に、千春と紗栄子は耳を疑った。立ち止ったそこの場所が、例の約束の場所だというのだ。だがしかし、肝心の桜の木が無いではないか。そう尋ねても、再び「この場所なんです」と繰り返されるだけ。


 そこでふと千春には思い当たることがあった。確かに、今はただの病院裏の駐車場の一角だ。しかし、3年前まではそこに桜があったというのを聞いたことがある。それを思い出したのだ。


「それまでは本当に元気な桜だったけどね。4年前になんか病気にかかっちゃったみたいで、そこで弱り目に祟り目で台風が来ちゃったからぽっきりと折れちゃってね。みすぼらしい姿になったし。ちょうど駐車場も増やそうっていう話があって」


 駐車場を広げたことにより、いくつか木や花壇などが埋め立てられた。その中に、さくらの約束の場所である桜の木も入ってしまっていたということだ。残念ながら、木はもう根こそぎ抜かれていて、上にはアスファルトが敷かれている。


「ひとりだけ、桜の木を抜くってときに猛反対した患者がいたらしくてそれ以来誰が来ても、口をきかなくなったって」

「……。おそらく、その人です」

「えっ……」

「なんとなく、あの人ならそうなっちゃうだろうなって」


 千春がこの病院にしてきたのは2年前。先ほどの駐車場の増設の話も患者の話もすべて、先輩や同僚たちがしていた噂話が耳に入って得た情報だ。その噂話のもとをたどれば、さくらの約束の相手というのも見つかるかもしれない。どうやらこれで、尋ね人は割り出せそうだ。そう安堵した瞬間、すぐ隣にいたはずの紗栄子がいなくなっていることに気づく。


「あ、あ、あたし、おなか空いちゃったんでお昼行ってきますねっ」

「待てっ!」


 空腹などという子供でも思いつくような言い訳で、その場から立ち去ろうとする紗栄子の肩を千春の手ががしっと掴んだ。


「なにか、知ってるんだろ?」

「え、ええっ! す、すごく自然に逃げようとしてたんですけど……」

「ものすごく不自然だったから感づいたの」

「だって、そんな……ね……? 桜の木の下の約束なんて言うから

 ロマンチックなこと想像してたのに、よりによってあの頑固ジ……あ……」


 『頑固ジジイ』と言いかけたところで、千春が鷹のような鋭い瞳でぐっと睨み付ける。そこで紗栄子は自分の失言に気づいた。


「す、……すみません……」


 すっかり気の滅入った返事を紗栄子がしたところで、千春の携帯に着信が入った。席を外している間に、ある患者の容体が急変したとの知らせだ。


すぐに患者の氏名を尋ねる。

帰って来た名前を千春が受話器越しに繰り返す。


「高垣藤次郎さん……」

「う、うそ……」


 それを聞いた紗栄子はひどく狼狽したようだった。つい今朝まで、冗談交じりに噂していた。『お迎えが近いかもしれない』と。さらに、その患者の悪態に嫌気がさしていた看護婦の『そりゃ助かるわ』という心無い返答。それに首を縦に振って笑ってしまっていた。それがまさか今日、本当に起こってしまったのだから狼狽するのも無理はない。

 一瞬、紗栄子の肩がびくんと跳ね上がる。自分の愚行に気づいたため、千春の視線が痛くなってしまったのだろう。だが千春には、ここで紗栄子を攻めたてているような余裕はなかった。紗栄子もさくらの手を引いて病棟へと急ぐ。



*****



 容体は深刻なようだ。藤次郎は集中治療室へと運ばれていた。治療室は外から中が見えるようになっている。別の治療室は、治療作業が見えないように窓がない。この治療室に窓があるのは、患者の死に目を身内が見逃すことがないようにするため。医療関係者のうちでは、そういうことになっている。さくらには残念だが、それ相応のことが起こるかもしれない。


「先輩、連れて来てよかったんですか?」

「手を引いてきたのはおまえだろ?」

「で、ですけど……。これで、もしものことがあったら……。あたしたち、まるで……死に目に会わせに来たみたいじゃないですか」

「そんなこと言うな、あたしたちだけは最後まで無事を信じていよう」


 千春が先輩としてその言葉を贈ると、紗栄子はそっと小指と薬指で十字をつくり、治療室の窓にむかってかざした。一方、さくらはこっちのひそひそ話が聞こえていないのか、ただぼうっと窓から集中治療室の中を覗いていた。懸命な治療にもかかわらず、藤次郎の脈が弱まっている。一刻一刻、時が過ぎゆくたびに弱っていく彼の姿を見ながら、彼女は回想を巡らしていた。



***



「おじいちゃん、いつもこの木見てるね」

「ほっといてくれ、老いぼれじじいの唯一の愉しみだ。ガキが首突っ込むな」


 桜の木の下。かつてのそこにいたのは、学生服の男女でもない。美男美女の若いカップルでもない。そこで繰り広げられていたのは、淡い告白でも切ない別れでも何でもない。ただの他人同士の老人と子供の戯れだった。


「いつも見てるから、気になっちゃった」

「桜の木を仰ぎ見るしか愉しみがない。独りぼっちでここに捨てられたんだ。憐みなんてむず痒くなるだけだ。わかったら、さっさと、じじい独りだけにしてくれ」

「独りって……、淋しくないの?」


 それもどうやら、年老いて捻くれた頑固爺と察しの悪いくせに口数の多い無邪気な少女と、すこぶる釣り合いのとれない組み合わせらしい。老人は少女の言葉をしきりに突き返し、それでもなお少女は老人にしきりに話しかける。


「なにがだ……? 人間の見舞いなんざいるかっ! 他人を散々稼ぎ馬にしておいて病院にぶち込んだらさっさととんずら。人間なんざそんなもんだっ。誰にでも等しく咲きかけてくれる花みたいな酔狂な人間はどこにもいやしない」

「難しいこと言われても分からないや。でも、あたしもおじいちゃんも一緒なんだね」 


「ガキが何を抜かす。生まれて十年たたないかそこらのやつがわかったような口をきくな」

「あたしも……、お見舞いが来ない時はひとりだもん。病室にいるとすごく淋しくて我慢できなくて、外に飛び出しちゃう。そうしたら、綺麗な花があったり、可愛い猫や鳥がいたり病院は狭い世界だけど、真っ白なだけの病室よりはずっとまし。外の世界には色がある、色がいろいろあるのを見ると淋しさが和らぐ」


「おじいちゃんも……、そう思ってここに来たんでしょ?」


 少女は可憐な笑みを向けた。頬がほの赤く色づいた屈託のない笑みは、どこか目の前の桜の花に似ている。少し悔しくもあるが、自然と心を許してしまいたくなる。


「ふっ、そうだな」


 まだどこか捻くれている老人は、照れ隠しに少女のそれとはかけ離れた鼻にかけた笑みを返す。そこでふたりは互いに約束を交わし合ったのだ。


「あたしが淋しいときは、いつだっておじいちゃんに話しかけるように、おじいちゃんが淋しいって言うなら、あたしはいつでも話しかける。いつでも誰にでも咲いてくれる花が、あたしは好きだから」

「今どきの子供には珍しいな。じゃあ、わしは、すべての花とは言わないが」


「せめて……、この桜だけは、いつまでも咲き続けられるよう、守ってやろうかねえ」


 少女はその無邪気な笑顔にふさわしい綺麗な約束を。老人はしわだらけで歪んだ顔になんとも似合わない約束を。


 だが、ふたつとも綺麗な約束だ。



***



 集中治療室のドアが開き、治療を担当していた医者が中から出てきた。表情には笑顔の色は全くない。三人がわずかながらに握っていた一抹の望みさえ、ついには叶わなかった。

 藤次郎は、十年ほど前にこの病院に初期の痴呆と糖尿病で入院させられた。だが本人の健康状態はいたってよく、痴呆もごく軽いもの。定年したのをいいことに、厄介払いで入院させられたらしい。病院にすべての介護を押し付け、死ぬとわかったときに遺産だけもらいにすり寄ってくるつもりでいる。そんな薄情な家族のもとに置かれていた藤次郎に身寄りが少ないことは、病院関係者も知っていた。


「あの、親族の方は……」

「いえ、伝えはしましたが、いらしてません。あ、親族というわけではないのですが……ひとりだけ身寄りが……」


 千春と紗栄子の背後から、ひとり学生服姿の少女が現れた。さくらだ。


「会わせてくれませんか。約束なんです」


 治療台の上の藤次郎は、もうかろうじて人工呼吸器によって’生かされている’状態だった。機械の力を使って、心臓の鼓動を保つくらいなら何とかできるかもしれない。だがもう、自らの口で話すことはない。もう二度とない。


「おじいちゃん、いや、藤次郎さん」

 

『なんで、なんでやって来た……。約束ひとつも守れなかった……、老いぼれじじいに、今更なんのようだ……』


「せっかく会いに来たのに、またそんなこと言うんですか?」


『へっ、相変わらず捻くれ者でな。これでもまだ頑張った方だぞ。だが頑張っても……。わしは、わしは……、あの桜の木を守ってやることが、できなんだ。すまない。わしは約束を守れなかった、甲斐性無しの老いぼれだ。そんなやつには、ひとりぼっちの死に目がお似合いだろ? わかったら、さっさと帰りな。こんな頑固ジジイのことは忘れてな』


「いっつも、そんなことばっかり言いますね」


 さくらはそっと藤次郎の枕元に歩み寄り、冷たくなった彼の肩にそっと優しく、暖かい手を置いた。


「自分を卑下しないでください。謝ったりなんかしないでください」


「約束守れなかったのは、お互いさまじゃないですか」


「退院した後、すぐに引っ越しがあって、会えなくなって。あたし……だって……、ずっと、おじいちゃんの話し相手になってあげるって、約束だった……のに……、なのにっ」


『家族に捨てられて、真っ白な世界に独りぼっちだったわしに、おまえが無邪気に声をかけてくれたその日から、わしの世界にも色がついたんだ。だから、お前が覚えてくれていただけでも、わしは幸せだ。こうして会えたんだ、そんな顔...しないでくれないか』


 さくらはその顔を見せないために俯けていた。必死に隠そうとしていた。しかし、それも無駄な努力だったようで、藤次郎には見透かされていた。


『なあ、聞きそびれたことがあったんだ。名前は……、何と言った……』


「……羽芝……さくらです」


『さくらか。生意気な……。だけど、いい名前だ。最後に、いや……、また、謝っちまいそうだな。謝るのが駄目だってんなら、代わりにこう言っておこう』



「ありがとよ……」



 最後のその一言だけ、かすかに藤次郎の口が動いたかのような気がした。



*****



 それからしばらくして、病院の花壇の一角に小さな墓が建てられた。この表現は少し語弊がある。なぜならその墓は墓石があるなどという立派なものではない。ましてや、卒塔婆も遺骨も遺影でさえも、そこにはない。あるのは手向けられた花だけだ。


「本当にありがとうございます お花を買っていただいて」


 それを植えたあと、さくらは千春にむかって向き直り、深々とお辞儀をした。さくらと藤次郎のために、千春は花を買ってやったのだ。


「いいって、いいって。それより、力不足ですまなかった」

「謝らないでくださいよ。千春さんは悪くないんですから」


 その花がこの先もずっと咲き続けるように。そう願いを込めながらじょうろで優しく水をやる。そして花の前にしゃがみ込み、今もどこかで自分を見てくれているであろうその人に語り掛ける。


「藤次郎さん、今度の約束は守りましょ。今度は替えっこです。あたしは、この桜がずっと咲き続けていられるように守りますから。藤次郎さんは、ずっと、あたしのこと見守ってくださいね」


「約束ですよ」


 そう念押しすると、花壇に植えられた芝桜の花が、それに頷くようにして優しく、かすかに揺れた。




人情話です。よろしければ感想下さい。

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[良い点] 心が温まる作品で、この作品を最初に拝読した時から私は大好きです。 人の優しさやつながりを感じられますし、時々クスッと笑えるシーンもあって。 笑いと共感、感動のバランスがとても素晴らしいと…
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