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守り人

作者: ちりり

「守り人っちゅうのはな、アヤノの近くに居て、アヤノのピンチを救ってくれる人のことじゃよ」


「アヤノのまもりびとはどこにいるの?おじいちゃんじゃないの?」


じいちゃんがずっと守ってやれたらいいんじゃがな」


 病床の祖父と7つの時に交わした会話を24のアヤノはふとした時に思い出す。そして、まだ見ぬ自分の守り人を待ちわびていた。


 4月から新社会人となったアヤノは、職場から13駅離れた、学生が多く住む町に一人暮らしを始めることにした。家を決める際、アヤノは、学生がたくさん住んでいる場所のアパート、という条件を最優先事項として候補地を選んだ。会社から家賃補助が出るとはいえ、支出は抑えたい。学生が多く住む町の家賃は安い傾向にあると踏み、職場から少し遠く、快速は止まらない小さな駅周辺に絞り込んだ。不動産屋はすぐさま2つの物件の資料を広げた。


「今空きがあるのはこの2つですねー」


 いきなりの2択に、アヤノの口から思わず「え!」と溢れた。学生にはやや高いと思われる物件が5件くらいはあるだろうと都合のいいように考えていたのである。狭くても学生が住むには少し贅沢な、デザイナーズマンションのようなお洒落な部屋を想像していた。この2件が、学生の身分では贅沢な物件ではなく、学生でも選ばないような条件であったならば候補地から探し直さなければならなくなる。入社式まであとわずか。一刻の猶予もない。

 成功する社会人とは余裕をもって行動できる人間である、というアヤノの目標が入社式前に崩れ去る危険性がある。本来の計画を実行するべく、アヤノは不動産屋の話を食い気味に聞いた。

 1つは駅から徒歩7分で築35年。1階は老夫婦が経営する弁当屋だそうだ。2階部分が居住スペースとなっており、空き部屋は3部屋あるうちの真ん中。とびつくような物件ではなさそうだ。


「ただ両隣の部屋がですね、男性がお住まいなんですよ」


 そう聞いて若いイケメン男性を思い描いたアヤノは輝かしい新生活を夢見ている。築35年の老夫婦の営む弁当屋の2階に住む男性とあれば、普通は贅沢を許されない環境にある訳アリな人間を想像する。不動産屋はアヤノにとって不都合な条件として伝えたのだが、当のアヤノは漫画のようなシチュエーションを勝手に想像してニヤケていた。そして、不動産屋の「もうひとつですが」の声で我に返り、現実に耳を傾けた。

 もう一方の物件は、駅のすぐ裏手にある築8年のアパート。駅近く故の騒音や振動はあるものの、近くにコンビニやファストフード店があるなど利便性はかなり良い。ただ、駅の改札口が線路を挟んだ先にあるため、すぐ目の前が駅にも関わらず、踏切を渡りぐるりと回らなければ改札へ行かれないのだ。そうであっても近いには変わりないだろうが、1分1秒が惜しい朝の通勤時ともなると、まあいいか、と流せることでもない。毎朝踏切に足止めされ、開いた瞬間に競走馬のごとく走らねばならない日常が容易に想像できる。とはいえ、築35年の古物件よりは遥かに条件がいい。朝に走らなくてもいいように早く起きれば良いだけの話である。


「駅チカの方、見に行ってもいいですか」


 残り2件という数に危機感をもち、すぐさま内覧に向かった。

 新居候補地は不動産屋から徒歩圏内だった。駅の改札を横目に踏切を渡り、駅の裏側に回ればすぐの贅沢な立地である。地図で見た距離よりも遥かに近く感じた。これは余程のことがない限り断る理由はないと、アヤノの胸は高鳴った。もちろんこの物件に即決した。

 

 待ちに待った引っ越しの日。夢のようなひとり暮らしが始まる日。アヤノは朝から心を躍らせていた。道すがらのカフェや雑貨屋にますます足取りが軽くなった。アパートに着くと数秒、外観を眺めた。

 1階にある管理人の部屋へ向かった。インターホンを鳴らそうと手を伸ばすと、体の右半分が金縛りにあったかのように凍りついた。インターホンの右横にある窓から一瞬、人の目が見えたのだ。窓は半分ほど空いていて網戸になっていた。部屋の中が暗かったので中の様子はよくわからなかったが、こちらを見ていると何故かそう思った。アヤノは呼吸を整え、「自分が今日来ることを知っているのだからきっと窓から様子をうかがっていたのだ」と自分に言い聞かせた。


「望月アヤノです。今日からお世話になります。」


 早打ちの心臓を掌で押さえながら扉が開くのを待った。ゴト・・ゴトゴト・・と扉の向こうで物音がした。タッタッタッタッと足音が近づいてきた。


ガチャッ


 さっきの目の持ち主とのご対面である。


「はいはいはい、ご苦労様ですね、管理人の柴田です。お待ちしてましたよ、202 号室の鍵と住人のみなさんへの規則というか・・まあ、お願い事のお便りね」


 柴田は終始笑顔で、先ほどの目の主とは思えないほど柔らかな印象だ。アヤノは手渡された鍵と手紙を受け取り、会釈して立ち去った。昼頃には引っ越し業者が荷物を運び入れてくれる。その前に部屋の中を掃除しようと、お掃除シートを持ってきていた。管理人宅のすぐ隣にある階段で2階へ上がった。

 アヤノは何だかすっきりとしなかった。何かがつかえているような気持ち悪さを感じていた。さっきから管理人と話した場面が頭の中に張り付いている。

 最後の段に足をついたその時、身体中に鳥肌がたった。

 窓から見えた目、あれは管理人のものだったのだろうか。

 アヤノがインターホンを鳴らした後、扉に近づいてくる足音を聞いた。それは奥から直線的に小走りしたような音であった。目の見えた部屋は扉のすぐ隣であり、小走りする程の距離ではないし、足音が聞こえてきた方向が違う気がする。

 しかし管理人宅に同居人がいてもなんら可笑しいことはない。夫かもしれないし子供かもしれない。高齢の親の可能性もある。

 これだけの同居人候補があるにも関わらず、アヤノの拍動はいっこうにおさまらなかった。

 最後の段を上りきり、すぐ近くの扉の横に飾られていた黄色い花の鉢植えが目に入った。ざわついていた心が少しだけ鎮まった。玄関前の鉢植えや立て掛けられた傘、置き配の荷物、生活の証に目をやってふっと強く息を吐いた。表札と部屋番号を順におって、無記名の202 に辿り着いた。


RRRR


 突然の着信に思わずスマホを落としそうになった。発信者はしゅう。一週間ほど前に別れたばかりの元カレだ。円満な別れ方ではなかった故、電話に出るのを躊躇った。アヤノが一人暮らしをすることも、ここの場所も、秀には伝えていない。嫌な予感がする。

 アヤノはしばらく秀の文字が映し出された画面を眺めていた。するとぷつりと音が止んだ。ほっとしたのも束の間、再度、秀からの着信音が鳴り響いた。

 秀はアヤノとの別れに納得していなかった。この電話を受けたらどんな話がなされるのか、容易に想像できる。話し合いをしたところでアヤノの気持ちは変わらないが、秀のアヤノに対する執着を知っているがために、このまま着信拒否をしたところで終わるようなことではないこともわかっていた。

 しかし現段階の最優先事項は、引っ越し業者が来る前に部屋を掃除することだ。そう頭の整理が着いたところで、アヤノはスマホを鞄の中にしまい、初めての自分だけのテリトリーに足を踏み入れた。

 陽が差し込む、家具の無い部屋はいろいろな可能性を感じさせてくれる空間だった。動揺がおさまりきらないが、とりあえずあれこれ考えるのはやめにして、お掃除シートを手に取り部屋の奥隅から拭き取り始めた。家具がないことがこんなにも掃除しやすいのかと改めてミニマリストを目指そうか考え及んだ。

 予定時刻の5分前に引っ越し業者が訪れ、30分もかからずに次の現場へと去っていった。彼らはおそらく時給ではなく一件あたりの賃金であろうから早く仕事を終わらせるほど時給が高くなる。そのため余韻も未練もなく挨拶そこそこに去っていけるのだと、ひとり残されたアヤノは彼らの背中を追いながら分析した。なにはともあれ、無事に家具が配置された。より自分のテリトリーと化した入居1日目の部屋で、さて何しようかと、とりあえずmp3 プレイヤーにスピーカーをつないで5年ほど前にリリースされたラビッツというバンドの「いつものカレーライス」という曲をかけた。なんだか落ち着かない日はいつものカレーライスを食べていつもを取り戻そう、という歌である。アヤノはこの歌を口ずさみながらカレーをつくるのが常だった。今日からのひとり暮らしにわくわくすると同時に、落ち着かないのも正直なところだ。カレーライスの材料は揃っている。もともとカレーを作る予定で、ここへ来る途中にスーパーへ寄ったのだ。


「そんなときは~いっつっもっのっカレーライスぅ~おっきいジャガイモおっきいニンジンちいさいお肉~」


 アヤノはこの「ちいさいお肉」のところを「ちいさいソーセージ」に変えて歌っている。事実、アヤノにとってのいつものカレーライスは牛肉でも豚肉でもなく、お手頃価格で手に入るミニソーセージだった。カレーをつくり終えるまで、エンドレスで歌い続けた。そうやってざわついた心を鎮めていたのだった。


「いただきます」


 望月家では食べる時はテレビをつけない決まりだった。というよりテレビがついていても誰かと話しをしながらの食事なのでテレビは必要なかった。しかしひとりの今、スプーンと皿がぶつかる音と自分の咀嚼音だけが響く。アヤノはたまらなくなって申し訳なさそうにテレビをつけた。食事の時のテレビは悪だと思って生きてきたが、ひとりの虚しさを紛らわすには良いと思った。

 あっという間に食べ終えた。調理時間の何分の1だろうか。ごちそうさま、と小さく呟きすぐさま皿を洗った。カレーライスの歌の2番に入る前に片付け終えた。


RRRR


 いつものカレーライスを食して少しだけ安らいだ心が途端に逆立った。


「・・はい」


 いつまでもびくびくしているわけにはいかない。そもそもいったい何用でかけてきているのかも分からない。アヤノは動揺を隠して電話に出た。


「アヤノ?水くさいじゃん。引っ越すなら言ってよ。手伝いにいったのにさぁ・・」


 別れたはずなのに水くさいとはどういうことか。優しい口調の裏で怒っている。しかも引っ越すことを伝えていないのに、すでに引っ越しを終えた事実を知っている。


「別れたんだから言う必要ないし、電話もしてこないで」


 未練のないアヤノは秀を容赦なく突き放した。


「は?別れた?オマエなに勝手なこと言ってんの?俺がいつ許可したんだよ」


 そうだった。この男は自分のことを俺様だと思っている。いつだって対等ではなかった。この手の人間は、警察沙汰にすると激昂して何をしでかすか分からないから言葉は慎重に選ばないといけない。アヤノは改めて別れをどう切り出そうかと思案した。


ピンポーン


 インターホンが鳴った。電話を切るには良いタイミングだった。


「ごめん、インターホン鳴ったから電話きる」


 アヤノは事実を伝え、穏便に秀を遮断できた。


「はーい」


 アヤノは扉の向こうの救い主の元へ走っていった。


「隣の春日です、夜分にすみません。」


 メガネをかけた細身の女性だった。アヤノは扉を更に大きく開け、「こんばんは、望月です。今日からお世話になります。引っ越しでお騒がせしてしまってすみません」と、春日の用件を聞く前に引っ越しの挨拶を済ませた。


「あ、はい。いえ、大丈夫です。こちらこそよろしくお願いします。」


 一旦、自分の用件は封印して、アヤノの言葉に返した春日は器の大きな大人な印象だ。一方的な秀とは大違いだ。それから少し間を置いて、「あの、」と本題に切り替えた。


「回覧板です。不定期に管理人さんから回ってくるので・・あ、最後の人は管理人さんに渡してください」


 春日は淡々と事務連絡を済ませ、「それではおやすみなさい」と言い、去っていった。回覧板には「外出時や就寝時だけじゃない!在宅時にも扉と窓の施錠!」と大きく注意喚起されたプリントが貼られていた。引っ越し早々、穏やかではない。新しい暮らしに浮かれていてはいけないよ、というアヤノに向けた警告だろうか、なんともタイミングが良い。アヤノの少しだけ浮わついていた心はペタリと地べたに張りついた。

 回覧板の閲覧者欄にチェックを入れた。春日の話ではアヤノは管理人の柴田へ回覧板を戻せば良いとのことだ。明日の午前中にでも渡しに行こう。今日は引っ越しやらなんやらで疲れたからまだ21時半だが寝てしまおうと、歯磨きをした。

 アヤノの歯磨きは5分を超える長いものである。寝る前に、今日あったことをあれこれ思い出しながらの反省や課題をみつける大事な時間なのだ。ひとりの部屋でシャカシャカと音を奏でていた手がピタリと止まった。先ほどの回覧板、たしか202 号室から205 号室までしかチェック欄がなかった。201 号室へは何故回さないのか。不動産屋はこのアパートには空きが一部屋と言っていたから空き部屋というわけではないだろう。旅行などで一時的に不在なのだろうか。引っ掛かることが多くて歯磨きをしているのにすっきりしない。


「寝よ寝よ」


 いろいろ気にしていたらキリがない。明日からの週末をどう過ごそうか考えながら眠ることにした。

 

 相当疲れていたようだ。週末の計画をなにひとつ考えることなく朝を迎えた。5時半。昨日早く寝ただけあって自然と目が覚めた。二度寝との葛藤の末、今日を有意義に過ごすべくアヤノは立ち上がった。ゴミを出しに行きたいが、早朝では騒音問題だろうか。7時まで待つべきか。アヤノは判断に迷いながらベランダから外のごみ捨て場をながめていた。柴田がカラス避けのネットを広げてゴミ袋を覆っていた。アヤノが躊躇っていたのに、もう出した人がいるようだ。静かに動けばゴミを出しに行っても大丈夫なのかもしれない。それに柴田に201 号室の謎を聞くチャンスかもしれない。アヤノは玄関に待機させていたゴミ袋と回覧板を掴み、そろりとごみ捨て場へ向かった。

 柴田の後ろ姿が見えた。ポソポソと何か呟いているようだ。ゴミ袋をガサガサ言わせないように静かに歩み寄った。


「おっきいジャガイモおっきいニンジンちいさい・・」


 柴田はいつものカレーライスを歌っていた。


「柴田さん、おはよ・・」


 そう言いかけた時、


「ソーセージ~」


アヤノは耳を疑った。「ソーセージ」と歌うのはアヤノだけだ。引っ越してきてあの歌を、アヤノオリジナルの歌詞で歌ったのは家でカレーを作ったときや食後の後片付けをしたときだけだった。アヤノの部屋でしか歌っていない。柴田がそれを知るはずがなかった。


「あら、おはよう。早いのねぇ。」


 柴田は背後に立っていたアヤノに驚く様子もなく挨拶した。


「お、おはようございます」


 柴田は「昨日は疲れたでしょう、ぐっすり眠れた?」と話しかけながら、棒立ちのアヤノからゴミ袋を受け取った。アヤノは脳内処理がうまくいかず、聞こうと思っていたことがなにひとつ出てこなかった。


「あ、ゴミ出し早すぎちゃってすみません」


 この場に合う言葉をなんとか絞り出し、「二度寝してきます・・」と力なく呟きながら立ち去った。渡すはずの回覧板をそのまま持って帰ってきてしまった。なんだかふらふらしてきた。一旦、部屋に戻って整理しよう。アヤノは額を掌で擦りながら階段を上っていった。


「おはようございます」


 頭の方から声がした。見上げると205 号室の扉の前でゴミ袋を持った女性が微笑んでいた。


「205 号室の高木です」


 長い黒髪が美しく、アヤノは無意識に見つめていた。高木が眉をくいっと持ち上げ首を傾けたので、「あ、202 号室の望月です、昨日引っ越してきました、よろしくお願いします」と早口で挨拶した。そして「あのっ高木さんはここに住んでどのくらいですか」と続けた。高木は斜め上を数秒見つめた後、アヤノの目を見て「5年かしら」と柔らかく笑い、「なにか分からないことがあったら遠慮なく聞いてね」と階段を降りていった。アヤノは「ありがとうございます」と会釈し、高木が降りていくのを見届けてから自分の部屋へと戻った。

 カレーライスの歌はもしかしたら窓を開け放して歌っていたのかもしれない。そしたら柴田がそれを聞いていても可笑しいことはない、きっとそうだ。なにもそんなに奇妙に感じる必要はない。

 昨夜出来なかった今日明日の予定でも立てようと玄関で靴を脱いだ。黄色い花弁が落ちていた。高木の家の前に置いてあった鉢植えのものだろうか。今朝ゴミ袋を持ち出すときには気が付かなかった。靴の裏に貼り付いていたのかもしれない。アヤノは黄色い花弁をしばし見つめた。さっき気にしないように心に決めたばかりなのにもうそれが崩れようとしている。


「犬だってどこかのオナモミを運んでくるじゃない!」


 アヤノはいつもより大きなひとりごとを言った。


 いよいよ入社式だ。落ち着かない一人暮らしの中でも刻々と時は進んでいる。アヤノは入社式に合わせて購入したスーツを、風呂場の大きい鏡の前で当ててみた。


「がんばろっ」


 アヤノは鏡の中の自分にエールを送った。明日から余裕をもって5時に起きることにしよう。そうすれば、突然の腹痛やマスカラがべっとりと瞼についてしまったときのような予想外の出来事にも十分に対応できる。確か今朝はアラームがならなかったはずだ。成功する社会人に目覚まし時計は必須である。電池切れだろうと確認せずにいたが、時計は正確な時刻を示している。それでは、音が鳴らないという不具合だろうか。アヤノは現時刻より2分先をアラーム設定してみた。鳴るまでの2分間は思いの外ながく感じ、1分先にすればよかったと時計のスイッチを指でパシパシ弾いた。予想に反して時計は模範的な動きをした。残された可能性は、アヤノの勘違いということになる。夢の中、微かに鳴るアラーム音を手探りで消すのだから、鳴る鳴らないなど不確実で当然である。アヤノは5時にセットして枕元に時計を置いた。


 正式に会社勤めが始まり、依然として落ち着かない日々だが、それだけではない、何か他に要因がありそうなそわそわした感じが続いている。アヤノはキッチンの壁の上方を見つめた。初日からなんとなく、視線を感じていた。キッチンの裏側は、回覧板に載っていなかった201 号室があるはずだ。視線を感じるということはやはり誰か住んでいるということか。201号室の住人に覗き見されているのだろうか。だとしたら向こう側では脚立などに乗って難しい体勢でわざわざ覗いているのだろうか、それともカメラを仕込んでおいてパソコン画面でアヤノの部屋の様子を見ているのだろうか。アヤノは疑わしい壁に向かって手を振ろうと思ったが、これは気づかないふりをしていた方が安全なのかもしれないと思いとどまった。向こう側の人が何を期待して覗いているのか不明だが、普通は気づかれないことを望んでいるのだろう。もし仮に気づかれたとなったら向こう側の人はどうするのだろうか。警察に通報されるくらいなら、とアヤノをどうにかするかもしれない。アヤノは見られていることを前提として部屋の中でも余所行きに振る舞うことにした。後々、警察の調べでだらしない格好のアヤノの写真なんてものが出てきたら恥ずかしいこと極まりない。しかし疑わしいままにしておくわけにもいかない。この落ち着かない日々をなんとかしたい。

 とりあえず挨拶と称して201 号室を見に行くことにした。アヤノは201 号室の扉の前に立った。表札はない。というより、201 という表示すらない。扉はあるのに。不動産屋の勘違いで201 号室も空き部屋だったのだろうか。アヤノは扉の取っ手に手を掛けた。


「こんばんは~」


 階段を上ってきた女性が挨拶してきた。


「どうされたんですか?」


 女性はカツカツとヒールを鳴らしてアヤノに近づいてきた。


「あ、いえ、ここ、どなたか住んでいらっしゃるのかな、と思いまして」


「あぁ、ここはね誰も居ないはずよ、だって表札ないじゃない?人が出入りしているところも見たことないし、あぁ管理人さんはたまに入ってるみたいだけどね、掃除でもしてるんじゃないかしらね」


 そういうと女性は204 号室へ入っていった。204 号室は確か、仁科さんの部屋だ。女性の正体が分かると、アヤノは自分の部屋へ戻った。

 

 朝の支度はやはりバタバタする。余裕をもって起きているはずだが、どこかで無駄な時間を過ごしているのだろう。毎朝家から飛び出す始末である。さらに今夜調理する予定のステーキ肉を昨夜、冷凍庫から冷蔵庫へ移動させるのを忘れていた。休みの日に購入した半額シールが貼られた国産牛肉である。仕方なく、朝の準備の間に常温にさらして家を出る直前に冷蔵庫へしまおうという計画のもと、食卓に肉を置いた。

 家を出る直前というのは誰しもが時計をちらちらと見ながら忙しく立ち回るものである。アヤノもまた例外ではなかった。そんな中、家を出る直前にイレギュラーなやるべき事を追加するのは、ただでさえ終わるか終わらないかというギリギリの支度に追い討ちをかけるようなものだった。そして案の定、冷蔵庫へ入れ忘れ、ステーキ肉は孤独に常温にさらされ続ける運命となった。そのことに気がついたのは駅のホームで電車に乗り込もうという時だった。降りる人を見送ると同時に車内の空席と、自分より前に並んでいる人の数とを考え、乗り込むときの勢いを決める大事な時である。ステーキ肉に集中していたアヤノは、まんまと席取り合戦に出遅れ、目の前に座る人がすぐに降りることを期待して座席の前のつり革に掴まるポジションをとった。いつもならひたすらに席が空くよう念じるのだが、このときのアヤノは出しっぱなしのステーキ肉のことで頭がいっぱいだった。初夏の気温では3時間もあれば解凍されてしまうだろう。仕事を終えて家に帰るまで10時間以上ある。きっと食べられない状態になってしまっているだろう、とか、いやギリギリセーフでしっかり焼けば食べられるのではないか、という選択肢が頭の中を行ったり来たりしていた。結局、帰宅後に肉を触ってみて、糸引っ張る状態だったらやめておこうという結論に至り、電車を降りた。落ち着かないまま仕事をし、周囲の目を気にせず定時にタイムカードをきった。やろうと思えばやる仕事はあったが、こんな心持ちではミスをおかす可能性があると思い、明日回しとなった書類をポンポンと叩いて、次なる使命のために潔く立ち去った。

 

 家までの道中、肉のことばかり考えていた。肉を買ったスーパーの前で歩みを緩め、涼しげな店内を懐かしそうに眺めた。あの時の割引になって喜んでいた自分が脳裏によみがえり、下唇を噛み締めて再び歩を進めた。朝はあまりのショックに一時完全に諦めた肉だが、時間が経つにつれ食べられるのではないかという可能性に傾き、今や「たぶん大丈夫」とまでに至った。だくだくの汗と肉への期待から、アヤノの心拍数は危険なまでに上がっていた。扉の前で深呼吸し、震える手で鍵を開けた。

 アヤノはいったい何に緊張しているのか。あきらかに食べられない状態にまで悪くなった肉の姿を目の当たりにするのがこわいのか、はたまた見た目に変化はないが確実に悪くなっている肉を食べるかどうかの判断に迫られるのがこわいのか。念願の朝以来の肉との対面の瞬間、アヤノは恐怖の矛先を見失った。

 食卓にあるはずの肉がなかった。

 そんなはずはない。あんなにも今日一日、出しっ放しにしたことを悔やみ続けたのに、今回に限って、アヤノの勘違いのはずはない。冷蔵庫に入れなかった確かな自信があった。いったい肉はどこへ行ったのか。アヤノは自然と冷蔵庫の扉に手を伸ばした。


「なんで」


 扉を開けたまましばし庫内をみつめていた。入れ忘れたと思っていた肉がそこにあったのだ。アヤノは視線を肉からキッチン上の壁へ移した。これまで勘違いだとしてきたものが、実はそうではなかったとしたら・・。なんとなくそうかなと思っていたことがずばりその通りだとしたら・・。考えないようにしてきたこれまでの違和感に対する核心に迫る時が来た。見られていただけでなく部屋に入られていた。

 いったいいつから。なんのために。

 急に部屋の酸素濃度が薄くなったような息苦しさを覚えた。こうやって苦しんでいる所もきっと見られている。警察に相談しようか・・。でもなんと説明すればよいのか。盗撮や侵入の確かな証拠はない。盗られたものもない。されたことといったら、時計の電池を交換されたことや、しまい忘れの肉を冷蔵庫に入れられたこと。何も困ったことをされてはいないではないか。けれどもどこの誰だかわからない人に常に見られている、気付かないうちに部屋に入られている、かもしれないという恐怖に脅かされているのは事実である。

 怖い。施錠しているのに入られている。寝ている間に入ってきていたら、と考えるとここに留まるのは危険だ。アヤノは迷いなくボストンバッグに衣類や生活に必要なものを突っ込み、駅前のまんが喫茶へ避難すべく扉を開けた。


「あら、こんな夜にお出掛け?」


 柴田がほうきを持って立っていた。


「女の子の一人歩きは危険よ。そうそう、望月さんの表札ねぇ、剥がれそうだったから一旦外しちゃうわね、また貼っておくから。しばらくないままだけど。」


「え、あ、はいお願いします」


 アヤノは訳がわからなくなり、とりあえず出直そうと部屋に戻った。そしてすべての施錠を確認して、カーテンを閉めた。

 なぜ柴田が夜に部屋の前に居たのだろうか。

 本当に表札は剥がれそうだったのか。

 これまでの違和感の原因は柴田なのか。

 201 号室で覗いているのは柴田なのか。

 改めて入居日に手渡された便りに目を通した。そこには、「やむを得ず、入居者の同意なく管理人が

部屋に立ち入ることがある。」と書かれていた。やむを得ず・・電池交換も肉の片付けも、「やむを得ず」に該当する事とは思えない。

 アヤノはカーテンの隙間から外を見た。


「えっ」


 背筋が凍った。アパートのすぐ近くにこちらを窺うように立つ男が居た。アヤノは震える手でカーテンの隙間を閉じた。なぜこんなところに秀がいるのか。いや、考えられないこともない。秀の執念なら人伝にここまで辿り着くこともあり得ないことではなかった。アヤノはカーテン越しの影を見せまいとしゃがみ込み、呼吸さえも漏れ聞こえるのではないかと口を手で覆った。


コンコン


 ノックする音が聞こえた。アヤノは四つん這いになって扉の方へ近づいた。


コンコン


 音が遠ざかった。外からではない。アヤノは元居た場所に戻り、耳を澄ました。


コンコン


 間違いない。毎日視線を感じるキッチンの壁から聞こえた。アヤノは勇気を出して尋ねた。


「あの、そちら201 号室ですよね、私のこと見えてますよね。誰なんですか。なんでわたしのこと怖がらせるんですか。わたし何かしましたか・・」


 もう怯えた生活から解放されたいと今ここで決着をつけるつもりだった。向こう側からの反応を待っていると、


「住人を脅かす行為はやめていただきたい!」


 窓の外から大きな声が聞こえてきた。おそるおそるカーテンをめくると、秀の近くに管理人の柴田がいた。手に持ったほうきを秀に突きつけている。争う声にパトカーが近づいてきた。秀と柴田の間に警官が立ち何やら話をし始めた。とりあえず今回は大丈夫そうだ。


コンコン


 再び壁が鳴った。柴田は外に居る。では今201 号室に居るのは誰なのだろうか。なぜ表札も部屋番号も無い部屋に住んでいるのか。

 アヤノはハッとした。今のアヤノの部屋にも表札は無い。


「シェルター?」


 秀のような人間は世の中にたくさんいる。そしてそれは事件にまで発展することもある。


「あなたも誰かに脅かされているの?」


 アヤノは壁に手を付け祈るような気持ちで語りかけた。


コンコン


 壁は寂しく鳴った。

 201 号室はシェルターで、管理人の柴田はそれを守っている。もしかしたら他の住人も。そして今アヤノの部屋もシェルターになりつつある。守られている201 号室の住人さえもアヤノを見守っていたのかもしれない、経験者として。

 

 気が付くとパトカーは去り、窓の外には秀の姿も見えなかった。油断はできないと、そのまま息を殺して潜んでいた。


カチャ


 アヤノの部屋の扉が勝手に開いた。すぐに柴田だと分かった。


「望月さん、怖がらせてごめんなさいね。あの男のことは警察に任せたけど、ここからが本当に気が抜けないから用心しましょうね。私もここの皆さんと一緒に守っていくから。」


 アヤノの目から涙が溢れた。


「柴田さん、あの、電池交換や肉の片付け、あれ柴田さんですよね?」


「あぁ勝手にごめんなさいね。ちょうどあなたが越してきたくらいから外に同じ男を何度も見かけるようになってね、もしかして、と思って、盗聴器とかつけられていないかとか確認しに何度か入らせてもらったの。時計が止まってたし、肉も出しっ放しだったからお節介とは思ったけど、ごめんなさいね」


 柴田の言う、「やむを得ない事」というのは電池交換でも肉の片付けでもない、アヤノの安全確認の事であった。


「アパートの皆さんもお優しい方たちで心強いです。201 号室の方にもよろしく伝えてください」


 アヤノは安堵の表情を浮かべて言った。


「え?201 号室?あそこは誰も住んでいないわよ。中の配管とかいろいろ故障しててね、貸し出すのやめてるのよ」


 柴田はさらりと応え、「明日こっちにも警察が来るっていうから望月さん時間あけておいてね」とアヤノの肩をポンと叩いて去っていった。

 ひとり残されたアヤノは体がこわばって動けなかった。

 

 昔、祖父から聞いた守り人。それは柴田のことなのか、201 号室に居る何か、なのか。それは待ち望んでいた奇跡の対面とはならないものだった。


「おっきいジャガイモ、おっきいニンジン、小さいソーセージー・・」


 アヤノはとりあえず、「いつものカレーライス」をぽそりと口ずさんだ。


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