第16話 信頼という名の契約
時刻は茜色が地上を染め始める頃、早くも一日の終わりがやって来る。
しかし、スラム街で生きる者にとっては途方もない時間の延長でしかない。
常に空腹で、臭い環境で、ボロボロの服を着て、今日もどこかで血のニオイをかぐ。
そんなスラム街の日常の中で、“今日”という一日はとりわけおかしな日であったと誰もが記憶することになる。
普段街中では見ない整った身なりをした青年と少女。
その二人を追いかけるように巨大な緑の物体が追いかけている。
その物体はでっぷりとした腹でもってあらゆるものを轢いていく。
そんなおかしな光景にスラム街に住む多くの浮浪者は目を疑った。
ついに空腹が限界に達して幻覚を見てしまったのかと思った者もいるだろう。
しかし、それは青年の声によって現実であると知らされる。
「テメェら、絶対に道に出るな! 死ぬぞ!」
「くっ、しつこいわね!」
リュートが切羽詰まったように叫び、リゼが背後を向きなが顔をしかめる。
「イエ″ェェェェエエエエエ‼!」
緑の巨人は地面をバンバンと叩きつけながら、重たい腹を引きずって走る。
その度地鳴りがし、微振動が周囲に伝わった。
四メートルほどの巨体に似つかわしくないほどに移動速度が速い。
それが通った後には巻き込まれたであろう人間の血肉によるカーペットが敷かれていた。
肉片がブロック状になって転がっていたり、ペースト状になっていたり。
吐き気を催すような鮮血独特のニオイが瞬く間にスラム街に充満した。
スラム街の住人は信じられない光景に目を点にさせた。
嗅ぎなれてるはずの血の強烈なニオイに顔を歪ませ、ほとんどの人が鼻や口を手で押さえる。
緑の巨人に追いかけられているリゼとリュートは、時折来るそれによる巨大の手を攻撃を躱しながら走り続けている。
その攻撃に当たれば大ダメージは確定だろう。
加えて、人が少なく広い通りに逃げているが、人が全くいないわけではない。
出来るだけ巻き添えにしないように注意しなければいけない。
リゼはチラッと背後を見ながら、リュートに聞いた。
「リュート、クソ親父はどうするの? いつまでも逃げれないでしょ?」
「わかってる。もちろん、このままにすることには出来ない。
だから、リゼ――お前一人でも逃げろ」
リュートは真剣な目つきで言った。
その言葉に「は?」とリゼは思わず苛立ちを見せた。
まるで戦力外通告を受けてるように聞こえたからだろう。
「どういう意味よ、それ」
リゼが聞いた。
リュートは彼女から視線を外し、僅かに険しい表情で唇をギュッ結ぶ。
そして少しの時間が経過した後、彼は言った。
「決まってんだろ。リゼに家族を殺させるわけにはいかない」
リゼはハッと息を呑む。
彼女はすぐさまチラッと緑の巨人を見た。
眉を少しずつ寄せていく。
言わんとしたことを理解したからだ。
その内容をリュートが代わりに言う。
「もうあの化け物は......君の親父は生かして止めれるとかいう次元じゃない。だから、絶対に殺す必要がある。
だが、君にとってのどんなクズ野郎だとしても、君の血の繋がった家族には変わりない。
だったら、俺が代わりに殺るって話だ」
リュートの口から伝えられたのはどこまでもリゼの気持ちを気遣っての言葉。
その言葉に彼女は視線を彷徨わせ、銃を持つグリップを強く握る。
「安心させる言葉じゃないが......俺はもうすでに人を殺すことも経験してる。だから、気にするな」
リュートは言葉を付け足した。
その言葉の内容にリゼはすぐさま言い返す。
「それだったら、私だって指名手配の盗賊を殺したことあるわよ!
もう人を殺す術を知っている! そんなこと気にしなくていい!
だから、私も戦え――」
突如として、リゼの頭上から緑の巨人の巨大な手が落ちてきた。
彼女はリュートに自分の気持ちを伝えることに集中して反応に遅れてしまう。
段々と自分の体を覆う手に口を僅かに開けて彼女は茫然と見つめた。
「あぶねぇ!」
リュートは大剣を頭上に掲げ、叩きつける巨大な手の攻撃を防いでいた。
頭上から強烈な衝撃がのしかかる。
まるで彼の周りだけ重力が数倍になったかのように。
彼の踏ん張る足元の地面がバキッと僅かに凹む。
直後、動けなくなったリュートの横からもう一つの巨大な手が迫った。
その手はひらの部分に炎を宿し、そのまま彼をバシンと打ち付けた。
体は炎の爆発の衝撃でゴムボールのように弾み、近くにあったボロい民家をいくつもなぎ倒しながら吹き飛んでいく。
「リュート!」
その光景を見たリゼは思わず叫んだ。
リュートが飛んでいった方向を見てギリッと歯を食いしばれば、父親を睨む。
すぐに両手の銃口を突きつけた。
しかし、睨む眼光の鋭さとは裏腹に、手はブレブレで引き金にかける指も震えていた。
まるで撃つことをためらっているかのように。
「イエ″ェ!」
緑の巨人がリゼを捕まえようと手を伸ばしてくる。
それを避けて幾度も銃口を向ける。
だが、最後の引き金を引くという工程がどうしても繋がらない。
彼女は歯が見えるほど口を歪ませた。
銃口がさらに標準を失う。
「クソ! クソ! どうしてよ! どうして......引き金が引けないのよ!
アイツは.......あんな男は父親じゃないってそう思ったはずなのに......どうして......」
リゼは目の前の巨大な緑の物体に父親の面影を感じてまったのか目線を逸らしていく。
躊躇う僅かな時間が、父親に隙を与えてしまった。
「イエ”!」
「ぐっ!」
緑の巨人は巨大な手でリゼを鷲掴む。
その手は彼女の百五十四センチある身長をすっぽり覆い隠してしまう。
緑の巨人はそのままゆっくりと顔の近くまで引き寄せた。
おまけのようについている顔のそばの人間サイズ手でもって、リゼの顔に雑に触れた。
まるで盲目な人が手の感触で形を把握していくように。
「放しなさいよ!」
リゼが声を荒げてもまるで通じてる様子はない。
彼女は首を必死に左右に振るが、振り払えずにペタペタとしきりに触られる。
緑の巨人は満足そうに頬を緩めた。
その時開いた口元は真っ暗で、歯がなく何でも飲み込みそうな感じであった。
踵を返すように体を回転させれば、走ってきた道を戻ろうとする。
「待てよ、まだ話はおわってねぇんじゃねぇか――お義父様?」
戻ってきたリュートが待ったをかけた。
その言葉に緑の巨人はピクッと反応した。
彼に振り返れば、すぐさま怒ったような顔でリュートを見る。
それに対し、リュートは姿勢を正すと、額や頬から流れる血をそのままに話しかけた。
「そういや、なんだかんだちゃんと紹介をしてなかったな。
俺は魔法工学学院の雇われ傭兵リュートってもんだ。
そちらのお嬢さんには仲良くして貰って色々世話になってる」
「ア″ァ!」
緑の巨人が巨大な手を振るってきた。
炎を纏うその手は先ほどリュートを焼き尽くす勢い。
しかし、リュートは大剣で弾いていく。
浅い傷しかつかない緑の巨人の手の様子に彼は渋い顔をしながら話を続けた。
「まぁまぁ、そんな怒らないでくれ。俺はテメェの娘を傷つけるつもりはない。
だから、解放してくれないか? リゼが苦しそうだ」
「ア”ァァァァ!」
緑の巨人は腹から生えた巨大で燃える三本の手でもってバンバンと地面を叩きつけていった。
まるでテーブルを這いずるコバエを叩き潰すように。
リュートはそれを躱しながら弾きながら攻撃を凌いでいく。
一瞬の隙を見つければ、彼は緑の巨人の腹に近づいた。
そこから一気に顔の高さまで跳躍した。
「そういうわけだから、お嬢さんを俺に預けてください!」
リュートはリゼを掴む手の手首に着地する。
緑の巨人の手首の腱を狙って思いっきり大剣を突き立てた。
渾身の力のおかげか、弾く程度では傷がつかなかった緑の巨人の手首に剣が刺さり、腱を切った。
それによって、緑の巨人のリゼを掴む手が緩む。
その一瞬の隙をリュートは逃さない。
「リゼ、しっかり捕まってろ」
リゼはリュートの首に腕を回し、両手が銃で塞がっているので代わりに体を寄せて密着した。
彼のおかげで彼女は無事に父親から距離を取ることが出来た。
リゼ「ありがとう、助かったわ」とリュートにお礼を言って、彼から降ろしてもらう。
その時、ふと彼女が彼を見れば、近くから光を感じた。
光源を探して目線を動かせば、彼の右手の甲を見て「それ」と指を向ける。
「あ、俺の契約紋が光ってる」
そのことにリュートは今気づいたように目を丸くさせた。
彼の手に刻まれた唯一の妹が生存している証である右手の甲の契約紋が、白い光を放っている。
それは彼の魔法の条件を満たしたことを示していた。
つまり、リゼがリュートという人間を信用したということだ。
「信用されるまで随分と時間かかったな」
ニヤッとリュートがリゼを見れば、彼女は顔を赤くしてそっぽ向いて言った。
「あんたが気付くのが遅かっただけじゃないの?」
「ハハハ、かもな。ま、なんでもいいさ。
リゼが俺を信用してくれたってことなら、それはそれで嬉しいし。
さて、条件は成立したが、これはまだ使えるようになったわけじゃない」
リュートは「最後に問答が必要みたいなんだ」と言いながら、そっと右手の甲を差し出した。
「聞くぞ、リゼ――俺に力を貸してくれるか?」
「えぇ、もちろん!」
リゼはハッキリと答え、自分の左手の甲をリュートの右手の甲にぶつけていく。
瞬間、リュートの契約紋に変化が起こり、僅かに契約紋の形が変わった。
同時に、リゼの右手も光だし、その手の甲にはリュートとはまた違う契約紋が浮かび上がる。
これは両者の間に“信頼”という契約が為された証だ。
リュートは右手に魔力を流す。
リゼと同じ雷がバチバチと紫電を走らせた。
その様子を見たリゼは思ったことを言った。
「本当に私の力を使えるのね」
「あぁ。それと、力がほぼゼロになったせいで気づいたが、どうやらちょっとだけ力も増えてる感じがする。
どうやら、契約の数が純粋な力にもプラスになってるみたいだな」
「味方の信頼で強くなる......まさにあんたにピッタリね」
リュートはグッと右手を握りしめる。
左手に持っていた大剣を持ち変え、正面を見据えた。
そんな彼の強いまなざしに触発されたようにリゼも覚悟を決めて前を向く。
「リゼ、大丈夫か?」
リゼが緑の巨人を見据えるのを横目で捉えたリュートは声をかけた。
彼女は正直に今の心境を言った。
「......正直、まだ不安が残ってるわ。でも、あんたがいれば大丈夫だと思う。
だから、あんたに無茶なお願いをするわ――私と一緒に罪を背負って」
その言葉にリュートは不敵な笑みを浮かべる。
「お安い御用!」
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