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おむすびは解ける  作者: 凪司工房
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 まだ薄っすらと山の上に淡く光が見えている、そんな薄暗い中、裾の破れたジーンズを引きずるようにして野球帽を被った白髪混じりの男がスマートフォンを手に歩いていた。カーキ色のベストにはポケットが沢山あり、その胸ポケットの一つにその長方形の現代機器を仕舞う。一応圏外ではないものの、電波が入ったり、入らなかったりしていて、どうにも使いづらい。ただ時刻を確認するのには重宝していた。男の腕時計はひび割れたまま、あの日から動いていない。

 

 見渡す限り田園が広がる。以前ならあと一ヶ月もすればその全てが黄金色に輝いて稲穂の絨毯(じゅうたん)が風によくなびいていただろうが、男がこちらに来てからは一つ、また一つと耕作放棄地になっていた。米を貰っている坂崎の爺さんは「あんたも米作りゃ」と言うが、男は自分が耕運機やトラクターを動かしている姿はどうにも想像出来なかった。まだまだ都会暮らしが抜けていない。

 

 ――いや、本当に抜けていないのは仕事の習慣か。

 

 そんな風に心の中で独りごちると、久慈誠司(くじせいじ)はもう三十分以上、車の一台も通らない狭いアスファルトを歩いていく。時刻はまだ五時になろうとしているところだ。すれ違うとしても新聞配達や牛乳配達、それに配送のトラックくらいなものだ。

 そう思っていたが、綺麗に張り替えられたビニールハウスが並ぶその手前に見慣れたトラクターが停まっていて、中で作業をしていた初老の男性が久慈を見て片手を上げた。


「おう」


 それだけ言ってやり過ごすつもりだったが案の定、大垣はハウスを出て、久慈の方へと歩いてくる。今日は何を収穫していたのだろう。キュウリか。それともトマトか。ナスやピーマンもよく貰うし、最近はズッキーニなんてものも作っていたはずだ。


「お互い早いな」


 大垣茂雄(おおがきしげお)は首に掛けたタオルを取ると、それで顔を拭う。久慈に座るよう言って、自分は転がっていたビール箱を反対にしてその上に腰を下ろした。久慈の方は草むらに、そのまま座った。


「なんでい。刑事ってのは歩くのが仕事みたいなもんなんだろ?」

「もう刑事じゃないさ」

「元でも刑事は刑事だ。こんな田舎じゃ事件の一つも起きねえ。だからこっち移ってきたんか?」


 大垣の言う通り、久慈は都会からの移住者だ。しかも実家じゃないから、よく言われるIターン組になる。何故――というのは色々な理由が考えられるが、一つはただ疲れたからだ。


「コンビニもねえ。パチンコは隣町だ。病院もバスで峠超えて一時間。空気が美味いとか飯が美味いとか水が美味いとか言うが、ずうっとわしの周りにあったもんだ。そんなの珍しくも何ともねえ」

「それは幸せだったってことじゃないのか、大垣のおっさんよ」

「幸せっつたら幸せだが、知らないもん、見たことのないもんの方がずうっと多い。それは幸せか?」


 幸せについて六十手前の男と八十に手が届こうかという男が二人語り合う、というシチュエーションのおかしさに久慈は思わず口元が緩んだが、大垣は煙草を取り出して口に加えると「医者はやめろっつうんだけどよ」と愚痴ってから、それに火を点けた。

 久慈も刑事時代はよく吸っていた。毎日どころか毎時間口にして、何に苛立っていたか分からない、そのささくれだったものを一瞬だけでも押さえつける為に、ライターを点けていたように思う。

 

 大垣も久慈も、男やもめだ。やめも、と言っても最近の若い子には伝わらないらしいが早い話が妻を失った独り身ということだ。男の独り身なんて寂しいもので、特にこんな田舎町じゃ昔からの友人でもいなければ話し相手すらいない。その友人たちだって年を経る毎に外に出るのが億劫になったり、病院通いだったり、下手をすると施設にぶちこまれたり。中には鬼籍に入ってもう二度と会えないなんてこともある。そうやってどんどん身の回りから人がいなくなり、気づくといつも同じ顔だけしかいない、なんてこともざらだ。

 

 久慈にとって大垣はこちらに単身やってきて、初めて声を掛けてくれた、この町での恩人のような人間だ。ただ流石に酒と煙草は控えろと、顔を見る度に思ってしまう。久慈は禁煙してからもう五年になる。煙草の臭いに未だに反応してしまうが、決して吸わないと決めたことを何とかまだ、守り通していた。


「で、今朝は何を?」

「ほらこれ」


 渡されたのはキュウリだった。曲がっている。売り物にならないとよく貰うのだが、多少曲がっているくらいで売れないというのも何とも困った世界だ。もし自分がキュウリだったら二束三文の価値しかないな、と久慈は考え、そのイボのよく尖ったキュウリを上着の脇で拭う。それから歯を立て、思い切り音を立てて(かじ)った。強く、しなやかな緑のそれは手元から割れて半分が久慈の口からぶら下がる。それを摘んで噛み砕き、何とも瑞々しい青臭さを感じて久慈は笑った。


「何もいらないな」

「ちげえね」


 大垣も曲がりキュウリを齧る。彼の場合はそれが朝ご飯代わりなのだろう。体に良いとは云えないものの、もう歳も歳だ。好きなように生きてもいいだろうと久慈なんかは思う。ただそれは久慈が大垣の家族ではないから云えることで、身内ともなるとそう単純にはいかないものだろう。


「そういや、さっきわけえ女が歩いてた」

「また新しい移住者か?」

「さあな。声かけても何も返さん、愛想の悪い女だったわ」

「おっさんの顔が恐かったんじゃないか?」

「どの顔で言う」

「確かに」


 ほとんど頭髪のない大垣は目を細めて笑うと(しわ)を束ねたような顔つきになる。それに比べて久慈は笑おうにも、上手く笑えたためしがない。いつも娘から「恐い」と言われた、不器用な笑顔しか持っていないのだ。そもそもが刑事になろうと思っていた訳ではない。気がつけば刑事という場所に流れ着いていただけだ。それも外見が恐かった所為(せい)だろう。警察学校時代に「お前は刑事に向いている」と言った教官の言葉が合っていたかどうかは分からないが、少なくとも刑事として働いている当時は自分は向いている方だと考えていた。けれどそれは家庭を顧みないということと同義でもあった。


「帰りにまた適当に野菜置いとくわ」


 そう言い残して収穫をしにハウスに戻っていった大垣を背に、久慈はゆっくりと立ち上がってから歩き出す。慣れた道だ。底の減ったスニーカーは流石にもう買い替えた方がいいかも知れない、と思いつつ、そこにへばりついた思い出がまだ剥がれ落ちないままだった。



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