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王立学院の推薦状を妹に譲れと言われました。では、入学資格の署名欄は白紙で提出いたします

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/29

 王立学院から届いた封筒は、朝の光を受けて、淡い金色に輝いていた。

 厚手の白い封筒。

 表には、王立学院特別研究科の紋章。

 裏には、封蝋で押された王冠と羽根ペンの印。

 私はそれを両手で受け取った瞬間、胸の奥が小さく震えるのを感じた。

 十年間、夢見てきた場所だった。

 王立学院。

 貴族の子女が教養を学ぶだけの場所ではない。優秀な者は、家格に関係なく研究科へ進み、王宮の各局へ推薦されることもある。

 その中でも特別研究科は、法律、財務、教育文書、古文書管理を扱う難関課程だった。

 私はずっと、そこへ行きたかった。

 家のためではなく、父のためでもなく、誰かに褒められるためでもない。

 自分の名前で、自分の学んできたことを証明したかった。

「お嬢様」

 侍女のアンナが、私の後ろでそっと声を弾ませた。

「開けてみませんか」

「ええ」

 私は小さく頷き、封蝋を崩さないように封筒を開けた。

 中には、三枚の書類が入っていた。

 一枚目は、合格通知。

 二枚目は、特別研究科入学資格確認書。

 三枚目は、推薦状の写し。

 そこには、はっきりとこう記されていた。

 セシリア・ローウェン伯爵令嬢。

 王立学院特別研究科、教育文書監査課程への入学を認める。

 私は文字を目で追い、ゆっくりと息を吐いた。

 落ち着いているつもりだった。

 けれど指先は少し震えていた。

「おめでとうございます、お嬢様」

 アンナが目を潤ませた。

「本当に、本当におめでとうございます」

「ありがとう、アンナ」

 私は微笑んだ。

「まだ入学手続きが残っているわ。推薦者署名、本人署名、保護者署名、それから王宮教育監査官の確認署名。全部そろって、初めて正式な入学許可になるの」

「それでも、合格は合格です」

「そうね」

 私は書類を胸に抱いた。

 そのとき、廊下の向こうから軽い足音が聞こえた。

 ノックもなく扉が開く。

「お姉様、合格したんですって?」

 入ってきたのは、妹のミーナだった。

 淡い水色のドレスに、真珠の髪飾り。いつも父と継母が選んでくれる、最新流行の装いだ。

 私が試験勉強をしている間、ミーナは舞踏会や茶会に通っていた。

 彼女は私の手元の書類を見ると、無邪気な声で笑った。

「すごいわ。王立学院の特別研究科なんて。さすがお姉様」

「ありがとう」

「でも、ちょうどよかった」

 私は眉を上げた。

「ちょうどよかった?」

「ええ。お父様とお母様がお呼びよ。食堂へ来てくださる?」

 ミーナはにこにこと笑っていた。

 その笑顔に、私は嫌な予感を覚えた。

 食堂へ行くと、父と継母がすでに席についていた。

 父、ローウェン伯爵。

 継母、ヘレナ。

 テーブルの上には、私のためではなく、ミーナのために用意されたような甘い菓子が並んでいる。

 父は私を見るなり、満足そうに頷いた。

「セシリア、合格したそうだな」

「はい。王立学院特別研究科より、合格通知をいただきました」

「うむ。よくやった」

 珍しく褒められた。

 けれど、その声に温かさはなかった。

 父はすぐに本題へ入った。

「その推薦状を、ミーナに譲りなさい」

 食堂の空気が、一瞬止まった。

 私は聞き間違えたのかと思った。

「……今、何とおっしゃいましたか」

「推薦状を、ミーナに譲れと言った」

 父は当然のように繰り返した。

 継母が優しく微笑む。

「セシリア、あなたは頭がいいでしょう? 来年また受ければいいわ。でもミーナは今年、社交界で良い縁談を探さなければならないの。王立学院に籍があれば、格が上がるでしょう?」

 私は手の中の書類を見下ろした。

「王立学院は、縁談の飾りではありません」

「そんな堅いことを言わないで」

 継母は困ったように首を傾げた。

「入ってしまえば同じでしょう? 名前を書き換えるだけなのだから」

「名前を書き換えるだけ、ですか」

「そうよ。推薦状は伯爵家に届いたものなのだから、家の中で誰が使っても問題ないでしょう」

 ミーナが父の隣に座り、期待に満ちた目で私を見た。

「お姉様、お願い。私、王立学院に行ってみたいの。特別研究科って、響きが素敵だもの」

「研究内容は知っているの?」

「ええと……文書? 監査? そういう、難しいものよね。でも大丈夫。入ってから家庭教師をつけてもらうわ」

 私は静かに息を吸った。

 怒鳴りたくはなかった。

 泣きたくもなかった。

 ただ、目の前にあるもののあまりの軽さに、心が冷えていく。

「お父様」

「何だ」

「王立学院特別研究科の推薦状は、家の招待券ではありません。推薦者、本人、保護者、王宮教育監査官の四者署名がそろって初めて効力を持つ正式書類です」

「だから、その本人欄をミーナに書き換えればよい」

「できません」

「なぜだ」

「推薦者は、私の試験結果と研究提出物を見て、私を推薦しています。ミーナではありません」

 父の眉間に皺が寄った。

「セシリア。家に逆らうのか」

「逆らうのではありません。制度を説明しているだけです」

「屁理屈を言うな」

 継母がため息をついた。

「セシリア、あなたは本当に融通が利かないわね。だから社交界で可愛げがないと言われるのよ」

 ミーナが困ったように眉を下げる。

「お姉様、私のために少しくらい譲ってくれてもいいじゃない」

「少しくらい?」

「だって、お姉様はまた勉強すればいいでしょう? 私は今が大事なの。今、王立学院の肩書きが必要なの」

 私はミーナを見た。

「研究したいことがあるわけではないのね」

「そんなの、入ってから考えるわ」

「では、入学資格は満たしていないわ」

「お姉様!」

 ミーナの声が少し鋭くなった。

「いつもそう。自分だけ正しいみたいな顔をして」

 父が机を叩いた。

「もうよい。セシリア、推薦状を出しなさい」

「お断りします」

「セシリア!」

「お父様」

 私は父をまっすぐ見た。

「この書類は、私個人に届いたものです」

「お前はローウェン家の娘だ」

「はい。ですが、合格したのは私です」

「誰のおかげで勉強できたと思っている」

「亡き母の遺産で雇った教師のおかげです」

 父の顔色が変わった。

 継母の笑みが凍る。

 私は続けた。

「王都の下宿代も、受験料も、書籍代も、母が私に残した教育信託から出しています。ローウェン家の家計からは出ておりません」

「それは家の金だ」

「いいえ。信託証書に、受益者はセシリア・ローウェンと記されています」

 父は唇を引き結んだ。

 継母が慌てて口を挟む。

「セシリア、そんなことを言うものではないわ。家族でしょう?」

「家族なら、私の名前を妹のものに書き換えようとはしません」

 ミーナが泣きそうな顔になった。

「ひどいわ、お姉様。私が恥をかいてもいいの?」

「不正な推薦状で入学しようとする方が、よほど恥です」

「セシリア!」

 父が立ち上がった。

「お前には失望した。保護者署名はしない」

 その言葉に、アンナが息を呑んだ。

 私は父を見上げた。

「そうですか」

「保護者署名がなければ、お前は入学できまい。分かったら推薦状をミーナへ渡せ」

 父は勝ち誇ったように笑った。

 継母も安堵した表情を浮かべる。

 ミーナは涙を拭きながらも、どこか期待した目で私を見ていた。

 私は合格通知をそっと揃えた。

「分かりました」

 父が満足そうに頷く。

「ようやく聞き分けたか」

「はい。では、保護者署名欄は白紙で提出いたします」

 父の表情が固まった。

「……何?」

「推薦状と入学資格確認書を、本人署名のみ記入し、保護者署名欄は白紙のまま王立学院へ提出します」

「そんなもの、受理されるわけがないだろう」

「受理されます。未署名理由書を添えれば」

 継母が声を尖らせた。

「未署名理由書?」

「保護者が、合格者本人ではなく別人への推薦状転用を求めたため、署名を拒否された。そのため、本人より王宮教育監査官の確認を求める。そう記載します」

 食堂が静まり返った。

 父の顔から血の気が引いていく。

「セシリア、お前……何を言っているのか分かっているのか」

「はい」

「それは、家を告発するようなものだぞ」

「告発されて困ることをなさらなければよかったのではありませんか」

「お前は娘だろう!」

「娘です。だから十年間、黙って勉強してきました」

 私は書類を胸元に抱いた。

「でも、私の名前まで黙って差し出すつもりはありません」

 父は私を睨みつけた。

「出ていけ」

「はい」

「その書類は置いていけ!」

「置いていきません。これは私宛の正式書類です」

 私は一礼し、食堂を出た。

 背後でミーナの泣き声が聞こえた。

 継母の慰める声。

 父の荒い怒声。

 そのすべてが遠くなる。

 部屋に戻ると、アンナが扉を閉め、震える声で言った。

「お嬢様、本当に白紙で提出なさるのですか」

「ええ」

「ですが、王宮教育監査官が動けば、伯爵家は……」

「困るでしょうね」

「よろしいのですか」

 私は机の上に書類を広げた。

 本人署名欄に、羽根ペンを置く。

 セシリア・ローウェン。

 その名を、ゆっくりと書いた。

「私は、何も偽らないわ」

 保護者署名欄は白紙のまま。

 その横に、未署名理由書を添える。

 推薦状の転用要求。

 署名拒否。

 本人による監査申請。

 ひとつひとつ、事実だけを書く。

 感情は書かない。

 恨みも書かない。

 ただ、いつ、誰が、何を言ったのか。

 何を求め、何を拒んだのか。

 それだけを整えて記す。

「アンナ」

「はい」

「これを、王立学院の文書受付に速達で届けて」

「承知しました」

「それから、母の教育信託の写しも添えて。私の学費がローウェン家の会計から出ていないことを確認できるように」

「はい」

 アンナは書類を大切そうに抱えた。

 扉を出る前に、彼女は振り返った。

「お嬢様」

「何?」

「私は、お嬢様のお名前が一番ふさわしいと思います」

 私は少しだけ笑った。

「ありがとう」

 翌日の午後、王立学院から使者が来た。

 濃紺の制服を着た若い事務官だった。

 彼は父の執務室で、淡々と書類を読み上げた。

「王立学院特別研究科入学資格確認書、保護者署名欄未記入の件につきまして、王宮教育監査官の立ち会いのもと、確認聴取を行います」

 父は笑みを作った。

「いや、これは家庭内の些細な行き違いでして」

「推薦状の別人転用要求があったと記載されています」

「娘の誤解です」

 事務官は表情を変えなかった。

「では、その点も含めて確認いたします」

 継母が横から言った。

「セシリアは昔から思い込みが激しい子なのです。ミーナが羨ましくて、少し大げさに」

「では、推薦状をミーナ様名義に書き換えようとした事実はない、ということでしょうか」

 継母が口を閉じた。

 父は咳払いをした。

「書き換えるというほどではない。家の中で調整しようとしただけだ」

「王立学院の推薦状は、家内調整の対象ではありません」

 事務官の声は静かだった。

 父の頬が引きつる。

「それから、もう一点確認がございます」

「まだ何か」

「セシリア様の提出研究物についてです」

 私は執務室の端に立っていた。

 その言葉に、胸がわずかにざわついた。

 事務官は鞄から数枚の写しを取り出す。

「今回、特別研究科の合格審査において、セシリア様が提出された論文『地方貴族家における教育記録の不備と相続紛争の関連性』が高く評価されました」

 父は初めて聞いたという顔をした。

 継母もそうだった。

 ミーナだけが、どこか気まずそうに目を逸らした。

 事務官は続ける。

「しかし、審査過程で、過去に王都教育会へ提出された類似研究が確認されました。提出者名は、ミーナ・ローウェン様」

 空気が変わった。

 父がミーナを見た。

「ミーナ?」

 ミーナは慌てて首を振った。

「私、知らないわ。お母様が、良い作文だから出しておくって」

 継母の顔が真っ白になった。

「ミーナ!」

「だって、私は本当に知らなかったもの!」

 私は静かに目を閉じた。

 やはり、そうだったのか。

 二年前、私が教育記録についてまとめた草稿が消えたことがあった。

 探しても見つからず、私は記憶を頼りに書き直した。

 その後、ミーナが王都教育会で褒賞を受け、継母がとても喜んでいた。

 あのとき、少しだけ疑った。

 けれど証拠がなかった。

 事務官は、淡々と続ける。

「王立学院では、提出物の筆跡、草稿履歴、引用記録、参考文献の貸出記録を照合いたしました。その結果、過去にミーナ様名義で提出された研究物の一部に、セシリア様の草稿との一致が認められました」

 父は椅子から立ち上がった。

「何だと……」

 継母は震えながら言った。

「そんな、子供の作文でしょう? 家族の中で少し手伝っただけで」

「名義を偽って公的な教育会へ提出した場合、教育記録不正に該当する可能性があります」

 事務官は父を見た。

「王宮教育監査官より、ローウェン伯爵家に対し、過去五年分の教育記録、家庭教師契約書、研究提出物の原稿、褒賞記録の提出を求めます」

「待ってくれ!」

 父の声が裏返った。

「そこまでする必要はないだろう。これは家族間の」

「王立学院特別研究科への不正入学未遂、および教育記録不正の疑いです。家族間の問題ではありません」

 ミーナが泣き始めた。

「お父様、私、知らなかったの。お母様が、セシリアお姉様の文章は家のものだから使っていいって」

 継母が叫んだ。

「ミーナ、黙りなさい!」

 父が継母を睨む。

「ヘレナ、本当なのか」

「私は、家のために……ミーナのために……!」

「セシリアのものを、勝手に使ったのか」

「だって、あの子はどうせ地味で、社交界では役に立たないでしょう! ミーナに箔をつけた方が家のためになると思ったのよ!」

 その言葉で、すべてが終わった。

 父は力なく椅子に座り込んだ。

 ミーナは泣き崩れた。

 継母は自分の発言に気づいたのか、唇を押さえた。

 事務官は表情を変えず、記録を取っている。

「確認いたしました」

 私は、黙ってその場に立っていた。

 怒りはあった。

 悲しみもあった。

 けれど一番強かったのは、奇妙なほどの静けさだった。

 やっと、名前が戻ってくる。

 誰かに取られ、飾りにされ、都合よく使われた私の成果が。

 私の名の下へ。

 数日後、王宮教育監査官による正式な調査が始まった。

 ローウェン家の教育記録は、想像以上にひどいものだった。

 私が受けた授業の成果が、ミーナの記録に移されていた。

 私が翻訳した古文書の写しが、ミーナの課題として保管されていた。

 私の研究草稿が、継母の指示で何度も書き写されていた。

 家庭教師の一人は、涙ながらに証言した。

「奥様から、セシリア様は長女だから家に尽くすのが当然だと言われました。ミーナ様の記録に回せと……逆らえば契約を切ると」

 父は調査が進むにつれ、何も言わなくなった。

 彼は知らなかったのだろう。

 いいえ。

 知ろうとしなかったのだ。

 私が夜遅くまで書き物をしていても。

 ミーナが突然、読んでもいない本について褒賞を受けても。

 継母が私の机から草稿を持ち出しても。

 父は何も見なかった。

 その結果、ローウェン伯爵家は王立学院への推薦関与を三年間停止された。

 ミーナの過去の褒賞は取り消し。

 継母は教育記録不正に関与したとして、王都教育会から除名。

 父は保護者としての監督不備を厳しく問われ、王宮から正式な注意を受けた。

 そして私には、王立学院から新たな通知が届いた。

 王宮教育監査官の確認により、保護者署名なしでの入学を認める。

 加えて、教育文書監査課程への特別奨学生として推薦する。

 私は通知書を読んで、しばらく動けなかった。

 アンナが隣で泣いていた。

「お嬢様……よかった、本当に」

「ええ」

 私は小さく頷いた。

「やっと、行けるわ」

 その日の夕方、父が私の部屋を訪ねてきた。

 彼が私の部屋に来るのは、何年ぶりだろう。

 父は扉の前で立ち止まり、疲れ切った顔で言った。

「セシリア。少し話せるか」

「はい」

 彼は部屋に入ると、机の上の本を見た。

 教育法典。

 古文書管理規則。

 王宮監査事例集。

 父はそれらを、初めて見るもののように眺めた。

「お前は、こんなに勉強していたのだな」

「はい」

「私は……知らなかった」

「そうですね」

 父は苦しげに眉を寄せた。

「すまなかった」

 私は彼を見た。

 その謝罪を、ずっと待っていたのかもしれない。

 けれど、いざ聞いてみると、胸はほとんど動かなかった。

「お父様」

「何だ」

「謝罪は受け取ります」

 父の顔に、わずかに希望が浮かんだ。

「では」

「ですが、私は予定通り王都へ出ます。入学後は学院寮に入ります」

「家から通えばいい。今度こそ、支援する」

「結構です」

「セシリア」

「お父様は、私の推薦状を妹に譲れとおっしゃいました」

 父は唇を噛んだ。

「それは……」

「保護者署名を盾に、私の進路を奪おうとなさいました」

「間違っていた」

「はい。間違っていました」

 私は穏やかに言った。

「だからこそ、もう私の進路に保護者として関わっていただく必要はありません」

 父は何も言えなかった。

「教育信託は、学院卒業までの費用をまかなえるようになっています。寮費もそこから支払います。王立学院から奨学金もいただけることになりました」

「お前は、私を父と思っていないのか」

「思っています」

 私は答えた。

「だから、残念なのです」

 父の目が揺れた。

「父なら、一度くらい、私の名前を守ってほしかった」

 静かな沈黙が落ちた。

 父は深く頭を下げた。

 けれど私は、それ以上何も言わなかった。

 入学式の日。

 王立学院の正門は、白い石造りの塔に囲まれていた。

 青い旗が風に揺れ、噴水の水音が朝の空気に響く。

 私は学院の制服に袖を通し、手元の入学資格確認書を見た。

 推薦者署名。

 本人署名。

 王宮教育監査官確認署名。

 そして、保護者署名欄は白紙。

 だが、その横には赤い確認印が押されている。

 未署名理由確認済。

 本人資格有効。

 私はその印を見て、少しだけ笑った。

 白紙だった場所は、空白ではなかった。

 私が誰かに奪われなかった証だった。

 講堂へ向かう途中、濃紺の制服を着た青年が声をかけてきた。

「セシリア・ローウェン嬢ですね」

「はい」

「私は王宮法務局教育文書監査室の補佐官、アルヴィン・グレイスです」

 王宮法務局。

 私は背筋を伸ばした。

「監査室の方が、私に何のご用でしょうか」

「あなたの未署名理由書と、教育記録不正に関する整理文書を拝見しました」

「不備がありましたでしょうか」

「いいえ。非常に正確でした。感情を交えず、事実、時系列、証拠の所在が明確にまとめられていた」

 彼は少し微笑んだ。

「学院での学びが始まったばかりの方に言うことではないかもしれませんが、卒業後、教育文書監査室に来る気はありませんか」

 私は驚いた。

「私が、ですか」

「はい。名義を奪われた経験のある人間は、記録の重さを知っています」

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 記録の重さ。

 名前の重さ。

 白紙にされた欄の意味。

 私はずっと、それを守りたかった。

「ありがとうございます」

 私は深く一礼した。

「今はまず、学びたいです。誰の名前でもなく、私自身の名前で」

「それが一番です」

 アルヴィン補佐官は頷いた。

「では、いずれまた」

 彼が去ったあと、アンナが私の荷物を抱えながら、目を輝かせていた。

「お嬢様、王宮法務局ですって」

「まだ先の話よ」

「でも、きっとお似合いです」

 私は笑った。

「そうかしら」

「はい。お嬢様は、書類で人を泣かせるのではなく、書類で人を守る方ですから」

 私は少しだけ足を止めた。

 書類で人を守る。

 それは、私がずっと望んでいたことかもしれない。

 名前を書き換えられそうになったとき。

 保護者署名欄を白紙で出したとき。

 母の教育信託を確認したとき。

 研究草稿の筆跡を示したとき。

 私は誰かを傷つけたいわけではなかった。

 ただ、奪われたものを、正しい場所へ戻したかった。

 講堂の扉が開く。

 新入生たちの声が広がる。

 私は入学資格確認書を鞄にしまい、前を向いた。

 白紙の欄は、私を止めなかった。

 むしろ、その空白があったから、私は知ることができた。

 誰かが署名してくれなくても。

 誰かが認めてくれなくても。

 事実を整え、証拠を残し、自分の名前を書けば、道は開けることがある。

 父が守らなかった署名欄。

 継母が奪おうとした研究。

 妹に譲れと言われた推薦状。

 そのすべてを越えて、私はここにいる。

 私はセシリア・ローウェン。

 王立学院特別研究科、教育文書監査課程の新入生。

 そしていつか、誰かの名前が不当に消されそうになったとき。

 その欄を、正しい手で守る者になる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


名前や署名は、ただの文字ではなく、その人が積み重ねてきたものを守るための証でもあります。

セシリアが自分の名前で未来へ進んでいく物語として、楽しんでいただけましたら嬉しいです。


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評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。


王宮法務局を舞台にした連載

『王太子に捨てられたのではありません。私が法で婚約を終わらせたのです――元婚約者の私、王宮法務局で第二王子に重用されています』

も更新中です。


記録と法で、自分の人生を取り戻していくお話です。

よろしければ、そちらもお付き合いください。

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