第7話 少しだけ、あの日のように
朝の光が、白いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
目を覚ますと、まず天井の装飾が視界に入る。見慣れたはずのそれが、今日は少しだけ違って見えた。
(……昨日のこと、夢じゃなかったのね)
セラフィーナは小さく息をつき、身を起こす。
胸元に手を当てると、まだかすかに残る緊張の名残が感じられた。
ほどなくして、扉が静かにノックされる。
「お目覚めでいらっしゃいますか、姫様」
侍女が入室し、手際よく身支度の準備を始め、セラフィーナは鏡の前へ移動する。
「本日から、少しだけ日々の過ごし方が変わります」
その言葉に、セラフィーナは鏡越しに侍女を見る。
「変わる……?」
「はい。お披露目会が無事に終わりましたので、これまでよりも、午前中に自由なお時間を取っていただけるようになりました」
自由、という言葉に、セラフィーナは小さく目を瞬かせた。
「午前中だけ……なの?」
「ええ。午後からは、これまでどおり勉学のお時間でございます」
侍女は穏やかな声で、続ける。
「三年後、姫殿下が十歳になられましたら、貴族学園へ入学なさいます。そのために、礼法や歴史、そして魔力の扱い方など、基礎となる学びを少しずつ進めてまいります」
貴族学園――
国中の貴族の子どもたちが集い、学び、将来の立場を定めていく場所。
セラフィーナは、まだ見ぬ学び舎を思い浮かべる。
知らない同年代の子どもたち。
新しい決まりごと。
そして、自分に求められる「姫」という立場。
どれも、まだ少し遠い話のように感じられた。
セラフィーナは、鏡に映る自分を見つめながら、静かに耳を傾けていた。
「決して厳しいものではございません。ですが、学園での生活に戸惑われぬよう、今から慣れていただく必要がございます」
「……そうなのね」
三年後。
その言葉を胸の中でそっと繰り返す。
(わたくしが、学園に……)
まだ遠い未来のはずなのに、不思議と現実味を帯びて感じられた。
「ですから、午前中はお庭へ出られてもよろしいですよ。気分転換も、大切ですから」
その言葉に、セラフィーナの表情がふっと和らぐ。
「本当? お庭に行ってもいいの?」
「はい。ですが最近、空気も冷えてまいりましたので、城内にあるお庭へご案内いたします。動物たちも、すでに集まっている頃かと」
くすりと微笑む侍女に、セラフィーナも自然と笑みを返した。
***
身支度を整え、朝食を終えるころには、胸の奥に残っていた緊張はすっかり落ち着いていた。
代わりに、静かな期待が、そっと芽生えている。
(お庭……久しぶりね)
精霊とも、動物ともつかない、あのあたたかな気配を思い出しながら。
セラフィーナは、午前の光に満ちた時間へと心を向けていた。
そうして朝の支度が一段落ついた、そのとき。
――コンコン。
控えめなノックの音が、部屋に響いた。
「セラフィーナ姫殿下。朝のお支度が整いましたようなので、お迎えにあがりました」
扉の向こうから聞こえたのは、静かで落ち着いた、騎士の声だった。
扉が開かれると、そこに立っていたのは、端正な立ち姿の少年だった。
背筋をまっすぐに伸ばし、立ち居振る舞いが洗練されたその姿は、年齢以上に落ち着いて見える。
エインだった。
彼は一歩下がり、胸に手を当てて、丁寧に一礼する。
「本日より、護衛を務めさせていただきます。エインと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
あらためて名乗られ、セラフィーナは小さく目を瞬かせた。
昨夜のお披露目会では言葉を交わしたものの、こうして静かな朝に向き合うのは初めてだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。エイン様」
そう答えると、エインはわずかに表情を引き締め、もう一度頭を下げる。
「ありがとうございます、セラフィーナ姫殿下。本日は、午前中に自由時間が設けられていると伺っております。もしお望みでしたら、お庭までお供いたしますが」
その言葉に、セラフィーナの顔がぱっと明るくなった。
「ええ。ぜひ、お願いします」
そう答えた声は、穏やかで、どこか楽しげだった。
***
部屋を出ると、朝の光が差し込む静かな回廊が広がっている。
セラフィーナは、きょろりと周囲を見回した。
歩調を合わせて進む足音が、静かな廊下に控えめに響く。
少し前を行く侍女の足取りは迷いがなく、その後ろを、エインが騎士としての位置を崩さずに歩く。
視線は前へ、けれど意識は常に、セラフィーナの動きに向けられている。
廊下を進むにつれ、空気がわずかに変わっていく。
冷えを含んでいた城内の気配が、次第にやわらぎ、ほのかに草と土の匂いが混じりはじめた。
やがて、天井の高い区画へと足を踏み入れる。
壁際には蔦が這い、石造りの柱が並ぶその先に、大きな扉が静かに佇んでいた。
侍女が静かに扉を開けると、あたたかな空気がふわりと流れ込んでくる。
そこに広がっていたのは、城の内に設えられた庭園。
高い天井には透明な装飾窓がはめ込まれ、やわらかな光が、室内いっぱいに降り注いでいる。
冬の訪れを忘れさせるほど、瑞々しい緑。
整えられた芝と花々は、外気にさらされることなく息づいていた。
城の中でありながら、確かに庭である場所。
寒い季節でも庭を望んだ彼女のために、父王が設けさせた、特別な空間だった。
足を踏み出すと、柔らかな土の感触が靴越しに伝わる。
芝の上では、小さな動物たちが思い思いに身を寄せ合っている。
鳥の羽音がかすかに響き、草の間を駆ける気配が伝わってきた。
セラフィーナの表情が、ふっとほどける。
その肩口で、白い気配がそっと揺れた。
アウラが、いつもの位置に戻るように寄り添う。
そのときだった。
芝の上にいた小さな影が、ぴたりと動きを止める。
耳を立て、鼻をひくつかせ――次の瞬間、ぱっと顔を上げた。
一匹、また一匹と、視線が集まっていく。
鳥が短く鳴き、羽ばたきながら低く旋回する。
草陰にいた小動物たちが、恐る恐る身を乗り出した。
気づいたのだ。
この庭に、彼女が来たことを。
セラフィーナは、驚いたように目を瞬かせ、すぐに小さく笑みを浮かべる。
「久しぶり、みんな」
呼びかける声は、無意識のうちに柔らかくなっていた。
すると、緊張が解けたように動物たちが一斉に動き出す。
芝を踏み、花の間を抜け、彼女のもとへと集まってくる。
その様子に、セラフィーナは思わず膝を折った。
手を伸ばせば、温もりが返ってくる。
小さな体温と、規則正しい鼓動。
気づけば、背筋に残っていた緊張は、すっかりほどけていた。
少し離れた場所で、その光景を見守るエインは、静かに息を吐く。
姫としての立ち姿ではない。
礼儀や作法も、今はどこにもない。
そこにいるのは──年相応の、穏やかな表情をした少女だった。
理由は分からない。
けれど、この場所では彼女は守られている。
そうとしか思えなかった。
光が、やわらかく揺れる。
視界の端で、何かがきらめいた気がして、エインは思わず目を向ける。
――だが、そこにはただ春のような暖かい空気が満ちているだけだった。
それでも。
胸の奥に残る感覚だけは、確かだった。
少し離れた位置で控えていた侍女は、その様子を静かに見守っていた。
セラフィーナがすっかり庭に溶け込んだのを確かめると、侍女はその空間を邪魔しないよう、音を立てずにそっと一歩下がった。
「……では、お時間になりましたら、またお迎えに参りますね。エイン様、あとは頼みます」
「わかりました」
その二人の会話は最低限の声量で抑えられ、ほとんど風に紛れるほどだった。
侍女は一礼すると動物たちを驚かせぬよう慎重に足を運び、庭園へと続く扉の向こうへ姿を消した。
室内庭園には、穏やかな気配だけが残される。
柔らかな光の中で、草の匂いと動物たちの息づかいが混じり合い、時間がゆったりと流れていた。
セラフィーナはその中心に立ち、まだ言葉にならない安らぎを胸の奥で静かに受け止めるのだった。




