私にとっての論理的整合性とは
最近、私の書いたエッセイには、人間のエゴやノイズが足りないとAIから分析された。
それが足りないから、淡々とした冷たい印象になるらしい。
その指摘を受けて、「そもそも、私はなぜ論理的整合性にこだわるのか?」という疑問が湧いた。
それについては、まったく考えてこなかった。
私の状況を整理し、関係してそうな要素をピックアップしてみると、「変な問題を見つける」、「大学にいけなかった」という2つの要素が見つかった。
「変な問題を見つける」というのは、臭いと水溜りの変色から下水道管の腐食を見つけたり、現代の制限なき自由を擁護してしまう誤った自由論の問題や、転売問題における公平な観察者を欠いたアダム・スミスへの死体蹴りなど。
「個人では解決できない問題を見つける癖」のことを言う。
「大学にいけなかった」というのは、大学に行きたかったが、パーソナリティ障害者の両親から逃れるために、実質的に16歳で家を出ていたという話だ。
つまるところ、私は大学で学んでいないために、「問題を提起し、解決する」といった教養が身についていない。
だから私は、論理的整合性にこだわる。
感情を廃した文章で、かつ論理的にある程度の整合性があれば、そういった問題に関心があり、教養がある人間の目に止まるかもしれないからだ。
「教養なき私が見つけた問題を、社会に提示するために感情を廃し、論理的整合性にこだわる。」
つまり、私にとっての「論理的整合性」とは、教養なき私が見つけた問題を、社会に提示するときに着るドレスコードのようなものである。
【あとがき】
感情が多く入った文章は、社会を見る限り、問題の提示として不十分らしい。
私は、「臭いと水溜りの変色から下水道管の腐食を見つけた」と言った。これは実際にその通りだったようで、その場所では下水道管の補強工事が行われる。
下水道管の腐食を見つけたとき、国土交通省にメールで通報した。
そのときに、自分の感情ではなく、事実に則した内容を書く必要が強くあると考えた。
「人通りの多い場所で、陥没の危険性がある」と感じていたために、必ず担当者の目に止まってほしかった。
個人の不安や私情を多量に交えた話では、「よくある通報」として、流されてしまうかもしれない。
(担当者が不真面目と言っているわけではない。人間の脳機能の観点から、脳のバグの話をしている。)
だから、「晴天時に臭いがキツくなること」と「数年前から、雨が降ると必ず、特定の場所にオレンジ色の水溜りができる」という具体性と危険性を訴えた通報を行った。
もし私が、「クサイ臭いがして、道路が陥没しないか心配です」と通報していたら、担当者はその訴えを拾ってくれただろうか?
たぶん、スルーされていた、と私は思う。
だから私は、問題の提示を行うときには、論理的整合性というドレスを身にまとう。場合によっては、人の命が失われるかもしれないからだ。
このドレスはみすぼらしいものなのか?
そもそも「ドレス」と言えるのか?
上手く着こなせているのか?
そういった疑念は相変わらず消えないが、それでも信じて進み続けようと思う。




