【 小説 空のパイオニアたち 】 ----- エピローグ ---------
エピローグ 第一部
ライト兄弟は、なぜ成功することができたのだろう。
空を飛びたいというはっきりとした夢・目標を持っていたこと、そしてその夢を実現させたいという情熱を持ち続けたであろうことは容易に想像できる。何か事を成し遂げるためには、それを実現したいという強い動機や熱意、志が必要である。
しかし、その夢が大きければ大きいほどそれを実現するためには、大きな壁や障害がつきものである。実際に兄弟は何度も大きな壁にぶつかり、そして他の挑戦者たちもそれに苦しんだ。
強い志を持ってそれに向けて努力することは、夢を実現するための必要条件ではあるものの、現実の世界ではそれだけで充分ではなく、目の前に立ちはだかる困難や障害を打ち破ることのできた者が、成功という果実を掴むことになる。
科学・技術の世界では、何らかのブレイクスルーが必要となるだろう。
機体を傾けて旋回する。
それがライト兄弟の技術的なブレイクスルーであっただろう。
この機体を傾けて旋回するという方法は、兄弟がフランスとアメリカで公開飛行する一九〇八年になっても、まだ誰も考えついていないものである。それまでに何人かが飛行機を飛ばすことには成功していたが、どれも二舵しか備えていなかった。二舵で機体をすべらせて無理やり旋回していたのである。しかし兄弟が機体を傾けた旋回をする公開飛行を見て、他の飛行家たちはその無理のない自然な旋回に驚嘆する。それ以降、どの飛行家も競って翼を捻る方法を真似して、飛行機を作るようになった。
現代の我々にとっては旋回するときに機体を傾ける、というのはあたりまえのことのように思われる。遠心力と釣り合いをとりながら飛ぶには傾けなくてはならない、傾けずに飛ぼうとするほうが不思議だ、と思うのが自然だろう。
しかし当時の飛行家は、ライト兄弟以外誰も機体を傾けて飛ぼうとは思わなかった。今日ではあたりまえに思えることも、パイオニアの時代にそれに気がつくことは簡単なことではない。エアロドロームも左右の舵と上下の舵を付けていただけで傾きの舵はない。しかしこれは当時の人の常識であった。船が左右の舵だけであれば「飛ぶ機械」はそれに上下の舵をつければ充分である。実際、当時の飛行船はこの二舵だけで飛行していた。飛行機も同じ考えになるのは、自然な考え方であった。
一方、兄弟は自転車を乗りまわし、曲がるときに身体を傾けるのがあたりまえに感じていた。
だからこそ、飛行機でも傾けることが自然の感覚でできたのだろう。
『自転車屋が飛行機を作ることができるのなら、誰にでも作ることができる』のではなく自転車をよく知っていたからこそ、このブレイクスルーに気がつき、本当の飛ぶ機械を作ることができた、と言えるかもしれない。
当時飛行機開発を目指した誰もが憧れながら観察した鳥は、身体を傾けて旋回している。
当然みながそれに気がついていたはずである。それにもかかわらず何故それをしなかったのか、その理由はわからない。単純に怖かっただけだからかもしれない。考えてみれば空中で身体を傾けることは恐ろしいことである。かなりの勇気と信念がなければできないことであっただろう。しかし兄弟の偉大さは、それに気がついたついたということよりも、むしろそれに挑戦し、実用的なものに仕上げたということである。
ライト兄弟と同じ時代を生きた発明家トーマス・エジソンは、
「天才は一%のインスピレーションと九九%のパースパレーション(汗)で成り立っている」
という有名な言葉を残した。
全く新しいものを生み出すには一%のひらめきと九九%の努力が必要である、ということだろう。
ライト兄弟のたどった道は、まさにこの言葉がよく似合う例だっただろう。
エピローグ 第二部
自分が残した足跡・実績の上に、次の世代が新しいものを築き上げるとき、彼らはどういう思いでそれを見ているのだろう。それは言葉で言い表せるほど単純なものではないだろう。いろいろと複雑な思いが渦巻いているに違いない。
リンドバーグが世界から喝采を浴びているとき、オービル・ライトは五十五歳、デイトン郊外ホーソンヒルにて悠々自適の生活を送っていた。彼は兄ウイルバーと共にフライヤー号を製作し、飛行機の発明者として航空界に大きな足跡を残したが、しかしその後の急速に発展する技術開発には取り残された形となり、隠退したような生活を送っていた。
オービル・ライトにしてみれば、フライヤー一号で人類初の飛行機による飛行に成功してから四半世紀のちに、自分たちの発明した乗り物が、大西洋を越えてニューヨークからパリまで飛行できるようになるとは、想像できないことであったに違いない。それをどういう思いで見ていたことだろう。
そしてリンドバーグも半世紀を経て、とても想像できるはずのない出来事に遭遇する。
人類初の月着陸がそれである。
一九六九年、六十七歳になっていたリンドバーグは妻アンと共に、ケープケネディの特別観覧席に座っていた。アポロ11号の打ち上げを見るためである。
誰にとっても巨大なサターンロケットに搭載されたアポロ11号の打ち上げを見ること、そして人類初の月旅行への出発を見送ることは感動的な場面であったが、リンドバーグにとっては特に大きな感慨があったに違いない。
リンドバーグは、オルテーグ賞獲得のあと航空分野で幅広い活躍をすることになるが、彼が興味を抱いたものの中の一つにロケット開発があった。
リンドバーグがロケットに興味を持ったのは、米国科学者ロバート・ゴダードが行ったロケット打ち上げ実験の記事を読んだ時に始まる。その記事を読んだリンドバーグは、すぐに行動を起こし、ゴダード博士のもとを訪問しロケットの開発話を聞いた。
その後博士の活動を陰ひなたに応援し博士と共に月旅行を夢見るが、世間から相手にされないまま第二次大戦となり、その研究は埋没することになる。その間にドイツで世界初の実用ロケットV2が開発される。
戦後リンドバーグは、大陸間弾道ミサイルの諮問委員を務めることになり、一九四七年ニューメキシコ州ホワイトサンドに半ば収容状態にあったV2ロケットの開発者フォン・ブラウン博士を訪ねる。ここでロケット開発・ミサイル開発について意見交換を行うことになるが、そのブラウン博士は後にアポロ計画の重要な一角を占めるサターンロケットを開発することになる。
その訪問から二十二年の歳月の間に、リンドバーグの関与しないところで宇宙開発が急激な速度で進歩を遂げ、人類が月を目指すほどまでに発展を遂げる。
そして一九六九年七月十六日、世界が注目する中で人類初めての月着陸を目指すアポロ11号が、打ち上げられた。
リンドバーグは、ケープケネディでその歴史的瞬間を間近で見守った。
ルーズベルト飛行場で、バード中佐やマホニーが遠く飛び去っていくリンドバーグ操縦するスピリット号を見つめ続けたのと同じように、今度はリンドバーグが、轟音を響かせながら上昇していくアポロ11号を見えなくなるまで見つめていた。
このときリンドバーグに去来した想いが何であったか。
それは、誰も知ることはできない。
エピローグ 第三部
「我々は巨人の肩に乗った小人のようなものだ。その巨人よりも遠くを見渡せるのは、目がいいからでも身体が大きいからでもない。大きな身体のうえに乗っているからだ」
という中世からの言葉を有名にしたのは、アイザック・ニュートンである。
新しく何かを発見・発明するとか、あるいはまた何か大きな業績をあげたりできるのは、自分の力よりもその土台を築いてきた先人たちの功績によるところが大きい。過去の先人の業績や研究などの蓄積の上に立っているからこそ新しい業績をあげることができる、というような意味である。
ニュートンは二十四、五歳の若さで万有引力の着想を得て、それを証明するにはケプラーの法則、即ち惑星の宇宙空間での運動法則を数学的に表した先人の業績などがあって初めて可能となった。
アポロ11号が人類初の月着陸を成功することができたのは、そのための技術開発・運用技術開発など関係者の並々ならぬ努力があったことは勿論としても、アポロ以前の先人たちの業績や思想などの土台があったということを抜きに考えることはできない。
ところで歴史上、月へ行ってみたいと、真剣に考えた最初の人物は誰だろう。
それは誰にもわからないことであるが、十七世紀にヨハネス・ケプラーがその著書「夢」の中で月面に立って見える天体の動きを描写し、そして十九世紀になると月や他の惑星に行きそこで生活するSF小説が流行するようになった。人々はその空想の世界へ入り込み、想像の中で宇宙を旅行することや月や惑星を探検することを楽しむようになった。その空想の世界を楽しむうちに、現実の世界でも本当に月へ行ってみたい、宇宙を探検してみたいと真剣に考える人が何人かでてきた。
科学的に宇宙を飛行することが可能であることを世界で最初に示したのは、ロシアのコンスタンチン・E・ツイオルコフスキー(一八五七~一九三五)と言われている。ニュートンの運動の法則に基づいて考察を重ね、ツイオルコフスキーの公式を導き出した。そして液体燃料で飛ぶロケット理論、多段ロケット、宇宙ステーションなどを考え、ロケット工学のパイオニアとなった。彼は子供のころ病気で聴力をほぼ失いながらも、SF小説などを読みふけり空想の世界を楽しんだ一人である。
ツイオルコフスキーの理論に従い、液体燃料により世界で初めてロケットを飛ばすことに成功したのは、アメリカのロバート・H・ゴダード(一八八二~一九四五)である。その実績はアメリカでは評価されなかったが、フォン・ブラウンらによるV2ロケットに利用されたことでロケット開発に貢献することとなった。このゴダードも宇宙に興味を持ったのはSF小説からの影響である。
ドイツではヘルマン・オーベルト(一八九四~一九八九)が「惑星空間へのロケット」「宇宙旅行への道」を著し宇宙へどのように行くかの原理を示した。この著書に刺激されてドイツ宇宙旅行協会が設立され、宇宙旅行に関心を持つ人々が集まりロケット開発に取り組むようになった。若きフォン・ブラウンもそのメンバーの一人であった。
フォン・ブラウン(一九一二~一九七七)が宇宙に興味を示すようになったのはどういうきっかけだっただろう。
彼は子供の頃より好奇心が強く、十歳のころにはロケットをガラクタで組み立てた自動車に取り付けて走らせ、十三歳のときには母からプレゼントされた天体望遠鏡で月や火星を眺めて宇宙に興味を抱き、十五歳のときオーベルトの「惑星空間へのロケット」に出会い、宇宙を目指す気持ちが決定的なものとなった。
戦後ソ連の宇宙開発をリードしたセルゲイ・コロリョフ(一九〇七~一九六六)はグライダーや飛行機の設計を始めていた二十二歳の時、ツイオルコフスキーの研究成果を知りロケット開発にのめり込むようになった。二次大戦中はスターリンの粛清に巻き込まれ、誤解から強制収容所に送られ不遇の時代を過ごすが、戦後フルシチョフのもとで名誉回復された。しかしその間にドイツがV2を完成させロケット技術で大きく遅れをとっていることに衝撃を受け、技術者のプライドを傷つけられながらも、V2のコピーからロケット技術を再出発させ、人類初の人工衛星打ち上げを実現させることになった。
ロケット開発や宇宙開発における技術は、国境を越えて科学技術者の間で伝承され、刺激され、洗練されていき、そして戦後大きく花開きアポロ計画として月面着陸という人類の夢の実現に結びつくことになった。
また同時にアポロ計画を実現する過程で新しい技術が開発され、それが宇宙開発だけでなく一般生活の中にその技術が生かされている。
アポロ計画で開発され一般に普及したものは、燃料電池、液晶技術、コードレス電話(携帯電話)、テフロン加工、チタン素材、レトルト食品、浄水装置、未熟児保育器、デジタル画像処理、コンピューター断層撮影法CT、核磁気共鳴映像法MRI、電解式銀イオン発生装置、カーボンファイバー、形状記憶合金、超伝導磁石、サーモグラフィー、空気浄化システムなどなど広い分野にわたっているという。
一つの技術は次の技術を生みだし、一つの夢は次の夢へと引き継がれる。
新しい世代は古い世代の肩に乗って、次の世代へとバトンを引き継いでいくことになる。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩であるが、人類にとっては大きな飛躍である」
一九六九年七月二十日---ニール・A・アームストロング
--------------【 小説 空の挑戦者たち 】------------ [ 完 ] --------------
(注記)この小説は、2012年紫桔梗書房が発売し、その後廃刊となった
「夢は空をかけめぐる ライト兄弟の挑戦」
「夢は空をかけめぐる リンドバーグの挑戦」
「夢は空をかけめぐる アポロ・サターン・月への挑戦」
の三作品を著者が再編成し、一作品としてリメイクしたものです。




