第一部 二 スミソニアン協会への手紙
リリエンタールの事故より三年が過ぎ、世間の自転車ブームも下火となり始めており、店の仕事が一息ついていた。そのため時間的余裕ができるようになった。そうなると新しい物を作るという生来の情熱・感情が自然と湧き出てくる。ライト兄弟は空を飛ぶという夢に向けて動きだした。
一八九九年五月、ウイルバーは、スミソニアン協会あてに手紙を書いた。
飛行技術に関する資料提供をお願いする手紙である。
『 拝啓
私は子供の頃に種々の「コウモリ」を作って以来、飛行機についての関心を持ち続けています。人間が乗って空を飛ぶ機械はまだ実現していませんが、これは不可能なことではなく実現可能であると考えています。
空を飛ぶことに関しては、鳥が最も良い先生だと言えます。しかし鳥の虫や獲物を追うアクロバット的な飛翔を真似することはできないでしょう。それでも単純な飛行であれば、飛ぶ機械は実現できるものと信じています。多くの先人の実験や発明が技術として蓄積されており、それを利用すれば可能だと思っています。
私には飛行機の構造に関して一つ良いアイデアがあります。そしてそれを実用化するために、研究を始めようと考えています。
そこで飛行技術に関して、スミソニアン協会からの出版物と、もし可能であれば英語で書かれた関連資料、リストなどを頂くことができないでしょうか。
協会が送ってくださる資料がどれほどになるかわかりませんが、価格を言っていただければその代金を送金させて頂きます。
敬具
ウイルバー・ライト』
ウイルバーは、この時点における飛行技術に関する最新情報やアイデアを入手するために、この手紙を書いた。科学技術分野において米国を代表するスミソニアン協会であれば、兄弟が望む最新の情報を確認できると考えたのである。
それに加えてもう一つ大きな目的があった。
兄弟は、リリエンタールの事故以来抱き続けてきた疑問---鳥はどのように向きを変えるのか、そのメカニズムはどういうものか---の答えを見つけていた。そしてそれを実現するアイデアを模索していた。そのアイデアを他の誰かがすでに考案しているかもしれないと、それを確かめたかったのである。
ライト兄弟がその方法を見つけたのは、この手紙を書く数日前にさかのぼる。
ウイルバーは、いつものように仕事の合間に自転車店の前の通りに出て、木漏れ日を受けながらぼんやりと通りを眺めていた。
こうすることがウイルバーの習慣のようになっていた。街の中を走り抜ける自転車を見ては、その走り具合がどうかとか、あるいは街の中を飛ぶハトや小鳥を眺めては、どのように飛んでいるのかとか、ハナミズキの花が咲いたとか、街の中のいろいろな動きに視線を注いでいる。
街の動きの中でも特に鳥には敏感になっていた。草花を見ているときでも、小鳥が飛んでくれば自然と視線はそちらに向いた。あのリリエンタールの事故以来、ウイルバーはどこに居ようと、鳥が飛んでいればその飛び方を眺めるようになっていた。マイアミ川のほとりへも何度も足を運んで飛ぶ鳥を観察している。
この日も同じように店の前で、暖かい日差しのあたる街を眺めていた。
そこへちょうどウイルバーに向かって大きなハトが飛んできて、慌ててウイルバーをよけるように身体をひねって飛び去っていった。ウイルバーの目はその瞬間の動きを捉えていた。
「……そうか、わかったかもしれない…」
まるで何かのスイッチが入ったかのような閃きがあった。ウイルバーは思わず手をたたいていた。
今までずっと疑問に思っていたこと、鳥はどのようにして身体の向きを変えるのか、その回答を今まさに目撃した気がする。あまりに一瞬の出来事で、実際には目で捉え切れていなかったかもしれない。しかし頭の中では翼の動きをはっきりと見ることができた。夢に見るほどまで思いつめていた疑問が、今まさに解き明かされた気分であった。
ウイルバーは嬉しさと感動のあまり、自分でも興奮しているのがわかった。
急いで店に飛び込むように戻ると、大声でオービルを呼んだ。
「オーブ、わかったぞ。ちょっと来てくれ。あれがわかったんだ」
「あれって、なんだ。お客さんのことか?」
「違う、そのことではない。鳥が向きを変える方法だ」
オービルも仕事の手を休めて外へ出てきた。
ウイルバーは今見たことを説明した。ハトが向きを変えるときの動きを身振りを交えて伝えた。右翼と左翼の揚力のバランスをくずせば、鳥の身体は傾き、そして飛ぶ方向も変わる。
オービルが外に出てきた時にはもう鳥の飛ぶ姿を見ることができなかったが、しかしその後何度か観察を繰り返した結果、二人ともその動きに間違いがないと確信するようになった。
わかってしまえば簡単なことであった。
片翼の迎え角を大きくし、同時にもう片翼の迎え角を小さくする。すると片翼の揚力が大きくなり、もう一方の片翼の揚力が小さくなる。そのため左右のバランスがくずれて姿勢が傾き旋回することができる、ということである。つまり左右の翼を反対に捻ればよいのである。
「長い間の疑問がようやくわかったな」
「この理屈がわかれば、その機能を持ったグライダーを作ればよい。鳥のように飛べるはずだ」
ウイルバーは興奮で顔を紅潮させていた。兄弟はあの事故以来、いつしか鳥の旋回方法がわかりさえすれば、リリエンタールのようにグライダーを製作して滑空テストを始めることを決めていた。そしてそれは、空を飛ぶことに挑戦することを意味している。
兄弟は子供の頃からの夢に向かって、第一歩を踏み出すことができると感じていた。
二人に熱い思いがこみ上げていた。
兄弟の最初の疑問、鳥はどのように旋回するのか、その方法はわかった。
それがわかれば、次の課題はそれをどのように具体化するのか、となる。
鳥はいとも簡単にそれをしているが、飛ぶ機械でどのように実現すればよいのか、それを考えなければならない。
兄弟は思いを巡らせた。
しかし考え始めてみると意外と簡単なことではないことに気がついた。人を乗せて飛ぶ機械の翼は、人やエンジンを支える強度が必要となる。強度を持たせるということは捻りにくい、ということと同じことである。翼を捻らせるために強度を落とせば、人が乗れなくなってしまう。これは相反することであり、どうすればいいのかわからなかった。
鳥が羨ましいと思った。
彼らは丈夫で軽い翼を持っている。人間が使える材料といえば、木材か鉄くらいしかない。まだグラスファイバーなどない時代である。捻ることのできる軽くて丈夫な翼を作ることのできるような材料などない。とすれば、機構で何とか工夫するより他に選択肢はない。
兄弟は悩んだ。一体強度を落とさずに翼を捻る方法があるのだろうか。しかも左右同時に逆方向に捻らなければいけない。これを解決できなければ、機体を傾かせることはできないだろう。兄弟は意外に難問であるこの最初の課題で、いきなり壁にぶつかることになった。
余談ながら、翼を捻ることなく容易に機体を傾かせる方法がある。
現代の飛行機でも広く普及しているエルロン(補助翼)がそれである。
エルロンは兄弟の初飛行から数年後に考案される。
兄弟の翼を捻る方法もこの時代の画期的な発明となったが、これを兄弟が特許としたため、その使用を避けるために、他の方法としてエルロンが実用化された。兄弟のこの機構自体は現代では使用されていないが、機体を傾けるという斬新なアイデアは今でも受け継がれている。
ともかく、兄弟は翼を捻る方法を見つけ出そうと知恵を絞った。
その一方でスミソニアン協会に手紙を出すことを思いついた。もしかすると、すでにそのアイデアを誰かが考えているかも知れない。それを確認するには、最先端技術の集まるスミソニアン協会に聞くのが一番良いだろう、とウイルバーが手紙を書いたのである。
ウイルバーの手紙を受け取ったスミソニアン協会は、本来であればこの方面を専門とするラングレー会長の手に渡るところである。しかしこの時たまたまヨーロッパに出張中で不在であったため、代わりに専門外のリチャード・ラスバンがこの手紙の対応をすることになった。
こののちライト兄弟のライバルのような存在となるラングレー会長は、この時飛ぶ機械に載せるべきガソリンエンジンを探すためにヨーロッパ諸国を歴訪していた。この時点でラングレーはすでに飛ぶ機械の機体は完成させていたが、肝心のエンジンの開発に手こずっていた。実際のところ、この時代に飛行機を飛ばすことのできるほど、軽量で強力なガソリンエンジンは存在しておらず、自身で開発するしかなかった。このヨーロッパ出張にはラングレーの片腕とも言うべき技術者のマンリーが同行しており、帰国後彼がエンジンを開発することになる。
この時点ではライト兄弟はまだエンジンのことなど全く頭になく、ラングレー会長のほうがずっと先行していた。しかしもちろんお互いに相手のことは知らない。別々のところで飛ぶ機械の実現に向けてそれぞれが模索していた。
代理のラスバンは、そのラングレー会長の『空気力学の実験』レポート、そしてオクターブ・シャヌートの『飛ぶ機械の進歩』、それにリリエンタールの飛行実験に関する記事の載ったスミソニアン協会のパンフレット、さらに航空学の年次報告書などを添えてウイルバーに返送した。
兄弟は協会からその返事を受け取った。手紙と書籍、資料も同封されている。
兄弟はその資料をさっそく丁寧に熟読玩味した。それまでにも断片的に入手していた資料で航空界の技術的な流れはそれなりに把握していたが、今回の資料でそれを再確認することができた。ただ特に目新しいものを見いだすことはなかった。そして兄弟の一番の関心事である、翼の捻りによる機体の方向を変えるような記述についても、一切見つけることができなかった。それだけではなく機体を傾けるという考え方自体が、存在していないように感じられた。
「オーブ、この資料の中にはないな」
「ということは、翼を捻る考え方は誰も試していない、っていうことだな」
「そう言い切ることはできないだろう。単にそういう資料がないだけかもしれないし、誰かがどこかでそのアイデアを持っているかもしれない」
「でも、その可能性は小さいだろう…」
「そうだな。リリエンタールでさえその考え方はないようだから、思想の流れとしては誰も考えていないかもしれない」
兄弟にとってそれは不思議なことであった。
鳥が実際にしていることを飛ぶ機械に応用しようという考えは、単純すぎるほど単純な発想である。それを誰もしていないというのはどういうことだろう。しかし鳥のその動きを知ること自体が、至難のことであると身を持って実感していたから、鳥の本質的な部分は誰も気がついていないのかもしれない、と思った。
ともかく協会からの資料の中には、翼を捻るという考え方は一切なかった。自分たちだけの独自の考え方の可能性は高いと判断できたから、それが確認できただけでもその価値は大きかった。そして、もしこのアイデアを具現化することができれば、他の挑戦者よりも一歩も二歩も先を行くことになるだろうと感じていた。兄弟にとってそれは極めて刺激的なことであり、挑戦意欲ががぜん湧いてきた。
ともかく兄弟は、その方法を自分たちで考えるしかないことが、はっきりとわかった。
兄弟は翼を捻る方法として、最初にしごく常識的なアイデアを考えた。
つまり左右の主翼へ延ばしたシャフトを中央の歯車で、反対方向に回転する方法である。こうすれば右翼を上げた時、左翼は下がる。しかしこの場合大きな強度が必要となるからシャフトと歯車は金属で作ることになる。金属で作れば重くなり過ぎてとても飛べるような機体はできないだろう。どう考えてもこれは非現実的だと二人はすぐにこの案をあきらめた。
さらに議論を続けたが、残念ながらすぐにはこれといったアイデアが浮かばなかった。
しばらく二人は悩むことになった。
七月になって、あることをきっかけにウイルバーが名案を思いついた。
ある日、オービルが妹と外出していたためウイルバーが一人で店番をしていた時である。
顔なじみのお客が自転車のタイヤチューブを買いにやってきた。
サイクリング中に転倒しタイヤを破損してしまったという。
「ケガはしなかったのか」
ウイルバーはタイヤチューブの入った箱を取り出して、中のチューブをお客に渡した。
「ああ、大丈夫だ。肘を少しすりむいたけどね」
「今度は転ばないように気をつけるんだぞ」
顧客はわかっていると言って出ていった。ウイルバーはタイヤチューブの空箱を、手でもてあそびながらその彼を見送った。客が出て行くとドアのベルが静かな店の中に響いた。
そのベルがまるで合図であったかのように、ウイルバーに閃きがあった。
「そうか! これだ。これじゃないか」
ウイルバーは、本能的に手の中の空箱に目をとめていた。
翼を捻る方法が、今まさに自分の手の中にあることに気がついたのである。
手の中のその空箱は細長く、現代で言えば歯磨きチューブが入っているようなものである。ウイルバーはその箱の両端を持ち、そして捻ってみる。少しの力だけで左右を反対に捻ることができた。そして力を抜くと、元の形に戻る。これだと思った。
この箱は四方が閉じてはいるが、形としてはグライダーの翼を複葉(二枚翼)にしたときとそっくりである。同じ大きさの上翼と下翼を支柱でつなげば、この箱と同じ形になる。支柱をうまく工夫さえすれば、軽くて丈夫な捻ることのできる翼ができるに違いない、と気がついた。
「これだ。これでグライダーの翼を作ればいい。簡単に捻ることのできる翼ができるに違いない」
ウイルバーはこのアイデアが悩んでいた課題の答えであることを確信し、飛び上がりたいほどに嬉しくなった。
これで機体を傾けることのできるグライダーを作ることができるだろう。そう思うとすぐにオービルにこの箱を見せたくなった。しかし弟は出かけていて店にはいない。仕方なくはやる気持ちを抑えて、箱を家に持ち帰り、弟の帰りを待った。
兄弟の自宅は、自転車店から数ブロック離れたところにある。白い板壁のこざっぱりした二階建ての家で、窓にはめられた緑色の雨よけがよく似合っている。
主教である父ミルトンと、地元で高校の先生をしている妹キャサリンの四人で住んでいる。母スーザンは十年ほど前に結核で他界しており、他に二人の兄がいるが結婚独立して家を出ている。その一人ローリンは、この自宅近くに居を構え今では子供もいる。その子はライト家によく遊びに来ていて、兄弟もキャサリンもかわいがっていた。
ウイルバーが弟の帰りを待ちわびていると、キャサリンと妹の友人と一緒に楽しそうに笑い声をあげながらオービルが帰ってきた。
「オーブ、待っていたぞ」
ウイルバーは弟の声を聞きつけると急いで玄関に出た。
出ると、そこに妹の友人が一緒にいることに気がついて、思わず顔を赤らめた。ウイルバーは女性が大の苦手であった。老齢の夫人であれば大人の対応ができたが、若い女性にはどう接していいのかわからず、いつもおろおろするのが常であった。
ウイルバーは顔を赤面させたまま、挨拶もそこそこに済ませオービルに空箱を見せた。
「これはどうだろう。簡単に捻ることができる。しかも丈夫だ」
ウイルバーは動揺で咳き込みながらも説明を続けた。オービルは、箱を手にとって捻ってみた。
「なるほど、これはいいかもしれない。よく気がついたな」
キャサリンは、自分と友人を無視して話に熱中し始めた兄弟にあきれていた。技術的な話になると、それに没頭して周りが見えなくなることをよく知っていた。
「いつもこんな調子なのよ」
と口をとがらせて友人に言い訳をしながら、二階へと上がっていった。
あとに残った二人は、その箱の両側面を大きく窓のように切り取って、上翼、下翼と支柱に似せた形にしてみた。紙だから華奢ではあるがそれなりに強度がある。そして捻ることは非常に簡単であった。
「これはいいぞ。この形を木で作れば、強度も充分にあるだろう」
二人はこのアイデアが、悩み続けた問題を解決するのは間違いないだろうと確信し、嬉しくなった。これがうまくいけば、旋回可能なグライダーができるはずだ。そしてそれに乗って空を飛ぶことに挑戦することができるだろう。兄弟の期待は大いに高まった。
すぐに模型を作って試してみることにした。
二人でテスト機の構造を考え、まずはグライダー型の凧を作ることにした。その凧を空にあげてヒモで翼を捻るテストをしてみることにした。ヒモの操作に従って凧が向きを変えれば、このアイデア、方法論の正しさを確認することができるだろう。
二人は熱中して時間の経つのも忘れるほどに、試作するグライダーの作り方について議論した。アイデアを固めた兄弟は、ついに具体的な活動を開始することになった。