SEASON
家に帰ると、カーテンからリビングの電気の灯りが漏れていないことに気づいた。
車もない。
玄関を開けると真っ暗だった。
まただ。
私を置いて家族仲良く外食へ行ったようだ。
電気を付けると、ダイニングテーブルの上に置かれた1000円札が視界に入った。
私は1000円程度の価値しか無いと言われているみたいだった。
あまりの扱いの差に、思わず笑いが溢れそうだった。
すぐに風呂を済ませて、適当に冷蔵庫の中を漁り魚肉ソーセージを齧った。
ある程度空腹を満たすと、あの人達と顔を合わせずに済むよう急いで自室に籠った。
部屋に入ってすぐ、クローゼットを物色し、地味なスキニーのGパンと黒いタンクトップの上にグレーの薄手のサマーニットに着替える。
持っているものの中で1番大きなカバンに、ありったけの着替えを詰めた。
そして、大して重みのない貯金箱の蓋を開け、なけなしのお小遣いをかき集める。
いつも外に遊びに行く時よりも少しだけ濃い化粧をして、100均で少しずつ買い集めた化粧道具もカバンに詰めた。
染めたことの無い垢抜けない髪は1つに結んで帽子を深く被り、念の為マスクも着ける。
あの人達が帰ってきたのは、午後21時を回ってからだった。
1階から聞こえる楽しげな会話。
温泉に寄って帰ったらしい。
もう、何の感情も湧かない。
これからは他人になれるのだから。
ーーーーー…
親が寝静まったのを確認して、財布からお金を抜き取り、ドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、
音を立てないようにそっと階段を降りて、静かに家を抜け出した。
まず真っ先にするべき事は、歳を誤魔化すこと。
下手に明るい金髪にするよりも、大人達が染めているような暗い焦げ茶色に染めなくては。
薬局に向かうにはタクシーを使わないと。
でもタクシーのある通りはまだ歩いて30分はかかる距離だし、携帯も没収されているから呼び出すことも出来ない。
歩こう。まだ夜は長い。
スニーカーを履いていても足が痛くなるほどの距離をひたすら歩いた。
懐中電灯なんてない。
県道沿いの街灯の少ない薄暗い道をひたすら歩き続けた。
少しずつ当たりが明るくなる。
時計もないから、どのくらいの時間歩いたのか分からない。
ただ、これは陽の光では無い。店の灯りだ!
ようやく少し活気のある場所に出た。
交差点と商店街。
商店街の向かい側はこぢんまりした飲み屋街。
飲み屋街にはタクシー乗り場がある。
平日の深夜と言えど、タクシーが1台だけ停まっていた。
「すみません。平川街のマルタ薬局までお願いします」
極力声を低くして、気だるそうな感じを出して言った。
タクシーの運転手は、低く短い返事をしてメーターを押し、緩やかに発進した。
この辺りでは、24時間営業の薬局はない。
一駅分離れた所にある平川街という飲み屋街には、マルタ薬局と言う大手のチェーン店が24時間営業でやっている。
親の財布の中身と自分の小遣いを足しても3万円弱。
タクシー代は距離的に約1000円。
これからの生活を考えたら、タクシーなんてもう使えないし、とりあえず危険でも今夜は平川街で休むしか無さそうだ。
1120円のタクシー代を支払い、煌々と蛍光灯の灯りに包まれた薬局の中に入る。
少し前先輩に着いて来た時に見た染髪コーナーを物色しながら、色が暗めで1番安いカラー剤を探す。
金髪にするブリーチ剤よりも、オシャレ染めの暗めのカラー剤の方が高くて、そんな些細な事に疑問を感じた。
まだ初めての家出へのワクワク感で、そんなしょうもない事を感じる余裕もあった。
薬局で会計を済ませ、今が1番キラキラと耀く飲み屋街を1人歩く。
同伴の時間は過ぎているし、帰る時間にはまだ早い、ましてや平日の深夜の飲み屋街は、街灯の灯りに似つかわしくないほど人通りが少なく、ほんのたまにスカウトマンが声を掛けてくる以外には、思った以上に静かだった。
平日だから飲みに出る人が少ないだとか、声を掛けてくるのがスカウトマンだとか、そんな知識もない中学生の私は、空は真っ暗なのにビルがこんなにもキラキラと輝いていることを純粋に綺麗だと感じた。
英語で書かれた電光掲示板に映る店名も、安っぽいラブホテルの電飾も、クリスマスツリーのようなワクワクするものに見えたのだ。
ふと目にとまったのは、アルバイト募集、経歴不問と書かれたキャバクラだった。
可愛いピンクと青の電飾がチカチカと眩しくて、ただ、ピンクと青が好きだと言うだけで、何か運命めいたものを感じたのだ。
少し重いガラス扉を押すと、チリンチリン、と鈴の音がなった。
「いらっしゃいませー!!」
元気のいい男女の声が聴こえ、ラメ入りのグレーのスーツを来た男が話しかけて来た。
「いらっしゃいませ!ご予約されてますか?」
私は少し緊張して、でも子供だと悟られないように、震える声を落ち着かせ、ぎゅっと手を握りしめた。
「アルバイト募集って見たんですけど、面接出来ますか?」
「約束されてますか?」
「いや、今たまたま見掛けて……」
「先にアポ取ってもらって、履歴書を用意してもらわないと…」
私は世間の常識なんて知らない子供だ。
ましてや、人生で1度も面接なんて受けたことも無い。
自分がいかに無知で世間知らずか思い知らされた気がして、途端に恥ずかしくて顔が真っ赤になった。
行き場の無さに脱力し、目元がじんわりと熱くなる。
俯いていると、別の男が声をかけてきた。
「入口でいつまでも突っ立ってどうしたんだ?」
「あ、店長」
店長と呼ばれたその男は、私が想像する『店長』という存在よりも、遥かに若くてキラキラしていた。
同級生の女子達は、きっとイケメンだとか俳優みたいだとか騒ぎ立てるだろう。
でも、その時の私は情けなさや羞恥心でそんな事を感じる余裕も無かった。
「どう見ても未成年じゃん。目立つのも困るしこっちおいで」
『店長』が小声で呟いて歩き出したので、私も後に続いた。
入口すぐ隣にあるトイレを通り過ぎ、奥の『staff only』と書かれた扉を開けて中に入った。
店内の煌びやかな装飾と打って変わり、そこは質素な部屋だった。
端には鉄製のラックに書類が積み上げられ、その横には黄色いペンキの剥がれかかった木製のベンチ、真ん中には職員室に置かれているような簡素なデスク、座り心地の悪そうなボロボロの回転椅子が二脚向かい合って置かれていた。
「そこ座って。」
私が恐る恐る腰かけると、向かい側にドスンと座り、長い脚を組んでデスクに肘を乗せ頬杖をついた。
「家出?何歳?」
「……16歳です」
14歳の中学生だと言うよりはマシだと思い、咄嗟に嘘をついた。
「親は?」
「いません。捨てられました」
我ながらよくもスラスラと嘘が出るもんだと感心すると同時に、捨てられているのはあながち間違いでも無いかもしれないと思う。
暴力も無いし関心もない。ただ、同じ家に住むだけの他人だ。
朝起きて私にだけ用意されない朝食も、家に帰ってから弟と3人で外食に行き机の上に無造作に置かれた1000円札も、ただ死ななければ良いというだけで、愛情なんてものは最初から存在しなかった。
「はぁー。
まあ事情は知らないけどね、夜の店ってのは未成年は雇えないの。
家帰ってコツコツバイトでもして金貯めて、一人暮らしの計画でも立てた方がよっぽど現実的だよ。
こうして見掛けたからには警察に通報して補導してもらわないとね、お兄さん達が捕まっちゃうのよ。
………分かる?」
呆れた溜息とともに説教されて、大人しくはいそうですか、と家に大人しく帰れるのなら、最初から家出なんてしていない。
「じゃあ、他探すんでいいです、通報はやめてください、迷惑は掛けないんで。すみませんでした」
捲し立てるようにそう告げて、席を立とうとした時、スタッフルームの扉が開いた。
「何?こんな時間に面接?」
「真鍋さん!すみません、すぐ終わりますんで座ってお待ちください!」
真鍋と呼ばれた男は、40代前半の父親より年配に見えた。
『店長』が謙っている様子からして、真鍋の方が立場は上の様だった。
でもドラマでよく見るヤクザみたいな雰囲気ではなく、見た目はどちらかと言うと気弱な教頭先生のようだ。
「まぁまぁ、帽子にマスクじゃ顔も見えねぇじゃん。ほら、面接なら顔見せてごらんなさい」
「真鍋さん、この子はちょっと……」
戸惑っている『店長』を尻目に、今がチャンスと私は帽子とマスクを外した。
化粧もしているし、せめて高校生位には見えるだろうと踏んだのだ。
「ほぉ、こりゃべっぴんさんだねぇ、歳は?」
「16歳です」
最初より、ハッキリと言えた。嘘も慣れれば真実らしく聞こえるものだ。
「そうかい、未成年ってのが痛いけど、童顔の18歳って事にすれば、一部の受けは狙えるんじゃない?」
にこやかに真鍋が言うと、『店長』は逆らうなんて選択肢がないかのように、分かりました、と小さく頷いた。
「帰る家がありません。泊まる所を用意して欲しいです。」
図々しいと思いながらも後がない。
面接には合格したようだし、『店長』よりも権力のありそうな真鍋に向かって言った。
「そうかいそうかい、じゃあ僕らが管理してる寮を貸してあげよう。
家賃は給料引きってことでね」
「ありがとうございます!」
時給だとか、家賃や天引きだとか、そんな事を考える余裕はなかった。
未成年、ましてや身分証もなしに雇ってくれる所なんてそうそう無いはずだし、何よりもとりあえずの住む所が手に入っただけで大満足だ。
それがどれだけ危険な事で、法の外側のこの場所がどんな所なのか、もちろんまだ子供の私に知る由はなかったのだ。
店長に連れられて、キャバクラのあるビルの4階にある寮のうちの一部屋に案内された。
「今日からとりあえずここで寝泊まりして。
冷蔵庫とクーラーは完備してあるから。
浴槽は無いけど、近くに24時間営業の銭湯もあるよ。
明日から出勤できる?週5、休みは月、水でいい?」
狭小アパートのような部屋には、玄関入ってすぐ右側にトイレとシャワー室への扉があり、
左側は一口コンロのついた簡易的なキッチンと、その真正面に6畳ほどの畳の部屋があり布団が敷かれていた。
「大丈夫です、ありがとうございます!」
「明日は昼過ぎに店に来て。開店は19時からだけどね、案内と説明するから早めにね」
「分かりました」
「冷蔵庫の中に水と、そこのキッチンの棚にカップラーメンとかあるから適当に食べていいよ」
「ありがとうございます」
『店長』が出て行って、無気力に布団に倒れ込んだ。
とても疲れた一日だった。
今日の出来事を思い返す。
店の名前は『SEASON』。
学のない私が読めず「せあそん?」と呟いていると、真鍋が笑いながら「シーズン、季節のことだよ」と教えてくれた。
時計を見るともう午前3時を回っていた。
通りで眠いはずだ。
緊張が一気にほどけ、途端に睡魔が襲ってくる。
一日にして仕事と家にありつけた私は、自分の運の良さにただただ感動しながら眠りについた。
少し黴臭い煎餅布団。
テレビも無い部屋。
冷蔵庫のモーター音と、壁に掛けられた質素な時計の秒針の音だけが、部屋の中に静かに響いていた。