第三部 十一 人類初めて月面に立つ
一九六九年七月十七日、打ち上げ翌日。
アポロ11号のアームストロング船長、コリンズ、オルドリンの三飛行士は、母船に月着陸船を接続したまま月へ向かって飛行している。月へ向かう飛行の中で三人は初めての夜を過ごしたあと、ヒューストンから地球のニュースを聞いた。
まずアポロ11号打ち上げに関する世界の熱狂的な反応を詳細に聞かされ、三人は改めて全世界の関心の高さを感じ取り、責務の重大さを再認識した。
そしてもうひとつ、驚きのニュースが伝えられた。
ソ連のルナ15号がすでに月周回軌道に入り、月を回り始めたとのニュースである。
アポロ11号打ち上げ三日前の七月十三日、ソ連はこのルナ15号を打ち上げていた。これは無人ではあるが、月着陸を目指しそして月の土壌を採取して地球に帰還する、という使命を帯びていた。つまり米国よりも先に月の石を地球に持ち帰ろうというわけである。わざわざ危険を冒してまで人間が月面に行く必要はなく、無人でも月探検が可能である、というのがソ連の主張であった。
ただし当時秘密にされ西側諸国は知らないことであったが、当初ソ連も有人の月着陸を目指していた。それを打ち上げる大型ロケットN‐1が、二週間ほど前に打ち上げに失敗し大爆発を起こしていた。ソ連はこの失敗で有人月着陸をあきらめ、急遽ルナ15号での無人探査に切り替えていた。
ともかくこのルナ15号が成功すれば、無人の月着陸ではあっても、月の科学的調査という点ではソ連に先を越されることとなり、アポロ11号の月着陸が成功してもそのインパクトが薄れることになる。
ヒューストンでは、ルナ15号の動向に神経を使っていた。
ソ連が先に月着陸を成功させることを心配するということもあるが、それよりもアポロ11号の月着陸に支障をきたすようなことがあれば大変なことである。
「ルナ15号の想定軌道と、アポロの月周回軌道が交錯することはないのか?」
フォン・ブラウンはそれが気になり、運航担当者に尋ねていた。
「予定通りにいけば大丈夫です。ルナ15号の予定軌道はソ連から連絡が入っています。その通りなら交錯することはありません。しかし本当にそういうことが起こらないように、監視は続けています」
月周回軌道上で万一衝突するなどということがあれば、それはソ連にとっても避けなければならないことで、アポロ11号と同時期に飛ばしているというものの、その点は考慮されていた。ただしそれでも監視は必要である。
アームストロング船長にとって、ルナ15号は気にしてもしかたのないことであった。
ともかく三人は自分たちの任務を遂行することだけに集中した。このミッションは何が何でも必ず成功させなければならない。アポロ11号の作業だけで精一杯で、余計な心配をする余裕はなかった。
この月面着陸というミッションは、人類の夢も乗せている一大事業である。ここまで多くの人の努力があって今の状況があることも、多くの国民の期待を背負っていることも充分に認識している。ここに来てつまらないミスによる失敗など許されるはずもない。アームストロングやオルドリンは月着陸の操作手順を何度も繰り返しチェックし、本番に備えてリハーサルを怠らなかった。
今まさにこの三人が、人類最初の月着陸チームとして、人類の夢を乗せて月へ向かって飛行しているのである。
打ち上げから四日目、目標の月が三人の前に大きく迫ってきた。
アポロ11号は地球重力の影響のあるところでは減速していたが、月の重力圏に入ると今度は加速され高速で近づいていた。
いままでエンジンを停止し慣性で飛行していたアポロ11号は、時速八千キロほどで接近している。これでは高速すぎるため月に向かってエンジンを噴射させ、時速五千キロ弱まで減速させなければならない。減速しなければ月の横を通り過ぎ、惑星となって宇宙を彷徨うことになってしまう。ブレーキをかけて減速し、うまく月の周回軌道に入れる操作が必要である。減速の程度も気をつけなければならない。もし噴射時間が短く減速が弱すぎると、月の裏側を回ってそのまま地球に戻ってしまうし、逆に減速が強すぎると月周回軌道を通り過ぎて月面への衝突コースに入ってしまう。
コリンズは注意深く六分ほど噴射を続け、アポロ11号を減速させた。その結果、地球で立てていた計画通りの月周回楕円軌道に、ほぼ完璧に入れることに成功した。それをコンピューターの数値で確認した三人は、その正確さに興奮していた。
「遠地点一六九.六、近地点六〇.九。計画の一七〇と六〇マイルとほぼ同じだ。これ以上うまくはできないだろう」
オルドリンは会心の笑みを浮かべて、船長に話しかけた。
遠地点とは月から一番遠くなるところ、近地点は一番近くになるところという意味である。つまり月までの距離が六〇から一七〇マイル(約一〇〇から二七〇キロ)の範囲で楕円となる軌道に入った。計画通りである。
一方ヒューストンの管制センターは、その状況が把握できずに心配していた。
アポロ11号が月の裏側に入ったために通信が途絶えており、予定通り月周回軌道に乗ったのかどうかわからなかった。しかしアポロ11号が月の表に顔をだし、通信が可能となったとき、計画通りの月軌道に乗ったことを確認すると、ヒューストンでは皆ほっと胸をなで下ろした。また一つゴールに近づくことができた。ここまでくればあとのハードルは月着陸そのものだけである。
月着陸作業は、三人のパイロットの手に委ねられる。
アームストロング船長らは、三人とも初めての月面を見つめていた。
三人は今まで飽きるほどに月面の写真を見てきたが、実際に自分の目で見ると、地球で思っていた印象とは全く異なる光景に、神秘的なものを感じていた。土と石だけの無機質な大地が広がっている。生命を全く感じさせない灰色の世界だ。
「これが月か…」
それでも三人はその光景に感動していた。
そしてこれからそこへ降りていくのである。そのことを考えると自然に心臓の鼓動が高まってくる。それでもアームストロング船長ら三人の飛行士は月周回する間、月着陸を行う航路を確認し、月面のランドマークを一つ一つ自分の目で確かめた。
「さあ、円軌道に乗せよう」
月周回飛行の途中で再び機械船のエンジンを噴射し、楕円軌道をほぼ真円に近い軌道へと軌道修正を行った。円軌道にしたのは、月着陸船の分離タイミングと月面から帰還時のランデブーが容易になるからである。
そのあとアームストロング船長とバズ・オルドリンは、ハッチを通って司令船から月着陸船に移動した。着陸は翌日である。その月着陸に備えて、着陸船イーグルの通信機器関係や操縦スイッチ類の確認を入念に行った。そして再びハッチを通って司令船に戻り、月周回軌道上で最初の夜を過ごした。
翌日いよいよ月面着陸を行うことを考えると、誰も熟睡することはできなかった。
翌早朝、ヒューストンからのモーニングコールで三人は目を覚ました。
人類初の月着陸がいよいよ行われる日である。
みながその成功を祈って見守っている。
NASAも成功を目指して、入念過ぎるほどの準備を行いこの日を迎えている。
技術的にはほとんど成功は間違いないものと信じられていた。しかし初めての月着陸である。これから全く未知の領域に入ろうとしている。宗教家にとっては人類が足を踏み入れてはいけない神々の領域である。もしかしたら全く予想外のことが起こり、三人の宇宙飛行士が帰還できないことが起こるかもしれない。そういう不安は誰もが心の奥底に持っていた。万一の場合、飛行士が月面に残され地球に戻れないことを想定して、大統領が読み上げる哀悼のスピーチまでもが実のところ用意されていた。ただしその原稿は、使われることなく封印されたままとなる。
この朝、三人はさすがに緊張していた。
朝食はいつものようにとったが、どこかそわそわしていた。
食事を済ませたあと、三人とも宇宙服を身につけた。特にアームストロングとオルドリンは、月面活動を行うから、なおさら注意深く準備を行った。この作業は狭い操縦席で行わなければならないため、ごわごわの宇宙服を着るのに多少いらいらさせられた。みな神経が高ぶっていた。
アームストロングは宇宙服を着用すると、司令船からハッチを通って月着陸船に乗り移った。すでに何度か通ったトンネルではあるが、その都度違和感があった。司令船の床を蹴って頂上に向けて頭から入ったにもかかわらず、トンネルを抜けると月着陸船の頂上から床に向けて頭を出すことになる。つまりトンネルを境に上下が突然逆になるため、脳の平衡感覚が混乱してしまう。どちらが上でどちらが下なのか、わけがわからなくなった。
それはともかく、このときアームストロングは、個人用袋PPKを着陸船に乗せることを忘れなかった。これをコントロールパネル下のロッカーに収めた。
¦これが我々を守ってくれる¦
船長はPPKの上に手を置き、心の中で祈った。
今回の月旅行では、個人的な持ち物を持参することが許されていた。それを入れるのが個人用袋PPKである。これはNASAの心配りによるもので、つまり地球帰還後それが、月へ一緒に行ったという個人的な記念品になるという配慮である。何を入れているかの報告義務はなく、本人だけしか知らない。
アームストロング船長はこれに木片と布片を忍び込ませていた。
それは、ライト兄弟の世界初の飛行機フライヤー号のプロペラの木片と翼に羽布として使われたモスリンの一片である。ライト兄弟はアームストロング船長と同じオハイオ州出身で、故郷の英雄である。ライト兄弟の本拠地だったデイトン市の空軍航空博物館が、保管していたフライヤー号の破片を借りることができた。世界初飛行となったライト兄弟の飛行機の一部を、どうしてもこの人類初の月着陸に持参したかったのである。歴史の上に歴史を重ねようとしていた。
アームストロング船長に引き続いてオルドリンも月着陸船に移った。そしてハッチを閉じた。
司令船側もコリンズがしっかりとハッチを閉め、密封した。
そしていよいよ、着陸船が司令船から分離され、月面へと向かう時がきた。
このあとコリンズは司令船の中に、一人だけで待機することになる。
これからしばらくのお別れである。
アームストロングとオルドリンは月着陸船の装置をチェックし、すべて正常であることを再び確認した。着陸用の四本の脚はここまで折り畳まれてきたが、これも所定位置に開いた。準備はすべて整った。
コリンズは、慎重に月着陸船の分離操作を行った。
船内に快い金属音が響く。母船と月着陸船の別離の音である。
分離はうまくいったようだ。コリンズはこれが永遠の別れになるかもしれない、とは少しも思わなかった。しかしここまで一緒にいた仲間が去っていき、自分一人だけが取り残されるという寂しさがあった。これから二日ほど無機質な月の上空を、たった一人だけで飛び続けなければならない。人類初の月面着陸を行う二人は、全世界の注目を浴びることになるだろう。その二人を陰で支援するのがコリンズに与えられた任務である。ただそれをこなすだけである。
分離後、コリンズの司令船と二人の月着陸船はしばらく離れずに飛行を続けた。
アームストロング船長は、司令船との軌道を少し横にずらした。
司令船を操縦するコリンズは窓から外を見て、その月着陸船の外観をチェックした。司令船から分離した月着陸船がきれいに見えている。特に着陸用の四本の脚が所定の位置にあるかどうかをしっかりと確かめた。
アームストロングは、コリンズが月着陸船の全周を目視確認できるようにゆっくりと回転させている。着陸船の四本の脚は、サターンロケットの第三段に収納されている間は折り畳まれていた。これが破損していないかどうか、またしっかり開いているかどうかの確認は重要である。キャビン内部でも脚が開いていることを確認する信号はでているが、それでも外部からの目で確認すれば安心できる。万一脚が破損などしていれば、月着陸時に転覆し地球に帰還できなくなってしまう。この確認だけは何度確認してもし過ぎることはない。
コリンズが外観をチェックしている間、アームストロング船長は月着陸船の計器チェックを行った。すべて着陸に問題ないことを確認すると、両船は並行飛行を止め離脱した。これから司令船は月周回軌道を維持し、着陸船は月面へと向かう。
コリンズは窓から次第に遠ざかっていく月着陸船を見送った。
暗黒の空と灰色の月面を背景に、月着陸船が太陽の光を反射しながら音もなく離れていく。
あとの運命は、全てアームストロングとオルドリンの手の中にある。
この月着陸船はイーグルと命名されている。
鷲は強い米国を象徴する鳥である。この世紀の月着陸を行う船には、この名がふさわしいと米国の期待が込められていた。しかし遠ざかるイーグルは、四本の脚を前に突きだした形で飛行しており、力強い鷲とはとても形容できない、不格好で奇妙な形にコリンズの目には写った。
一方司令船はコロンビアと命名されている。これもアメリカを象徴する名前でアメリカ大陸を発見したコロンブスにちなんでいる。イーグルとコロンビアという命名に、米国のアポロ11号にかける思いが集約されていた。
イーグルは、コロンビアから離脱したあと高度一七〇〇〇メートルほどまで降下した。
アームストロング船長は月着陸船のエンジンを噴射させて減速し、月着陸軌道へと入った。このまま飛行すればあと小一時間で月面に到達する。
いよいよ月着陸作業を開始する。
二人は全世界が注目する前人未踏の月面へ、アポロ計画の最終ゴールへと向かう。
月着陸操作は、今まで誰も行ったことのない初めての作業である。
地上では何度もシミュレーターで予行演習を行ってきたが、今回は本番である。緊張感はいやが上にも高まっていた。
アームストロング船長とオルドリンは、全神経を集中させている。
降下操作中、もし異常が発生すれば直ちに降下を中断し、母船へ戻る操作に移らなければならない。それも瞬時に正しい判断をしなければ、最悪の場合は永遠に地球に帰還できなくなるかもしれない。その可能性はここまでの飛行中いつでもつきまとっていたが、この月着陸操作中がその可能性の一番大きな場面である。
しかし一方で、降下操作を中断するということは、月着陸をあきらめて帰還するということを意味している。祈るように見守っている全世界の期待、そして月着陸を実現するためにここまで尽力してきた多くの人々の期待、そしてなによりも飛行士自身の月に着陸したいという強い願望とこれまでの努力が全て水泡となってしまう。この着陸操作を中止するという決断は、できる限り避けたいものである。しかししばらくして二人は、その決断を迫られる場面に遭遇することになる。
イーグルは静かに降下を続けている。
アームストロング船長は、現在位置を把握するため月面を観察した。月面の地形はアポロ8号、10号などの写真を何度も見て頭の中にたたき込んである。
高度は九〇〇〇メートルを切った。沈下率毎秒三十五メートル。
月着陸船の高度は、レーダーの電波反射で測定している。
地球で使う高度計は大気圧の差で測定するのが普通であるが、月は真空であるため通常の高度計は使えず、レーダーで測定するようになっている。アームストロングとオルドリンは計器で高度を確認し、同時に外を目視で確認している。
月着陸船は四本脚を突き出し蜘蛛のような形をしている。地球上では、これほど不格好な飛行物体はない。これは月でのみ飛行するように設計されているため、流線形などの空気力学を全く無視しているからである。必要な要素を単純に効率的に配置した設計になっており、地球上の飛行体ではあり得ない形となった。
イーグルは暗黒の世界の中を、太陽の光を反射しながら静かに降下を続けている。物音のない静寂の世界である。
アームストロング船長もオルドリンも、月面と計器に目をやりながら慎重に操船を続ける。アームストロングはもともとテストパイロットとして、ジェット機での操縦が豊富なベテランである。しかし空気のない月での着陸操作は、地球上での飛行機の着陸操作とは全く違う。そのためトレーニングとして、地球で月着陸船と類似した飛行特性を持つLLTV(月着陸訓練機)などで訓練を充分積んでいた。しかしアームストロングは、実際の月着陸船の操作はそのLLTVよりもずっとやさしいと感じていた。重力は六分の一であるし姿勢を乱す風もない。ただし緊張感は今のほうがずっと高い。
降下を開始して二十分、航空機の着陸で言えばチェックポイントを通過する高度となった。着陸の瞬間が刻一刻と近づいている。
ヒューストンも、じっとイーグルの動きを見守っている。
長年目標にしてきた月面は、もうすぐそこにある。
緊張感と期待感が管制室全体を覆っている。
着陸まで、あと八分ほどとなった。
静かに降下する中、静寂を破って突然アラーム音が船内に鳴り響いた。
オルドリンはびくっとし、張りつめていた緊張がさらに強まった。計器を見る。
「プログラムアラームだ」。アームストロングが声を張り上げた。
「問題ないように見えるが、どうぞ」、ヒューストンが呼びかける。
二人の飛行士は地上訓練では経験したことのない、この初めての警報に緊張感が高まっていた。異常事態であれば着陸操作を中断し、上昇操作に移らなければならない。
「アラーム1202だ」。アームストロングがヒューストンへ再び呼びかける。
「1202」。オルドリンが復唱する。
「プログラムアラーム1202の意味を読み上げてくれ」
アームストロングはこのアラーム1202が何を意味するのか、ヒューストンに聞いた。
着陸まであと七分とイーグルは降下を続けている。月面はすぐそこまで迫っている。
ヒューストンの地上管制センターで見る限り、そのアラーム以外は全て異常なく飛行そのものも順調である。異常があるようには見えない。
しかしアラームの意味を確認し、対処方法をすぐに決断しなければならない。管制センターに緊張が走った。この異常が致命的なものであれば引き返す指示が必要だ。何よりも安全に帰還させることが最優先事項である。NASAは常にそれを念頭に置いていた。着陸操作を続行させるのか、それとも中止して引き返す操作をさせるのか、すぐに判断しなければならない。
この時、ミッション管制室にいた二十六才のスティーブ・ベールスが、この1202アラームは着陸続行に支障ないことを確認していた。
このアラームの意味は、高度を測るレーダーからのデータにコンピューター処理が追いついていないことを知らせるものであり、異常を知らせるものではない。それを知っていた。このアラームは逆にコンピューターが順調に作動していることを示している。それを管制官デュークに伝えた。デュークはすぐにそれを理解し、ヒューストンからイーグルへ異常はなく着陸操作を続行するよう伝えた。
「こちらでは把握できている。このアラームでは(着陸を)続行だ!」
「了解」
アームストロングは機械的に答えた。
アームストロングもオルドリンも、ヒューストンからの着陸続行指示を聞いてほっとした。もともとアームストロングはアラームが出ているものの、飛行そのものは順調であり、テストパイロットの経験から直感的に問題はないと感じていた。それがヒューストンからの回答で、はっきりと確認された形となった。
着陸続行を指示したスティーブ・ベールスは、実は数日前の予行演習でまさにこの1202アラームに出くわしていた。その時はこのアラームで『着陸中断』と判断し、その指令を出していた。しかしそのあとでこの判断は間違いであり、続行可能であることを学習していたのである。もしもその演習がなければ、本番で『着陸中断』の指示を出していたはずである。まさにその予行演習が本番で生きることになった。スティーブ・ベールスはこのときの対応でアポロ11号を成功に導いたとして後に表彰されることになる。
しばらく降下を続けて高度が一〇〇〇メートルを切ったとき再びアラームが響いた。
着陸まで三分を切っている。
「プログラムアラーム。1201だ」。オルドリンが叫んだ。
「1201。高度六〇〇、(降下率)十五」
「1201アラーム了解。同じタイプの警報だ。続行してくれ」
ヒューストン地上管制がすぐに回答した。
このアラームも前のものと同様に、着陸操作中断の必要のないものであった。
着陸船はどんどん月面に近づいている。
高度三十メートルを切ったとき、今度は別の警告ランプが点灯した。
燃料切れの警告ランプである。
これをオルドリンが船長に伝達した。
これは燃料が五%を切ったことを意味している。残りがわずかしかない。
これを認識したヒューストンでは、九十四秒のカウントダウンを始めた。
九十四秒過ぎれば着陸を中断することになっており、「ビンゴ」と叫ぶ。
着陸を続行するだけの燃料がなくなるとの、最終警告である。
ヒューストン管制室は再び緊張に包まれた。フォン・ブラウンも見守っている。
高度二十二メートル、残りあと六十秒。
管制センターがイーグルへ呼びかけるが返事がない。この時イーグルでは着陸操作に全神経を集中させていた。燃料計の確認、高度の確認、着陸地点の目視確認、機体スピードの判断を同時に行っている。月面を目の前にして交信する余裕はなくなっていた。
燃料は、ほとんどなくなっている。
早く着陸しなければならない。
緊張している中でも、アームストロングは冷静さを維持していた。
高度が三十メートルを切れば、中断するよりも続行するほうが安全だと判断していた。すでにその高度を切っている。低高度での中断はかえって危険だ。そして十五メートルを切れば、機体の構造から考えて燃料が切れても着陸に問題はないとの判断もしていた。だから、もはや着陸する事のみに神経を集中させていた。
「ビンゴ!」と管制官チャーリーが叫んだ。燃料がなくなる。
管制センターの緊張感は頂点に達した。
しかしエンジンはまだ噴射を続けている。
アームストロング船長は、着陸することのみを考えている。
窓越しに、コンピューターが示す着陸予定地点を見た。
そこはクレーターの斜面であった。しかも大きな岩石が点在しており、明らかに着陸するには危険な場所である。
---だめだ、あそこには着陸できない---
船長はもっと安全な場所に機体を誘導しなければならないと判断した。
しかしその手前も右も左も大きな岩が見える。見える範囲に安全そうな場所はなく、クレーターを飛び越えた向こう側へ出るしかない。その向こうが安全だという保証はなく、燃料が持つかどうかもわからない。しかし考えている時間はなかった。クレーターを飛び越えることを決断した。
降下速度をゼロにし、高度を維持し横に滑るように着陸船を操縦した。
幸いエンジンはまだ噴射を続けている。が、いつ切れてもおかしくない。
もしもクレーター斜面や岩の上で燃料切れにでもなったら最悪の事態になる。
ヒューストンでは、残り燃料がすでにゼロを示している。早く着陸してくれと祈るような気持ちで着陸船の動きを見守っていた。
誰も声を出さない。全員が息を殺して、イーグルからの通信に聞き耳を立てている。
イーグルは、どうにかそのクレーターを飛び越えることができた。
クレーターを飛び越えると新たに視界が開けた。
「着陸できそうな場所はあるか?」
船長はすばやく周囲を見回した。考えている時間はなく即断しなくてはならない。
幸い前方にいい場所を見つけ、そこに着陸することを決断した。そのままそこに移動したあとイーグルを停止させ、そして最後の降下着陸操作に入った。
着陸地点はもう真下にある。
アームストロングは、着陸操作には自信があった。
しかし、イーグルの噴射を受けた月面の塵が、表面を這うように放射線状に流れだし、それが層をなして視界を遮った。月面が見えなくなった。
緊迫感が増す中、船長はさらに神経を集中させ、慎重に着陸船を操縦し、極めてゆっくりと降下操作を行った。
着陸船の四本脚のうち三本にセンサーが二メートルほど突き出ている。これが接地すればコクピットのランプでわかるようになっていた。そしてセンサーの接地と同時にエンジンを停止し、その位置からの自由落下で本体の着陸となる。
オルドリンがそのランプを見つめ続ける。
そしてついにそのランプが点灯した。
「コンタクト点灯!」
「エンジンを停止しろ」
「OK、エンジン停止」
イーグルはほとんど衝撃を感じることなく月面に降り立った。
二人は全ての着陸装置システムを停止させた。
アームストロングは、窓の外に目をやった。
「確かに月面にいる」
着陸船が、しっかりと月面に立っていることを確認した。
アームストロング船長は、それを実感していた。しかし緊張感からか感慨はまだない。
一方、ヒューストンでは着陸操作は聞こえたが、本当に着陸したのかどうかは確認できていない。最も重要な着陸の場面である。はっきりと着陸したという報告が聞きたかった。それを確認するために、デュークが呼びかけた。
「エンジン停止、了解した。イーグルどうぞ」
そして、アームストロング船長の落ち着いた声が、ヒューストン管制室に響いた。
「…ヒューストン、こちら静かの基地。イーグルは着陸した」
静かの基地…。デュークはその言葉の意味がすぐにわかった。
着陸した場所は『静かの海』である。そこへの着陸が成功すれば、そこが月面活動の基地となる。安全に着陸に成功した、という意味を込めてアームストロングは『静かの基地』と表現した。デュークはそれを瞬時に理解して、安全な着陸に成功したことを悟った。そしてそのことで胸が詰まり感動で返答できなくなった。しかしどうにか声を絞り出した。
「了解、しず……静かの基地。月面に着陸したこと了解。……君らのせいでみんな息を殺して青くなっていたよ。これでやっと息ができるようになった。感謝するよ」
イーグルの着陸が確認できた瞬間、ヒューストン管制室は歓喜の渦に包まれた。
長い間の悲願がついに達成された瞬間であり、また歴史的偉業成功の瞬間でもあった。皆が抱き合って喜びあった。
フォン・ブラウンも感動で胸が一杯になった。
本当に彼らは月面にいるのである。
目標にしてきたことが、今まさに実現しているのを見て感無量であった。子供のころからの夢が夢ではなくついに現実のこととなった。言葉に言い表せないほどの大きな幸福感を味わっていた。そして自分の夢を国家の目標にしてくれた故ケネディ大統領に対し、感謝の念を新たにしていた。
「大統領、見ていますか。ついにやりましたよ。いま彼らは月面にいます」
そしてまたセルゲイ・コロリョフのことにも思いを馳せた。
今まで一度も相まみえることのなかったソ連の科学者も、人類の月着陸を夢見ていたことを知っている。志半ばで他界したコロリョフもまた、彼がいなければこの米ソの競争はなかったかもしれない。米ソの競争がなければ月着陸も実現しなかったに違いない。フォン・ブラウンはそう感じていた。
…セルゲイ・コロリョフ。見ているか、人類は月への着陸を実現したぞ…
歓喜雀躍する同僚の中で一人感傷に浸っていた。
イーグルでは無事に着陸したからといって、すぐにアームストロング船長らが月面に降りるわけではない。その前にしなければならないことがある。
まず、月からの離陸操作の確認が必要である。
一連の着陸作業で離陸システムに不具合が生じている可能性もある。もし異常があれば月面活動している間に、その対策方法をヒューストンで検討することができる。アームストロングとオルドリンは離陸操作手順を一通り行い、システムに不具合のないことを確認した。
この確認が終わると休憩時間が計画されていた。しかし二人とも休憩をとるような気分ではなかった。すぐにでも月面へ出たいという気持ちで一杯であった。
ヒューストンの了解を得て、休憩をキャンセルし月面活動の準備に入った。
これに意外と時間がかかった。外部に出て活動するために背負うパックや生命維持装置を装着しなければならない。狭い船内でかさばるヘルメットやバックパックを身につけると、とても動ける余地がなくなるほど狭い。この着用は慎重に行った。真空での船外活動を行うから少しでも不具合があれば命に関わることになる。さらに月面で使用する機器の準備も必要である。これらの作業を一つ一つ慎重に確認しながら行った。そして着陸から六時間以上たってやっと月面に降りる準備ができた。外に出る準備ができると、船内も外と同じ真空にするため排気作業を開始し、着陸船内部の減圧が終わり圧力計はゼロとなった。これでイーグルのハッチを開けることができる。
準備万端である。ついにその時を迎える。
月面へはまずアームストロングが降り、オルドリンは様子を見るためしばらく待機する。
「今から月着陸船より外へでようと思う」
アームストロング船長は、ヒューストンに連絡を入れた。
「了解」
ヒューストン管制室は再び緊張感に包まれた。しかし今度は大きな期待の緊張感である。
いよいよ月面に人類の第一歩のしるされる時が来る。
ヒューストンでは、月面に降りた後の第一声は何と言うのかに注目していた。月からの第一声は必ず歴史に残る言葉になることを皆が感じていた。しかし船長が何と言うのかは、この時まで誰も知らない。アームストロングのみが胸の内に収めている。
着陸船に備え付けられたカメラが始動し、ここから生中継で全世界に放送が開始された。全世界の目がアームストロングの一挙手一投足に注がれた。
大きなヘルメットと大きなバックパックを背負った宇宙服は、一見動きにくそうであるが六分の一の重力下では意外とスムーズに動くことができた。アームストロングはそれでも慎重に着陸船の脚についている階段を一段ずつ降り、脚パッドの上に一度止まった。そしてしっかり大地を確かめるように月面に第一歩をしるした。
この歴史的な瞬間を多くの人々が見守った。
そして有名な月面での第一声を発した。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩であるが、人類にとっては大きな飛躍である」
(That's one small step for (a) man; one giant leap for mankind.)
アームストロングは静かに、そしてしっかりとこの言葉を口にした。
そしてその言葉を聞いたとき、管制室は静かな歓声と拍手に包まれた。
この時が歴史的な瞬間であることを皆が実感し、喜びをかみしめた。
しばらく待ってから、オルドリンも月面に足跡をしるした。
二人は月面に降り立ったあと、地球から持ってきた記念プレートを月面に差し込んだ。
『一九六九年七月、地球より最初に来た人間がここに足跡を印す。全人類を代表して』
この後二人は米国国旗を月面へ立てた。地表下部は堅いため二十センチほどしか突き刺すことができず、不安定になることを心配して伸縮式のポールも、全部を引き出すことをあきらめ、予定より背の低い位置に星条旗を立てることになった。そして記念すべき月面からの最初の電話で、米国大統領と会話を交わし、月着陸を記念した簡単な式典を終了した。
そしてアームストロング船長とオルドリンは本来の重要な作業に取り掛かり、二十一キログラムの石や土壌を採取し、アポロ月面実験パッケージESEPを設置した。これには地震計、月地球直通コミュニケーション機器、太陽風に含まれる特殊ガス成分(例えばクリプトン、アルゴン)を捕獲する装置(地球帰還後分析)、月地球間距離を測定するための地球からのレーザー光を反射させる装置、などが含まれている。
二人は月面で二時間半ほど活動した後、月着陸船に戻った。
イーグルに戻った二人は不思議な気分になっていた。
月面活動はたった二時間半でしかなく、するべきことが多く、月面にいることをしみじみと味わうような時間はなかった。とはいえ確かに月の土を踏んで歩きまわった二時間半である。短かったとはいえここへ二度と戻ってくることはないと思うと、もう少し長く留まっていたいと後ろ髪を引かれるような気持ちが強くなっていた。しかしその一方で早く地球に帰りたいという気持ちもある。そしてこれから未経験の離陸操作が待っている。無事に離陸できるのか、無事に地球に帰ることができるのか、その不安も頭をかすめた。
二人は船内に戻ると、月面活動中宇宙服や機器についた塵を掃除機できれいにし、月から未知の細菌などの持ち込みを防ぐための予防隔離処置を開始した。すべての作業が終わり二人は寒い宇宙船の中、月面上での最初で最後の睡眠をとった。
着陸から二十一時間半月面にとどまったあと、月表面から離陸する。
この操作が、アポロ計画で心配されていた最後のハードルとなる。
「これで月ともさようならだ」
二人は静かに月面を見おろしながら、離陸上昇操作を行った。
月着陸船の上部と下部をつなぐボルトは問題なく破壊され、上部のみが月を離れて上昇している。上昇は思いのほかうまくいっている。発射プラットホームや周囲の障害物から完全に離脱するために十秒ほど垂直に上昇したあと、上昇速度が毎秒十二メートルに到達したとき、上昇角を五十度に変更し月周回軌道へと向かった。発射の開始は非常に滑らかであり、アームストロングはほとんど加速度を感じなかった。しかしキャビンが傾くと月面を見ることができたので、早く上昇していることがわかった。
「とてもスムーズな上昇だ…」
下を流れながら遠ざかる月面を見ながら、アームストロングは感無量になっていた。
心配していた月面からの離陸も問題なくこなした。ここまですべてがうまくいっている。
離陸が成功したあとは、司令船に本当に合流することができるのかが問題である。
着陸船が司令船の軌道を目指して上昇し、母船を捕まえることになっている。
いくら月が地球より小さいといっても一周一万キロ以上もある。その上を飛ぶ全長十一メートルの母船を見つけなければならない。例えれば太平洋上にいる小さなボートを探すようなものである。ヒューストンなどの監視のもとでち密に計算されているとはいえ、何かが一つでも狂えば再会できないことも起こりうることである。
一方、月周回軌道上のコリンズは、アームストロング船長らがうまく離陸できたことを知り、ひとまず安心した。しかし彼にとっての勝負はこれからである。月着陸船をうまく回収しなくてはならない。万一にも回収に失敗すれば、彼らは地球へ帰還できなくなる。司令船で待つコリンズの心配は、これまでずっとそのことであった。
もし月着陸船が姿を現さなければ、自分から探しに行くことになっていた。
計画では合流するまで三時間半ほど必要とされている。コリンズはジェミニで宇宙飛行の経験は積んでいたが、このときほど不安と緊張の時間を過ごしたことはなかった。
離陸から三時間近くたって、船長が順調に接近していることを伝えてきた。
そしてコリンズが漆黒の月面上空を飛ぶ着陸船を、視野に捉えたときの喜びは大きかった。
「見えた。イーグルを確認した。いいぞ、もう少しだ」
さすがに直接に自分の目で捉えることができると、緊張感は解けホッとした気持ちになった。
「着陸装置がなくなっているのが見える」
別れた時は、四本脚のついていた着陸船も下部がなく丸い形状に変わっている。こうなると上と下の区別がつかなくなる。
「ドッキングする方向を間違えないでくれよ」
アームストロング船長のおどけた声が、コリンズの心を和ませた。
ドッキング作業はもう何度も繰り返しており慣れている。着陸船が母船に充分に近づくとコリンズはドッキング操作に入った。
通常通りコリンズが、ドッキング操作をしようとしたときトラブルが起こった。
まさにドッキングしようとしたその瞬間に、着陸船が逃げるかのように動きだした。
「うわっ、どうしたんだ」
いつもであれば素直にドッキングが完了するはずの操作にもかかわらず、ドッキングに失敗した。ジンバルロックというやっかいな現象が起きていたのであるが、それに気がついていなかった。
コリンズは月着陸船のいつもと違う反応に驚き動揺した。
それでも再びドッキング操作をやり直し、二回目はどうにか無事ドッキング作業が終了した。
ヒヤリとしたが、とにかくドッキングは成功した。これで三人そろって地球に帰ることができる。ハッチを開き、最初に出てきたのはオルドリンだった。
彼の顔を見たときのコリンズの喜びようは尋常ではなかった。嬉しさのあまり抱きしめてしまいそうになったが、かろうじて思いとどまった。長時間一人だけで不安な時間を過ごしたからということもある。しかしそれよりも一番恐れていたことは、一人だけで地球に帰ることであった。
技術的には一人で操縦して帰還することはできる。しかし万一、事故で二人を月に残したまま一人だけ地球に帰ることになったら一体どうなるのか。一生重い十字架を背負って生きていかなければならないだろう。考えるだけでも恐ろしいことであった。
それでオルドリンの顔を見たときにその恐怖心から解放され、抱きつきたいほどの衝動にかられたのだった。
続いてアームストロング船長が司令船に戻った。
三人とも満面の笑みを浮かべ再会を喜んだ。
コリンズは一人の寂しさと恐怖感から解放され、アームストロングとオルドリンは自分の家に帰ってきたような気分になっていた。そしてなんといっても月着陸を成功させたという充実感、達成感がある。狭い空間の中で三人だけで成功を祝った。
ところで無人で月の石を採取することを目指した、ソ連のルナ15号はどうなっただろう。
月周回軌道でのスピードが速すぎたため長く周回飛行を行うことになり、アポロ11号よりもかなり遅れて着陸態勢に入っていた。アームストロング船長とオルドリンが月面から離陸する二時間ほど前に、ルナ15号は軟着陸に失敗し「危機の海」に激突していた。皮肉なことにその振動が、月面にオルドリンの設置した地震計の最初の記録となった。
ソ連の最後の逆転をかけた試みもこうして失敗に終わり、アポロ11号の成功が一段と光を放つことになった。
一九六九年七月二十四日木曜日、アポロ11号は地球に戻ってきた。
七日間の感動的なミッションを終え、三人を乗せた司令船は大気圏に突入した。
三人の飛行士は皆の期待にこたえ、確かに生きて地球に戻ってきた。
太平洋上で空母ホーネットが三人を待ち構えている。
「もうすぐだ。三人が無事着水すれば、長かったミッションが終わる」
フォン・ブラウンは、最後のその瞬間を待った。
彼らが無事に地球上に戻った時が、ケネディ大統領の宣言「六〇年代に月に人間を送り安全に帰還させる」が完遂される時である。その時はもはや目前に迫っていた。
そしてついに、アポロ11号は太平洋に飛び込み、水しぶきがあがった。
フォン・ブラウンは、皆の夢が叶った瞬間を自分の目で確認することができ、胸が一杯になった。




