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第一部 五  一九〇一年のグライダー

 キティホークでの初飛行は、ウイルバーにとって大きな収穫であった。

 それと同時に、オービルにとっても大きな転機となった。

 ここまでどちらかといえば、ウイルバーがほとんど全てを考え、これにのめり込んでいた。

 一方オービルは、飛ぶ機械の開発やグライダーの製作に興味もあり協力もしてきたが、どちらかといえば自転車店経営に重点を置いてきた。

 これは自然なことであった。

 もともとオービルが印刷業を始め、それに定職のなかったウイルバーを引き込んだ。ある意味でその印刷業の延長線上に現在の自転車店があるから、オービルの方が自転車店経営に対する思い入れが強かった。そして何と言ってもこれが生活の基盤となっているから、なおさらである。これまでオービルにとっては、グライダーはあくまで趣味的な位置付けであった。

 しかしオービルは、キティホークの滞在中に強烈な刺激を受けていた。

 兄の操縦するグライダーが飛行する姿を目の当たりに見たことは、オービルの心の琴線に触れる出来事であり、兄と同様にもともと空を飛ぶことが夢であったから、これはたまらない出来事であった。今までとは違う新鮮な情熱が芽生えていた。

 今回オービルは飛行しなかったが、それは安全なグライダーができあがるまでは、オービルを危険な状況には置けないという、ウイルバーの心つかいによるものである。オービルとしては多少の不満もあったが、その考え方を受け入れていた。安全が確認できれば飛ぶことができる、それまで我慢すればいいことであった。しかしそれが逆にオービルの気持ちに火をつけることにもなった。

 ともかくキティホークのキャンプを契機として、オービルはウイルバーと同じようにグライダーの製作にのめり込むようになった。

 一方ウイルバーも一度飛行を経験すると、すっかり飛ぶことの魅力にとりつかれてしまった。

 キティホークにいた時よりもむしろデイトンに帰ってきてから、その気持ちが強くなっていた。さらに、まだ誰も実現していない飛ぶ機械の開発に、技術者魂が大いに刺激されていた。頭の中はグライダーのことしか考えられなくなっていた。

 今まで生活基盤のためだった自転車店経営が、このあと次第にグライダーの開発資金のためへと変わって行くことは、自然の成り行きであった。


 初めてのグライダーをキティホークで飛ばしてみて、いくつかの課題がわかった。

 兄弟は、その課題を検討しそれを反映した新しいグライダーを作る作業を開始した。

 今回の一番大きな問題は、揚力が小さすぎるということである。充分な揚力が得られなければ、エンジンを載せて飛ばすことはできない。また肝心の翼捻りの効果も、低空での確認しかできておらず、機体を傾かせて旋回するということはできなかった。

 この確認のためにも、充分な揚力が必要であった。

 ウイルバーは、リリエンタールの表やその他資料を見直し再度計算してみたが、やはり計算自体に間違いは見つからなかった。つまり計算上では、その理由を見出すことはできなかった。しかしキティホークでの実機テストの測定結果は、計算上の揚力と明らかに異なっていた。

 これがどういうことなのか、兄弟にはわからなかった。

 そこでこの問題について、シャヌートに手紙を書き意見を求めた。こういう時に頼りにできるのがシカゴにいるシャヌートである。

 しかし、シャヌートとの意見交換は数回行ったものの、彼もリリエンタールの表と実際が合わない理由はわからなかった。そのかわりに、翼のキャンバー(翼断面の反り。翼弦長さに対する翼のへこみ具合)を変更してはどうかと提案してきた。シャヌートは、兄弟の翼とリリエンタールの表でのキャンバーが異なっていたため、これが揚力の出ない原因ではないかと考えたのである。

 兄弟のグライダーではキャンバー二十対一に対しリリエンタールは十二対一を使っていた。兄弟はシャヌートのこの提案に従って簡単な実験をしてみたところ、揚力が多少上がることが確認できたので、次の機体では十二対一で作ることにした。しかしこれだけではまだ充分な揚力を得られないかもしれないと、安全率を考慮し、翼の面積が二倍近くなるよう翼長を前回の五メートルから六.五メートルに、翼弦は前回の一.五メートルから二メートルへと大きくすることにした。


 また揚力問題以外でも考えるべき課題が二つあった。

 翼捻りの操作方法と着陸方法である。

 前回、翼捻りの操作は足先で押したり引いたりして行った。しかし実際これを飛行中に行ってみると、操作性がとても悪いことがわかった。

 そこで兄弟はこれを再検討し、今度は腹這いになる部分に鞍型の台座を作り、これを左右に動かすことで、翼捻りの操作をするように変更することにした。つまり飛行中に腰を右に動かすと機体が右に傾き、左に動かすと機体が左に傾くように変更した。この方法であれば、翼を捻じる操作はかなり易しくなることが期待できるはずである。

 また着陸は、リリエンタールのように足を出して機体を腕で支えるよう考えていたものが、それができず腹這いのままの姿勢で胴体着陸した格好になった。着陸方法としてはそれでも問題なかったので、よりスムーズに胴体着陸できるよう、機体本体の下に丈夫なソリをつけ、昇降舵の支柱もソリを兼ねるような形状に変更した。

 兄弟はこの改善を検討しながら新しい機体を設計し、そして製作に没頭した。

 今度は二機目の製作となるので材料手配も、製作そのものもスムーズに運び、さらにオービルの意気込みも大きくなって製作に加わったため、一機目よりも短い期間で仕上げることができた。


 新しい機体が仕上がると、兄弟は二人とも落ち着かなくなった。

 仕上がれば、それをすぐにでも飛ばしたくなるのが人情である。

「できたな。どうする?」

 オービルが、ウイルバーの顔を覗き込むように問いかけた。言葉としては質問であるが、実質は誘いであった。まだ六月末である。昨年キティホークへ行った時期に比べ二ヶ月も早い。しかし、気持ちはウイルバーも同じであった。

「……行くしかないだろう」

 もはや自宅にじっとしてはいられなかった。

 昨年より時期がずっと早いというものの、早めにキティホークへ行くべき理由もあった。

 ウイルバーは今度の合宿では、宿泊用とは別にグライダーを格納する小屋を建てたいと考えていた。飛行テストをすれば当然に不具合が出てきたり、機体が破損することもある。それを現地ですばやく対応するためには、修理や調整作業をする場所が、どうしても必要である。そのための小屋を自分たちで建てる時間が欲しい。そしてまた昨年の滞在でわかったことであるが、実際に飛行活動のできる日数は意外と限られている。気象条件のよい日は限定されていたし、また機体の修理や調整にも意外と時間がかかる。

 そして何よりもテスト飛行をできるだけ多く行いたい、というのが最大の理由かもしれない。もし条件がそろえば、オービルも初飛行に挑戦できるだろう。

 そういう理由もあって、兄弟は滞在期間を前年の五週間よりも長くとろうと、早く出発することにした。

 七月に入り機体の準備が完全に整った兄弟は、キティホークへ行くことに決めた。

 しかしその前に解決すべき問題がもう一つあった。

 七月といえば自転車店のちょうど忙しい時期であり、この期間に三、四ヶ月留守にして店を閉じるには少し長すぎる。閉めてしまえば収入源がなくなるから、生活に困るだけでなく飛ぶ機械の活動資金も得られなくなってしまう。そこで誰かに店をまかせて、営業を続けてもらうことにした。つまり店番のできる人物を探さなければならない。

 ただし、店番といっても単に店にいればよいというわけではなく、ライト自転車店では修理もしていたから、少なくとも機械的な経験か、あるいは機械的なセンスのある人物が必要であった。適任となる人物を探したところ、自転車店が入っている建物のオーナーの親戚で、チャーリー・テイラーという男を見つけた。彼はウイルバーより一才年下ではあったが、機械関係の経験が豊富で、店番を依頼するには適任であった。彼を早速雇い入れ、自転車修理方法など仕事内容を教えて、業務を引き継いだ。

 これにより兄弟は合宿へと気持ちを集中させることができるようになった。

 後の話になるが、このテイラーは、ライト自転車店の手伝いだけにとどまらず、次第にグライダーでも兄弟を手伝うようになる。初飛行に成功するフライヤー一号のエンジンは、このテイラーが製作することになる。彼はそれ以降も引き続き兄弟の活動の裏方として、飛行機製作とメンテナンスなどで活躍し、米国航空界の発展に貢献する。

 彼の誕生日五月二十四日は、現在米国四十五州ほどで航空整備士の日となっており、航空整備のパイオニアとして敬意が払われている。


 一九〇一年七月七日、兄弟は再びキティホークへ向かった。

 デイトン駅で兄弟は、重いボストンバッグを引きずりながら汽車に乗り込んだ。

 二人の母親代わりをしている妹キャサリンは、今回も駅のホームで見送った。

「定期的に手紙を出してね、心配だから」

「ああ、わかっている。店を頼むよ」

 キャサリンは、走り去る汽車が見えなくなるまで見送った。今年は昨年と違い二人を同時に見送ったこともあり、二人がいなくなると急に、寂しさを感じていた。

 実を言えば、兄弟を送り出す前の数日間は、家の中が戦場のようであった。

 ウイルバーもオービルも最後の準備で殺気立っていたし、機体の部品梱包のため家中に部品が広がり、足の踏み場がないほどであった。キャサリンも、兄弟の旅行の用意で身の回り品やキャンプ用品の準備で忙しかった。

 兄弟の会話も朝から晩まで飛行関係のことだけであったから、キャサリンには気が狂いそうな環境であった。一刻も早くこの状況から逃げ出したいと思うこともあった。しかしいざ二人が出かけてしまうと、出張で父のいない家の中は一人ぼっちになる。緊迫した喧噪から全くの静けさへと、その落差が激しいだけに、ぽっかりと穴があいたようになった。

 しかしキャサリンは寂しさを感じる一方で、また違う目でも兄弟を見ていた。

 ウイルバーは昔閉じこもりの状態になったことがある。今ではそれが完全になくなり、すっかりグライダーに没頭している。その元気に活動する姿を見ると安堵する気持ちもあった。

「ウイルもあんなに元気になってよかったわ。外に出かける時は、生き生きとしている…」


 ウイルバーは十八歳の時、ホッケーをしているうちに、相手と交錯してスティックで顔面を強打され、前歯を数本折る大ケガをしたことがある。ケガそのものは数週間ほどで治ったのであるが、それを契機に明らかに人が変わってしまった。それまでは学業も優秀、スポーツも万能で、人を笑わせるユーモアを持つ明るい性格の持ち主であった。それがその事故以降は、食欲もなく身体の不調を常に訴えるようになり、外出を控え家に閉じこもるようになってしまった。父ミルトンは、ウイルバーが精神を病んでしまったと、とても心配していた。

 ただウイルバーが、外出しなくなった至当な理由が一つあった。当時は母スーザンの介抱をウイルバーが一手に引き受けていた、という事情である。

 その数年前に母が結核になったとき、上の二人の兄はすでに家を出ており、ウイルバーが年長であった。オービルとキャサリンは、まだ小中学生で父は出張が多いという状況では、自然の成り行きでウイルバーが母の面倒を見ることになった。それでも明るく律義なウイルバーは献身的な介抱を続け、母からも父からも深く頼られる存在となっていた。

 そんな中でホッケーの事故が起きたのである。

 それまでウイルバーは、エール大学をめざして予備授業を受講していたが、このケガの後それを諦めてしまった。自分がエール大学に入学し家を出てしまうと母の面倒を見る人がいなくなってしまう、と理由を言っていた。それは理にかなうことではあったがしかし、あれほど学問に熱心であった彼が簡単に諦めてしまうのは不自然だと誰もが思った。

 理由はともかく、ウイルバーは家に閉じこもる生活が続いた。

 そしてみんなの看病の甲斐なく、一八八九年七月母スーザンが他界した。

 明るく誰からも愛されていたスーザンの死に家族全員が悲しんだが、ずっと付き添い精神的にも深く関わっていたウイルバーはひどく落ち込んでいた。このためさらに部屋に閉じこもる時間が増えるようになった。家族は誰もがみんなこれを心配していたのである。


 ただ、この悲しい出来事の前後に大きな転機も訪れていた。

 高校生になったキャサリンは、それまでウイルバーが担当してきた家事を一手に引き受けることになった。十五歳にもなれば料理も掃除も家のことをしなければならない。それに知的な兄が家族のためとはいえ、家の雑用を喜んでやっているわけがない。これから開放しなければいけないと思ったキャサリンが、それを引き受けたのである。

 一方オービルはこれに前後して、印刷業を開始することを決断していた。

 彼は数年前より夏休みなどを利用して、印刷の見習いに出ていた。木を自分で彫り印刷するのが大好きであった。これが面白く学業と並行して印刷業を始めていた。ただ自分に期待する母の手前、学業を放り出すことを遠慮していた。しかし母の死を契機に印刷業に専念することを決意したのである。家計を助けたい、という思いがあった。

 そんなときにオービルが一計を巡らせ、自分の仕事にウイルバーも引き込もうと考えた。

 家の中で本を一日中読んでいては、そのうち本当におかしくなってしまう。ウイルバーにも何か仕事が必要だ。外に出て働くことは現実問題として難しいだろう。兄弟で一緒に仕事を始めるのが一番いい。そしてそれはオービル自身にとっても都合がよかった。

 印刷業を始めるためには印刷機が必要である。

 それを買うお金はないから、オービルは自分で作ろうと考えた。その印刷機の製作に、兄を巻き込もうと考えたのである。さらに印刷する対象がなければ収入が得られない。それをいきなり外に求めるのも少し無理があるだろうと思い、自分で新聞を発行することを計画した。そしてその編集長を兄に頼もうと企てた。

「兄さん、ちょっと相談がある」

「どうした」

「ここに印刷機の設計図がある。俺が自分で設計したんだ。これを作ろうと思うけれど手伝ってもらえないか」

「印刷機を自分で作るのか?」

「ああ、まず図面を見て欲しい」

 ウイルバーは、つたない手書きの図面をじっくり見ている。

 もともと新しい機構を考えることや物を作ることが好きな兄である。しかもこの図面を弟が書いたとなればしっかり見ないわけにはいかない。そしてオービルの企て通り、ウイルバーは印刷機の設計とそして製作に没頭するようになった。

 二人で印刷機を作り上げると、オービルはウエストサイドニュースという週刊新聞の発行を提案した。

「それに編集長として記事を書いて欲しいんだ」

 ウイルバーは、その申し出をこころよく引き受けた。

 それからは二人でデイトンの街に出向き、ニュースを探し回わる日々が始まった。そして記事を書き新聞を自分達で印刷し発行する。この一連の作業を楽しんだ。オービルの思惑通りウイルバーはこれにすっかりはまり込み、どうやらケガのトラウマから抜け出しているように見えた。

 父ミルトンも妹キャサリンも、そういう二人を見てほっとしながら見守っていた。

 こうしてオービルとウイルバーの二人三脚が再び始まったのである。子供のころ一緒に走り回ったコンビの復活であった。その後は自転車に熱中し、そして写真に熱中し、今はグライダーに熱中している二人である。


 その兄弟が、キティホークへ向かっている。

 兄弟は今回長期滞在になることもあり、前回の滞在で不便に感じていた点の対応を考えていた。一番大きなことはグライダーの作業場所、保管場所として小屋を建てることである。強い風とそれで飛ばされてくる砂は、組み立てや修理作業の大きな妨げであった。さらに雨露にさらされるのを避ける意味もある。その小屋を自分たちで建てるための木材を、エリザベスシティで購入した。

 さらに水の用意である。昨年のキャンプ地はキティホーク住宅地近くであったが、今年はそこから五、六キロ離れた、何もないキルデビルヒル付近に設営する予定にしている。その場合、水をキティホークから運ばなければならず、それは大変な作業となる。そこで井戸を掘ることにした。海岸近くであれば掘ると水の出ることは、ビルから聞いて知っていた。そこで井戸を掘る道具と手動の汲み上げポンプを用意してきた。

 兄弟がキルデビルヒル付近を今年のキャンプ地に選んだ理由は、この丘が滑空テストするのにちょうどよい高さであり、かつ近くに民家がないただの砂地地域であるからである。昨年飛行したのがここである。

 このキルデビルヒルという名称は、その昔難破船が積んでいたラム酒をここに隠したことに由来し、悪魔デビルを殺すほど強い酒のある丘という意味だという。兄弟はこの丘の北側にキャンプを張ることにしていた。


 兄弟は雨の降る中、購入した木材や食料品その他多くの荷物を乗せた台車を引いて、キティホークに到着した。

「よく来た。今年はずいぶんと早く来たんだね」

 ビル・テイトが、笑顔で出迎え兄弟の再訪を心から喜んだ。

 この何もない辺鄙なところで暮らしている者にとって、あのグライダーほど刺激的なものはなかった。最初は奇妙に思っていたグライダーも、飛行テストを繰り返すうちに、ビル自身もすっかり夢中になっていた。その記憶が鮮やかに甦り、再びあの飛行テストを見ることができると思うと自然と血が騒いだ。

「疲れているだろう。今日は是非うちに泊まりなさい」

 兄弟はテントを張ろうと思えば張ることもできたが、その言葉に甘えて泊めさせてもらうことにした。実際の所、長旅の疲れがたまっている。しっかりしたベッドで眠りたかった。アディーがまたおいしい手料理をごちそうしてくれた。フレンチサテンの洋服を着た二人の娘とも楽しい時間を過ごし、テイト家の心のぬくもりを感じながら、固いベッドの中で深い眠りについた。


 次の日から二人の作業が始まった。

 兄弟は郵便局からキルデビルヒルのふもとまで荷物を運んだ。

「さて今回は飛ぶ前にすることがたくさんあるぞ。それを早くかたづけてしまおう」

 二人は前回以上に、この合宿にかける意気込みは大きかった。

 前回の問題点、揚力不足を解消したはずのグライダーを持ってきた。これで今回は翼を捻って旋回する飛行テストができるはずである。それを早く試したかった。

 しかしその前に、テントを張り、井戸を掘り、木造の小屋を作った。小屋は手作りではあるがそれなりに立派なものになった。幅五メートル奥行き七メートルほどで前面と後面の板壁全体を、そのまま外側に持ち上がるようにした。これを開けておけばグライダーの出し入れが容易にできるだけでなく、暑い太陽の日よけにもなって、ここに椅子と机をおけば簡単な司令所ができあがる。


 最初の数日は雨に降られたため作業は遅れがちであったが、兄弟は手際よく準備を進めた。

 一週間ほどして兄弟に来訪者があった。

「こんにちは、エドワード・ハファカーです。シャヌートさんから聞いていると思うけれど、今回のキャンプに参加させてもらうよ」

 兄弟のキティホーク二回目の合宿では、急きょ違うメンバーが参加することになっていた。

 グライダーについて兄弟が何度か相談しているシャヌートが、ライト兄弟がキティホークにてテスト飛行することを知って、仲間を参加させてもらえないかと、打診してきていた。兄弟は本音では二人だけで合宿を行いたいところであったが、シャヌートの申し出を無碍に断ることもできずに、それを承諾していた。そしてその結果としてこのエドワードがやって来たのである。さらにシャヌート自身ともう一人が合流予定であるから、今回は総勢五人のキャンプとなる。

 このエドワードはシャヌートとグライダーのテスト行っているメンバーの一人であるが、スミソニアンで働いた経験があり、ラングレー会長のエアロドロームの製作にも携わっていたという。今回はシャヌートの新しいグライダーを一緒に飛ばすことが目的でここにやって来た。

「ええ聞いていますよ。今我々はまだグライダーを組み立て中です。どこかそこら辺にでも座っていてください」

「私たちの機体はまだ届いていないようだね。それまで待たせてもらおう」

 エドワードは材料がなければすることもなく、小屋の端に座って兄弟の作業を眺めた。グライダーを自作するエドワードも、他人のグライダーがどういうものか興味があった。兄弟のグライダーはまだ組み立てが始まったばかりながら、主翼の一枚ができあがりつつあった。

 エドワードはその大きさに驚いていた。翼長六.五メートル、翼弦二メートルもある。こんなに大きなグライダーは今まで見たことがなかった。さらにその作りの良さにも驚いた。桁やリブなどの各木材片の仕上げはきれいであるし、翼の布は薄めのモスリンでできていて、縫い目もしっかりしている。これが適度の張りをもって翼をきれいに形作っている。とても素人の作業には見えず職人による仕上がりのようであった。

「しかしこれは、ずいぶんと大きな翼だね。そんなのでうまく飛べるのかい」

 ぞんざいな口のききかたが兄弟は気になっていたが、昨年の飛行の様子を説明した。

「これより小さいグライダーで、一二〇メートルも飛べたらすごいじゃないか。なかなかやるね」

 エドワードは小屋の片隅に座り、兄弟の作業とグライダーに熱い視線を注いだ。


 この年のキャンプでは、初めから雨にたたられ作業が思うように進まなかったため、兄弟はイライラしていた。しかしようやく快晴の日となって、久しぶりに外に出て太陽を見ることができた。

 兄弟はさわやかで新鮮な空気を吸い込んだ。

「雨が続くと気分も湿ってしまうが、やはり晴れると気分がいい。こういう天気が続いて欲しいものだね」

 兄弟は久々に外のさわやかな空気に触れて喜んでいたが、この晴れ間がとんでもない災難を兄弟にもたらした。全くの招かざる客、蚊の大群も雨が上がるのを待っていたのである。蚊の一匹や二匹なら問題ではないが、その数の多さが半端ではなかった。

 兄弟はまだ知らないことであったが、この地域では海から風が吹く時は問題ないのであるが、陸からの風、特に北西の風になると大変なことになる。北西のエリザベスシティ方面に蚊の発生源があり、そこから蚊が大量に風に流されてくるのである。

 しかもこの年は運悪く数年に一度あるかないかの蚊の大発生があり、まさに兄弟達のキャンプ地を目指して大挙してやってきた。空は蚊で暗くなり地上の砂地、木々、家屋など全てが蚊で覆われてしまうほどになった。まさに異常事態であった。


 最初に気がついたのはオービルであった。

 雨上がりの空を見上げていて、ふと北西のほうを向いて驚いた。

「なんだ、あれは?」雲のようで雲ではない何かが、近づいて来るのが見えた。

 その何かが蚊の大群であることに気づくのに時間はかからなかった。

 異変に気がついて、あわてて兄弟達は小屋の中に逃げ込んだ。

 しかし時すでに遅かった。あっという間に蚊の大群に飲み込まれ、誰もが身体中を刺されてしまった。オービルはたまらずそのまま小屋のベッドにもぐり込み、毛布にくるまった。毛布にすき間を開けてどうにか鼻だけで息をする情けない格好になった。その暑苦しさに我慢できずに毛布から出ると大変である。その瞬間蚊に襲われることになった。蚊の大群が通り過ぎるのをじっと待つしかなかった。

 しばらくして毛布から出てきた時は、手も足も顔も膨れ上がっていた。

「これなら蜂にでも刺されるほうがずっとましだ」

 と蚊に刺された顔でビル・テイトに愚痴を言ったが、あとの祭りであった。

 ウイルバーもオービルもこの地では夏にこういうことが起こりうることを、身を持って知ることになった。北西の風は要注意としっかり心に刻んだ。この年急いでキティホークにやって来たことをこの時ばかりは後悔した。雨に降られ、蚊に刺され、とこの年はさんざんな幕開けとなった。


 七月二十五日、シャヌート仲間の二人目、ジョージ・スプラットが合流した。

 兄弟の最初の印象では、なぜシャヌートがジョージを合宿に参加させたのか理解できなかった。というのは彼が機械的センスがあるようには思えず、また技術的なことに無頓着であったからである。ただよく働き森や原野についての見識は深く、フライトに関する夢物語はその語り口調が面白いので、兄弟は次第に彼が好きになった。

 兄弟は知らなかったが、ジョージは医学的知識を持っており医者のいない僻地でテストする兄弟を心配して、シャヌートが送り込んだのであった。

 一方先に来ていたエドワードは、機械的センスがあり面白いアイデアも持っていたから、飛ぶ機械に関しては有能な人物のように見受けられた。しかし傍若無人なところがあり粗野でもあった。精密機器で丁寧に取り扱うべきストップウォッチや風速計を砂の上に放置して平気でいたり、兄弟が何よりも大事にしているカメラの箱を椅子代わりに使ったりしていた。

 こういう所作は兄弟としては我慢のできないことであり、頭痛のたねとなっていた。

 ともかくエドワードとジョージが加わったなかで新しい機体の準備も整い、ようやく飛行テストができるようになった。その間にビル・テイトの親戚であるダン・テイトも手伝いとして加わり、ビルも含めて総勢六人でテストを開始することになった。


 今年のキャンプは、揚力の確認とそして翼捻りの確認が主目的となる。

 昨年は想定した揚力が出なかったため、一番のポイントとなる翼捻りに関して充分な確認ができなかったが、今年は翼の面積をほぼ二倍にしたから、揚力は充分出るはずである。それが出れば高度を上げた飛行も可能となり、機体がはっきりと傾くほどに翼捻りの操作を行うことができる。全てがうまくいけば、オービルの初飛行も実現できるだろう。それが目標であった。

 まずは昨年同様に平地で凧のようにしてテストを行い揚力と抗力を測定したあとで、キルデビルの丘から滑空テストを行うことにした。

 揚力確認では前回同様にばねハカリをロープにつけて、迎え角・風速・搭載重量など種々の条件のもとでデータを細かくとった。当然の結果ながら、翼を大きくしただけ揚力が増していることが確認できた。ただしリリエンタールの表と、整合性のないことに変わりはなかった。それはともかく、これだけの揚力があれば、今回は滑空テストを充分行うことができるだろう。そしてそれは翼捻りの確認ができるということであり、とりあえず一安心できた。

 ウイルバーは、ロープを付けたままの凧の状態にしてグライダーに乗り込み、操縦系統の確認を行った。今年は翼捻りの操作方法を変更していた。昨年は足のペダルで操作する方式であったものを、今回は身体を台に乗せて、その台を左右に動かして操作する方式にしてある。その操作性を確認すると、昨年より容易かつスムーズに機能していることが確認できた。

「今度はかなり操作しやすい。これなら飛行中でも簡単に操作できるだろう。いい感じだ」

 ウイルバーは、新しく考えた機構が期待した通りの動きをしていることに満足していた。今度こそ本来のテストができそうである。凧の状態のままでしばらく操縦練習を繰り返した。


 凧の状態での確認を終えると、いよいよ滑空テストである。

 パイロットは前回同様ウイルバーである。あとの五人が飛行時の補助として翼端保持などをかわるがわる行うことになる。

 兄弟は丘の上に機体を運び上げた。ウイルバーは前回と同じように、飛ぶ前になっていいようのない緊張感を持ち始めていた。

 初めてグライダーの飛行を見るダン・テイトも、期待が膨らんでいた。

 丘に登ると周囲に何もなく、一望に視界が開ける。

 東には広がる海と水平線がきれいに見えている。北は遠くキティホークの集落が見え、そこまで砂地が続いている。南も北と同じく一面砂地が続く。西は内海の向こうに遠く内陸の緑が鮮やかに帯のようになって広がっている。東西は三キロほどと狭いが南北はどこまでも障害物がなく、そして海からのほどよい風も継続して吹いている。飛行テストするには最適の場所であった。


 エドワードが、ストップウォッチを持ち飛行時間を測る。

 ジョージが風速計で風の強さと向きを確認している。風力は充分である。

 兄弟は機首を東に向けてセットした。海に向かって飛びだすことになる。

 ウイルバーは前回の飛行のことをよく覚えていた。回数は少なかったが、滑るように飛んだあの心地よい感覚を、つい昨日のことように思い出すことができた。しかし実際にはもう一年近く経っている。今年最初の飛行を前に、丘の上から下を見ると少し恐怖感がでてきた。昨年と同じように飛べるかどうか、いざ飛ぼうとすると不安が頭をよぎった。

 最初のこの飛行に誰もが期待していた。兄弟にすればこの飛行で、揚力アップの効果が確認できるはずだと期待している。エドワードとジョージは、兄弟の飛行を初めて見る期待感がある。ダン・テイトはグライダーの飛行そのものを見るのが初めてである。

 ウイルバーは気持ちを整えて、そして大きく呼吸してから合図を出した。

「よし、行こう」

 オービルとビルが、翼端を支えながら走り出した。

 砂に足を取られながらも懸命に機体を持って走る。ウイルバーがタイミングを見計らって足をあげ、機体の中に身体を乗せて腹這いの姿勢をとった。そしてすぐに昇降舵のバーを握り、機体の姿勢をコントロール出来る体勢を整える。オービルとビルは機体のスピードが増すと押し出すように手を離した。 

 うまく飛び出した、とオービルは思った。

 しかし皆の期待を完全に裏切るかのように、とても飛んだとは言えないような距離で着陸してしまった。手を離した地点からせいぜい四、五メートルしかなかった。

 オービルは予想外の結果に驚き、すぐに駆け寄り声をかけた。

「ウイル、どうしたんだ!」

「わからない。風はあったしタイミングよく飛び出せたと思う。だけれど浮く感覚が全くなかった。どうしたんだろう?」

 見ていたジョージ達も困惑した表情をしている。

 兄弟の飛行を期待していただけに拍子抜けしていた。

「本当に去年一二〇メートルも飛んだのか? 一二〇センチの間違いじゃないのか?」

 エドワードが皮肉を言いながら、上から兄弟を見おろしている。

 兄弟もこの結果に困惑していた。もしかしたら離陸時のタイミングがうまくいかずに、飛ばなかったのかもしれない。前回から一年経過しているから、身体の動きがまだ馴染んでいなくてもおかしくない。とりあえずもう一度トライすることにした。

 しかし二回目も五、六メートルで着陸してしまった。ほとんど同じ結果である。

「一体どうなっているんだ。全く飛ぶ気配がないぞ」

「何故だかわからない。タイミングはあっているのに機体が浮き上がる手応えをまったく感じない。どういうことだろう」

 兄弟は首をひねった。飛びかたの問題ではなく、機体の問題であることは明らかだった。

 前回よりも翼を大きくし、実際に凧の測定で揚力が充分出ていることは確認している。それにもかかわらず、飛ばないことが全く理解できなかった。


 兄弟は少し動揺しながらも、ジョージとエドワードを交えて今回の飛行内容について議論した。その結果、落ちるような着陸の仕方から判断すると重心が前過ぎるのではないか、ということで身体を少しうしろにして乗り、重心位置を移動させて飛んでみることにした。

 ウイルバーは機体のなかで身体を少しだけうしろにずらし、そして飛んでみた。すると少し飛行距離が延びた。機体が浮く感じも少し出てきた。さらに身体をうしろにしてみるとまた距離が延びた。どうやら重心位置が悪かったようである。

 そしてウイルバーは、思いっきり手を伸ばしてやっとどうにか昇降舵がつかめるという位置まで下がってみた。姿勢としては非常に不格好である。しかし、これで重心がちょうどよい位置になったのか、やっとまともな飛行ができるようになった。

 今度は一〇〇メートルほど飛んだ。昨年と同じようにスムーズな飛行となった。

 ジョージとエドワードは、その飛行に目を見張っていた。

 さきほどまで、全く飛ばない兄弟のグライダーにがっかりしていたが、今度は一転してきれいな飛行を見て驚いた。そのフライトは今まで自分たちが経験したものよりも、安定感のあるすばらしい飛行であった。

 ウイルバーは引き続き何度か飛行し、同じような距離を飛んだ。

 無理な姿勢での搭乗ではあるが、これでどうにかまともなテスト飛行が続けられそうであった。


 兄弟はテスト飛行を繰り返したところ、十回ほどフライトしたあとで事故が起きた。

 滑空を始めた後、機首が上がり続け五、六メートルほどの高さで失速状態に入った。リリエンタールが事故を起こしたのと同じような状況になった。

 これを見ていたオービルは、リリエンタールのように機首から落ちる光景が頭をよぎり、思わず「危ない」という叫び声をあげていた。

 顔は真っ青になっていた。

 ウイルバーはとっさに昇降舵を押さえた。しかし機体は反応しない。

 だめだ、と思うより早くウイルバーは身体を前に移動させた。そのために重心が前に移動し、機体は少し安定を取り戻した。しかし滑空姿勢になる前にそのまま落下し砂地に墜落した。墜落というよりは水平姿勢を保ったままで着地したような格好であった。幸いにもその姿勢のために衝撃は小さかった。オービルとビルは慌てて機体へ駆け寄った。

「ウイル、大丈夫か」

「…大丈夫だ。…ケガはない」

 ウイルバーは突然の出来事に呆然としていた。どうして今のような飛行になったのか理由がさっぱりわからなかった。操縦は今までと全く同じように行い、特に変わったことはしていないにもかかわらず自然と機首があがってしまった。

 理由はわからなかったが、ウイルバーはとりあえずもう一度飛行してみた。

 しかし今度も同じように機首が上がり失速状態になってしまった。ただし今度はうしろに向かって滑り落ちるように落下、着地した。そのため運のいいことに、今回も枯葉のような軟着陸となりケガはなかった。

 しかしこのまま継続することは危険と判断し、兄弟はこの日の飛行を中止した。 

 兄弟にとってこの事故は、どうにも不思議であった。

 二回連続で失速状態になったということは、重心がうしろ過ぎることを意味しているように思えた。しかしそれはその前の現象と相反している。最初の飛行では重心が前にあり過ぎるとの判断で、身体をうしろにずらして乗ったことで、正常な飛行ができるようになった。ところが今度はその姿勢で失速したということは、重心がうしろ過ぎることを意味している。

 なぜ、全く逆の現象になるのか、兄弟には理解できなかった。


 次の日は日曜日であり、キリスト教徒にとって安息日は休みの日である。

 兄弟はこの時間を使ってこの問題をじっくり話し合ったが、議論は空回りしていた。ジョージにしてもエドワードにしてもその現象を説明することはできなかった。結局四人はその現象の原因をつきとめることができないまま月曜日を迎えた。

 兄弟は不安を抱えたままではあったが、飛行テストを再開することにした。

 しかしさらに兄弟を困惑させる現象が起こった。

 まず再度失速する覚悟を持って、土曜日と同じように腕を思い切り伸ばす姿勢で飛行してみた。すると意外なことに、今度は機首が下がってすぐに着陸してしまったのである。これは最初の飛行と同じ現象である。つまり体重を後ろに移動してもなお重心が前にあるということを意味している。これは土曜日の現象と矛盾していた。

「一体これはどういう事なんだ。まったくわけがわからなくなった。しかたがない、もう一度凧でのテストからやり直してみよう」

 起こる現象が振り子のように揺れ動いており、兄弟をもてあそんでいるかのようであった。

 兄弟は迷路に入り込んだような状態に陥っていたが、ここはもう一度仕切り直しの意味で、凧でのテストからやり直してみることにした。


 そしてグライダーをロープにつないで凧としてテストしてみると、このテストではやはり充分な揚力が出ていた。また翼捻じり操作もうまく反応しており、まったく異常は感じられなかった。

 これはつまりグライダーで実際に飛行するときにのみ、何か不安定要素が出てくるということになる。それが何故なのか、わからない。

 兄弟は大きな壁に突き当たっていた。

 兄弟は頭を冷やしてから、基本に戻って考えた。

 つまりグライダーのバランス、重心と揚力中心の関係について考え直した。

 飛行機が安定して飛ぶためには、飛行中にバランスがとれていることが重要である。つまり重心の位置と揚力中心の位置のバランスが取れているかどうか、ということである。

 重心の意味が「物体の各部に働く重力をただ一つの力で代表させるとき、それが作用する点を表す」のと同じように揚力中心の意味は、「翼の各部位に働く揚力をただ一つの力で代表させるとき、それが作用する点を表す」ということである。もし重心と揚力中心が同じ位置にあれば、その機体は安定する。もし重心と揚力中心がずれていれば、機体はそのずれた方向に動く。その位置関係がうまく調整できれば、それはつまり機体をうまくコントロールできるということで、飛行機を意図する方向に飛ばすことができる。

 ウイルバーとオービルは、この位置関係について土曜日と今日の現象を考えてみた。

 土曜日は失速し、うしろ向きに突っ込んだ。これは重心がうしろにあり過ぎた、ということになる。今日は機体が上がらずに、すぐ前に突っ込んだ。これは重心が前にあり過ぎた、ということになる。しかし、ウイルバーが搭乗した位置は同じであるから、重心位置は同じはずである。とすると、土曜日と今日で揚力中心がずれた、ということになる。

 そういうことがありうるのか?

 兄弟には、ひとつ思い当たることがあった。

 この機体は前方に昇降舵を付けている。これで機首を上下させるのであるが、この昇降舵でも揚力が発生している。昇降舵を上下に動かすことで揚力の大きさが変わるから、それはつまり揚力中心が変わるということである。今回はその昇降舵の操作具合により、この現象が起きたものと結論づけた。

 しかしそれが本当に原因だとすると、もうひとつの疑問が出てくる。

 何故今年それが起きたのか。昨年の飛行の時も同じように昇降舵の操作をしている。しかし昨年は全ての飛行が安定していて、今年のような現象は全く起きていない。それがどうしてなのかがわからなかった。

 ともかく、今直面している揚力中心が不安定になるという問題を解決できなければ、また翼を捻り、機体を傾けた旋回をすることなくデイトンに帰らなければならない。兄弟はなんとしても今年のキャンプで、そのテストを実施したかった。どうにか対策を考え出そうと知恵を絞った。


 しかし兄弟は考えに行き詰まっていた。どうすればいいのかわからなかった。

「いっその事、変更したところを元に戻してみよう…」

 ウイルバーが、視点を変えて提案した。苦し紛れではあるがそれもいいかもしれないと思った。

 前年安定した飛行ができていたにもかかわらず、この年不安定な飛行になっているのは、構造上変更した箇所が原因となっている可能性がある。それを元に戻してみようというのである。

 今年の機体で昨年から大きく変えたところは二つあった。

 一つは、翼を大きくしたこと。

 もう一つは、キャンバー(翼断面の反り)を変更したことである。

 この二つのうちのどちらかが悪さしていると考えるのが自然だろう。とすればどちらかを改造して元に戻せばよい。

 まず翼の面積を大きくしたことについては、そのために揚力中心が不安定になるというのは少し考えにくい。そもそも不足している揚力を増やすために、面積を大きくしているのだから、改造して元に戻すことは意味をなさない。

 そうであれば改造する案はキャンバーしか残らない。

 キャンバーについては、前年二十対一なのに比べて今回は十二対一と湾曲を大きくしている。今回キャンバーを大きくした理由は、その方が大きな揚力になるという実験結果に基づき、リリエンタールのグライダーと同じにしたのである。

 この件についてジョージとエドワードは過去に同じような現象を経験しており、キャンバーに原因があるのではないかと、かすかな疑問を持っていた。それで二人は兄弟にその変更を提案していた。しかし今回のものはあのリリエンタールが使っていた数値であり、兄弟はこれを変えることには当初抵抗があった。しかし揚力もリリエンタールの表通りの結果が得られていないということを考えると、この数値も疑ってよいかもしれない。実際のところ、今このキティホークで試すことのできることといえば、この案しかなかった。

 結局彼らの提案通りに兄弟はキャンバーを変更することを決断し、その作業に入った。


 兄弟のこの作業が始まると、エドワードもシャヌートのグライダーの組み立てを開始した。エドワードがもともとここに来た目的は、彼らのグライダーのテストをするためである。それにもかかわらずグライダーをこの時まで組立ていなかった。

 一方ジョージはエリザベスシティに買い出しに行き、たくさんの食料、くだもの、それにアイスクリームまで買ってきた。辺鄙なキティホークでは食料の種類も限られていたから、買い出しに行くことはショッピングの楽しさがあった。また帰りを待っている方も彼が何を買って帰ってくるのか、それに思いを巡らせるという楽しみがある。変化の少ないキャンプでは買い出しが一つの楽しみとなっていた。

 悩んでいる兄弟にとっては、こういう些細な変化でも精神的なやすらぎをもたらした。


 この買い出しはちょうどタイミングのよかったことに、次の日シャヌートがやってきた。食べ物が豊富になったところで、シニア技術者を迎えることができた。

 シャヌートは自分のグライダーでの飛行テストが目的であるが、まだグライダーが組み立てられていないのを見ても怒ることなく、ライト兄弟のグライダーを興味深く観察した。彼は翼を捻って姿勢を変えるという、新しい試みに非常に興味を持っていた。それを実際に見てみたいと思い、それが楽しみでやって来たのであった。自分のグライダーのことよりもむしろ、ライト兄弟のグライダーの方が気になっていた。

 シャヌートが見守る中、兄弟は改造したグライダーを凧のようにして、その揚力を再度調べた。改造前よりも多少揚力は低くなっていたが、それでも飛行するのに充分な揚力は出ていた。その後いつものようにデータを記録し、そして飛行テストを再開することにした。


 八月八日、風はいつもより弱めではあるが十メートル以上あった。飛行テストするには充分な風である。みんなで兄弟の改造したグライダーを丘の上に運んだ。

 ウイルバーはいつものように機体の中に入り、飛行準備を整えた。そして丘の下を眺めた。

「これでうまく飛んで欲しい」、ウイルバーは祈るような気持ちになっていた。

 もしもこの改造で効果が出なければ、もう打つ手はない。何もできないままデイトンに帰ることになってしまうだろう。それはもしかすると、空を飛ぶことをあきらめることを意味するかもしれない。それは最も起こって欲しくないことである。神妙な面持ちで位置についた。

 ---よし、行こう---

 ウイルバーの合図で、翼端を持っているオービルとジョージが一緒に走り出した。シャヌートも注目して見守っている。丘の上から三人が走り下り、大きな機体が宙に浮いた。

 オービルはいつもと同じように投げ出すように手を離した。今度はうまく滑るように飛行している。飛び去るグライダーを目で追った。機首が落ちることもなく、逆に上がることもなく、斜面に沿うように飛び続けている。昨年同様のきれいな滑空を見せていた。

 ウイルバーも飛びながら手応えを感じていた。 

「この感覚だ…。これは去年と同じ感覚だ。これでいい…」

 昇降舵の効き方が昨日とは違いスムーズになっていた。明らかに改造の効果が出ているようであった。理由はわからなかったが、キャンバーを小さくした結果、バランスがよくなったのは間違いなさそうである。飛びながら嬉しさがこみあげてきた。

「手応えが全く違う。これで大丈夫だろう。もっと飛んでみよう」

 正常に着陸すると、再び機体を丘の上に運んだ。

 引き続きテスト飛行を繰り返したが、毎回問題なく飛行できるようになった。ようやく去年と同じような飛行ができるようになって、兄弟はほっとした。これで安心してテストを継続することができそうであった。兄弟は胸をなでおろした。


 シャヌートは、再開したウイルバーのそんな飛行をじっと見ていた。

 彼は去年の兄弟の飛行テスト結果を聞いて、このキャンプに来る前から大きな関心を持っていた。低空での傾き修正操作だけとはいいながら、その方法自体が画期的なものである。今回は揚力を大きくした機体で旋回操作を試みるとのことで、それを自分の目で見ようと、期待してここにやって来ている。

 兄弟にしても翼捻りが機能していることは去年確認しているが、しかしそれはごくわずかな傾きを修正しただけであり、機体を傾けた旋回操作はまだ試していない。

 ウイルバーは改造した機体で飛行を繰り返すうちに、操縦に慣れてきた。地面すれすれに飛ぶだけでなく、多少の高度をとって飛ぶこともできるようになった。機体を傾けて旋回するテストを行うことができる、充分な高さである。


「今度は機体をはっきりと傾けてみるよ」

 ウイルバーはオービルにその決意を告げた。いよいよ待望の翼捻りによる旋回テストを行う。

 思い返してみれば、自転車チューブの箱でそのアイデアを思いついてから、すでに二年も経っている。時間がかかってしまったが、それをようやく実機で試す時が来た。

 ウイルバーはその思いを胸に、機体中央に入った。

 オービルとジョージが翼端を保持する。

 ウイルバーは、台座を左右に動かす翼捻り操作そのものにはもう慣れていた。特に緊張感はなかった。今回はその動きを大きくするだけである。

 三人はウイルバーの合図で同時に駆け出し、ウイルバーは風を捕まえると身体を機体に乗せた。オービルとジョージも押し出すように翼端から手を離した。この一連の動きはもうみんな慣れている。それがあたりまえかのように、きれいに滑空を開始した。

 ウイルバーは飛びながら前を向き、水平線をじっと見つめた。

 水平線を見れば機体の傾きが判断できる。潮風が顔に強く当たっている。目を細めて前を見ながら昇降舵を操作し、少し高度をとった。旋回できるだけの高度になったあと、腰をゆっくり左に動かし、機体が左に傾く操作をした。機体は操作から心持ち遅れて、左に傾きだした。機首も引き続き左に向いた。

 ---確かに傾いて旋回している---

 ウイルバーは自分の操作により機体が傾き、そして向きを変えたことをはっきりと感じていた。

 機体が傾いたあと、今度は水平に戻す操作をしてみる。機体は操作した通り水平に戻った。そして水平姿勢を維持しながら着陸した。これが捻り操作により、初めての旋回飛行が成功したフライトとなった。

 オービルも他のみんなも駆け寄ってきた。

 丘の上から見ていても翼が捻れるのが目で確認できたし、そのあと機体がその方向に向いたことも確認できた。これは旋回操作がうまくいったことを意味していた。つまり翼捻りにより機体を自分の好きな方向に向けることができた、ということである。

 その意味の大きさをみんなが感じていた。

「ウイル、やったな。しっかり旋回していたぞ」

「ああ、期待通りの反応だった。うまくいった」

 二人は自然に握手し、その成功を祝福した。

 空箱でアイデアを思いついてから約二年、兄弟はようやく本物のグライダーで、翼捻りにより旋回操作のできることを実証することができた。ここに来るまで時間がかかっただけに、嬉しさもひとしお大きかった。そしてこれは、飛ぶ機械の実現に大きく近づいたことを意味していた。

 兄弟は先日までのもやもやしていた気持ちが一度に払拭され、心の底から晴れやかな気持ちになっていた。

 ジョージなども喜んで見ていたが、特にシャヌートにとって、その感動は一際大きかった。今まで何度もグライダーでの飛行を見てきたが、このキティホークで見たこの飛行ほど、印象的なものはなかった。


 その後もテスト飛行を繰り返し、順調な飛行と旋回を続けることができた。

 飛行回数もあっと言う間に百回を超え、ウイルバーは飛行技術を上達させていった。

 翼捻れの効果はまったく期待通りの反応を示していた。

 旋回飛行がうまくいき気をよくしていたウイルバーは、次第に自信を深め夢実現に向けての次のステップへと心を飛躍させていた。

「オーブ、どうやら翼捻りでの旋回は、思った通りに機能しているようだ。この調子なら来年はエンジンを搭載しての飛行に、挑戦できるかもしれない。今年はできるだけたくさん飛んで、飛行技術を磨いておこう」

「そうか。それは楽しみだ」

 オービルは、グライダーでの飛行がうまくいっていることを喜ぶ気持ちは大きい。そしてそれと同時に、俺ももうすぐ飛ぶことができるのではないか、という期待が芽生えていた。

 ともかくテスト飛行を繰り返し、飛行回数を重ねるに連れてウイルバーはもはや次の段階、つまりエンジンを搭載しての飛行に意識が移り始めていた。


 ところがそんな兄弟の期待をくじくかのように、新たな問題が起こった。

 旋回中に舵が効かなくなるという、不可解な現象が起きたのである。

 最初は小さな事故であった。

 ウイルバーが左に傾いた機体を水平に戻そうと操作したとき、その操作が効かないばかりかさらに左への傾きが大きくなって、そのまま左翼端が砂地に接触、着陸するという事故が起きた。そのため機体も少し破損してしまった。

 オービルは、これに驚いていち早く駆けつけた。それまでの順調な飛行とは違い、過去に見たことのない異様な飛びかたであったため心配になった。

「大丈夫か、ウイル。どうしたんだ」

「わからない。水平に戻す操作をしたのに戻らなかった。今までは素直に元に戻っていたのに、戻らなかったんだ。どうしたのかわからない」

 今まではずっと操作通りに機体が反応してきたのに、今回に限っては何故か操作が効かなかった。この理解できない出来事に兄弟は戸惑った。翼捻りのワイヤーが切れていないかなど確認したが操縦系統にも機体にも特に異常は見つからなかった。

「なんだか不思議だが、ともかくテストを続けよう」

 不可解ではあったが破損箇所をすぐに修理し、テスト飛行を再開した。その後しばらくはその現象が再び起こることはなく、今まで通りの順調な飛行を続けることができた。

 ところがテスト飛行を繰り返すうちに、二度目の事故が起きた。

 ウイルバーは右に傾く操作を行い、期待通りに左翼が上がるのを確認したとき、機首が急激に左に振られた。つまり意図とは全く別の方向に、機首が向いてしまった。さらに悪いことに、そのまま機体が左に大きく傾くと失速状態となり墜落してしまった。左翼端から砂地に接触し、機首が激しく砂地に突っ込んだ。

 接地と同時にウイルバーは前方に勢いよく投げ出され、昇降舵に激しく突っ込んだ。このとき顔面を木枠にぶつけ、鼻と目のまわりがあざだらけになった。今度は少し高度があっただけに大きな事故となった。

「大丈夫か、ウイル!」

 投げだされたウイルバーを見て、オービルは青くなって駆けつけて来た。今までは失速した場合でもフワリとした落下で、いずれの場合も柔らかく着地していた。今回のように機首から激突するように落ちたのは初めてである。

 それでもウイルバーは昇降舵の間から這いだしてきて、気丈にもすぐに立ち上がった。

「なんとか大丈夫だ。しかしどうなったんだろう。右に傾けようとしたら機首が急に左にもっていかれた。左翼がまるで何かに当たったような感覚だった…」

 そのあとのことは覚えていなかった。気がついた時には砂の上に投げ出されていた。


 この事故は兄弟にとって大きな衝撃であった。

 翼捻り操作はほとんどの場合、期待通りの反応を示していた。しかし意図に反する機体の動きが二度も起こった。兄弟は、自転車店でチューブの箱で捻りを発見してから今までずっと、右に捻れば右に、左に捻れば左に方向が変わるものと信じてきた。しかし今ここで実際に行ってみると、ほとんどの場合期待通りに動いているものの、たまに逆に動くという、不思議で理解できない現象がでている。翼を捻るという方法は、得体の知れない何か大きな欠陥をかかえているのではないか。そういう疑いがでてきた。

 ウイルバーは、目のまわりにあざができたことでも気持ちが暗くなっていた。

 父ミルトンや妹キャサリンは、事故の起こることをずっと心配していた。そんな父と妹に対し、危険な行為は一切しないと言って安心させてきた。今回はあざ程度で済んだが、もしもう少し高い高度で起きていれば、リリエンタールと同じ結果になっていたかもしれない。このあざのある顔で帰れば、父に見られてしまうだろう。そう考えるとウイルバーの気持ちは大きく落ち込んだ。

 ともかくこの事故で、兄弟はテスト飛行を一時中断した。

 兄弟が壁に突き当たり悩み続けている中、ジョージがキティホークを去り、そしてエドワードも帰っていった。さらに天気もくずれて雨も多くなっていた。天候までもが飛行を拒んでいるかのようであった。しかしとにかくその現象の理由がわからなければ、飛行を続けることは危険である。

「仕方がない。引きあげようか…」

 原因不明で対策することのできない兄弟は、仕方なく予定を切り上げてキャンプをたたむことにした。途中までは翼捻りでうまく飛行できると自信に満ちていたのに、その気持ちは一転していた。

 またもや大きな課題を、デイトンに持ち帰ることになった。


 二人は肩を落として帰路に着いた。

 今回キティホークに来る汽車の中では、希望に胸を膨らませ大いに話が弾んでいたが、帰りは全く対照的に意気消沈し口数も少なくなっていた。

 ---あの現象は一体どういうことなのだろう…---

 ウイルバーは、墜落したフライトが繰り返し頭の中に甦っていた。どうしても不可解であった。憂鬱な気持ちのまま、汽車の揺れに身体を任せた。

 ---あの翼捻り機構は、本質的に何か大きな欠陥をかかえているのかも知れない---

 見えていた希望が消え去り、すっかり自信を失っていた。

 リリエンタールの事故の時、単純に鳥と同じような旋回ができさえすれば、危険のない飛行ができるものと思い込み、そしてそれが実現できたと喜んだ時もあったが、事はそう単純なことではないことを思い知った。ウイルバーは今更ながらに、あの偉大なリリエンタールさえ命を落とした、空を飛ぶという未知のことに挑戦しているということを、改めて自覚していた。自分たちにそれが簡単に実現できるものと思っていたことは、甘すぎた思い上がりに過ぎなかったのか。

 悲観的になっていたウイルバーは、次第にこの翼捻り機構が根本的に成立しない方法のように思えてきた。これが成立しないということは、ウイルバーにとって空を飛ぶ夢が実現できないことを意味している。

「…ここまで多くの時間を費やし、そして多くのお金を使ってきた。それが全部無駄なことだったのかも知れない。……空を飛ぶことは考えていたほど単純ではなさそうだ。……いつかは誰かが成功することだろう。しかしそれはだいぶ先のことに違いない。きっと僕らが生きているうちには実現しないかもしれない…」

 もう飛ぶことを止めよう、という思いが頭をよぎった。翼の捻り方式が、方法論として成立しないのであれば続ける意味がない。ウイルバーはすっかり落ち込んでいた。


 一つの課題を解決して前進すると、次の新しい課題が前に立ちはだかる。

 二人の思いは揺れ動いていた。

 新規開発にはつきものであるが、それを乗り越えなければならないのがパイオニアの宿命である。

 人間が一番苦しいのは先が見えなくなった時である。

 今の苦しい努力が一体何になるのか。もしも全く無駄な努力をしているだけだとすれば、すぐに止めて違う道に進む方がいいはずである。これが成功につながる努力ではないとしたら…。

 ライト兄弟は、自分たちの目標に向かいつつその坂道の途中にいた。頂上はまだ視野の中にはない、つづら折りに続く山道。誰も通ったことのない山道。ここで立ち止まり引き返すのも、あるいは前に進むのも本人たちの意志次第であった。


 デイトンの家に帰ってからウイルバーは、失意の中でシャヌートに手紙を書いた。

 キャンプのお礼と、翼の捻りテストが失敗に終わったことについて、自分の見解を記した。それに対しシャヌートからは、あのテストは決して失敗ではなく成功だった、と勇気づける手紙が返ってきた。

 シャヌートは、翼の捻りがうまくいかない場合のあることは、小さなことだと思っていた。

 それよりもほとんどの場合、それがうまく機能していたことを高く評価していた。さらに翼長が六.五メートルもある大きなグライダーを、あれほど安定させて飛ばしていたことにも感嘆していた。リリエンタールが四メートルを超えるグライダーは危険だと警告していたのに、それをはるかに超える大きなグライダーであの見事な飛行を目の当たりにして、その完成度の高さに驚いていた。明らかにリリエンタールを超えていると思った。

 それだけではない。さらにその先を行くテストをしていることに、兄弟の将来性を感じていた。


 ほどなくウイルバーは、再びシャヌートより手紙を受け取りその内容に驚いた。

 シャヌートはこの頃、米国西部社会エンジニア協会の会長をしており、ウイルバーにその定例会議で講演してほしい、と依頼してきたのである。それほどシャヌートは兄弟のテスト飛行を高く評価していた。

 ウイルバーはこの申し出にひどく困惑した。翼の捻りテストは失敗しただけでなく、その理由すらわからない。講演する内容など何もない、と思った。これを当然断ろうと考えた。

「何を言っているの、ウイル。これは受けなければだめよ」

 キャサリンは、この依頼を断ろうとしている兄に対し、これを受けるべきだと説得した。

 彼女は落ち込み悩んでいるウイルバーを見て、病気の再発を心配していた。

 いまは何か気分転換することが、一番いい薬だと思っていたところにこの講演依頼である。この講演はウイルバーにとって全く新しい経験であり、新鮮な空気を吸うことになるだろう。

 さらにこの会議には科学者やエンジニアが多く参加する。そこで講演すれば新しい人脈も当然できることだろう。兄の交友の世界が大きく広がることにもなるはずだ、と思った。それもいいことである。

 キャサリンは、渋るウイルバーの背中を強く押した。

 ウイルバーは気が進まなかったが、シャヌートに対し、断るよい理由を見つけることができなかったこともあり、結局講演を受諾する返事を出すことにした。

「身なりもどうにかしないと、…あれでは貧弱すぎるわ。なんとか改造しましょう」

 ウイルバーはいつもよれよれのスーツを着ている。

 この講演自体が、兄の晴れ舞台でもあると考えたキャサリンとオービルは、衣服もこぎれいに決めたほうがよいと考え、古びたウイルバーの洋服の代わりに、オービルのスーツとワイシャツを貸すことにした。ウイルバーはこの着慣れない窮屈な弟の服で、シカゴの演壇に立つことになった。

 ウイルバーは緊張せずにはいられなかった。

 話しをすること自体苦手なのに加えて、今まで人前で講演をしたことなどなく、まして専門の技術者やその関係者を前にしての講演である。

 彼は、結局大学には行かなかったが、それは本人の意志の反するところであった。

 リッチモンド市から引っ越したあと、デイトン市の中央高校で高校課程を修了しエール大学の入学を目指していたが、母の病気が悪化したことなどを理由にそれを諦めていた。その後、二十七歳のころ真剣に大学に行くことを考え、一度は父の了解も得たこともあったが、それもうやむやになり、結局自転車店を続けている。本心としては学問を極めたい気持ちをまだ強く持っていた。

 そんな気持ちの中で、技術者たちを前に講演するのである。


 ウイルバーがシカゴに着くと、技術協会の会長であるオクターブ・シャヌートがわざわざ迎えに来てくれた。

 シャヌートは、個人が持つ技術を広く公開することで航空界の技術発展に貢献できるという考えを持っており、それを具現する場の一つが、この米国西部エンジニア協会での定例会議であった。シャヌートは会長としてこの会議を主催するにあたって、キティホークで強烈な印象を受けたライト兄弟を講師に呼び、是非ともその飛行実験内容を講演して欲しいと望んだのであった。

「遠いところよく来てくれたね。君の講演を楽しみにしていたよ」

「うまく話せるかどうか自信はありませんが、とにかく実験したことについてだけ話しをします」

「ああ、もちろんそれで充分だ」

 シャヌートは極端に緊張しているウイルバーを見て可笑しくなった。一言付け加えた。

「話に失敗しても、失速や墜落するのとは違って、ケガをすることもなければ死ぬこともない。心配しなくていいから、言いたいことだけを話しなさい」


 九月十八日、ウイルバーは技術者の聴衆を前に演壇に立った。

 ウイルバーは、エンジニアになることを夢見たが果たせず自転車店経営をしている自分が、今こうして自分の実験について、エンジニアを前にして講演することに武者震いしていた。最初この講演をいやがっていたが、演壇に立った今、背中を押してくれた妹に感謝していた。

 ウイルバーの講演に先立ち、シャヌートが彼の紹介を兼ねて簡単な説明をおこなった。

「昨今の航空界においては、飛行の安定性や操縦性の問題を解決する前に、軽量で強力なエンジンを載せることに注力する傾向があります。しかしその安定性や操縦性において、積極的にテストをしている人がいます。リリエンタールや私などがまだテストしたことのない、新しい実験をしています。私は数ヶ月前その実験に立会いこの目で見ましたが、その飛行のすばらしさに驚き、大いに感動しました。今日はその実験を行ったウイルバー・ライト氏に講演してもらいます」


 ウイルバーは大きな拍手に、顔を紅潮させながら話しを始めた。

 彼は自分の飛行に関する考えを述べる前に、リリエンタールをはじめとする先人の実績について簡単に紹介し、そして「飛ぶ機械」の三つの課題について説明を行った。一つ目は翼形状の研究で機体、エンジン、搭乗者の総重量を支えて飛行する能力を有する必要のある翼を作ること、二つ目は推力となるエンジンの研究、三つ目は飛行中における操縦方法の確立。このうち先の二つはほとんど解決されつつあり、最後の操縦方法がまだ残された課題で、この課題さえ解決することができれば、「飛ぶ機械」が現実のものになる、との見解を述べた。

 そして最後に、講演のメインテーマであるキティホークでの翼捻れによる飛行テスト内容について、これがつまり三つめの課題の解決を目的として行っているとして、スライドを使ってその内容を説明し、講演を締めくくった。

 会議のメンバーとしては馴染みのないテーマ「飛ぶ機械の実験」について最初は興味を持っていなかった聴衆も、ウイルバーがキティホークでの豊富な写真を見せたことと、控えめながら説得力のあるわかりやすい説明で、次第に熱心に聞き入っていた。

 ウイルバーは、この講演で聴衆に今まで兄弟が取り組んできた内容と、そしてこれから取り組むべき課題を説明しているうちに、それが自分自身の中での整理につながり、失っていた自信とやる気を取り戻していた。


 そして講演の内容を会報に載せることを依頼されていたが、一つ気になることがあった。

 講演の中でリリエンタールの表について疑問を投げかけていたが、これを活字にしてよいものかどうか。言葉で発する限りはその場だけであるから、大きな問題はないかもしれない。しかし活字になるとすれば話は別であった。全く無名で実績のない兄弟が、世界的に有名なリリエンタールのデータを否定しても、誰も信用しないだろう。もし活字にするのであれば、その裏づけとなる実験データをはっきり示す必要があると思った。

 また現実問題としても、リリエンタールの表の数値が信用できないと判断しているのだから、その代わりになるものを作成しなければ、グライダーの開発そのものに支障がある。

 ウイルバーはオービルと相談し、翼の大きさや形状などから、揚力を割り出すことのできるような表を、独自に作成することを決断した。

 これが、ライト兄弟の次に取り組むべき、新しい課題となった。

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