第3話 変わりはじめ
次の日の朝。
セラフィーナは、いつものようにやわらかな風に包まれて目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は穏やかで、鳥の気配も近い。
胸いっぱいに息を吸うと、朝の空気は昨日までと何も変わらない。
それなのに――
(今日は、いつもと同じ日じゃない)
理由を言葉にできるほど、まだ理解はしていない。
けれど体のどこかが、静かにそう告げていた。
セラフィーナは、ゆっくりと上半身を起こす。
寝台の端に腰かけ、両足をそろえたまま、少しだけ考える。
昨日聞いた言葉。
誕生日。
お披露目会。
胸の奥に、かすかな緊張が残っているのを感じた。
そのとき、窓辺の空気がふわりと揺れた。
セラフィーナにしか見えない光が、朝の光に溶けるように、静かに瞬く。
いつもなら、それだけで心が落ち着いた。
けれど今朝は、少しだけ違った。
安心しているのに、どこか落ち着かない。
セラフィーナは、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「……姫、だから」
小さく呟いて、言葉を胸にしまい込む。
その直後、扉の向こうから、控えめなノックの音が響いた。
「姫様、失礼いたします」
「……どうぞ」
扉が開き、いつもの侍女がひとり、静かに部屋へ入ってくる。
変わらない足取り、変わらない所作。
それだけで、少しだけ胸の力が抜けた。
「お目覚めでございますね。これより朝のご支度を整えさせていただきます」
セラフィーナはうなずき、椅子に腰を下ろす。
髪に櫛が通され、顔を洗うための布が用意される。
昨日までと、何ひとつ違わない朝の流れ。
――けれど。
「本日より、お披露目会当日までの予定について、簡単にご説明いたします」
その一言だけが、朝の空気に静かに落ちた。
「本日は採寸とカラーを姫様に決めていただきます。その次に、衣装のデザインについての話し合い。以降は、作法、立ち居振る舞いなど、教師による礼儀作法の確認も行われる予定です」
淡々とした声。
まるで、ずっと前から決まっていたことのように。
セラフィーナは、鏡の中の自分を見つめたまま、少しだけ考える。
――では。
「あの……」
櫛を通す手が止まり、侍女が鏡越しに視線を向ける。
「その……お庭へ行く時間は……」
言葉の続きが、自然と小さくなった。
庭で過ごす時間。
いつも通りの、あの場所。
けれど、返ってきた答えは迷いがなかった。
「申し訳ございません、姫様。そのようなお時間は、ないかと存じます」
きっぱりと、けれど丁寧に。
セラフィーナは、それ以上何も言えず、小さくうなずいた。
「……そう」
櫛が、再び髪をなぞりはじめる。
朝の支度は、何事もなかったかのように続いていった。
ただ、胸の奥には、静かな悲しみが広がっていた。
***
朝の支度が整い、侍女は一礼して部屋を出ていく準備を始めた。
「衣装合わせの準備が整いましたら、すぐにお呼びいたしますね」
「うん、お願いね」
扉が閉まると、部屋はまた静けさを取り戻す。
窓辺に視線を向けると、白い鳩がいつものようにそこにいた。
変わらず近くにある、やわらかな気配。
セラフィーナはそっと窓辺へ歩み寄る。
「ねえ……しばらく、お庭に行けそうにないの」
鳩は小さく首を傾げ、羽根を震わせた。
「衣装合わせやお勉強が増えるって。だから――」
言葉を探すように、少しだけ間を置いてから、続ける。
「みんなに、元気だって伝えてきてくれる?」
鳩は答える代わりに、静かに羽根を鳴らした。
その仕草に、セラフィーナはふっと微笑む。
「ありがとう……アウラ」
その名を呼んだ瞬間、彼女にしか見えない光が、そっと揺れた。
まるで、約束を受け取ったかのように。
セラフィーナは、あとから気づく。
どうしてそう呼んだのか、理由は分からない。
ただ、その名前が、自然とそこにあっただけだった。
アウラは一度だけセラフィーナを見つめると、やさしい風を残して、窓の外へ飛び立った。
そのとき、扉の向こうから控えめなノックの音が聞こえた。
「姫様、採寸の準備が整いました」
聞き慣れた声だった。
朝の支度のたびに耳にしてきた、変わらない声。
セラフィーナは、ひとりきりの部屋で小さく息を整える。
「……はい。どうぞ」
その返事を待ってから、扉の外で気配が動いた。
「失礼いたします」
扉が静かに開き、侍女がひとり、丁寧な所作で中へ入ってくる。
その後ろには、布包みや細長い箱を抱えた数名の侍女たちが続いていた。
見慣れない道具の数々に、セラフィーナは思わず瞬きをする。
「本日はこちらで、採寸をさせていただきますね」
「……ここで?」
「はい。姫様が一番落ち着ける場所ですから」
そう言って微笑む侍女に、セラフィーナは小さく頷いた。
部屋の中央に、いつの間にか柔らかな布が広げられていく。
巻き尺、針山、布地の見本――どれも丁寧に扱われていた。
(ほんとうに、始まるんだ)
胸の奥が、少しだけきゅっとする。
庭園へ向かったアウラの気配は、ここにはない。
けれど、不思議とひとりではない気がした。
セラフィーナは、言われるままにその場に立つ。
「では、失礼いたしますね、姫様」
その声とともに、静かに採寸が始まった。
***
一通りの採寸が終わると、侍女は手にしていた布巻尺を丁寧に畳んだ。
「これで、必要な寸法はすべて揃いました」
そう告げてから、今度は別の卓へと案内する。
そこには、いくつもの布地が整然と並べられていた。
「次は、衣装の色をお決めいただきます」
セラフィーナは小さく息を吸い、布へと視線を落とす。
白や淡い金色も美しい。
けれど、どこか冷たく見えてしまう気がして、心はすぐには定まらなかった。
(……雪の季節、だった)
自分の誕生日。
それは、王都に雪が降り始める頃だ。
吐く息が白くなり、庭の草木が静かに色を失っていく季節。
そんな時に開かれるお披露目会で、冷たい色の衣装をまとう自分を想像すると、胸の奥がきゅっと縮まる。
(寒い中に立つのなら……)
せめて、見ている人の心が和らぐ色がいい。
自分自身も、包まれていると感じられる色が。
セラフィーナの指が、ほんのり赤みを含んだ布へと伸びた。
強すぎない、やさしい色合い。
火のようではなく、灯りのような温かさを宿した色だった。
指先に伝わる感触とともに、胸の奥が少しだけ緩む。
そのそばで、彼女にしか見えない光が、ほのかに揺れる。
まるで「それでいい」と囁くように。
しばらく布を見つめていたセラフィーナの指先を、侍女がそっと目で追った。
「……とても、よろしいと思います」
穏やかな声だった。
形式的な同意ではなく、心からそう感じているのが分かる調子で。
「そのお色でしたら、雪の季節でも温かく見えますし、姫様の髪や瞳にもよく映えるでしょう」
侍女は布を丁寧に持ち上げ、光にかざしてみせる。
やわらかな赤みは、明るすぎず、沈みすぎず、静かなあたたかさを宿していた。
セラフィーナは小さく息を吐き、頷く。
胸の奥にあった迷いが、すっと形を持った気がした。
「では……」
侍女は、穏やかに、けれどはっきりと告げる。
「こちらの色で、決定いたしましょう」
その言葉とともに、部屋の空気が静かに落ち着いた。
セラフィーナのそばで、彼女にしか見えない光が、ほのかに揺れる。
まるで、次の一歩を受け入れた証のように。




