第一部 三 凧の試作と一九〇〇年のグライダー
ライト兄弟は凧のテスト機を製作することに前後して、飛行に関する資料にはすべて目を通し勉強していた。兄弟は先人の技術や開発実績を引き継ぎ、これらの上に立って飛行機の開発を開始することになる。
ライト兄弟が勉強したときの航空関係の主な技術関連書籍やレポートは、次のようなものがある。
『空中航行について』回転アームでの実験結果の記述。
著者ジョージ・ケイレイ(英)(一七七三~一八五七)
『プラノフォア』というゴム動力飛行機をパリの公園で公開飛行。
実験者アルフォンス・ペノウ(仏) (一八五〇~一八八〇)
『飛行術の基礎としての鳥の飛行』回転アームでの実験結果の記述。
著者オットー・リリエンタール(独)(一八四八~一八九六)
『飛ぶ機械の進歩』航空技術の歴史についてまとめたもの。
著者オクターブ・シャヌート(米)(一八三二~一九一〇)
『空気力学の実験』回転アームでの実験結果の記述。
著者サミュエル・ラングレー(米)(一八三四~一九〇六)
また、翼などの研究開発に必要な実験装置としては、次のようなものが存在していた。
*回転アーム実験装置
翼の揚力と抗力を測定する装置。ベンジャミン・ロビンズ(英)(一七〇七~一七五一)がそれまであった風車の実験装置を利用して、飛行機用の翼の実験に使用したもの。
*風洞実験装置
安定した空気の流れの中で翼の揚力と抗力を測定する装置としてフランシス・ウェンハム(英)(一八二四~一九〇八)が考案したもの。
ライト兄弟は、これらの情報や書籍に目を通し二人で議論して内容の理解に努めていた。
しかしこうした技術の中で、飛ぶために必要なものがひとつ欠けていることに気がついていた。それがつまり機体の旋回、機体を傾けるための方法論である。これは過去において誰も試していないだけでなく、考え方も存在していないように感じられた。
世界で誰も試したことのないこの課題。それに兄弟は取り組もうとしていた。
兄弟は空箱からアイデアを思いついたあと、すぐに凧の製作に着手しそれを作り上げた。
二枚の翼を持ったグライダーの形を模した凧の大きさは、翼長が約一.五メートル翼弦(翼の奥行き)が約三十センチ、翼の上下二枚の間隔は翼弦と同じ長さにしてある。支柱の取り付けは少し工夫が必要であった。上下左右が捻れて欲しいから、支柱を翼に固定するとしっかりし過ぎて捻れないかも知れない。そこで前後方向に動くようなヒンジを作り、翼端近くの支柱のみに取り付けた。これにより中央部はしっかり固定され、翼端は支柱がついていながらも捻れる動きができるだろう。
形ができあがると二人で両端を持ち上げ静かに捻ってみた。
スムーズな動きで確かに気持ちよく捻ることができた。
「いい感じだな。強度も充分ありそうだ」
これで捻れのテストができるだろう。しかし兄弟はさらに、二枚の翼の後方に突き出した形で小さな補助の翼を追加した。これは凧を安定させるためのものであると同時に、グライダーを上下させる昇降舵の役割を持たせるためである。
つまりこのテスト機は二つの舵を備えている。機体を上下させる動作と機体を傾ける動作を行うための舵である。兄弟の初期においてはこれが基本となった。
機体ができあがると、すぐに実際にこれを凧としてあげて、テストするだけである。
「オーブ、さあこれを公園でテストしてみよう」
ウイルバーは当然オービルと二人でテストしようと意気こんでいた。
「ウイル、ごめん。もうキャンプに出かける時間だから、今は公園へ行けないんだ」
「ああ、そうだったな。それじゃあ誰かを誘ってテストしてみるよ」
この時オービルは、たまたまキャンプに行く約束があったため、やむをえずウイルバーが一人でテストへ出かけることになった。ただ凧を一人で運ぶには大きすぎるし、また凧あげ自体もできないため、近所の少年ジョンとウォルターに声をかけ凧あげに誘った。
自宅の北西ボーンブレイクセマナリーの近くにちょうどよい広場がある。
兄弟が子供のころよく凧あげをした場所である。
ウイルバーは、そこまで少年たちを連れて歩いて出かけた。
広場に着くと、テストをするにはちょうどよい風が吹いていた。
ウイルバーにとっておなじみの場所ではあるが、今日は少し気分が高ぶっていた。
翼の捻りで機体の傾くことが確認できれば、次は本物のグライダーを作って実際に飛ぶことに挑戦することになる。そのための大事なテストである。早く確認したいという、はやる気持ちを押さえながら凧あげするのによい場所を選んだ。
風向きを確認して、翼の両端を少年に持ってもらった。
このグライダーを凧のようにあげてテストする。子供にグライダーを持たせ、ウイルバーは二つのハンドルを持った。グライダーとハンドルはひもで繋がっている。
右翼上端から長いヒモが一本、同じく右翼下端からのもう一本が右手のハンドルにつながっている。同じように左翼端の上下からそれぞれヒモが左手のハンドルにつながっている。
この二つのハンドルを、操り人形の棒のように動かせば翼を捻ることができるはずだ。
ウイルバーは背中に風を受けながら強い風を待った。少年たちもそれぞれの翼端を上に持ち上げて、ウイルバーの合図を待っている。少年達はこの意味するところは理解していなかったが、風変わりな大きな凧を揚げられることを楽しんでいた。
背中に受ける風が強くなった。
「よし、手を放して上に放りあげろ」
ウイルバーが合図すると、二人は空へ投げ出すように翼を離した。
グライダーが浮き上がった。翼はしっかりと揚力を発生している。
ウイルバーは手ごたえを感じていた。心の中でつぶやいた。
---うまく上がった、これなら充分にテストができるぞ---
ウイルバーは、グライダーがしっかり空中に浮かぶのを確かめてから、手元の二つのハンドルを静かに逆方向に捻った。ウイルバーは胸の鼓動を感じながら凧の動きを見つめた。
確かに捻れている。翼全体が捻れるのが確認できた。
そしてグライダーの凧は右に傾き、右へ行こうとする動きを示した。
「うまく動いた。期待通りだ」
ウイルバーは、まさに意図した通りの反応を見せている凧の動きに、鼓動が高まった。
ハンドルを元に戻し、今度は反対に動かしてみる。
翼も逆方向に捻れ、そして凧は左へ傾き、左へ行こうとしている。大丈夫だ。
今度も意図した通りに動いている。
ジョンとウォルターも、歓声をあげながら凧の下で走り回っている。
さらに確かめるために右左に連続して捻ってみたが、すべて期待通りに動く。
「完璧だ」
ウイルバーは小躍りしたいほど嬉しくなった。
これで翼を捻って機体を傾けるということが、単なるアイデアではなく現実にそうなることを実証することができた。手に持つひもの手応えを頼もしく感じていた。
ウイルバーには、するべきテストがもう一つあった。
後ろに突き出た補助の翼が、エレベーターの役割、つまり凧が上下の動きをするかどうか確認することである。
両手のハンドルの上端を、今度は同じ方向に動かしてみる。すると機体は期待した通りに上昇した。今度は反対に動かす。すると機体は下降した。エレベーターも意図した通りにうまく働いている。すべてが思った通りの動きをしていた。
ウイルバーは、思惑通りの結果に満足し嬉しさで一杯になっていた。
凧テストの結果に顔を紅潮させ、はやる気持ちを抑えながら自宅への道を急いだ。
ウイルバーは急いで家に帰ったものの、オービルはまだ帰宅していなかった。
彼は一瞬オービルの帰宅を待とうと思ったが、一刻も早くテスト結果を知らせたいという思いでじっとしていられなくなり、自転車に跳び乗った。
ペダルをこぎにこいで、下町を駆け抜けてキャンプ場へと疾走した。キャンプ場ではオービルをすぐに見つけることができ、一目散に駆け寄った。
オービルは兄が突然現れたことに驚いた。しかし、兄の顔を見るなり知らせに来たことがすぐにわかった。彼もテストの結果が気になっていた。単刀直入にそれを質問した。
「ウイル、どうだった?」
「ああ、完璧だった。すべて期待通りだ。ヒモに従って確かに翼を捻ることができたし、その捻りに従ってグライダーも左右に傾く。すべて設計通りの動きだった」
息を切らせながら報告するウイルバーの声は、興奮で上ずっていた。
「そうか、アイデアは本物だったな」
オービルもその結果を聞いて素直に喜んだ。
これでこのアイデアが正しかったことが証明できた。これが機能することがわかれば、今度は本物のグライダーを作ってその効果を確認すればよい。そのグライダーに乗って、空を飛ぶことに挑戦することができるだろう。
兄弟は子供のころからの夢が現実となる手ごたえを強く感じていた。
「今度は本物のグライダーを作って確認してみよう」
「ああ、それがうまくいけば、本当に空を飛べるようになる。夢が叶う」
夢がもはや手の届くところにあるように感じていた。
ウイルバーのエネルギーはこのあと、自転車店経営から飛ぶ機械の開発により多く注ぎ込まれるようになっていく。
翼を捻って機体を傾けるというこの方法は、この時までリリエンタールを含め他の誰も考えていない全く新しい方法である。この方法の発見が、ライト兄弟を人類初の動力飛行の成功に導くことになるが、しかし事はそう単純ではなく実用化するまでには、いくつかのハードルが待ちかまえていた。
兄弟はこのあと簡単にグライダーが出来上がるものと考えていたが、実際に人間の乗るグライダーとなると模型とはわけが違った。
兄弟が越えるべきハードルは、一つや二つではなかった。
さて本物のグライダーを製作するとは言っても、兄弟にとっては初めてのことである。
テスト用の凧はすぐに作ることができたが、本物のグライダーは人が乗らなければならないから、適当に作るわけにはいかない。それなりの設計が必要となる。
兄弟の主眼は翼を捻ることであるから、凧ですでに作ったように複葉のグライダーが基本となる。そうであるとすれば、シカゴで活動しているオクターブ・シャヌートが、すでに複葉グライダーを実際に飛ばしたことを知っていたので、それを参考にして作ることにした。
そこから出発して、細部構造を一つ一つ考えていく作業となった。
まず翼の大きさを決めることが最初の一歩である。人の体重と機体の自重を持ち上げるだけの揚力を、翼から得るための大きさを計算しなければならない。
ウイルバーの体重は六十四キロ、機体を二十二キロと見積もって合計八十六キロ。風速を秒速七から十メートルあるものと想定すると、リリエンタールの表などから翼の大きさは十五平方メートルほど必要となる。翼は二枚使うので、一枚の翼長(幅)を五.五メートル翼弦(奥行き)を一.五メートルと決めた。
次に機体の上下動を操作するためのエレベーター(昇降舵)を、どこに配置するかを考えた。
兄弟はこの取り付け位置については悩んでいた。凧のグライダーではこれを翼より後ろに付けてテストした。しかし前に付けるという選択肢もあり、どちらを選べばいいのか迷った。
現代の飛行機ではほとんど全ての場合、尾翼は後ろに配置されているが、兄弟は結局前に付けることを選択した。後ろに付けた場合は機体の安定性が高くなるが、一方で前に付けた場合には、もし機首から突っ込んで墜落しても、これが緩衝材となり事故による怪我の程度を緩和させることができる。そして失速して墜落する場合でも、機首から突っ込むような墜落ではなく、フワリと着地するような形になりやすい。このことは安全を重視する兄弟にとって重要なことであった。
迷ったあと結局、兄弟は安全性を優先させることにした。
またパイロットが飛行機に乗る姿勢についても二人は議論した。
リリエンタールやシャヌートのグライダーでは、パイロットがぶら下がるような形で飛行していたが、それが当初より気になっていた。
「この姿勢では空気抵抗が大きすぎる。グライダーで滑空するだけならまだしも、エンジンを載せて飛ぶとなると、スピードを出すからこれは問題じゃないか?」
自転車によく乗っている兄弟は、風の抵抗がどれほど走行の妨げになるかを、身にしみてわかっていた。それは当然飛行するときも同じはずであり、飛ぶことの実現に大きな妨げになるに違いないと思っていた。それを考えれば、腹這いになるのが最も理にかなっている。しかし操縦するには不自然な姿勢でもある。
結局、兄弟は腹這いになる姿勢で飛行することを選んだ。これはこの時代でも異様なことで、この姿勢での飛行はライト兄弟だけである。
ただ、腹這いになるというもののそれは飛行中の姿勢であり、離陸と着陸の時はリリエンタールと同じように下半身を下に出し、自分の足を使うことができるような構造を考えた。この方法をとることで、飛行中もしも翼捻りが有効でないということが判明した場合、少なくとも体重移動することで、リリエンタールと同じようなコントロールをすることはできる。
これでグライダーのだいたいの基本形態が決まった。
あとは操縦系統をどのように作るかを考えなければならない。
昇降舵の操作方法は、昇降舵が前方に付いていることを利用し舵から棒を延ばして、パイロットが直接これを握って操作するようにした。これは悩むほどのことではなかった。
「さて問題は、翼を捻らせる機構をどうするか。これは難しい…」
この機構は、参考になる先例がないことだから、よく考える必要があった。
そして、これがグライダー操縦の基本となるから、パイロットが容易に操作できて、しかも確実に翼が捩れる信頼性の高い方法でなければならない。これは重要な点である。ライト兄弟にとって飛ぶこと自体が未経験のことであるから、この機構は初飛行が成功するかどうかのカギを握る部分である。これについてはいくら考えても考えすぎることはないだろう。兄弟は時間をかけて議論し検討した。
この設計条件はこうである。
操作を簡単にするためには、操縦するワイヤーはできるだけ一本だけにしたい。つまり一本のワイヤーを押したり引いたりするだけで、翼捻り操作をできる機構にしたい。例えばそれを右に動かせば機体が右に傾く、左に動かせば機体が左に傾く、となれば理想的だ。そして当然の事ながら上下左右の四つの翼を同時に動かし、右翼が捻れた時は左翼が逆方向に捻れることが必要である。
こうなる仕組み、ワイヤーのつなぎ方を兄弟は試行錯誤しながら検討した。
これを満足するつなぎ方は、実のところ何通りかあり兄弟も途中で何度か変更しているが、次のようなつなぎ方が基本になった。
まず同じ長さのワイヤーを二本用意する。一本は操縦用、一本は補助である。
それぞれを上翼下翼の端から端まで這わすことになる。
一本目を上翼の右前端~下翼の右後端~下翼の左後端~上翼の左前端の順に結ぶ。この時最初と最後は翼に固定し途中の折り返す二点は、翼に付けた滑車に通してワイヤー自身は動くようにしておく。同様に二本目を右上後端~右下前端~左下前端~左上後端の順に結び、最初と最後は翼に固定し途中の二点は滑車に通す。
このようにワイヤーをつなぐと、翼を捻る機構ができあがる。
つまり上翼と下翼は支柱で連結されているので、どちらかのワイヤーを動かせば結果としてもう一方も動くことになる。例えば前記二本目のワイヤーを中央で右に動かすと機体が右に傾く方向に翼が捻れ、左に動かすと左に傾く方向に翼が捻れる。
兄弟は簡単な模型を作ってこの動きを確かめた。
「確かにうまく動いている。これは確実でかつ信頼性も高いだろう」
ウイルバーは模型につけたヒモを押したり引いたりしながら確認すると、確かに一本動かすだけで、左右の翼が反対に捻れることが確認できた。
「これは、なかなかいいできだ。本物で試すのが楽しみだな…」
オービルも模型を動かしながら、早く本物のグライダーを作りたい気持ちが大きくなっていた。
グライダーの操縦系統の設計はこれで終わりであるが、機体を実際に製作する上で、考えなければならないことが二つあった。それは翼を捻るという方法を採用したことで、他のグライダー製作とは違い、新たに生じる課題である。
一つは上翼と下翼をつなぐ支柱の固定方法である。
通常、支柱は翼に固定して取り付けられるが、それでは翼を捻ることができない。そこで前後方向に動くようなヒンジを作りこれで支柱と翼を取り付けた。これは実験した凧でもすでに採用しているが、模型用の簡易なものではなく実用に耐えるものを作らねばならない。
もう一つは、翼に張る羽布の取り付け方法である。
翼はその断面形状が重要になるが、その形状は木製のリブ(翼の小骨)でその形を作り、その表面に羽布を貼り付けることで、翼全体をその断面形状に仕上げている。
それまでの方法では、この羽布をノリや釘などでリブに動かないように固定している。ところが今度の場合、羽布を固定すると翼を捻る動きの妨げとなってしまうために、羽布をリブに接着することはできない。しかしこのリブで翼の断面形状を作り出しているから、羽布はリブに密着していなければならない。つまり接着はできないが密着していなければならないという、相反するような条件をうまく解決する取り付け方法を、考える必要があった。
兄弟はこの課題について、考えながら二人で意見を出し合い議論を戦わせた。
そして考えついた方法は、羽布にリブが一つずつ入るポケットを縫い付けることである。
つまりまず一枚で翼の大きさほどの羽布を用意する。この羽布にリブが当たる部分にリブより少し幅の広い短冊形の布を、リブがちょうどきっちり通る大きさでトンネル状に縫い付ける。これを全てのリブに対して行う。
そして羽布のトンネル状の袋に全リブを通すことで、羽布は適度の張りを持ちつつリブ形状に沿って動くことが可能となる。
最後に羽布の端を主桁前縁に取り付け、後縁は羽布がしっかり張りを保つようにヒモで固定する。こうすればリブと布を接着せずに密着した翼ができあがる。これにより翼の断面形状を維持したまま、翼を捻る操作ができあがる。
さて、凧のテストからすぐグライダーの設計製作にとりかかったものの、機構を考え、作り方を考え、またはそれぞれの材料の購入先などを探したりするうちに、あっという間に一年が過ぎていた。
一九〇〇年も五月になり、兄弟はようやくグライダーの製作に目途がついてきた。
「グライダー作りに熱中していたけれど、そろそろテスト飛行できる場所を探そう。凧をあげるのとはわけが違うから、周囲に人のいない障害物もない広い場所を探さないと…」
リリエンタールは自分で小山を作ったというが、そんな資金は兄弟にはなかった。ウイルバーは、このグライダーを実際に飛ばすのに適した場所を探し始めることにした。
ウイルバーは、それを尋ねるのによい相手を知っていた。シカゴ在住のオクターブ・シャヌートである。ウイルバーは彼に手紙を出して、テスト飛行に最適な場所を推薦してくれるよう依頼した。そして毎秒七メートル以上の風が安定して吹いていることを条件として書き加えた。
シャヌートというのはこのころの米国航空界における中心人物の一人である。
フランス生まれで二十二才のときに米国市民権を取得し、土木技術分野での技術者として活躍した人物である。引退したあと飛ぶ機械に興味を持ち、広く海外の情報も集めながらグライダーの設計を行い、一八九六年ミシガン湖畔で複葉グライダーの飛行に成功している。ライト兄弟が手本としたグライダーがこれである。
シャヌートは飛ぶ機械の開発をしてはいるものの、これは個人で簡単にできるものではなく広く英知を集めてなされるべきものという考えを持っていた。そのためシカゴを拠点にして自身で研究する一方で、各地にいる同好の士に航空に関する情報提供やアドバイスなどを積極的に行っていた。
ウイルバーはそれを知っており、テスト飛行の場所について情報を求めたのである。
情報提供を依頼するこの手紙の中で、鳥が両翼を反対方向に捻って旋回することから、その考えで機体を作っていることを書き加えていた。第三者にこの重要なアイデアを明かすのはこれが初めてであった。
数日後ウイルバーは、シャヌートから返事を受け取った。
「フロリダのパインアイランド、カリフォルニアのサンディエゴがよい風が安定して吹くが、ほどよい砂丘がないため最適とは言えない。サウスカロライナ州かジョージア州の東海岸で見つけるのがよいだろう……」
シャヌートは風の条件もさることながら、安全にテスト飛行するために砂地を選ぶことを推薦していた。それであれば東海岸がいいとの見解であった。
また翼の捻りに関してシャヌートから何の反応もなかったが、そのことに関してウイルバーも、特に気に留めることはなかった。
ウイルバーはまたシャヌートとは別ルートで入手していた気象局リストを確認して、東海岸で適当な場所を探した。そしてサウスカロライナ州のメートルビーチ気象局を選びだして、早速そこへ問い合わせの手紙を出した。
メートルビーチから直接の回答は無かったがその代わりに、キティホークから二通の返事を受け取った。キティホークはメートルビーチの北方にあり、恐らく手紙がそちらにまわったのだろう。一通はキティホーク気象観測所からの手紙で、継続して安定した風と広い砂浜があるという内容であり、もう一通はのちに世界初飛行までいろいろと支援を受けることになるウイリアム(ビル)・テイトからであった。
『キティホークには、約二キロにもおよぶ長い砂浜と二十五メートルほどの丘が四、五個あります。また風をさえぎるようなブッシュや木などもありません。従っていつでも安定した風が吹いており、風速は秒速五から十メートルほどあります。実験するには最適の場所でしょう。もし私にできることがあれば何でも喜んでお手伝いしますし、また地域の人々もホスタピリティにあふれています。…当地にホテルはありませんが、テントであればどこでも自由に張ることができます。ただし秋には天候が荒れるため、十月中旬より前に来るのがよいでしょう……』
兄弟が後にテスト飛行の拠点とするのは、キルデビルヒル近辺になるが、それはこのキティホークの南五、六キロの所にある。この地域はアウターバンクス(外側の砂洲)と呼ばれ、海岸線より十二から二十キロほど沖合にある南北に連なる砂洲の一部である。この砂洲は断続点を含めれば約三〇〇キロにも及ぶ長大なもので、自然の防波堤となっている。
キルデビルヒルあたりの幅は二.五から三キロほどで、兄弟が飛行したころは砂地のみの何もない荒涼とした土地であったが、現在ではライト兄弟記念碑やビジターセンターがある緑の多い観光地となっている。
ウイルバーは、この手紙でテスト飛行の場所をキティホークに決めた。
しかし年中飛べるわけではなく、秋には天候が悪くなるということを知り驚いた。
「十月中旬より前にテストしなければならないということは、もはや時間がない。ゆっくりしている暇はないぞ」
今のペースで作っていれば九月や十月などすぐになってしまうとウイルバーは焦った。機体ができればすぐにテストしようと考えていたウイルバーは、来年まで待つなどという気持ちは微塵もなく、まだ製作中ではあるがこのグライダーをどうにか今年中には飛ばしたいと思った。
「もう出発しなければテスト飛行する時間がなくなってしまう。仕方がない、必要なものは途中でどうにかして手に入れよう」
ビル・テイトから手紙を読むと、すぐに出発することを決心した。
この時点で、二人のグライダーの製作はほぼ終了に近かったが、ただ一つ最も重要な材料が欠けていた。つまり主翼の主桁に使う五.五メートルの木材スプルース(エゾマツ)が入手できていなかった。この長さは定寸より長いため、デイトンにある材木店では見つからなかった。そのため、シャヌートに再度手紙を書いて、シカゴの材木店を紹介してもらったところであった。
しかしウイルバーはそこへ注文して、材料の到着を待っていてはもはや間に合わないと判断し、キティホークへ行く途中で、どうにかしてそれを探して購入することにした。
慌てて準備する中でウイルバーは、重要なことを一つ思い出した。
ここまでグライダーの設計と製作に没頭し続け、そしてテスト飛行の場所を決めてそこへ旅立つ準備を始めていたが、このグライダーでテスト飛行すること自体を、まだ父親にうち明けていなかった。父ミルトンはいつも兄弟の健康や安全のことを気にかけていた。それに加えてリリエンタールの事故も知っているので、グライダーでテスト飛行することに対して心配するに違いなかった。ところが父はこの時いつものように長期出張中であり、家を留守にしていた。
「直接説明すべきことだが仕方がない。手紙で伝えることにしよう」
ウイルバーは面と向かって説明することはできないが、代わりに手紙を書き残こした。
『私はここ数日のうちに旅行に出かけるつもりでいます。行き先はノースカロライナの海岸でキティホークというところです。そこでグライダーの実験をしようと考えています。
私はいままで人間が空を飛ぶことは実現可能であるという信念のもとに、いろいろと調査をしてきました。しかしこれを仕事にして利益を得ようということではなく、あくまでも趣味として考えています。
ただもしかすると、将来これが名声とか富をもたらすことになるかもしれません。航空界ではこの分野における大きな問題が一つあり、その壁のために前に進むことができずにいます。私にはよいアイデアがあり、この分野で一頭地を抜くことになるかもしれないと思っています。そういうことで、今まで訪れたことのない見知らぬ土地へ数週間ほど行ってきます』
主翼以外の残っていたグライダー部品を慌ただしく仕上げ終えたウイルバーは、旅の荷造りに入った。身の回りの品は、妹に任せてそれ以外の準備を急いだ。キティホークでの組み立てや修理作業に必要な工具などの梱包、そしてグライダー部品そのものの梱包作業などを行った。そしてテントや食器・鍋・フライパンなどの生活用品も梱包し、キティホーク郵便局宛で送付した。
身の回り品は、妹キャサリンが自分のトランクを用意し衣服や洗面具、また途中で必要かもしれないと瓶詰めのジャムもいくつか詰め込んでくれた。気を利かして入れてくれたこのジャムがあとで大いに役立つことになる。
一九〇〇年九月六日、キティホークに向けてウイルバーは重いトランクを抱え、いつもの通りのスーツ姿で出発した。初めて製作したグライダーで、初めてのテスト飛行を行う。
夢の実現に向けての旅立ちである。
デイトン駅まで、オービルとキャサリンが見送ってくれた。
まずウイルバーが先に出発し、オービルがあとを追うことになっていた。
「機体の組み立てが終わったら連絡してくれ。すぐに行くから」
「ああ、一人では飛ばせないからね。向こうで待っているよ」
二人の会話に妹のキャサリンが間に入った。
「無理は、絶対したらだめよ。間違ってもけがなどしないように、気を付けてね」
キャサリンは母親が亡くなってから、家の中では母親代わりを果たしてきた。
だからよけいに自分の子供を心配するかのような気持ちが強かった。そもそも父と同じようにグライダーは危険なものと考えていた。一歩間違えば死亡事故が待っている。実際リリエンタールだけでなく、何人かの先駆者が命を落としたことを知っている。事故を起こさぬように、危険な行為は慎むようにと同じ言葉を繰り返した。また海辺でのテント暮らしは不自由も多く、健康を害しやすいだろう。それも心配であった。だから定期的に必ず手紙を書くように、と念を押すのを忘れなかった。
その心配をよそに、ウイルバーもオービルも期待に胸を膨らませていた。
やっと念願の飛行を、本当に試みる時がやってくる。
初めての機体が予想通りの機能を発揮すれば、本当に空を飛ぶことができるだろう。
子供のころ、コウモリで飛ぼうとした時と同じ夢が、今現実になろうとしていた。