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命の次に大切なもの

作者: 北極猿

この小説は企画小説です。「命小説」で検索すると他の方々の作品も読むことができます。

 おれは元来手の早いことで有名な人間である。無鉄砲なので損ばかりしている。小学校の時分、卒業式で気に入らぬ下級生とすれ違った時にはぽかりと一発かましてやった。そのときには体育館が式どころではなくなった。あとになってずいぶん怒られたが後悔はしていない。向こうがこれでお別れだと思ったのかやいやい冷やかすからいけないんだ。この考えは大人になった今も以前変わらない。中学生にも喧嘩は山ほどやった。上級生はおれを見るたび口癖のように気に入らない気に入らないというから、おれの方でも気に入らないと正面きって口にしてやった。当然殴り合いの喧嘩になったが、おれは今まで上級生に負けたためしはない。無論下級生にもだ。負けたのは柔道の先生のみである。だいいち歳がひとつやふたつ違うだけで威張れるんなら大人はみんな偉いということになる。そのくせ教師には反発するんだから中学生とはおかしなものだ。

 無論大人になってもこの気性は治らないから、就職はどこもうまくいかなかった。それで頭を使うのはやめて体をつかうことにした。新聞配達の見習い坊主である。二十歳になって坊主と呼ばれるのも変だが職場は爺さんばかりでみなおれのことをまだ坊主あつかいする。おれの方でも呼び方ぐらい特に気にしないから坊主と呼ばれれば自分のことだと思ってはいと返事をする。ひとつふたつは気に入らないが三十四十が平気とはこれもまた不思議なものだ。

 おれは一人っ子じゃない。よく勘違いされるがおれには年子の妹がある。多恵という名前ではあるが、それほど恵まれてはいない女だ。悪い男にばかり引っかかってこの妹もおれ同様損ばかりしている。女だけに男のおれよりずっと気の毒だ。おれの親父は早くに死んでしまったから、妹の面倒は昔からよくおれが見た。母親はおれと妹を食わせるために年中仕事へ出ていたからなおさらおれと一緒にいる時間が多かった。

 多恵は大学に行かなかったから十八のころにはもう働きに出ていた。おれは大学に行ったが喧嘩が元で退学になった。多恵のよからぬ噂を聞いたのはおれが新聞配達を始めて四ヶ月過ぎたころの話である。また多恵に新しい男が出来たのは知っていたが妊娠するとはまさか思っていなかった。これが騒動の原因である。

 話はおれが大学を辞めた六月から半年ばかり過ぎた話なので冬の話である。読者諸兄はそのつもりでいて欲しい。新宿に働きに出ていたおれは妹の妊娠を知ってすぐ実家に帰った。四ヶ月見ないだけで故郷はなんだか古臭く見えた。今までこんなうら寂れた街に住んでいたのかと少々がっかりしたくらいである。家に帰ると母は嬉しそうだった。なんだかやつれたようにも見える。おれはすぐ妹のことを訊いた。

 「将くんから言わなきゃあの子聞かないのよ」と母は言う。「お母さんは何もわかってないって言うんだから」

 「わかってないって何が」

 「それもわからないじゃないのよさ」と母は迷惑そうな顔をする。「お母さんが何言ったって自分のことはお母さんにはわからないって決めつけてるんだから」

 「ふむ」と自分は言ったが、意味がよくわからない。ただ少々込み入った話のように思える。

 「それで」と自分は言った。「子供は産むの、産まないの」

 「まさか。産ませないわよ子供なんて」

 「産ませないってのはひどいじゃないか」

 「じゃあどうするっていうのよ」と母は頬を少しふくらませた。

 母は気丈な人である。そうして気持ちだけは若いから、わざと子供のように振舞う。おれのように物をはっきりと言う。おれは少し考えを変えて「じゃあ」と言った。「向こうはなんて言ってるの」。

 「向こうって、赤ん坊の父親?」

 「うん」

 「何も言わないわよ。知らんぷり」

 「ええ?」と自分はびっくりして眉をしかめた。

 「子供ができたのは報告したのよ、あの子がね、多恵ちゃんが。でも向こうは知らないって言うじゃない。覚えがないって。多恵ちゃんの方でもはっきりとは断定できないって言うんだもの」

 「馬鹿なやつだ」と自分は思わず正直に口に出してしまった。勿論妹のことである。

 「だからねえ……」と母は憂鬱そうな顔をして頬杖をついた。それから声を幾分落とした。「お母さんもあの子が不憫でしょうがないのよ。これから産む子供の父親がわからないんじゃ話にならないじゃない……ああ嫌だ」

 母がテーブルに突っ伏したからおれは立ち上がって換気扇の前で煙草を飲むことにした。煙草なんて飲むのは馬鹿のやることだとよく柔道の先生は言ったが、妹が不幸なのだから仕方ない。少しでも気を紛らわそうとするのは人間の習性である。プロペラに吸い込まれる煙を見ながらおれはぼんやり仕事のことを考えた。自分が休暇が欲しいと言ったから爺さんたちは無理しておれの穴を埋めてくれているのだ。そう考えると休暇は少ない方がいい。おれは生まれ持っての損な人間ではあるが人に損をさせて嬉しがる卑怯な人間ではない。そういう人間をこらしめて損をする人間だ。

 「よしわかった」とおれは言った。「談判してこよう、これを吸ったら」

 「駄目よ」と背後から母の声が聞こえた。くぐもっているのでどうやらまだ突っ伏しているようだ。

 「どうして」と振り返ると母はゆっくり顔を上げた。

 「あの子が駄目って言うもの。向こうの言い分は正しいんだからって」

 おれは世の中が嫌になった。今から表へ出て唾を吐いて歩き回りたくなった。妹のやったことはたしかに罪である。誰とでも枕を一緒にするのは人間のすることじゃなし、犬や猫のすることだ。だけれども父親でありながら子の始末は勝手にしろという法はない。男のくせに情けないやつだ。妹がそんなやつを庇ってるのかと思うとおれはぷんぷんしてきた。自然と感情も激してくる。今から走って行ってぶちのめしてやりたくなる。一本背負いをしてやりたくなる。おれは乱暴者だが無法者じゃない非道な人間じゃない。愛を知っている。命の次になにが大切かと訊かれれば即座に妹だと答える。家族だと答える。尤も場合によっては命と引き換えたって惜しくはない。結局煙草は最後まで飲まずに排水溝に投げ入れてしまった。それから母にどこだと訊いた。母はおれの顔にびっくりしたのかそれとも声の大きさにびっくりしたのか目を丸にしていたが、やがて「なんのこと?」と子供のような顔で言った。

 「そいつの家さ」

 母は合点がいったものと見えて目をぱちくりさせる。「教えたっていいけど……あんた乱暴するんじゃないでしょうね」

 「乱暴はしない」と鼻息荒くおれは言った。「ただ談判するだけだ」

 「本当にしないのね?」

 「ああ」とおれは言った。


 母に教えられたとおり薬局の裏を通って三軒行った先にバスケット・ゴールのある家があった。表札には春谷と書いてある。なんという風に読むのかしらんと思っていたが、あとから聞くところカスガと読むそうである。名前までどこかいかさまじみている。おれは面倒だから門にあるインターフォンを押さずにずかずかと庭に入ってやった。門から玄関までは飛び石がこしらえてある。庭の芝生には枯れ葉がところどころ落ちている。おれは石について少々くわしいが、この家はデザインばかりで安い石ばかりこしらえている。親の金持ちなのを自慢する人のように卑怯だ。根が卑怯だと家まで卑怯になる。そうして姿恰好だけは普通なのだから世にとっても剣呑だ。ひょっとすると実際の世の中はこんな家ばかりなのかもしらん。

 おれはわざと玄関の戸を乱暴に叩いてごめんと言った。しかし応答がない。さらに強く叩いてごめんごめんと言うが中はしんと静まり返っている。それでもまだ胸のうちはぷんぷんしているから、玄関の周りをうろうろしていると、どこからともなく歌声が聴こえてきた。こりゃどうも素人じゃない、既製音楽のようだ。ふと立ち止まってきょろきょろしながらその歌の出先を探していると、あった、二階である。二階の窓が少し開いていて、そこから音楽が漏れている。やつめ余裕をかましていやがるなと思っていると、その窓に手が掛かって若い顔がぬっと現れた。おれはまずいと思うや否や軒先へ隠れて男の目をやり過ごした。やつが妹の男に違いない。その場に屈んで二階を見上げると、さっきの男は用心深く辺りを見回している。大方訪問者には気づいていたんだろう。わざわざ来た人間がいるというのに面倒だからやり過ごしたんだろう。──成程腐ったやつだ。

 男が元のとおり窓を閉めるとおれは一目散に入り口を探した。と言っても見つかってしまっては逃げられてしまうからこっそりやった。まるで泥棒のようである。そう考えるといい気はしないが、存外悪い心持でもない。おれにも卑怯の才覚が備わっているのかしらん。しかし正義を忘れると父親をこらしめることができんので、それはまた後に考えることにした。今はなによりも男と談判することである。

 五分くらい庭をうろうろしていたが、どうも入り口はなさそうだ。窓もぴしゃりと全室閉まっている。仕方ないから雨どいを逆に伝うことにした。ちょっと物音がするかもしれないが、こうなったら仕方ない。ゴキブリのようにさっさと登って男を捕まえる。そうして妹の前に手をついて謝らせる。謝ってどうなることでもないが──少なくともおれの気はそれで静まる。

 やっと一声、飛びついたはいいが足がすべる。腕がぷるぷると勝手に震える。子供の時分よく木登りはしたものだが、体が大きくなるのと雨どいが細いのとでずいぶん勝手が違う。あやうくすべり落ちそうになる。それで雨どいの胴の部分を股に挟んで尺取虫のように這うことにした。これでずいぶん効率的だ。ちょっと先へ登ればもう屋根に手が届く。そこまで行けば窓にだって手が届く。男にだって──とそこまで考えたところで女の声が聞こえた。今まで聞いた女の声の中でいちばん度肝を抜かれた。さなぎのように体が硬直した。下を見るとハンド・バッグを持った婆さんがおれに向かって「泥棒!」とあらん限りの力で叫んでいる。子供のように地団駄を踏みながらおれの方を一生懸命指差している。おれはまずいと思ったが、体の方が先に動いた。尺取虫を解禁して屋根に飛びつき、ふんと部屋の上へ首を出して瓦に這いつくばりながら窓をこじ開けた。窓の住人は何が起こったかわからず固まったようにおれを見ている。おれは思わずにやにやしてしまった。──我ながら気持ちの悪い笑みだったと思う。とうとう捕まえたという喜びと泥棒よばわりされた焦りがいっしょくたになって発生した笑みである。気持ちのいいはずがない。

 すぐに「おれは多恵の兄貴だ」とおれは名乗った。恰好こそつかないが、威勢のいい声で言ったんだ、向こうは縮み上がったように「あ……」と両眉をハの字にした。気持ちより先に体が観念したんだろう、ため息のように乏しい声だった。見ると女のように軟弱そうなやつである。体の線は細いし、顔も真っ白だ。柔よく剛を制するという諺もあるが柔と弱は似て非なる字だ。男の顔を見るとおれはまたぷんぷんしてきて、「あいつに説明しろ!」と怒鳴った。それから部屋に土足で上がって手近のくずカゴを思い切り蹴飛ばしてやった。母に言われたことはすっかり忘れてしまった。

 「あの、あいつって……」

 「外にいるやつだ。婆さんにおれは泥棒じゃないと説明しろ。おれは談判しに来ただけなんだ」

 蹴飛ばしておいて談判もないと思ったが、おれは真面目な顔でどすんと腰を下ろした。男はおどおどした様子で──いきなり殴られはしないかとでも思ったんだろう──おれのそばを通ると窓へ行き、蚊の鳴くような声でこの人は知り合いです大丈夫ですと説明した。それじゃ聞こえないだろうと叱ると、今度は今にも泣きそうな声で同じように説明した。反応がないところを見ると婆さんは納得したんだろう、おれは男に自分の前へ正座するよう言った。

 おれの悪いところは興奮し出すとまったく物が言えなくなることにある。話しながらちんぷんかんぷんになる。自分が何を言っているのかわからなくなる。なので一分くらい男を睨むことにした。男は基本うつむいてはいるが、時々目玉だけを動かして怯えたようにおれを見る。男があんまりにもしょげかえっているので気の毒にも感じたが、妹のことを思い出すとまた憎らしくなった。しかしいつまでも睨んでいるわけにはいかないのでおれは口を切った。

 「どうしてやったんだ」とおれは言った。これもあまり要を得ていないようだ。

 「どうして……」と男は口の中でつぶやいた。

 「おまえが子供の父親なんだろう」

 男は黙っていたが、やがて小さく肯いた。それからしくしく泣き始め、すみませんすみませんと独り言のようにつぶやいた。「悪いと思ってるのか」とおれが訊くと、男は「はい思っています、すみませんでした……」と泣きながら言う。──それから一・二分過ぎた。男はまだ泣いている。泣き止む様子もない。おれは何か言ってやりたいが、罵倒するなり叱るなりしてやりたいが、元来の気性なのかこういうときに限って適当な言葉が出てこない。山ほどあった憎しみも男の哀れな姿を見たあとではどこ吹く風だ。おかしいものである。おれは仕方がないからじゃあもういいと言った。許しはしないが、怒りもしない。その代わり妹の前に手をついて謝れ。子供を堕ろすことになったら費用を負担しろ。金輪際妹には決して近づくな。──これだけ言ってしまうとおれはもう男がさっぱり憎くなくなった。ただ哀れなだけである。竜頭蛇尾とはまさにこのことだ。仕舞いには男の今までの気苦労すら考えてしまった。かわいそうだから部屋を出る前にくずカゴのくずだけを集めて元の通り戻してやった。

 それから家へ帰るあいだは良い心持がした。急に故郷が愛おしくなった。子供のころの妹の顔がお兄ちゃん遊んで遊んでとおれに向かって微笑んでいる。家の方角では林が夕暮れを背負って黄金色に輝いている。鼻から空気を吸い込むと懐かしい匂いがする。東京に帰るのが急に嫌になった。母はおれが帰ってくるなり玄関までのしのし足音を立てながら、どうなったんだいとせわしなく訊いた。おれがありのまま伝えると、「やっぱり……」とつぶやいたぎり何も言わない。台所へ茶を入れに行ってしまった。母もわかっていたんだろう、わかっていて行かせたんだからやっぱり罪だ。やっぱり親子だ。妹が仕事から帰って来るとおれは男の家に行った事情と話したことを漏れなく伝えて、それから妹を叱った。そして妹に子を産む気があるのかどうかを訊いた。その日に答えはでなかったが、明くる日食卓で顔を合わすと産むと言った。うんやっぱり命は大事さとおれは答えた。


 次の日仕事には戻ったがやっぱり辞表を出すことにした。おれは間違ったことをしたつもりはないが、それでも泥棒まがいのことをしたことはたしかである。懲役に行っても致し方のない身である。そんな人間が働いていたとなっては爺さんたちも迷惑だろう。もう坊主と呼ばれないのはなんだか少し寂しいようでもあるが、故郷がまた好きになったので心持は悪くない。後日穴埋めの礼に相撲の席を爺さんたちに送ってやった。向こうで貯めた金はそれぎりである。元から使う予定もないから別段それでかまわない。

 妹の相手は翌日包みを持って我が家に現れたそうである。子供を堕ろすにしろ堕ろさないにしろ金三十万円払うそうである。産むにあたっては養育費を月々五万円払うそうである。ちゃんと親子共々畳みに手をついて謝ったそうだ。世もまだ捨てたものじゃない。捨てると決めるのは人の謝ることができなくなったときだ。しかしその後故郷に帰っておれのことを何か言ってたかと妹に訊いたがいいえ何もというので、おれは却って少し怯えている。あれだけのことをされて何か一言あってもいいようだ、おれも謝りに行こうかしらん。──ただ今のところはこうして懲役に行かず済んでいる。煙草の量は少し増えたようだ。

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[一言] 出だしの一文から最後まで、楽しく読ませて頂きました。 僕は本を読むのが億劫な人間であまり純文学は好みません。それでも良い作品は読まされてしまう物なんだと知っています。一貫性のある人間の行動か…
[一言]  坊ちゃんは殆ど読んだことがなかったのですが、拝読しました。  とても読みやすく、かなりぎっちりと書かれた文章なのに全く苦ではありませんでした。主人公がタバコを吸う理由など、文章にちりばめら…
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