第8話 静かな庭に、もうひとり
室内庭園には、やわらかな光と穏やかな気配が満ちていた。
芝の上では小さな動物たちが思い思いに集まり、セラフィーナはすでにその輪の中にいた。
膝に乗ってきた獣を撫で、近くへ寄ってきた気配に小さく笑う。
その姿は、王城の姫ではなく、ただ年相応の少女そのものだった。
――庭という場所が、彼女を「戻している」
少し離れた位置で、エインは護衛としての距離を保ったまま立っていた。
視線は周囲を警戒しつつも、エインはひとつ頭を悩ませていた。
しばらく考え込んだあと、エインは静かに口を開く。
「……セラフィーナ姫殿下」
呼ばれ、セラフィーナは顔を上げる。
「なんでしょう、エイン様?」
その呼び方に、エインの眉がほんのわずかに動いた。
無礼にならぬよう、言葉を選びながら低く、慎重に続ける。
「ひとつ……お願いがございます」
「お願い?」
「はい。姫殿下が、僕のことを様付けで呼ばれるのはお控えください」
一度、言葉を切る。
「主従の立場が、外から見て分かりづらくなってしまいます。それに、私が無理にそう呼ばせているように受け取られる可能性もございます」
護衛騎士として。
王族の姫に仕える者として。
それは、看過できないことだった。
「ですので……どうか、僕のことはエインと呼んでいただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
セラフィーナはきょとんとしたあと、ふわりと、やわらかく笑った。
「じゃあ、エインと呼ぶからあなたも気軽に呼んで。セラフィーナ姫殿下って、長くて呼びづらいでしょう? 気安く呼んでくれてもいいのですよ?」
思いがけない提案に、エインはわずかに動揺を見せる。
「で、ですが、それでは不敬になってしまいます」
「でも、姫殿下って堅苦しくて嫌ですし……」
そう言うと、セラフィーナは少しだけ考えるように視線を落とす。
そして、悪戯を思いついた子どものように、小さく微笑んだ。
「……では、ほかの人の目が気になるならふたりきりのときは短く呼んでちょうだい。わたくし、気軽に話せる存在がほしかったの」
その言葉は、命令でも強制でもなかった。
ただ、そばにいる者としての素直な願い。
エインは息を整え、静かに頭を下げる。
「……承知いたしました。では、周りに人がいるときはセラフィーナ様。二人のときはフィーナ様と呼ばせていただきます」
「えぇ、それでいいわ」
敬語は崩さず、けれど、胸の奥に残る感情は確かに変わっていく。
庭園に満ちる穏やかな空気の中で二人の距離は、ほんのわずかに縮まっていた。
***
芝の間を跳ねる小さな影に、エインはふと視線を走らせた。
彼の目には、この庭にいる生き物たちが、二種類に分かれて見えていたからだ。
「セラフィー……フィーナ様」
呼びかけながら、わずかに言葉が詰まる。
その呼び名に、まだ慣れていないからだ。
セラフィーナは気づいた様子もなく、動物たちの背をそっと撫でている。
「なんでしょう、エイン?」
「この庭には、動物と魔動物の両方がいるのですね」
「そうなの?」
エインはセラフィーナの言葉に頷くと説明を始めた。
「はい。動物は、生まれつき魔力を持たない存在です。鳥や小獣の多くが、こちらに当たります」
セラフィーナは、膝元の小さな獣を見下ろしながら、ふむ、と小さく頷いた。
「一方で、魔動物は生まれつき魔力を宿していたり、突然変異によって魔力を持つようになった存在です。また、魔力によって火や水などを生み出す力があります」
次にセラフィーナは、耳の長い獣や羽根の色が微妙に光を帯びた鳥へ視線を向ける。
「魔力を持つぶん、種類によっては凶暴化するものもおります」
その言葉に、セラフィーナは少しだけ目を見開いた。
「でも……この子たちは、とてもおだやかよ?」
「はい」
エインは即座に肯定した。
「この庭にいる魔動物には、その兆候は一切ありません。護衛騎士として見ても、危険性は感じませんでした」
そう告げながら、エインは内心でほっと息をつく。
王女のすぐそばに、万が一の危険があることだけは、決して許されないからだ。
そう続けてから再び、エインは庭を見渡した。
草の上を跳ねる獣や、枝にとまる鳥の中には、どこか普通とは違う姿のものがいる。
「さらに魔動物は、見た目にも違いが現れることがあります」
翼を広げた一体のうさぎに、視線を向けて言う。
「本来、羽を持たないはずの種に翼が生えていたり、角や尾の形が異なっていたり……魔力が、身体のつくりそのものに影響を及ぼすのです」
セラフィーナは興味深そうに目を輝かせた。
「まあ……じゃあ、見た目でわかることもあるのね」
「はい。ただし、すべてではありません」
エインは静かに首を振る。
「中には、外見だけでは判別できない魔動物もいます。そうした存在は、魔力の流れや気配で見分けることになります」
言いながら、無意識に周囲へ注意を巡らせる。
だが、この庭にいる魔動物たちは、どれも穏やかな魔力をたたえていた。
「この庭の魔動物は、どれも人に慣れており、攻撃性も見られません」
護衛としての判断を、きっぱりと告げる。
「フィーナ様のそばにいても、問題はないでしょう」
その言葉を聞いて、セラフィーナはそっと微笑んだ。
いつも仲良くしている子たちが認められた気がして、親のように誇らしい気持ちになったらからだ。
「午後からの勉学で、いずれ詳しく学ばれる内容ですが、予習も兼ねてひとつ賢くなられたと思いますよ」
セラフィーナは顔を上げ、嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。エインが教えてくれると、なんだか楽しいわ」
その言葉に、エインは一瞬だけ表情が和らぐ。
庭の穏やかな空気の中で、護衛騎士としての緊張が、わずかにほどけていくのを感じながら。
「では、アウラも魔動物の類いなのかしら? ほかの子たちと比べると少し神秘的ですし……」
「え?」
セラフィーナはアウラがいる方へ目線を向けたがエインは首を傾げている。
「……いえ、なんでもありませんわ」
そう言ったセラフィーナは少し寂しそうな顔をする。
エインはその表情に何故か強く心に残った。
***
──ある王城の部屋の中にて──
柔らかな光が差し込む部屋で、母妃は窓辺に立ち、ゆっくりと庭の方角を眺めていた。
その横顔は穏やかでありながら、どこか思案を含んでいる。
「……あの子」
ふと、母妃が口にした声は、独り言のように静かだった。
「最近、少し変わったと思わない?」
背後で書類に目を通していた父王が、顔を上げる。
「変わった、とは?」
「ええ……言葉にするのは難しいけれど」
母妃は視線を外に向けたまま、微笑む。
「以前よりも、世界を広く見ているような気がするの。人も、動物も……それ以外のものも」
父王はしばし考え込み、やがて低く息をついた。
「成長、ということだろう。あの年頃なら、珍しくはない」
「それだけかしら」
母妃は振り返り、父王をまっすぐに見つめた。
「ときどき、わたくしたちには見えていないものをあの子は当然のように受け取っている気がして」
沈黙が落ちる。
父王は否定も肯定もせず、ただ静かに頷いた。
「……それでも、セラフィーナはセラフィーナだ。わたしたちの大切な娘であり、この国の宝だ」
「ええ、そうね」
母妃は小さく微笑む。
そして再び、窓の外へ視線が向けられる。
その先にあるのは、城の内に設えられた庭。
そこにいるであろう小さな背中。
まだ誰にも名づけられていない変化が、確かに芽吹き始めていた。




