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第一部 七  一九〇二年のグライダー

 兄弟にとって、グライダーの製作もこれが三機目となる。

 秋から春にかけて、課題や問題点の対策を導きだしその上で新しい機体を設計製作し、そして夏に飛行テストするという一年のサイクルが定着してきた。

 グライダーの製作について、兄弟がその製作方法を直接誰かに教わったことはなく、自分たちで考え工夫して作り上げてきた。先生がいないから自分たちでそうするしかなかった。それでも兄弟は生来から物作りが好きであったから、グライダー作りで分からないところがあっても、それを工夫して作り上げることは楽しいことであった。


 ほとんどのグライダー部品は兄弟自身が製作したが、外部に委託する部品もあった。

 リブ(翼の小骨)がそうである。

 リブは翼断面の形状を決定する重要な部品であり、これは微妙な曲面形状を精度よく作る必要があった。しかもこの部品は一個や二個ではなく数十個必要で、それを全く同じ形状で作らなければならない。幸いにもデイトンには、木材加工を行う会社があった。それは、古くからの馬車製造会社で、材木の曲面加工を得意としており、その会社にリブの製作を依頼した。そこは材木を蒸気で曲げて加工する機械を持っており、微妙な曲面のリブ製造には、まさに最適であった。

 リブの形状は、兄弟が詳細なスケッチを丁寧に作図してこの会社に渡した。

 また翼の主骨となる主桁は、弾力があり丈夫なスプルースを材木店より購入し、兄弟が自身で仕上げを行った。材料を所定の寸法に切断し、前縁を面取りして丸みを施し、組み立てに必要な穴、溝など全ての加工を終えると、表面をヤスリかけし、ニスを塗って仕上げとなる。ニス塗りはキティホークのような湿気の多いところで使用する場合には、必要不可欠な重要な工程であった。これが必要なことは一年目に経験していた。


 最後の仕上げは、モスリン布を縫いあげることである。

 これをリブの骨格に被せて翼が完成する。この縫い上がりの良し悪しが翼の性能に直結するため、作業には丁寧さと気配りが必要であった。この縫いあげ作業は翼が大きいだけに大仕事である。この縫製作業は手で行うには大き過ぎるため、自宅に持ち帰りミシンでの作業となった。そして縫うためには翼の骨組みに合わせながら行う必要があるから、兄弟は自転車店から木材部品を家に持ち帰ることになった。

 このことが妹キャサリンを大いに悩ませた。

「また家で翼を縫うつもりなの、あなたたち!」

 兄弟が大きなリブを抱えて家に入ると、妹が口を尖らせて待っていた。

 二人は、妹と目を合わさないようにしてその横をすり抜けた。

 彼女はこれが家でしかできないことを知っていたが、愚痴を言わずにはいられなかった。これが始まると家の中は足の踏み場もないような状態になるからである。

 しかしウイルバーとオービルは、キャサリンが苦情を言うのも構わずに、一階の家具をすべて端に移動し広いスペースを作った。その床の上に大量のモスリン布と翼のリブを広げて翼の縫製作業を始めた。兄弟はロール状になった白いモスリンの束から、必要長さをハサミで切り出しては、翼を覆う形状に少しずつ縫いあげていく。この作業には繊細な技術が必要であったが、縫製は子供の頃から母スーザンより教えてもらっており、兄弟とも器用にこなすことができた。

 しかし主にウイルバーがミシンを使い縫い合わせ、オービルがその補佐をする役目にまわった。キャサリンはそばで呆然として座っている。ライト家のよくある風景となっていた。ウイルバーは生地の目の方向にも気を配り、目の方向とリブとを四十五度になるよう縫い合わせた。これは事故などで翼に大きな力がかかった時に破れにくくするためである。これも一年目の経験が生きていた。ウイルバーは、根気良く翼にしっくりと合わさるように確認と縫い合わせを行い、翼形状を作り上げていった。


 春になると自転車店が忙しい時期を迎え、グライダー作りも中断したが、四月も終わりに近づくと忙しさが一段落した。一九〇二年グライダーの最終仕上げに取り組むことができるようになり、改良されたグライダーの部品が完成した。キティホークへ行く準備がほぼ整った。

 しかしウイルバーには一つ悩ましいことが出てきた。父からの手紙である。

「オーブ、困ったことになった。父さんがトラブルに巻き込まれているようだ」

 これまでも必要に応じて主教である父ミルトンの手伝いを行っていたが、この頃インディアナ州の教会でやっかいな問題が持ち上がっていた。父がその対応のためにウイルバーに応援を求めてきたのである。通常であれば父の指示に素直に従って出かけるところである。しかしインディアナに行ってしまうと、滞在が長くなりキティホークへ行く時期を失してしまう。ウイルバーは気象条件から八月中旬から九月中旬の出発を計画しており、この時期を変更したくなかった。この歳になるまで一度も父親に背いたことはなかったが、今回だけは自分の都合を優先させることを決心し、父親に応援に行けないことを告げた。


 もめ事の渦中にいる父にすまないと思いつつ、後ろ髪を引かれながらも兄弟はデイトン駅をあとにしキティホークへと向かった。しかし一度海岸へ向かう汽車に揺られ出すと、兄弟の心は二人の実験場キティホークへと飛んでいた。

「今回は楽しみだ。新しい翼形で性能があがっているはずだから、実際どんな飛行になるのか早く試してみたい」

「それに、垂直尾翼の効果もね。これでもまだ墜落するようではお手上げだ」

 二人とも今回は今までとは意気込みが違った。なにしろ実験的な裏付けのある機体を製作しており、今までよりも質の高い飛行が期待できた。早く試したいという気持ちが大きくなっていた。

 そんな期待を胸に、兄弟はキティホークへと到着した。

 ビル・テイトに挨拶したあと、キティホークからキルデビルヒルのキャンプ地に向かった。初めて来た時は、地の果ての辺鄙なところへ来たものだと、切ない気持ちになったこともあったが、二度三度と滞在を繰り返すと、さすがに愛着が湧いていた。何もない殺伐と広がる風景を見ると、自然と気宇壮大な気分になり、思い切り飛行テストができるぞと嬉しくなった。


 兄弟は慣れた手つきで準備作業を進めた。

 最初に一年間風雨にさらされていた小屋を修繕し、そして前年の機体を分解して支柱など一部の部品を取り外した。これらを新しい機体に再利用する。そして新しい今年の機体の組み立て作業を手分けして進めた。二週間ほどかけて新しいグライダーの形ができあがった。デイトンでは部品製作だけだったので、新しいグライダーの組み上がった姿を見るのは初めてである。

 翼長約十メートル、翼弦一.五メートル重量約五十キロの堂々たる大きさである。翼長は最初のグライダーの約二倍もある。

「大きいなあ。思っていたよりもかなり大きい」

 機体が完成すると充実感があった。今までてきぱきと動いていた兄弟はそのそばにたたずんで、新しい機体をじっくり見つめた。

 最初にグライダーを作ったのは二年前になる。その時もずいぶんと大きなものを作ったものだと思ったが、年を追う毎に大きくなっていく。理由があってそうなっているのではあるが、改めて新しい機体を見るとその大きさに驚いてしまう。

 兄弟は数ヶ月前の単調な風洞実験を思い出していた。その成果が今、目の前にある。そしてこれが本物であるかどうか、これからわかるはずである。


 九月十日、いよいよ兄弟はテストを開始した。

 最初のテストは、いつものように凧による揚力の確認である。設計通りの揚力、抗力となっているか、まずは確認しなくてはならない。

 今回は翼が大きいため、下翼と上翼を別々にして確認を行うことにした。一枚ずつ凧のように揚げて、角度とロープの引張り強さと風速を測定した。翼の迎え角を変えながらこの測定を繰り返した。測定の結果、期待した通りのほぼ設計値と同じ揚力と抗力であった。昨年よりも充分大きな揚力があった。

 そのあと下翼と上翼とを再度組み立てグライダーを完成させたあと、もう一度確認の測定を行った。兄弟は確かに大きな手応えを感じていた。

「大きな揚力だな。自由に浮かせたらどうなるだろう?」

 測定が終わった最後に、このグライダーを自由な姿勢で凧のように揚げてみた。

 するとどうだろう。機体は、ほぼ水平な姿勢で空中に浮かんだ。しかも兄弟の手から伸びるロープは真上を向いている。兄弟の頭の上で今回のグライダーは空に吸い込まれそうな勢いで浮いていた。兄弟は急いで力一杯にロープをたぐり寄せグライダーを降ろした。充分すぎるほどの手応えであった。過去にない力強い揚力を感じていた。

「これはすごいぞ。飛ぶのが楽しみだ」

 ウイルバーは、期待以上の手応えに興奮していた。確かに成功の予感があった。


 そしていつものように、ウイルバーは凧の状態にして搭乗し操縦系統の確認を行った。

 今回兄弟は昇降舵の操作方法を変更している。以前は、操縦レバーを下に押すと機首が上がり、上に引くと機首が下がるようになっており、機首の動きと操作感覚が逆であった。これではとっさに反応するとき間違えやすく危険であった。これを感覚と動きが同じになるように変更していた。つまり操縦レバーを下に押すと機首が下がり、上に引くと機首が上がるようになった。

 滑空飛行のイメージを取り戻すためにウイルバーは、凧にしたまま少し時間をかけて、翼捻りと昇降舵の操作を繰り返した。昨年と比べてやはり浮揚力を強く感じている。昇降舵も思った通り操作しやすくなっていたが、しかしやや効き過ぎる感じである。しかし問題となるほどでもないだろう。翼捻りの反応もいい。

 今年はすばらしい飛行ができると期待が膨らんだ。


 そして九月十九日、ウイルバーはこの機体で初めての飛行を行った。

 昨年と同じように、キルデビルヒルの上に機体をセットし、ウイルバーは機体の中に入った。

 天気は快晴、適度に強い海風が吹いている。飛行条件は揃っている。

 正面には大西洋が広がり、いつもながら雄大な眺めである。

 飛行にはすでに自信を持っているとはいえ、一年ぶりの最初の飛行はやはり緊張する。そして新しい機体のテスト飛行でもある。胸のときめきを感じながら、オービルに出発の合図を送った。

 ---よし、行こう---

 翼端を持っているオービルとダン・テイトが走り出し、ウイルバーはすばやく身体を機体の中にセットし昇降舵のレバーを握る。オービルらがいつもと同じように投げ出すように手を離した。機体は小山の斜面に沿ってきれいに滑空をはじめた。

 ---いい感じだ。充分な揚力を感じる。これはいいぞ---

 ウイルバーは、新しい機体の性能が向上していることをすぐに実感した。

 余裕ある揚力とともに飛行そのものも安定している。前からの潮風を受けながら、身体をこまめに右左に動かして機体を水平に保つ。この操作も、極めて自然な動きとしてできている。

 空を飛ぶ、ということをあらためて実感し、初めて飛行したときの感動をもう一度味わっていた。自転車で感じる爽快感とは異次元の、空中にふわふわと浮かぶこの感覚は、実際に飛行した者にしかわからないだろう。忘れかけていたこの爽快感をウイルバーは充分に味わいながら、最初の滑空を終えて安全に着陸した。

 ---いいぞ、これだ、これ--

 彼はこの初フライトに感動し、興奮していた。

 息を切らせながらあとから追ってきたオービルが駆け寄ると、高揚を抑えつつ報告した。

「この機体はすばらしい。非常に滑らかな飛行ができている。去年とは全く違うぞ」

 ウイルバーは、さすがに最初の飛行では緊張し慎重に飛行していたが、すぐに滑空飛行の感覚を取り戻し、新しい機体の滑るような飛行を繰り返した。


 ところが四、五回滑空飛行すると、予想外の新しい問題が見つかった。

 機体がたまに簡単に大きく傾いてしまうことがある。

「直線飛行は滑るようにすばらしいが、自然に機体が簡単に傾いていく。何かおかしいぞ」

 これは昨年までなかった新しい現象であった。ウイルバーは少し考えてあることに気がついた。

「機体の傾きが急に大きくなるのは、横風を受けた時かもしれない」

 兄弟は飛行を一旦中止し、凧としてグライダーを揚げて確かめることにした。

 その結果やはり横風を受けると、簡単に大きく傾くことが確認できた。このままでは安定した飛行ができないと判断し、テスト飛行を中止して対策を講じることにした。


 次の日は雨となったため、二人で議論する時間ができた。

 雄大な大西洋に面したキルデビルヒルでは、雨に降られると視界が遮られ、物哀しい雰囲気が漂う。普通であればこういう所にいたら気が滅入ってしまうことだろう。しかし兄弟はそういうことにお構いなく、議論に没頭することができた。前日の横風の問題につき時間をかけて意見を交換し、考えを巡らせた。

 今回の機体について大きな変更点は、翼を長くしたことと垂直尾翼をつけたことである。

 兄弟は議論の末、翼が長くなったために横風が吹いたとき、少しでも翼端が上がると一気に持ち上げられてしまうのだろうと考えた。そこで主翼両端を垂れさせて下反角をつけることにした。そうすれば横風で片翼が持ち上げられた場合、もう一方の片翼にその横風があたり水平に戻す力が働き機体が水平に戻るはずだ、と考えた。

 次の日、上下の翼を補強するために張り巡らせている張線を調整して、主翼両端を少し下がるように修正した。

 これを凧のように揚げてテストしてみると、確かに横風を受けたとき、復元力が働いているようである。これであれば大丈夫だろう。兄弟はテスト飛行を再開した。


 ウイルバーは翼の垂れ下がったグライダーに乗り、丘の上から飛び出した。

「今度はいい感じだ。横風にも乱されなくなっている。滑るように飛んでいる」

 実際飛行してみると、横風の影響を受けにくくなっているのが確認できた。横風の影響がなくなると非常にいい飛行の手応えを感じていた。手間と時間をかけて最適の翼形状を選んで作っただけに、飛行性能は昨年より格段によくなっていた。ウイルバーは気持ちよく滑空することができた。

 しばらく飛行に慣れてから、翼捻りを大きくし、その反応を確認してみたが、これも調子がよい。前回の不具合現象も現れない。垂直尾翼を追加したことで対策ができているようである。またこの垂直尾翼のために機体の直進性もよくなった。横にすべって飛ぶことが少なくなり、まっすぐ前に向かって安定して飛びやすくなっている。

 機体は機首の向いている方向に飛ぶのが正しい飛び方であるが、厳密に言えばまっすぐ飛ぶとは限らない。車がスリップしたとき斜めに進んでしまうのと同じように、飛行機も横にすべりながら飛ぶことがある。

 この横滑りを目で見て確認できるように、機体の前方、昇降舵下の横棒にウイルバーはヒモを貼り付けていた。まっすぐに飛んでいればヒモは真後ろにたなびき、空気の流れが斜めに当たればヒモも斜めに流される。飛行中にこのヒモを見れば機体がまっすぐに飛んでいるのか、横に滑りながら飛んでいるのかを目で確認することができるようにしていた。

「オーブ、今度の機体はすばらしいぞ。前とは飛びかたが全く違う。スーと延びるように飛行できている。安定感もある」

 安定感が増しているだけ、神経の使い方も楽になっていた。前回までは、飛ぶときの緊張感は大きく、全神経を集中させていたが、それが今回はかなり和らいでいた。

 ウイルバーは、飛ぶことを充分に楽しめるようになっていた。


 そしてウイルバーは、ついに大きな決断をした。

 弟オービルに操縦させることである。

 ここまでウイルバーのみがテスト飛行してきたのは、不測の事故を心配したためである。

 開発中の機体では何が起こるかわからない。父ミルトンも兄弟のこの活動に対する危惧は大きなものがあったうえに、ウイルバー自身も弟に危険な目には会わせたくないという思いがあり、今まで自分一人がテスト飛行してきた。それでもオービルがまだ一度も飛行していないことは、ずっと心の中のつかえにもなっていた。

 しかし今回のテスト飛行は順調に続けられ、極めて安定性がよい機体であることも確認できた。もはやその時が来たと思った。

「オーブ、この機体は充分安定して飛ぶことができるようになっていると思う。もう危険なことはないだろう。オーブも飛んでみるか?」

 オービル自身も、当然のことながら飛ぶことをずっと望んできた。

 ここまで飛びたい気持ちを抑えながら、兄の飛行を見ていた。今回の安定した飛行を見ながら、オービル自身ももう飛行してもいい頃ではないか、と内心思っていた。兄の提案はまさに期待していた言葉そのものであった。

「ああ、もちろん飛ぶさ。ずっとその言葉を待っていたよ」

 オービルは、喜色満面の笑みを浮かべてうなずいた。

 やっとグライダーに乗ることができる、空を飛ぶことができる、と思うと心の底から嬉しさがこみ上げてきた。身体全体が熱くなるのがわかった。

 それは兄として、ウイルバーも同じ気持ちであった。

 弟にこの飛ぶことのすばらしさを味わってもらうことは、兄の願いでもあった。この飛ぶことのすばらしさは、経験した者でなければわからない。それをここまで同じ道を歩んできた弟に、やっと経験させることができると思うと、自分のことのように嬉しくなった。


 しかし飛ぶと言っても、いきなり本当の飛行というわけにはいかない。

 まずはロープをつけた凧の状態で搭乗して、昇降舵と翼捻りの操作に慣れることから始めなければならない。オービルは、凧の状態ではすでに何回も乗って心得ていたが、念のためもう一度操作に慣熟することを行った。

 そして次に、両翼端に人がついて走りながら飛ぶ感覚、実際の操縦感覚を会得することになった。オービルは緊張しながら、グライダーの中に入った。今度は凧とは異なり、実際の飛行感覚に近くなる。

「両端を支えて走るから、タイミングを見て身体を乗せろ」

 わかっている、とオービルは頷いた。

「よし、行こう」ウイルバーとダン・テイトが一緒に走り出した。

 オービルはいつも、ウイルバーが機体に身体を乗せるところを、何百回と見てきている。タイミングはよくわかっているつもりであった。

 ---よし、今だ---と思ったところで足をあげ、腹這いになった。身体が機体に乗り、飛んでいるような状態になった。昇降舵の操作棒を握る。

「オーブ、もっと身体を起こせ」

 翼端を持って走りながら、ウイルバーが声をかける。

 まだ実際に飛んでいるわけではなかったが、オービルはちょっとしたパニック状態になっていた。端から見ていたときは簡単にできるものと思っていたが、いざやってみると、見た目と実際とは大分違っていた。身体が宙に浮かぶと、どうしていいかわからなくなった。

 しかし何度か繰り返すうちに、感覚がつかめてきた。

 そして昇降舵の操作も翼捻りの操作も少しずつ繰り返すことができるようになった。

「オーブ、今度は投げ出してみよう。手を離すからな」

「ああ、着地の感覚もわかったから、もう大丈夫だろう」

「よし、それじゃあ投げ出すから、しっかり乗っていろよ」

「ああ、やってみる」

 手を離すと言っても、平地であるから飛ぶ距離は少しだけである。

 離してすぐ着陸する。オービルはこれを数回繰り返した。両端が支えられていてもいなくてもほとんど同じ感覚であった。そしてこの着陸操作に慣れてしまえば、本当の飛行もできるようになるはずである。危ないと感じたらすぐ着陸すればいい。

「さあ、これで準備はいいだろう。今度は丘の上から飛んでみるか?」

 ウイルバーはオービルの目を見つめて聞いた。

「ああ、もちろん」返す言葉に力が入った。

 いよいよ本当に飛ぶ時が来た。

 空を飛ぶことは、兄と同じように子供の頃からの夢であった。この二年間、兄が飛ぶのを目の前で見ながら、自分はずっと機体を運ぶだけだった。それが今やっと自分も本当に飛ぶことができる。自然に身体が武者震いし、そして力がみなぎってきた。


 ダン・テイトと三人で、グライダーを丘の上に運んだ。

 いよいよオービル待望の初飛行である。

 オービルは機体を運びながら飛行をイメージし、昇降舵の操作を頭の中で繰り返した。翼捻りを使うほどの高さで飛行はできないから、まず昇降舵だけをしっかり操作できればいい。それができれば、安全に飛ぶことも安全に着陸することもできる。

 丘の上に立つと海辺がきれいに見えた。トンビが飛んでいる。

 オービルはふとマイアミ川のほとり、ピナクルで見たトンビを想い出した。兄と寝転びながら、鳥の旋回方法を見つけようと、眺めていたころの想い出である。あれはもう六年も前になる。羨ましく思ったあのトンビと同じように、今自分も飛ぼうとしている。知らず知らず、胸の鼓動が大きくなっていた。

 機体が丘の上に置かれ、オービルは中に入った。

「オーブ、大丈夫か?」、ウイルバーは緊張している弟に声をかけた。

「ああ、大丈夫だ」

「危ないと思ったら、すぐ着陸すればいい。無理して飛ぶなよ」

「ああ、わかっている」

 ウイルバーとダンが両翼端を持った。オービルは気持ちを集中させ、息をゆっくり吸い込んだ。そしてウイルバーに合図した。

「よし、行こう」

 丘の上から下を見ると、少し怖さが出てきた。しかしそれにかまわず足を蹴った。

 両端の二人も勢いよく走り出し、機体を思いきり引っ張りそして押し出した。

 オービルは、身体をうまく機体に乗せて飛びだした。初めてにもかかわらず、練習した通りに本番でもうまく飛んでいる。前を見る。潮風が強く顔に当たってくる。自然に目を細める。前方より砂地が勢いよく流れてきては身体の下をうしろに流れていく。

「飛んでいる!」

 オービルは、飛びながら感激していた。

 低空といいながら飛ぶ感覚を味わい、そしてほどなく着陸した。

 初めてながら、飛行も着陸も問題なく、スムーズにできた。うまく着陸できたことで、緊張感から開放されると、一気に初飛行の喜びがあふれてきた。飛ぶとはこういう感覚か、想像していた通り、いや想像していた以上のすばらしさであった。言葉ではとても言い表せない、身体がしびれるような恍惚感があった。

 見ていたウイルバーも、弟が無事に着陸したのを見てほっとした。

「初飛行おめでとう。どうだった、初めての気分は…」

「ああ、すばらしい。これはやめられないな。自転車とは次元が違う」

 自転車の颯爽感を、はるかに越えた空飛ぶ爽快感を感じていた。

 しかし足が大地から離れ、身体を支えるものがなくなるというのは、妙な気分でもあった。身体が何だかふわふわして、どうコントロールしていいのか、直感的にはわからなかった。

 操縦は、端から見ていると単純そうに見えたが、自分でやってみると、そうでもないこともわかった。飛行中は気にすべき事が意外に多い。離陸の時は、特に複雑だ。走りながら身体を機体に乗せるタイミング、そして補助者の手から離れた瞬間、全体のバランスを崩さないよう留意が必要である。またもしバランスが崩れた場合は、すぐに修正操作をしなければならない。

 飛行中は前方の障害物の有無の確認はもちろん、飛んでいる前方砂地の凹凸確認と、着陸すべき地点の選定もしなくてはならない。その確認をしながら、昇降舵の操作と翼捻りの操作をする。見た目と違ってかなり忙しい。優雅に飛んでいるような暇はなく、緊張の連続であった。気を抜くことができるのは、着陸したあとだけである。

 それでも、オービルにとってこれは魅力的だった。自転車レースも大好きであるが飛ぶことはもっとすばらしい、と思った。これは夢中にならずにはいられなかった。


 この日、引き続きオービルは飛行を無難にこなし、練習を重ねていった。

 ウイルバーと適当に交替し飛行を繰り返した。

 そんな中で小さな事故が起こった。

 オービルが丘の斜面に沿って五十メートルほど飛んだ後、ひょんなことに昇降舵の取手を離してしまった。あっという間に機首が上がり七、八メートルの高さで一瞬停止し、後方にすべるような形で翼端から落下してしまった。

 ウイルバーとダン・テイトが急いで駆け寄った。

 オービルにケガは無かったが、主翼の桁に小さなクラックが入った。この修理のために数日は飛べなくなったが、それでもこの日はオービルの初飛行と、その後の練習でうまく飛べるようになったことで、有意義な一日となった。

 ウイルバーにとって、弟の初飛行は心底嬉しい出来事であり、その嬉しさをキャサリンへ手紙に書いた。一方オービルは、その夜ベッドに入ってもすぐに眠ることができなかった。感動的な初飛行の余韻で身体が熱くなり、頭の中で空を駆けめぐる夢がさらに広がっていた。夢心地の幸せな気持ちのまま、いつしか深い眠りについた。


 砂浜近くでの風は、風洞実験での風とは全く違い、気まぐれに変動した。

 風の強さが変わることは勿論のこと、風向きも渦を巻くように変わることもある。一瞬の横風もよくあった。そういう不安定な風の中で兄弟は飛行を繰り返し、どうにかうまく乗りこなすような操縦技術を身につけていった。

 翼捻り操作も順調で、最初は左右どちらかの一方向のみの旋回操作だけを行っていたが、次第にS字飛行を試み始めた。これも慣れるに従い、傾きを大きくしたS字飛行もできるようになっていった。

 オービルも直線飛行はもちろん、旋回もこなせるようになり、飛行技術をあげていった。

 ところが飛行回数を重ねるうちに、また新たな問題がでてきた。

 ウイルバーが操縦し、大きく傾いた機体を水平に戻そうとしたとき、その操作が反応せず、さらに傾きが大きくなりながら、その方向に横滑りするように流された。そして翼端から接地し、翼端を砂地にこすりつけたまま、回転して止まった。

「ウイル、どうした」

「わからない。傾きを元に戻す操作が効かなかった。機体が水平に戻らなかったんだ」

「去年と同じ現象じゃないか。垂直尾翼は対策になっていなかった、ということか?」

 現象としては去年の問題と同じである。

 去年の対策として垂直尾翼を追加し、この日まで飛行を何回も繰り返してきた。これまでは問題の再発はなく順調であり、その対策が充分できているものと思っていた。しかしここに来て、同じ現象が起きたことに二人は動揺した。

 このあと何回か飛行を続けてみたが、時々同じようなことが起こった。

 しかしあることに気がついた。

「この現象は、機体を大きく傾けたときにだけ出ているようだ…」

「そうか、そう言えばそうだな。小さな傾きの時は垂直尾翼がうまく効いているが、傾きが極端に大きくなると効かなくなる、ということだな」

 兄弟はまたしても頭を悩ませることになった。

 小さな傾きの旋回だけで、飛行テストを続けることはできる。しかし、この問題をこのまま放置するわけにはいかない。これを解決できなければ本格的な飛行をすることはできないだろう。この対策を考えるため、ひとまずテスト飛行を中止することにした。


 兄弟が頭を悩ませているちょうどそんなタイミングで、寂しかったこのキャンプに珍しい来訪客があった。その一人は、自宅近くに住む兄ローリン・ライトである。まったく予期していなかったローリンの来訪を兄弟は喜んだ。身内の者がキティホークに来たのはこれが初めてであった。

 さらに次の日には、昨年ここで一緒に活動したジョージ・スプラットが来訪した。

 久しぶりの仲間との再会に話が盛り上がった。相次ぐ来客で単調だった海辺のキャンプは、突然に華やかな活気に溢れた。オービルが持って来ていたライフルで射撃の腕を競ったり、ジョージが植物や昆虫の解説をしたりしたあと、夕食ではカニやウナギ、マスなどをみんなで一緒に料理して楽しんだ。ウイルバーがハーモニカを吹き、オービルがマンドリンを奏でた。

 久々に心温まるのどかなひと時を過ごすことができた。

 それでも荒涼としたキャンプ地の夜は早い。

 電気も何もないところでは、暗くなれば眠るしかなかった。

 ウイルバーはいつものように七時半にはベッドに潜り込んでいた。同じようにオービルもベッドに入った。しかしこの日はコーヒーの飲み過ぎのためか、なかなか眠れなかった。


 オービルは温もりある毛布に包まれたまま、あの問題を考えていた。

 ---何故傾きがもとに戻らなくなるのだろう---

 そして戻らないだけでなく、何故さらに大きく傾いてしまうのか、そしてどうすればこれを防ぐことができるのか。その現象が起きた時の状況を、思い起こしていた。

 今年は垂直尾翼を追加したことで、傾きの小さい時はその効果があることを実感していた。ところが機体の傾きが大きい時には、これが役に立たない。客観的に見ればそういうことであった。

 そしてひとつのアイデアが浮かんだ。

 ---垂直尾翼を今の固定ではなく可動式にするのはどうだろう---

 この現象が起きているのは傾きが大きい時ということであり、それはつまり横滑りしやすい状況にあるということである。もし傾いた機体が横滑りしていると考えると、垂直尾翼が横から風を受けることになり、それが機首を内側に向ける原因になっているのではないか。そうであるとすれば垂直尾翼を逆方向へ動かすことができれば、この横風を緩和できると同時に、機首を意図する方向に向けることもできるかもしれない。


 オービルは次の朝、ウイルバーにこの考えを打ち明けた。

 これを聞いたウイルバーは、コーヒーカップを持ったまましばらく口を開かなかった。

 視線を宙に浮かせたまま何かを考えている。

 オービルは兄の言葉を待った。

 ウイルバーは弟のアイデアを聞いた瞬間に、これは試す価値があると直感した。しかしそれは操縦要素が増えるということであり、つまり操縦が複雑になるということである。それは好ましいことではない。そのアイデアを試しつつ操作を簡単にする方法はないか、それを考えていた。

 そして口を開いた。

「オーブ、それはいいアイデアだな。やってみよう。ただ少し工夫が必要だと思う」

 ウイルバーは、自分がいま考えていたことを説明した。

 現在の操縦方法は、手で昇降舵を操作し、腰の動きで翼の捻りを操作している。これに加えて垂直尾翼まで操作することは、かなり大変なことである。そこで腰の動きに連結させて、垂直尾翼を動かすことを提案した。つまり翼捻りの操作と垂直尾翼の操作を一緒に行なおうというのである。

 オービルはそれに同意して、そのアイデアを試してみることになった。

 垂直尾翼はそれまで二枚付けていたが、これを可動式に改造するのは難しいため、一枚に減らして可動するように変更した。そしてワイヤーを垂直尾翼と台座に連結し、翼の捻りと垂直尾翼が連動するように改造を施した。この結果、兄弟のグライダーはついに三舵を備えることになった。

 ライト兄弟はこの時点では気がついていなかったが、この垂直尾翼を可動方式に変更した時点で、この機体は飛行機としての機能を完全に備えることになった。つまりこの時世界で初めてピッチング、ローリング、ヨーイングの三つの動きを操作することができる機体ができあがった。

 現在でも世界最初の飛行機はエンジン搭載のフライヤー号ではなく、この一九〇二年のグライダーだと評する意見もある。


 兄弟がこの時直面した問題、傾きを水平に戻そうとするときさらに傾きが増大するというこの現象は、翼端失速であっただろう。旋回中は外側の翼端の速度が最も速く、内側の翼端が最も遅くなる。この時、兄弟が行ったように内側の翼端を捻り上げると、迎角が大きくなり失速しやすい条件が重なる。飛行速度そのものがもし遅ければ、この翼端部分から失速が始まり、このとき外側の翼が揚力を保ったままであると、きりもみ状態となって墜落することになる。兄弟の場合、高度が低いためにきりもみになる前に、地面に翼端をこすりつけて、着陸となっただけで済んでいた。

 現代のグライダー操縦では、旋回中にきりもみに入ってしまった場合、その回復操作として機首を下げてスピードを増すこと、補助翼は水平状態を保ち旋回操作は行わないこと、きりもみ回転と反対方向に方向舵を向けること、などとなっている。

 二番目の「補助翼は水平状態を保ち旋回操作は行わない」というのは兄弟のグライダーで言えば捻り操作を行わないこと、ということになる。もし捻り操作を行うと、これは下がった側の翼端の迎え角が大きくなるということで、さらに失速を助長することになる。一度翼端失速の状態に入った場合には、兄弟の機体を水平に戻そうとする操作は、まさに状況を悪化させる操作であった。三つ目の「反対方向に方向舵を向ける」操作は機首を旋回と逆方向に向けることできりもみを止める働きをする。兄弟が垂直尾翼を固定式から可動式に変更するのは、この操作が可能になるということを意味していた。


 この尾翼の改造をしている時に、新たな訪問者があった。

 オクターブ・シャヌートである。

 そしてもう一人、彼の若き協力者であるオーガスタス・へリングを連れてきた。今回の訪問の目的はシャヌートが新しく開発したグライダーの試験飛行を行うことであった。しかしそれと同時に、ライト兄弟の新しいグライダーの状況を見ることも大きな関心事であった。

 ライト兄弟は、へリングの噂を聞いており性格的に招かざる客と感じていたが、シャヌートが連れてくるのを拒むことはできなかった。

 このヘリングは、一八九八年にエンジンを載せたグライダーでの飛行に成功していた。

 しかしそれは三十秒ほどしか回らない圧縮空気によるエンジンで、しかも丘の上からの飛行であったことから、滑空飛行中にプロペラが回っていただけと見なされ、自力での動力飛行とは見なされていない。その後へリング自身その開発を断念していた。

 シャヌートがこのとき持ってきたグライダーは、翼が三枚ある三葉機である。シャヌートの基本的な思想は、グライダー自身が、突風などの乱れた風に対応できる機構を有するべきというものであった。これはライト兄弟の考え方、風の外乱にはパイロットが操縦で対応する、という思想とは異なるものである。今回のグライダーは、その新しい機構を有し、それを試そうとしていた。

 しかし飛ばしてみると二回目にわずか五、六メートルほどの飛行で墜落してしまい、幸いへリングにケガはなかったが機体はひどく破損してしまった。すぐに修理し再度飛行しようとしたが、今度は浮き上がる気配さえなかった。結局なすすべもなく十日ほどでこのキャンプを去ることとなった。シャヌートの落胆は大きいものがあった。


 一方、垂直尾翼を可動式に改造した兄弟のグライダーは、シャヌートのグライダーとは対照的にすばらしい飛行を見せた。 

 ウイルバーがこの改造機をテストしてみると、なかなか調子がよい。

 傾きを大きくして、S字飛行を何度か繰り返したが、先日のような現象は起こらなかった。全く見事な飛行を繰り返していた。どうやらこの改造で対策ができたようである。今年新たに出てきた問題に対しても、こうして解決することができた。これにより兄弟は単に不安が解消されただけでなく、グライダーとしての機能が完成されたような手応えを感じていた。数回の飛行で自由に機体をコントロールできるようになっていた。

 この年七十歳になるシャヌートは、そのS字飛行を見ていて複雑な気持ちであった。

 自分自身のグライダーは惨めな結果に終わったが、一方ライト兄弟のグライダーは今まで全く見たことがないほど、立派な旋回飛行をしている。このグライダーは、間違いなく世界の最先端を行っていると思った。シャヌートにしてみると、内心ではライト兄弟を自分の生徒のように感じていた。今まで何度も手紙などでやりとりし情報提供やアドバイスをしてきている。その生徒が目の前でなんと立派な飛行を見せていることか。

 シニア教師をこれほど誇らしい気持ちにさせるものはなかった。


 弟オービルもウイルバーと同様にテスト飛行を重ね、昇降舵も翼捻りもうまく使いこなせるようになっていた。飛行開始は兄に二年も遅れたが、この性能のよくなったグライダーのおかげで、飛行技術もすぐに兄に追いつくほどになっていた。

 ウイルバーにとって操縦技術の理想は、自然に身体が反応するようになることである。

 人間が歩いたり走ったりするときに、無意識のうちに手足でバランスをとっているのと同じように、無意識に身体が反応し機体のバランスがとれるようになりたいと思っている。そういう気持ちで飛行訓練を繰り返していた。長いキャンプで飛行訓練を行った結果、この年の飛行回数はゆうに千回を超えていた。

 毎回飛行するごとに、丘の下に降りたグライダーは丘の上まで運ばなければならない。

 これは大変な労働であった。しかしグライダーを運ぶときのコツを兄弟たちは自然と身につけていた。自重では三人で砂地を運ぶのは難儀であったが、風をうまく利用すると揚力が発生する分軽くなる。それを利用した。さらに抗力が押す力として働くから、風の向きを確認しながら適当に機体を傾けながら運ぶことで機体運びが楽になった。

 しかし時として揚力で持ち上がり過ぎるときは、あわてて下に押さえることもあった。ともかく機体運搬が一番大きな作業であったが、それでもウイルバー、オービルはもちろんビルもダンもその他のメンバーもこの機体運びをも楽しんでいた。


 引き続きテスト飛行を行ううち、思いがけなくスミソニアン協会のラングレー会長より電報を受け取った。兄弟のテスト飛行を見学するために訪問してもよいか、との問い合わせであった。

「なぜラングレー会長からこんな電報がくるのだろう?」

 兄弟は首をかしげた。

 実はシャヌートがキティホークから立ち去った後、ワシントンに立ち寄りラングレーに面会していた。訪問予定がなく実際に会えるかどうかわからなかったが、強引に押しかけた形であった。ラングレーはいろいろと忙しかったが、彼の飛ぶ機械エアロドロームの開発のヒントが得られる情報があるとのことで、突然の訪問にもかかわらず面会に応じた。

 シャヌートがわざわざラングレーを尋ねて、兄弟の情報を伝えたことに悪意などはなかった。シャヌートはもともと航空に関する情報を集めては発信するということで、この世界に貢献したいと考えている。それに加えて、キティホークで見た華麗な飛行が衝撃的であっただけに、これを誰かに伝えたい衝動にかられていた。その誰かがちょうどシカゴへの帰り道ワシントンにいた、というわけである。


 この時期、ラングレーは飛ぶ機械としてエアロドローム号の開発を継続していたが、この機体に載せるガソリンエンジンの開発に苦しんでおり、ようやく目途がつき始めてきたところであった。うまくいけば翌年には、エアロドローム号を飛ばすことができるだろうと思っていた。そして世界最初のエンジンによる飛行へ挑戦するつもりであった。

 そこへライト兄弟の情報が入ってきた。

 ラングレーにとって、ライト兄弟の具体的な飛行内容を聞くのは初めてであった。

 シャヌートは、翼の捻れや可動式の垂直尾翼のことは本人自身深く理解していないこともあり伝えなかったが、S字飛行や百メートル以上のフライトを何度も繰り返しているということを話した。シャヌートはキティホークで見てきた、ライト兄弟のきれいな飛行を賞賛しそして付け加えた。

「会長、あれはね、本物の飛ぶ機械ですよ。まだエンジンが付いていないだけにすぎない。エンジンを載せさえすれば、自由に飛ぶことでしょう。彼らならきっと実現できるでしょう」

 ラングレー会長は、エンジンを載せること自体が簡単にはできないことは身をもって知っていたから、それを信じなかったが、それでも彼らの飛行を見てみたいと思った。エアロドローム号ではS字飛行をすることはできない。どのようにしてそんな飛行をしているのか、自分の目で確かめてみたいと思った。

「彼らはまだキティホークにいるのかね」

 それを確かめると、ラングレー会長はすぐに電報を打った。


 これを受け取った兄弟は、正直な所あまり歓迎しなかった。

 何と言っても操縦技術の習得に専念したかったし、兄弟の知恵の入った機体を第三者に見せたくないとも思っていた。もうすぐここを撤収する予定であることを理由に、丁重に断りの手紙を書いた。実際のところ、ほどなくキャンプをたたんだ。

 兄弟はついに自由に操ることのできる機体を手に入れて、この夏合宿を終えた。


 最終日、兄弟は久しぶりに日の出を見た。

 キルデビルヒルに座って見る日の出は、格別である。

 内陸に住む兄弟にとっては、普通の生活の中で海を見ることもない。デイトンで見る太陽はいつの間にか頭の上にあるという感じで、日の出そのものもあまり意識して見たことがない。しかしここで見る太陽は、自然の雄大さを見せつけていた。目の前に広がっているのは空と雲と海だけである。その中を水平線のかなたから、光が幾筋も現れてくる。

 二人は太陽が姿を現してくるのを黙って見つめた。

「きれいだな」

「ああ、きれいな朝日だ」

 朝は海風もほとんどなく、やさしい光に包まれている。

「あの太陽まで飛べていけたらすばらしいだろうな」

「ああ、でもそれは不可能だ。せめてあの太陽の下、ヨーロッパまでなら飛べるようになるかもしれない」

「それも無理だろう。でも無理だとしても夢があっていい」

「人間、夢がなくなったら面白くないからな」

 二人が実際に飛べるようになったのは、まだ動力のないグライダーだけである。エンジン付きの飛ぶ機械はまだ誰も成功していない段階で、大西洋を横断飛行する話など想像をはるかに超えたことで、ただの夢物語である。ただ会話を楽しんでいる二人であった。

 朝凪の中をカモメが飛んでいる。シギが波打ち際で何かをつついているのが見える。おだやかな時間であった。

 空を飛んでいる鳥を見て、夢物語から現実の世界に戻った。

「それはともかく、やっと飛ぶことができた。とても気持ちがいいな」

「そうだな、オーブも飛べるようになってよかった」

「次は動力飛行だ」

「そう、それが成功して初めて自由に飛ぶことができるようになる。でも動力機はまた新しい挑戦だ。するべきことがたくさんある」

「帰ったら忙しくなるぞ」

 兄弟は大西洋からの空気を大きく吸って、キティホークをあとにした。


 今年のキャンプは、大きな成功だったと言えた。

 揚力は設計通りの数値が得られたし、翼捻りの操作は期待通りの反応が得られ、垂直尾翼の効果も確認できた。これでグライダーの動きは全てコントロールできるようになったと言える。操縦訓練も充分行うことができた。ウイルバーだけでなく、今ではオービルも操縦をこなすことができるようになっていた。

 ただ飛んだと言っても、まだ砂丘の表面に沿った飛びかたでしかない。本当に飛んだと言えるのは、エンジンをつけて自由に飛んだ時である。その時がトンビやタカのように大空を舞うことができる時である。今回でようやく問題のないグライダーを完成させることができた兄弟は、これから本当の飛ぶ機械へ向けての挑戦が始まる。

 ライト兄弟がキティホークからデイトンに帰るのは、今回で三回目である。過去二回は先が見えない気持ちの中での帰路であったが、今度ははっきりとゴールが見えていた。

 夢の実現までもう少しである。

 ウイルバーは揺れる汽車の中で次のことを思索し始めていた。

 ここまで来れば、あとはエンジンを載せるだけである。

 エンジンもプロペラもよく知らないが、これはすでに世の中に存在している技術だから、どうにかなるだろう。問題は機体の構造だけだ。エンジンを載せる機体はどういう構造にするのがよいか、それを考えていた。


 十二月末になって何の前触れもなく、ライト兄弟の自宅にイギリスからの訪問者があった。

 シャヌートの紹介状を持ったこの紳士は、パトリック・アレキサンダーと名乗った。

 へリングやエドワードと違いかなりの好印象で、兄弟は次第に好感を持ち話も弾んだ。

 パトリックは一ヶ月ほど前、ロンドンで英国航空協会会長の講演を聴いていた。題目は最近の航空業界の動向についてであった。この頃はまだ飛行機はなかったから、航空と言えば飛行船や気球が主であったが「飛ぶ機械」にも大きな関心が寄せられていた。

 この講演のなかで「ウイルバー・ライトとその弟による飛ぶ機械に関する優れた進展」という講演を聞いたという。そのあとすぐに旅支度をして直接兄弟に会いに来たという。

 パトリック自身はライト兄弟のような実務開発者ではなかったが、航空業界発展に熱心な推進者の一人として、兄弟の現況や考えを聞きたがった。兄弟にとっては彼から技術的に得られるものはなかったが、しかしこの世界の事情や動きを知ることができた。

 それにしても知らない間に自分たちの名前や活動内容が、海外にまで知れ渡っていることに兄弟は驚いていた。シカゴでの講演が思わぬ波紋となって広がっていた。


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