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影の世  作者: 居道
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後半


 リンがウィルインから魔法の手解きを受け始めたのは三月前。二月前と半月前にも一度ずつ受け、回数にしてまだ、たったの三回のことであった。

「わたし、みんなの心が読めるようになったの!毎日じゃないし、起きてからお昼までの短い間だけど。ロミくんはリエットちゃんの背中をよく叩くけど本当は食べちゃいたいくらい大好きで、大人しいミーズちゃんの頭の中は獄炎が渦巻くカオスなの!二つ隣のフィルおじさんとティルおじさんはあんなにそっくりなのに実は双子じゃなかったんだって。親子なんだよ!ママ、わたし信じられない。どっちかはおにいさんで、どっちかがおじちゃんってこと?それってフィルおにいさん?それともティルおじちゃん?」

 早くもリンは魔法の才能を立派に成長させているらしく、覚えたての魔法で書庫の学友や管理人、近所に住む夫婦から行き交うすれ違った人々まで、手当たり次第に心の中を覗いたらしいのだ。その真偽は不明であるが、もし本当に心の魔法を使えるようになっているのなら・・・。

 ウィルインとマイヤはティータイムを手早く済ませて結託し、あらゆる餌を用いてリンを書斎へと誘導した。幾つもの角砂糖と、書庫への寄贈を躊躇われた、黒歴史を含むウィルインの秘蔵書を駆使して、やっとのことでリンを隔離した。

 二人は書斎の扉を背に息を整えつつ、興奮まじりの小声で話し合った。

「危なかったわ、今日が夕方の約束で良かった。でも、どうして心を読む魔法なんかを教えたりしちゃったの?もし明日にでも完璧に心を読めるようになってしまったら、リンはどうなっちゃうの?私の生活はどうなるの?」

「まだ核心までは教えてなかったはずなんだけどね・・・。でも大丈夫よ、マイヤ。想定外のことだけど、これはリンちゃんにとって絶対に良い事よ。魔法が使えたら使えたで王下の出世コースに乗るだけだし、ついでに私はリンちゃんと結婚できる。それに私は今更あれを読まれたって微塵も苦しくはないわ。何ともないの。苦しくなんか・・・苦しくなんかあ、うっ!」

「さっきから何を言っているの、どうしたの?」

「気にしないで、ちょっと左手が疼くだけだから。・・・ああ、でも、良くないわ、これ。ねえ、もう一度お茶にしましょうよ。角砂糖、まだあるわよね?」

 二人は居間へと向かった。カップが置かれたままの机の両脇に座って向かい合い、目が合うと微笑みあった。

 ウィルインとマイヤは古くからの親友だった。出会いは上司と部下の関係だったが、二人は運命的に惹かれ合い、仕事とプライベートの両方を通して親睦を深めた。その為、マイヤはウィルインの秘密と、特異性をいくつか知っていた。

 マイヤは二つの顔を持っていた。ウィルインの親友としての顔と、娘や国民の前での、優秀で誠実な国王の部下としての、矜持の顔。故にマイヤは、今日のような二人の極めてプライベートな胸の内をリンに読まれたくなかったのであった。絶対に隠し通さなければならない、二人の秘密だった。

「こうしてゆっくり話せるのは久しいわね。嬉しいわ。」

 ウィルインが言った。二つのカップを眺め、頃合いと見ると茶葉を外し、自然に角砂糖を入れようとして、既の所で躊躇った。マイヤに視線を送り、表情を確認して、暗黙の内に角砂糖を二つずつカップに落とした。

「嬉しいだなんてよく言うわよ。あなたがこんな端っこに住まなければ、もっと簡単に、もっと長い時間を一緒に過ごせるのに。リンにも気を遣って、私、大変なのよ?」

 マイヤはカップを手に取って口元へと運び、瞼を閉じて香りを堪能した。そして一口を唇から含めると、満足そうに息を吐いた。

「その話はもうしない約束だったでしょ。私は王様として働いて、疲れちゃったの。一人の時間が必要だったのよ。いい加減に許してくれてもいじゃない。」

「ええ、そうね。ウィルイン様。直近の部下だったから、あなたの苦労は誰よりも知ってる。でも、あなただって部下の苦労には詳しいでしょ?・・・今は特に凄いのよ。あなたの後継はとっても臆病で、鈍くて、あの通り。もう大変。」

「あら、そんなこと溢していいのかしら。私、口が利くわよ。」

「心にもない癖に。」

「そうね、ふふふ。」「ははは。」

 二人の朗らかな笑い声が重なった。そういった些細な戯れに恥じらっていたのは、もう遠い昔のことだった。

「ウィルイン。」

「なあに?」

「気持ちは分かるけど、やっぱり、あなたには近くにいて欲しいわ。だって他にいないもの。こんなに可愛くて、不思議で、魅力的な人。ねえ、今夜、馬車で一緒に町に降りましょうよ。リンも喜ぶわ。」

「無理よ。住む場所がないもの。」

「ウチに来たらいいじゃない。」

「そんなに広くない癖に。」

「安心して?一向に帰ってこない夫の部屋で新品の家具が待ってるから。」

「あら、なにそれ。会わない間に随分と交渉が上手くなったのね?」

「フフ。だって私、今は王様に代わって外交も勤めているもの。それなりに自信があるわ・・・まあ、あなたほどじゃないけど。」

「私みたいな隠居者に劣ると思うの?冗談でしょ?」

「本心よ。以前のあなたは凄かった。いつだって群衆の先頭に立って、山彦みたいに声を響かせて。予言者のように先を見据えて。・・・銀の瞳の女神様が残した伝説は、今も多くの国民の心の支えになっているのよ?炎の教えがどれだけ頑張ったって敵わない、実在した、生ける伝説だもの。時間とともに薄らいでしまってはいるけれど、みんながあなたを知っている。語り継いでいる。」

「ふふ、やだわ。思い出すだけで肩が凝っちゃう。まだ火傷の痕も消えてないのに。」

 ウィルインは肘を上げて脇を広げ、背中に手を当てた。そしてその逆の動作で肩を撫で降ろした。後ろで結んだ髪の先が指先に触れ、軽やかに跳ねた。

 ウィルインはカップの中身を飲み干し、二杯目を淹れ始めた。

「・・・みんな口々に女神さまを讃えるけれど、あんなの、綺麗なところだけよ。本当の私は、ね?・・・どうかしら。」

 ウィルインは敢えて曖昧な物言いを選んだ。マイヤはウィルインの言葉の曖昧の形をよく知っていた。それは二人の間で共有してきた、難解な悩みであったからだ。

「まだ、あの夢を見るの?」

「・・・やめましょうよ。」

「でも、苦しんでいるんでしょ。・・・見るの?」

「・・・・・ええ。」

 ウィルインは頷きながら、カップに残った茶葉を掬い上げた。それから褐色で満たされたカップに角砂糖を二つ落としたが飲まず、机の上で両手の指を絡めた。

「最近は本当に、嫌なくらいによく見える。」

「全くの同じ夢?」

「ええ、たぶんね。昔は、ただ不気味なだけの赤のイメージだったのに、今では地上の果てまでハッキリと、炎の波が這い進んでいくのが見えるの。家屋が焼けて、人々が絶叫する間もなく塵に変わって、私はそれを、空の上からずうっと眺めている。夢の中の私は、それが、自分がしたことだって知っていて、なのに、それなのに全然、悲しまないの。寧ろ当然のことだって、そう呟いて目を覚ますのよ。最低でしょ?」

 ウィルインはそう言って絡めていた指を解き、また二つ角砂糖をカップに落とした。

「ウィルイン・・・そんなに悪く考えることないわ。実は夢で悩む人って、結構いるみたい。夢は新しい分野だけれど、研究されるようにはなってきていて・・・少し文献を齧って来た。あなたの夢はきっと、過去の使命感やプレッシャーが炎の形で出てきているんだと思う。だから、見ている間は辛いだろうけど、いつかは必ず消えてくれる。それに夢の中での人の死は吉兆らしいの。逆夢って言って、必ずしも悪い事ばかりではないって。」

「・・・そうね、うん。そうかも知れない。ごめんね、マイヤ。忙しいのに私の為に調べてくれたんでしょ?本当にありがとう。」

 ウィルインは二杯目のお茶を一気に飲み干した。四つの角砂糖が入ったそれの想定以上の甘さに咽かけたが、時間をかけて残さず胃へと流し込んだ。涼やかな甘味が口内と喉に纏わりついた。

「いいの。好きでしていることだから、気にしないで。」

 そう言ってマイヤはウィルインに微笑みかけ、ウィンクした。しかしウィルインはマイヤのウィンクにも言葉にも気が付けなかった。カップを回し、底に溜まった液体と砂糖の粒の一つ一つに目を落としていた。

 マイヤはウィルインのカップを持つ手に、そっと指を添えた。

「ねえ、ウィルイン。よければ聞くわ。私くらいしか、いないでしょう?・・・勿論、あなたが話したければだけれど。もしかしたら、今度は助けになれるかも知れない。」

 マイヤの提案に、ウィルインの睫毛が微かに揺れた。唇が薄く開き、閉じて、三度の瞬きの後に、ウィルインはカップから顔を上げた。

「・・・じゃあちょっとだけ、話してみてもいいかしら。優雅なお茶に合う話ではないけれど。でも、口に出してみれば、本当はとてもくだらない事なのかも知れない。」

「ええ、無理のないように聞かせちょうだい。」

 マイヤは空のカップを脇へと除けた。ウィルインもそうして、二人の間には角砂糖の容器だけが残された。

「何から話そうかしら。ちょっと、工夫がいるのかも。どうしようかしらね。こういうのって、きっと、切り出しが肝心よね・・・?」

 ウィルインは紙と筆を取り出し、紙に一般的な天秤の絵を描いた。マイヤは静かにその様子を見届けた。

「ねえ、マイヤ。運命って言葉、あるでしょう。私ね、この頃、それを信じている。曖昧な存在なのに何故か、存在が感じられるの。運命は、例えば天秤のような姿をしていて、常にそこらにあって、私たちを測っている・・・。」

 ウィルインは天秤の、二つある器の片方に自身の名前を記した。

「天秤はね。個人と、他の何かを比べるの。何でもよ。そして均衡を維持しようとする。この器の上の私の位置は、辛いことがあれば高くなって、良いことがあれば沈んでいく・・・この相関性は全く逆でもいいかも。兎に角、天秤は乗っている人の行動に応じて傾いて、傾いた分だけ、後で元に戻るように働きかける。そういうものだと思ってほしい。」

 ウィルインは語りながら、自分の名の下に罰と記し、もう一方の器には災厄と記した。そしてその二つを、互いに矢印で指し合わせた。

「正直、私は夢の中の景色を、ただの抽象的な象徴だとは思えない。記憶にはないけれど、あの恐ろしい出来事は事実としてあったことなんだって、そう、強く感じている。私はいつかに、向こう側に災厄を押し付けてしまった。たくさんの誰かを、失わせてしまった・・・。」

 マイヤはウィルインに手を伸ばしかけたが、ピクリと指を動かしただけに留め、静聴を続けた。

「・・・マイヤ。私の天秤は一体どうなっていると思う?時々、考えるわ。私はこの国でたくさんの人を支えてきたと思う。導いてきたと思う。そう信じている、でも、でも、過去にそれ以上の人を傷つけたことがあったのだとしたら。例えば一つの国を丸ごと、私が壊してしまっていたのだとしたら・・・。」

「良い運命が待っているに決まっているじゃない。あなたがいなければ私たちに今の生活は無かった。この危険な世界で、私たちは生きていけなかった。少なくとも私たちにとっては、あなたは救世主だわ。」

 ウィルインの呼吸の乱れを察知して、マイヤはつい口を挟んでしまった。ウィルインは首を小刻みに左右に振った。混乱と発作で、瞳が色を変え始めていた。

「違うの。重要なのは私の罪よ。私がどこにいるのか。ねえ、マイヤ、私は間違いを犯したのかしら。夢の景色が、あれがもし正しいことだったなら。一方で救われる人々がいたのならいいの。それなら、私は静かに眠ることができる。でも、誰もいないもの。確かめられない。あの火の中で、みんな、みんな、死んでしまったわ・・・。」

 ウィルインは一層に声を震えさせ、語り続けた。

「それに、過去じゃないのかも。これから私が夢と同じことをしてしまうのだったら。ああ、恐い。どうしたらいいの、恐いわ、マイヤ。私、あなたとリンを傷つけたくない!」

「大丈夫よ。あなたは違う。そんなこと、あなたが望むはずがない。」

「私の意思は関係ない。運命がそうする。手綱のように私の腕を手繰って、運命が私を乗っ取るの。今までだってそうだった。理解できないことばかりだった。みんなが魔法と呼んだものだって、知らないうちに使えていた。なのに全てが上手くいったわ。おかしいでしょう?こんなの・・・きっと、それだけじゃない、これだけで終わるはずがない。」

 マイヤはハンカチを取り出し、ウィルインの目尻に浮かんだ涙を拭こうとした。だが、ウィルインは両腕を組み、固く阻んだ。

「ダメ。やだ、受け入れたら何も言えなくなる。今じゃなきゃ・・・。」

 ウィルインは暫し瞼を閉じた。マイヤは待った。ウィルインが再び口を開くまでに、長くはかからなかった。

「・・・あの、ね。たぶん、私にはもう時間がない。隠さず話すわ。私、魔法を思うように使えなくなってきている。瞳は健在だけれど、指輪の殆どが形にならなくなってしまったわ。力が、指の間からすり抜けていくのよ。・・・マイヤ、リンちゃんが突然、魔法を使えるようになったでしょう?私ね、私の状態は、リンちゃんと関係しているんじゃないかって考えてる。私の力があの子に流れていっている。これからあの子の時が来て、私は少しずつ失われていく。」

「ウィルイン・・・。」

「もう目の前の事なのよ。私は天秤から失われる前に、何か恐ろしいことをするか、恐ろしい目に合うわ。それが怖い。私一人ならいい。でも、あなたたちを巻き込んでしまうかもしれない。一人になりたい。そうでなきゃ、誰もいない場所で、私は、一人でいなくちゃ・・・。」

 ウィルインは俯き、細く息を掠れさせた。鼻や睫毛を伝って落ちた涙が、机の上に小さな水たまりを生んだ。

 マイヤは考えた。悪夢と妄想に脅かされ、悲痛に心を歪める友の為にできることはないのだろうかと。思いつくことはあった、しかし、行動に移すことを躊躇った。マイヤは人付き合いに不器用だった。ウィルインと軍属の夫の他に、密接な関りを築いてこなかったのだ。

 不意に、ウィルインがマイヤの手を握った。マイヤは驚き、小さな悲鳴を上げてしまったが、すぐにそれを失敗と思い、ウィルインを気にした。ウィルインは潤んだ瞳で、一途にマイヤを見つめていた。

「でもね、マイヤ。運命を悲観しないでね。あなたには理解していて欲しい。天秤は平等よ。どんなに悲しくたって、死んでしまいたいくらいに辛くたって、放棄しなければ、諦めなければ、必ず報われる日が来るから。あなたとリンには幸せが待っているはずだから!」

 ウィルインはぽろぽろと涙を零した。

「だから、だからあなたは、あなた自身とリンの幸せのために生きて。私はあなたとは一緒にはいられないけれど。ああ、マイヤ。私を許して。あなただけはどうか、私を心に留めていて。」

 ウィルインはまるで祈るように言葉を吐き出し、とうとう漏れ出した嗚咽の為に、呼吸すらままならなくなった。あまりに痛ましい泣き顔は、マイヤから迷いを払拭した。

 マイヤは立ち上がって、震えるウィルインを胸に深く抱きしめた。ウィルインはただじっとして、穏やかな呼吸を取り戻そうとしていた。

「・・・ねえウィルイン。よく聞いて。今ね、私、とても幸せよ。あなたと過ごしてきた今までも、ずっと幸せで、楽しかった。リンがよく育ってくれて、あなたも仲良くしてくれて。色んな苦労はあったけれど、それ以上に、本当に幸せだったわ。」

 マイヤはウィルインと向き合った。友の整った眉毛を親指の腹でなぞり、深い隈に零れた雫を、人差し指の爪に乗せて攫った。

「私は長い間、あなたの側で同じ道を歩んできた。きっと私は既に、あなたと同じ運命にあるわ。だから、もう手遅れよ。・・・ねえ、ウィルイン。それなら幸せな私は、私たちは、この後に不幸になってしまうのかしら。いえ、なるのでしょうね。ウィルイン様が言うことだもの。運命も天秤も平等なんでしょう?残酷だけれど、きっと避けられないでしょうね。」

 マイヤはウィルインが言う運命を信じ切ってはいなかったが、それでも思い当たる節があった。あの忌々しい聖書がそれだった。もしかしたら、運命らしいものは存在するかもしれないと、行き届かぬ空想を巡らせた。

「いえ、いいえ。そんなわけない。だってあなたの献身は誰だって敵わない。不幸になんてなるはずない。それに、あなたの不幸はリンの不幸じゃない。あなたとリンはずっと、ずっと幸せでいなきゃ。」

 マイヤは左手の甲に乗せられた冷め切らない温もりに、右手を重ねた。

「そうでしょう。そういう事。かんたんな事。私だって同じ。同じことをあなたに望んでいるし、願っている。あなたの未来の幸せを、私も、リンも。・・・それじゃいけないの?誰かの幸せや不幸に、込み入った根拠が必要なの?」

「・・・。」

 マイヤがウィルインの痩せこけた頬を撫でると、新しい一筋の涙が指を濡らした。

「絶対に違うわ。私が断言してあげる。あなたの時が終わるなら、これからは私とリンが新しい予言者よ。・・・聞いて、私たちは幸せになる。私たちだけじゃない、誰もがみんな差別なく、不幸のない一生を送るの。だからね、ウィルイン。一人で苦しみを貯め込まないで。私は何があっても絶対にあなたの側にいる。どんな苦難に見舞われたって、あなたの隣にいる。私たち、ずっと一緒よ。天秤の同じ器の上で、同じ幸せな運命を生きていくの。だから、どうか強く生きて。生きてリンを見守ってあげて。今まで守ってもらった分、これからは、私たちがあなたを守るから。」

 ウィルインはマイヤの胸に泣き崩れた。マイヤはウィルインを受け止め、その背にそっと手を回して慰め続けた。


 その頃、書斎にて。

 リンは一人、柔らかな絨毯の上で魔術書を抱え、壁に寄りかかっていた。頁は半ばで開かれていたが捲る手は捗らず、挿絵の一点を見つめ、心ここに在らずと言った様子だった。

「ともだちって、なんだろう。よくわからなくなっちゃった。ミーズちゃんと、これからどう接したらいいのかな。」

 リンは魔術書に厚紙の栞を挟んで傍らに置き、鞄の奥から「二冊目の聖書」を取り出した。そして隠し持っていた鋭い食器を駆使し、表紙の金の文字を削った。

「みんなうそつき。かくしごとばかり。心を読めても、あやつれないから嫌なことばっかり。読みたくなくても見えちゃうし、大人の心は読めてもよくわからないし。むずかしいことばかりで疲れちゃった。」

 表紙から金の文字が削られた二冊目を鞄に戻し、三冊目に取り掛かった。持っている聖書はこれが全てであった。ミーズと言う少女が三人の学友に配ろうとしたものを、心を読んだリンが代わりに引き受けたのだった。

「でも、ママとウィルイン様はとっても優しい。うそをついても、わたしのため。いつも心配してくれる。とってもあたたかくて、いい気持ち。」

 鞄の奥に倒した二冊目の上に三冊目を重ね、その上に文具と手帳を重ねた。削り落とした金の粉を三重の紙で包み、紐で縛って、これも鞄の浅い場所にしまった。

「わたし、偉くなって王様になる。立派になって、ママとウィルイン様を守る。悪いことを考える人をしつけてあげる。ミーズちゃんには、次に会ったら注意しないと。」

 リンは読みかけの魔術書を開こうとした。その時、過る違和感を察知した。忍び寄る幾つかの邪悪と、紛れる嫉妬と、強欲を。

「・・・気持ち悪い。ママとウィルイン様に教えた方がいいのかな。でも、どうしよう。いつでも心を読めることは内緒にしないといけないのに。」

 リンは暫し、魔術書の文字を追って、違和感を忘れてしまおう努めた。しかし邪悪が家の裏手に張り付いて動かなくなると、本を放って部屋を飛び出し、マイヤを探した。


 一方、対話の後、ウィルインはある決意をした。丘上の隠れ家を捨て、マイヤとリンとともに同棲する決意である。加えてマイヤにはそれ以降、国務には一切に携わらず、人の中で生活を送ると誓った。但し同時に、只人では困難な職務を果たしておくべきだと提案し、マイヤと目下の情報共有を行った。マイヤは町での足止めと、娘が持っていた聖書のことを、ウィルインは有志からの情報を話した。

 組織は男を集め、密かに武具を揃えている。この情報をウィルインに知らせた有志は、軍属の諜報員として組織に潜入するマイヤの夫ユーニルであったが、ウィルインはその秘密だけはマイヤに明かさなかった。それがユーニル本人からの望みだったからだ。

 情報共有で判明した事実は、町の広い範囲で組織の大規模な集会が連続して行われているということだった。ウィルインは組織が至急の募兵を目論んでいると見て、そこに内乱の可能性もあると考え、早期の対応として春の国の協力を得るべきと判断した。その為に危険極まりない外界に、一人、国の代表者として赴こうとしていた。

「本当に行くの?」

「ええ、だって急がないと。組織がいつ動き出すかわからないし、私が完全に力を失ってしまう前でなきゃいけない。それに、春の番人は私以外を主に会わせようとしないもの。」

「・・・でも。」

「大丈夫。瞳があれば、何者も私には手出しできないから。」

「・・・そう。気をつけて。無事にね、ウィルイン。」

「マイヤこそ、今晩はちゃんと身体を休めてね。帰ってきたら引っ越しを手伝ってもらうんだから。じゃあね。」

 ウィルインはマイヤにウィンクを残し、馬車に乗って丘を下って行った。書斎から出てきたリンが母を呼んだのは、その直後のことだった。

「ママ。あれ、ウィルイン様は外へいっちゃったの?どうして?」

「ウィルイン様は急にお仕事ができちゃったのよ。明日のお昼までには帰ってくるそうだから、それまでは私とリンでお留守番。そろそろお腹が空いたでしょう。何か作るから、居間で待っていなさい。」

 マイヤは袖を捲りながら有り合わせの食材を思い出し、どう工夫しようか考えた。そんなマイヤの思考をリンは読み取って、焦った。邪悪はもうすぐそこなのだ。

「わたし、遊びたい。・・・かくれんぼ、してみたいな。」

「あら・フフ、ずっと本を読んでいたものね。いいわ、少しだけね。」

 マイヤは娘の意外な要求に少しばかり戸惑ったが、すぐに快く頷いた。壁に向かい目を塞ごうとすると、リンが袖を引っ張った。

「わたしが探したい。ママ、隠れられる?」

「私が?いいけれど、隠れられる場所があるかしら・・・。」

「ちゃんと隠れてね。かんたんに見つからないところ。」

 リンは顔を手で隠すと、口と頭で異なる二つの時間を数えた。口ではかくれんぼのための三十秒。頭では外の邪悪が動き出すまでの六十秒。十秒で母の足音が遠のき、十五秒でどこかの戸が閉まる音。二十秒で母の緊張と憂鬱が透けた溜息。残り三十秒で一度、全ての音が消え、残すところ二十秒で邪悪が口々に合図した。

「わたしもどこかに隠れないと。」

 ウィルイン邸は大きくはないが、物置となっている二階があり、小さい身体ならば隠せる場所がたくさんあった。幾つかの不安がちらついたが、猶予はない。残り十秒。邪悪がやって来る。梯子を上り、適当な物陰を見つけ隠れようとした時、リンの頭にマイヤの声が流れ込んできた。

「リンったら、どうしたのかしら。物音ひとつしない。自分で隠れちゃったのかしらね。鬼になるの、初めてだものね。」

 リンはあかいろの頬を蒼くした。もう時間がない。積み上げられた書物の隙間に潜り込み、息を止めて埃まみれの布を被った。

 玄関が勢いよく開けられ、数人の男女が廊下に雪崩れ込んできた。ちょうど廊下を歩いていたマイヤを屈強な男が捕え、拘束した。マイヤは急な事態に混乱し、抵抗しようとしたが、乱入者らの腕に一様の独特な腫れ物を見つけると、抵抗を止めた。

 計六人の男女に囲まれたマイヤのもとに、細く長身の初老の男が一人、近づいた。

「これは驚いた。有名な顔だ。・・・しかし、何故でしょう?ここは前国王様の隠れ家のはずですが。」

 マイヤは男を知らなかったが、どんな人物であるかは察していた。金縁の眼鏡、衣服の上から腕に巻いた金の鎖と、鎖に下がる精巧な蝋飾り。組織の重鎮であろう彼は、短く切りそろえられた上品な口髭を指で撫でた。

「勘違いも甚だしい、ここは私の別荘です。これは重大な違反行為にあたりますよ。増してあなた方の行いとなれば、王も民も黙ってはいません。」

 マイヤは男を睨み、威嚇した。

「やれやれ、そうですか。・・・困りました。よりによってあなたがいるとは、実に厄介だ。あなたの言葉は全てが真実になる。そうしてしまえるだけの権限と、影響力がある。その上、個人的に我々はあなたに手を出し辛い。あなた確か、夫は軍属でしたよね?」

 男が問うや、マイヤの拘束が解かれた。屈強な男は悔いるようにマイヤに首を垂れていた。周囲に立つ他の五人も数歩退き、廊下の壁に背を張り付かせた。

「ほら、この通りですよ。みなさん、後々のためにこの顔を覚えておきなさい。此方は国の偉大なる忠臣、マイヤです。・・・マイヤ、どうぞ楽にしてください。我々は在らぬ炎に義勇への隷属を誓った身。例え敵であっても、過去の恩を無下にはしません。どうか夫に伝えていただきたい。かつて差別の渦中でも我々が生き永らえることができたのは、貴殿らから受けた手厚い支援のお陰であったと・・・。」

 男は身構えるマイヤの周りを囲うように歩き、語り続けた。

「・・・軍は万民の味方だ。彼らはこれまでに十を超える土地を拓くだけでなく、護り続けてきた。国の発展には欠かせない存在です。我々も彼らを模倣しようと努力してはきましたが、これが難しい。彼らの律した理念と協調は比類ない国の宝と言えます。」

 男はマイヤの前で立ち止まり、背を折ってマイヤの顔を覗き込んだ。

「ですが、マイヤ。我々の新しい王はどうでしょうか。あなたの上司は国を治めるに相応しいですか?いっそ正直に言いましょう、あれは馬鹿ではないですか。何年も失策を重ね、平和を蔑ろにしている。更には偉大なる春の寛容に甘え、保守的になっている。」

「愚かなのはあなたたちでしょう。暴動こそ平和を軽んじた行為です。」

「ええ、ええ、無論です。単なる暴動はよろしくない。我儘だ。子どもが駄々を捏ねるのと変わりません。しかし、いいですか、マイヤ。我々の行いは聖戦です。意思の表明です。我々は公平な機会を求めていた。国を想い、治世を改めようとした、その結果なのですよ。」

 男は身を翻し、マイヤに背を向けた。

「半年前でしたか。この国から異端が出たそうですね、マイヤ。」

「・・・異端?」

「失礼、異端は我々の言葉でした。彼女は一般的には魔女と語られています。」

「・・・。」

「思い当たることもありませんか。いえ、発端は酒場の噂話だったそうですから、知らなくとも無理はない。・・・ある日に一人の商人が、外界で前国王様と禍々しい女が闘っていたと語りました。女は、悪魔のような女として魔女と語られました。国王様が瞳を銀に輝かせ、緋色の槍を掲げ魔女を威圧していたと。当時、噂を信じる者は少なかったそうですが、酒の席では盛り上がったようで、噂は少しずつ広まり、私たちの耳にも入りました。調べてみれば、魔女は王の臣下の一人だったらしいとか。派生して、現国王は魔女に絆され悪政を働きだしたのではと、そんな悪い噂もあります。我々としては前国王様によって裁かれたと信じたいのですが、実際はどうでしょうね。」

「何が言いたいのかしら。」

「我々は魔女がまだ国に、王の側に潜んでいるのではと考えているのです。ですが、あなた方忠臣は誰も同じ疑問を抱かないようだ。王を妄信しているようにも見える。だから気づけないのではと、私たちは推測しています。そしてその裏で王は、或いは魔女は自然且つ巧みに臣下を欺いているのではないかと。」

「馬鹿らしい。邪推でしょう。」

「ええ。そうかもしれない。ですが、否定できますか。」

 男は浅く繰り返し頷き、咳払いした。

「さて、いつまでも憶測を交わしていても仕方がありません。特に我々は、時に正当な訴えが雑踏と産声に飲まれてしまうことを、その虚しさを重々味わってきました。ですから行動を起こすことにしたのです。今回はただの足労だったようですが。」

「・・・ウィルインに何をするつもりだったの。」

 マイヤは遅れて、自らの発現を後悔した。別荘を自身の物と言った手前では違和感のある言葉ではあったが、男は言及しなかった。

「現時点では、あの方に特別に何かをしようとは考えていません。魔女の存在について確認したくはありましたが、発端は全ての初めに、炎の象徴であるあの方に挨拶をと思っただけのことです。」

「ウィルイン様はあなたたちを嫌っているわ。」

「知っていますよ。ですが、前国王様は聡明です。我々が起こしてきた極些細な問題よりも、王の選別を民に任せてしまったことを悔いるでしょう。・・・しかし、ふむ。あなたはどうも頑固なようだ。どうしたものか。このまま帰せば、我々を外界へ追放してもおかしくありませんね?」

 男は天井を見上げて考え込み、何かを閃くと、壁に寄った短髪の女に指を振った。

「そうだ、いいことを思いつきました。あなたにも印を刻むとしましょう。腕か、背か、太腿か、隠せる部位がいいですね。そうしたらあなたは、今回の件を他言し難くなる。我ながら良案だ。」

 合図を受けた女は男に、布に乗せられた金版を手渡した。マイヤはそれが何であるか即座に察して青ざめた。男は両手に薄手の手袋をはめてからそれを持つと、マイヤの全身を吟味し、露出した両腕に目を止めた。

「念のため、両方に残しておきますか。拘束しなさい、マドク。」

 男の命令とともに、屈強な男が再びマイヤを拘束した。マイヤは暴れたが、力の差は歴然で、容易く拘束されてしまった。

「やめて!私にそんなものを刻まないで!」

 マイヤは声を荒げたが、男は意に介さずマイヤの腕に金版を添えた。

「じっとした方が身のためですよ。変に逸れて目立ってしまうと困るのはあなたなのですから。・・・私はあなたを無用に苦しませたくはない。時間が経てば消えますから、ほら、じっとして。」

 腕に金版が押し付けられた。マイヤは腕に火で炙られるような激痛を覚えたが、絶叫を飲み込んだ。金版はそれぞれの腕に十秒ほど押し当てられた。

「よく耐えましたね、マイヤ。やはり、あなたは強い人だ。」

 男は金版を布に包んで女に返し、今度は別の女から革袋を受け取った。革袋を漁る男の眼下で、マイヤは屈辱に歯を軋ませていた。

「おっと、私としたことが隠し布を忘れてしまったみたいですね。これはよくない。申し訳ないですが、一度あなたには我々の家まで来ていただきます。あれは特注の品ですから、そこらの布では替えが利かない。時間をいただいてしまう分のお礼を差し上げますから、道中、考えておいてくださいね。宝石に鉱石、種類に限りはありますが土地や食料でも、望むものを与えますよ。約束だっていい、あなたは特別な人ですから。・・・さ、民の夜を妨げないように、付いてきて。」

 マイヤは大人しく連行された。どこかに隠れている娘にまで同じ目に合わせてはならない。その一心だった。

 リンは息を殺し、一部始終を聞き届けていた。心を読んでいた為に冷静で、マイヤの心配はしていなかった。

「あれがミーズちゃんのパパなんだ・・・変な人。獄炎が渦巻く宇宙は人をおかしくしちゃうんだね。」

 布を取り払うと埃が舞った。埃を吸ってくしゃみが漏れたが、その音を聞いた者はいなかった。

「ウィルイン様が危ない。知らせなきゃ。追いかけなきゃ。」


5’

 荒野を発ったのは二日前。そこは踏み入るほどにその色を濃くし、端々に影を深める森の中。すっかり路に迷ってしまったハイミルは馬を降り、慣れない草の感触を踏みしめていた。

 この頃になって、ハイミルは朝と夕の違いを明確に識別し始めていた。夜の次に来るのが朝であり、夜より前が夕であると。朝は明るいばかりであったが、夕は何より、夜闇に紛れる異形たちが動き出す時刻であることが特徴だった。ハイミルは念のために周辺に巡らせた影に意識を巡らせた。今まさに、空は曙色から来る色へと移り変わろうとしていた。

 夜の森は、獣の荒々しい足音と不気味な摩擦音でハイミルを包み込んだ。それでも、ハイミルは悠然と足を運んでいた。なぜならハイミルは既に彼らの獲物ではなかったからだ。これまで十を超える襲撃があり、何百もの犠牲が払われた。際してハイミルは傷一つとして負わなかったが、一々に面倒に感じることはあった。しかし甲斐あって、獣らはハイミルを襲わなくなった。今では夜毎の犠牲者は、運悪く狩人の行く道に当たってしまった獣たちが断末魔を上げる間もなく切り刻まれるのみとなっており、今ではその犠牲者に肖ろうとした獣らが、密かにハイミルに付き纏う始末だった。

 さて、この夜に獣を散らす存在はハイミルだけではなかった。木々の間を、揺らめく四つの炎が往来していた。一方は興味に背を押され、一方は異様な気配に誘われて、今宵、二つは会うべくして出会った。これは恵まれた出会いではなかった。炎の教えの教徒らが掲げた松明に照らされたのは、獣の群れを率いた悪魔の姿だった。

「んあ?」

 その場で呑気に振舞っていたのはハイミルだけだった。松明を持った四人は互いに背を預け合い、それぞれに小さな武器を持った。そしてもう一人、松明を持たず、代わりに大きな紙を広げて立つ者がいた。彼は紙を小さく折り畳むと赤装束のポケットにしまい、ハイミルに近づいた。その刺すような視線は左右に休みなく動いた。主にハイミルの背後を警戒したようだった。

 ハイミルが交流を図ろうと口を開いた時、背後で二つの気配が動いた。獣が恰好の獲物に気づいたのだ。勿論、獲物とは狩人たるハイミルのことではなく、迂闊に近づいた赤装束の男のことである。しかし、狩人は獣に自由を許さなかった。ハイミルの背から翼のように影の針が放出され、獣を串刺しにした。

「あ・・・悪魔だ。」

 松明の一つが呟いた。松明の煙で顔が隠れていたが、その声音には明らかな怖気が表れていた。松明たちは恐怖の元凶からの逃げ場を求めて揺らめいたが、最後には赤装束の男の方向に集まり、落ち着いた。

「お前は何だ。」

 そう静かに問いかけた赤装束の男は腰に携えた柄に指を添えていた。その指を掴む手があった。赤装束の左隣にいた小柄な、見るからに卑屈な男が、小声で話しかけた。

「関わるべきじゃない。春にこんな奴はいなかった。」

「敵とは限らない。現にこいつは、私を襲おうとした化け物を殺したようだった。」

「奴の思うつぼだ。」

 小柄な男の松明がハイミルに突きつけられた。

「俺にはあいつが獣に指示を出したように見えた。分からないか、うまいことやって恩を売ろうとしてるのさ。奴らは至って狡猾で、上手いこと醜悪な心根を隠してきやがる。奴は俺たちをよく理解している。見ろよ、化け物どもは奴には襲い掛からないだろう。」

「黙れ、ドット。無駄口をたたいていないで円を組め。化け物どもがお前の側にも回っている。」

 忠告を受けた小柄な男は果てのない森の闇に向けて松明を振った。そして気づいた。あちこちの枝の隙間から、おびただしい数の殺意が目を向けていた。

「・・・どうして俺がこんな目に。」

 小柄な男はそう呟いて、左足を退こうとした。だが、不幸にも足を運んだ先の地面には尖った石が埋まっていた。殺意の群れに注意を反らしていた彼は石を踏んで躓き、その拍子に松明を落としてしまった。殺意たちはこの隙を逃さなかった。

 襲い来る獣に二人が応じた。赤装束の男が剣を抜き、ハイミルが足元から槍を伸ばした。ハイミルはこの二つの攻撃の軌道が重なることを予測していた。それでも槍を引かなかったのは、槍の方が速く獣を討つと自負していたことに加え、赤装束の男の剣がまだ鞘から抜かれ切っていなかったからだ。しかし、剣は思わぬ加速を見せた。それは空気を鈍く鳴かせ、瞬く間に獣の平らな胴を両断した。そして遅れた槍は、あろうことか、そのまま赤装束の男の腕を貫いた。

 赤装束の男が呻き、地に落とされた剣が、地に横たわる松明に炙られた。異変に焦った小柄な男が松明と剣を赤装束の男の腕の高さまで拾い上げたことで、火の明かりに当てられた槍が消滅した。その為、ハイミルと赤装束の男を除いて、事態を正しく理解できた者はいなかった。最も大きく誤解したのは小柄な男だった。彼は口火を切って叫んだ。

「・・・どうした、その傷はいつからだ。獣じゃあないな。おい、お前ら、悪魔がやったぞ!悪魔の仕業がここにある!見えない手で殺されるぞ、逃げろ、逃げるんだ!」

 小柄な男は顔つきを険しくし、たちまちに機敏になった。持っていた松明を仲間に預けると、傷穴を抑え動けないでいる赤装束の男を背負い、この場から逃げ出そうとした。慌てふためく仲間に指示し、松明で退路を確保しようとしていたが、あらゆる方向に忍ぶ獣を抑え切るには足りていなかった。

「おい、待てよ。」

 ハイミルは襲いかかろうとする獣たちを密かに殺しつつ、五人を呼び止めようとした。一人が罵倒と思わしき言葉を叫びながら振り向き、ハイミルにナイフを投げつけた。ナイフは命中こそしなかったが、帽子のつばを斬りつけて、背後の木に突き刺さった。それでも、ハイミルは何度か続けて声をかけたのだったが、五人は全く耳を傾けず、もつれながら走り去って行った。

「なんだよ、アクマって・・・。守ってやったってのに、狡猾だの醜悪だの好き放題に喚き散らしやがって・・・。」

 ハイミルは苛立ちに任せ、影の短剣を振り回した。近くの枝々が断ち折られ、四体の獣が致命傷を受けた。虫の息の獣らに、たちまちに異形たちが群がった。

「まあ、いいか。これでなんとなく方向は分かったしな。儲けだ。」

 ハイミルはシャイラに跨り、遠ざかっていく松明たちを追いかけた。彼らを驚かせてしまわないように遠回りし、松明が示す先の、闇に沈む森を駆け抜けた。


 夜闇には数多の影が彷徨っていた。影の正体は歪な物たち。呪われた、歪んだ命たち。ウィルインは臆せず馬を進めた。訓練された馬は肌を刺す殺意を恐れなかった。影の一つがウィルインに近づいた時、ウィルインの瞳が銀色に輝いた。その輝きに照らされた者はいなかった。歪な物たちは瞳の光を恐れ、闇に従属した。

 しかし行く手に一つだけ、一切に動こうとしない人影があった。人にとって危険極まりない夜の外界に於いて、無防備に立ち尽くす人影が只者であるはずがなかった。ウィルインは魔女を想起した。人影を注視し、指輪に爪を添えた。

「よお、お前が東の魔女だな。分かりやすくていいなあ、それ。いきなりで悪いが、お前の目玉が必要なんだ。俺は紳士だからよ、片方もらえりゃあ、それでいい。」

 人影は低い声をしていた。魔女ではないようだったが、ウィルインは馬を止めて人影に集中した。あの魔女も瞳を欲しがっていた。

「私は魔女ではありません。橋の国の、立場ある者です。名はウィルイン、他に名はありません。人違いではありませんか。」

「いいや、間違いねえよ。聞いた通りの色だ・・・まあ、お前みたいなのが何人もいるってんなら話は別だが、お前にはタチバってのがあるんだろう。つまり普通じゃねえ、特別ってことだ。」

「断言できますか?あなたは私を知らないようですが。・・・答えてください。誰の命令で、どこから来ましたか。春の国か、鐘の国か。それとも私の知らない、遥か異郷の地からでしょうか。」

「俺は影から来た。俺にこんな頼みごとをしたのは、俺と同じような奴さ。気に入らねえ影のクソガキどもだ。」

 人影がウィルインに手を伸ばした。

「知れて満足か。さっさと瞳を渡せ。」

「申し訳ありませんが、それはできません。片方でも譲れません。これは、そういう代物です。ですからどうぞ、お引き取り下さい。」

 ウィルインは人影を、魔女とは無関係にせよ確かな敵と見做し、指輪を撫でた。炎が指を伝い、緋色の槍となって右手に掲げられた。槍の先からはどろどろとした紅い粘液が垂れ流され、ウィルインの手と肘と、落ちた先の地面を濡らし、紅く染めた。

「・・・お前、もしかしてこいつの知り合いか。」

 人影がウィルインに近づき、その全身が炎と銀の光に照らされた。ウィルインはその若い男の容姿には全く見覚えが無かった。

「知りません。私には急ぎの用がありますから、どうか、お引き取りを。」

「そっか。ん、じゃあ、もう用はねえわ。」

 男はそう言って背を向けた。そして三歩を進み、差し渡る銀色の端に立った、その時だった。ウィルインは左目の裏側に奇妙な熱を感じた。熱は視界に闇を広げ、やがて溢れ出し、液体となって鼻と頬に滴った。その不可解な体験の真実を、ウィルインの右目が捉えていた。

 黒く虚ろで細長い、大木の枝のような何かが左目付近から男の方へと伸びており、枝の先には銀に輝く眼球が握られていた。ウィルインは咄嗟に槍を振って枝を折ったが、遅く、瞳は既に男の手に渡ってしまっていた。突如、ウィルインの全身に凍るような冷たさが伝わった。異変を感じた馬が暴れ、ウィルインを地面に投げ出した。

「待って・・・それを持っていっては駄目。」

 ウィルインは倒れたまま、感覚が薄らぐ右腕を男へと伸ばした。

「おいおい、片目ぐらいでどうしたよ。しっかし、ひでえやつだなあ。馬ってのはどいつも乱暴なのか?俺んとこの馬もよお、振り落としまではしねえが、どうも容赦がねえ。それがいいとこでもあるんだけどよお。・・・まあ、とりあえずだ、おい、お前。血はすぐ止まるだろうからよ、安心しな。知り合いには寝てる間に馬に喰われちまったとでも言っとけや。」

「待って・・・。」

 ウィルインは硬直する身体を動かし、闇に消えようとする男を追おうとした。既に足が石のように固まり動かなかった。舌先の自由さえも失われようとしていた。それでも、意思とともに、何かが男へと向かっていた。

 それは彼女の胸の、内なる使命感の指針であった。

「待ちなさい。」

 ウィルインの力強い一声は闇に響き、既に見えなくなっていた男の足を止めた。

「あなたは必ず後悔するわ。絶対に。」

 それは衝動的に吐き出された言葉だった。男は首を傾げた。

「しねえよ。お前のことなんかすぐに忘れる。」

「いいえ、必ず後悔する。それは人の手には余る・・・だから、この場所を頭に留めておきなさい。過ちに気づいたら、いつでもそれを持ってここへ戻ってきなさい。私はここにいるでしょうから、私がどんな姿であっても、それを必ず返しなさい。」

 ウィルインは自らの言葉の意味を理解できていなかった。だが固まろうとする舌は、まるで幾度と繰り返してきた様に饒舌に、滔々と文字をなぞったのだった。

「へー・・・そうかい。ありがたいお言葉だね。じゃあな。」

 男は空返事を吐き捨てると馬に跨り、彼方へと去ってしまった。残されたウィルインは辛うじて動く右半身を駆使し、人目に付かない木陰に漕ぎつけ、身を潜めた。そして肘や腹部からじわじわと上ってくる凍てつく寒気とともに、これから起こるであろうことと、過去の記憶を思い出した。

「私、また眠るのね。」

 ウィルインの脳裏に永遠とも思えるような記憶が蘇った。その多くは平常では失われていたものであり、どこまでも傲慢で、冷酷で、あの悪夢と似た景色すら含まれていた。ウィルインは自分が、今の自分になるまでにしてきたことの全てを知った。

「これが代償だったのね・・・死にかける度に眠りについて。少しずつ、少しずつ、失ってきていたのね。」

 ウィルインは悲しみ、恐れた。愛しい二人を失いたくなかった。心の中で何度も二人の名を呼びながら、為す術なく、意識を閉ざした。


 リンは愛しい声に導かれた。そこでウィルインが待っていると確信していた。

「ウィルイン様、どこ?どこから呼んでるの?」

 辿り着いたのは大きな岩に隣り合った、変哲のない樹木だった。

「ウィルイン様?」

 声は岩の内側から聞こえていた。少女は岩の表面を撫で、その繊細な輪郭の意味を知り、泣き叫んだ。


6.

 ハイラの日常。それは影の世の成長を待つだけの、極めて退屈な日々の連続だった。

 朝も夜もなく、天井や壁に穴が空くぐらいしか変化のない閉ざされた世界で、修繕に走り回り、シュレミールの遊び相手を勤め、それでも優に有り余る時間をだらだらと過ごす。時には球体が目新しい物を飲み込んでいないかと、散策に出る事もあった。しかし、何かが見つかることは稀なことで、結局この日も収穫にはありつけなかった。

 ぼーっと座り込むハイラのもとにシュレミールがやってきて、隣に座った。

「おじちゃん、そろそろついたかな。」

「ついたと思うよ。」

「ほんとについたかな。」

「馬は速いからね。明日には帰ってくるかも。」


「かえってこないよ。」

「そんな日もあるさ。」

「うそつき。」

「嘘じゃないよ。僕はカセツを唱えたんだ。」


「おにいちゃん、かせつ。おじちゃんがかえってきた。」

「それは嘘だよ。シュレミール。」

「じゃあ、かせつってなに?」

「カセツは・・・カセツ、かな。」

「いみ、おしえて?」

「シュレミールには難しいと思うよ。」

「うそつき。」

「本当だよ。」


「はやくおじちゃんにあいたいな。あそんでほしいな。」

「僕は嫌だなあ。瞳だけが帰ってきたらいいのに。」

「おにいちゃんはともだち、ほしくないの?」

「・・・うん。」

「うそつき。」

「ホントだってば。」

「うそつき。」

「・・・。」


「おにいちゃん、おじちゃんをつくってよ。」

「材料がないから、玩具はしばらく無理。」

「まじょさんのからだがあったらできる?」

「うーん・・・足りないと思うよ。前に見せてもらった時のままならね。」

「じゃあ、あのくろいの、つかお。」

「そう言えばいたね、黒いやつ。あいつ肉あるのかな。」


「にくあったよ。たりたら、つくってくれる?」

「いいけど、今日は駄目。気が向かない。」


「きょうは?おにいちゃん、きょうは?」

「明日がいいよ。明日はキチジツらしいんだ。」


「・・・ねえ、おにいちゃん。」

「どうしたんだいシュレミール。元気がないね。」

「まじょさん、いなくなっちゃった。」


 影の世の底には、牢獄として扱われている小さく狭い空間があった。魔女と怪物はそこに落とされていたのだったが、彼らはハイラたちの知らぬ間に、痕跡一つ残さずして消えてしまっていた。

 ハイラは床に無造作に散らばる魔女を壁に支えていた影の杭を拾い、感心して頷いた。魔女と怪物を侮っていたから。そして慢心していた。彼らが影の世を脱出することはできないと、シュレミールから逃れることはできないと確信していたから。ハイラとシュレミールは事を脅威としてではなく、所詮、娯楽の一つと認識していた。

「シュレミール。二人が何処へ行ったか分かるかい?」

「あっちかなー、むこうかな?わかるような、わからないような?」

 シュレミールは右へ左へ、ぼんやりとした足取りでハイラを導いた。この二人にしか判別が付かない些細な特徴が散りばめられた道を巡りに巡り、やっとのことで並んで歩く魔女と怪物の後ろ姿を発見した。彼らは悠長にも談笑していた。不思議なことに、バラバラにしたはずの身体は元に戻っているようだった。

「いたぞ、生意気な怪物め。すぐにでも喰ってやりたいけど、まずは慎重にいこう、シュレミール・・・あれ、シュレミール?」

 ハイラの死角で、シュレミールは既に攻撃を仕掛けていた。水の軌跡を残して浅く回り込み、怪物に目掛けて突進していた。

「おーい、待ってよ。置いてかないでおくれよ。」

 ハイラはシュレミールの背に大声で呼びかけ、走って追いかけた。シュレミールの足はハイラよりもずっと速かったが、それでも健気に追いかけた。ハイラの声を聞いたのか、魔女と怪物がハイラに振り向いた。

「・・・ようやく来たか。さて、賭けは吾輩の勝ちのようだな、魔女よ。我らが出口を見つけるよりも、彼らに見つかる方が早かった。」

「おめでとう王様、さすがだわ。残念だけど、腕輪のお礼は帳消しね。」

「いいや。此度の礼は、いつか必ずさせてもらおう。賭けはしたが、それで済ませてしまうには忍びない程の大きな恩を授かったのだから・・・。」

 語り合う二人は詰め寄る脅威の姿を目視できなかったが、勘付いていない訳ではなかった。怪物、グズが会話を止めて二歩、前進し、四本目の腕を掲げるとともに声を張り上げた。

「小さな楽園の幼き王よ、問おう。君の世界を襲った最大の不幸は何だったろうか?」

 四つ目の腕輪が凛とした音を奏で、握られた拳の隙間から光が漏れ出した。

「吾輩が知る限り、我が故郷を襲った最大の不幸は飢饉だった。ある日に前兆無く、水すら焼き尽くす陽光が地上のあまねく降り注いだのだ。四番目の王は、天へと至る塔の頂にて三晩を祈り明かし、腕輪によって陽光を恒久的に抑え込んだ。腕輪は代わりに、あらゆる生命を育む太陽を生みだした。」

 グズが指を解くと内から小さな太陽が出現した。太陽はグズの周囲を小さく照らし、その光はまだ離れていたハイラにもほんの微かに届いた。グズの側で一瞬、少女の姿が浮かび上がり、消えた。

「だが、これが小さくてな。お陰で彼の王は、国の復興の為に長旅に赴かねばならなかった。結果として王は見事に国を飢饉から救い栄誉を得たが、当時まだ幼かった吾輩はどうもやるせなかった。腕輪が齎す救済には、相応の見返りがあると信じていた。」

 グズは語りながら、光の内に真っ白な残滓を見かけ。肩を落とした。

「・・・この太陽であっても影は育てられないのだね。あっさり消えてしまうとは、そも、命がないのかな。」

 グズは太陽を握り潰してしまうと、今度は一本目の腕を捻り、触腕を繰り出した。触腕は逃げようとしていたハイラを捕まえ、液体の中を引き摺った。

「さあ少年よ、観念するのだ。悲しいことに君の楽園は終幕を迎える。だが、もし大人しく我が軍門に下り友となるならば、違う形ではあるが楽園に席を与えてやろう。まずは互いに不幸を語り、この尽きぬ闇を明かそうじゃないか。」

 グズは倒れた込むハイラの手を掴もうとした。そこに魔女が割りこんだ。

「待って。まだダメよ。まずは核の在処を教えてもらわなきゃ。」

「興味がないと言っていただろうに。」

 グズはぼやきながら、魔女の細い肢体の隙間に腕を差し込み、ハイラを求めた。それに対して魔女は身体を左右に揺らし、腕の侵攻を阻んだ。

「誤解よ。私は楽園には興味がないっていただけで、ここが必要なの。・・・言ったでしょう?影を通して、真理を探すの。あなたの邪魔はしないのだから、少しくらい待って頂戴。」

 魔女は歯を鳴らして、グズを威嚇した。

「おっと、なんと。君は、もっとおしとやかな人物だと思っていたのだが。ううむ、まあ、よかろう。」

 グズが観念して下がると、魔女は早速ハイラに向かって屈み込み、笑顔を作った。

「ねえ、少年・・・ハイラくん?シュレミールちゃんはどこに隠れたのかな。あの子、まだ近くにいるでしょう。私、あの子の力を借りたいのよ。教えてくれたら痛いことはしないであげるけど、どうかしら?」

「僕らにお礼がしたいんじゃなかったの。」

「ええ、そうね、したかったわ。でも私には、それ以上に優先しなければならないことがある。大丈夫、殺しはしないから安心して?お礼は、そうねえ。欲しかったら、全てが終わるまで待っていて。」

「・・・。」

 ハイラは押し黙った。屈服の故ではなく、勝機を伺うべくして。

 魔女の背後にはシュレミールが潜んでいる。怪物の光の不意打ちを浴びて弱ってはいたが、一帯の影を吸収し、既に敵を食べるだけの力を戻していた。だが、問題は怪物だ。怪物の腕のどれかが、影の弱点である光を放つ。勝利のためにはあの腕を、再び使われるより先に封じなければならない。

 ハイラは瞳に闘志を宿した。魔女の眼光は鋭く、胸の内を見透かすようであったが、シュレミールの勝利を信じて疑わなかったハイラは、敢えて闘志を隠すことはしなかった。

「凄い目つきね。教えてくれないの?怖くはないの?もしかして影だから痛覚がないとか、恐怖を感じないとか?・・・興味があるわ。せっかくだし、試してみましょう。」

 魔女はそう言って、左手の鋭利な爪をハイラの右胸に当て、薄生地の衣服ごと貫き、突き刺した。シュレミールは平然とその光景を、魔女の肩越しに傍観した。魔女は手の重さに任せて下へ下へ、ハイラの臍の上までを斜めに切り裂いた。ハイラの体内は区別のない暗黒で、数秒で塞がろうとした。衣服も同様だった。魔女は爪を引き抜くと、両手を打った。

「そうだわ、王様!さっきの光を出して。あれを、この子の中に入れてみましょう。」

「少年の存在が消滅しかねない。度が過ぎるのではないか。」

 グズが乗り気でないと、魔女はグズに縋りついた。

「その時はその時、ひとまずやってみましょうよ。・・・きっと面白いことになる。だって、あの太陽はあらゆる命を成長させるんでしょ。ねえ、気にならない?影の生物の可能性が。」

「・・・やれやれ、君は好奇心の為なら容赦がないな。まさしく魔女だ、相応しい名だよ。まあ、実のところ吾輩も興味があるから付き合うが、少年が尽きてしまう前には止めるぞ。ああ、可哀そうな少年。同士を失い孤独の身。吾輩にはその痛みが良く分かる。光も痛みも耐えるのだよ。君は吾輩の友となるに足る存在なのだから。」

 怪物が再び四本目の腕を掲げた。折り重ねられた指の隙間から仄かに光が滲んだ。ハイラはそこに勝機を見て、シュレミールに目配せした。シュレミールはその意図を汲み取り、直ちに怪物の腕目掛けて跳躍した。僅かに水面が揺れたが、怪物は気づいていないようだった。その場の者は皆が至近距離にあった。攻撃を躱すことは不可能と、そう判断し、ハイラは頬を綻ばせた。

 シュレミールの狩りは素早く、無駄がない。加えて獲物には、特に影でない者にはシュレミールの姿を捉えることができない。狩る者として、最適な能力を持っていた。しかし明確な欠点があった。技術に劣り、行動が直線的で読みやすいこと。そして、これまで二度と戦った者がいなかったこと。シュレミールは敗北を知らなかった。

 対する魔女は奇襲を予想していた。グズも、魔女の助言に従い、敢えて無防備を演じていた。魔女は水面の波紋と気配を辿って獲物の位置を特定すると、そこへ右手を突き出した。右手の人差し指には銀の指輪が嵌められていた。

 魔女の手が、シュレミールの右足首を捉えた、指輪が光り輝き、握られた足が弾けるとともにシュレミールの全身が顕わになった。それでもシュレミールは勢いを緩めることなくグズに喰いつこうとしたが、ひらりと躱されてしまった。グズが触腕を操り、過ぎ去ろうとするシュレミールを絡めとった。魔女がまた、グズに縋りついた。

「上手くいったわ!やっぱり私たち相性がいいのよ。ねえ、王様、手を組みましょうよ。楽園はここで築けばいいじゃない。私なら、いつかきっと、王様を元の姿に戻すこともできるし、考えてみて、想像してみて。ねえ、なにもかもが魅力的でしょう!」

 魔女は大いに喜び、グズの掲げられたままの四本目の腕と腕輪を抱きしめようとした。だが、グズは頑なに四本目の腕を下ろさず、白渦で畏怖の情を模った。

「悪いが断るよ。吾輩は自由の先に楽園を求める。その信念の為に、望んで流浪に徹しているのだ。・・・肉の身も、懐かしいが惜しくはない。今の吾輩には飢えも乾きもしない、この身こそが至高だよ。それに今回、上手くやったのは吾輩だけだ。君は優れた術があると宣言しておきながら少女を捉え損ねた挙句、吾輩を危険に晒した。」

「私の協力が無かったらあの子の居場所がわからなかったでしょ?」

「そんなことはない。吾輩は耳がいい。今ではここの全ての音の判別がつく。」

「・・・音なんてしなかったわ。」

「したさ。君の耳が悪いのだ。形ばかりで、働かない。」

「あら酷い。王様だって威勢の割に太陽とやらでは仕留めきれなかったくせに!」

 魔女は語気を荒げ、明らかに不貞腐れた。それでも丁寧な手つきで、捕えられたシュレミールの細い首を右手に収めた。

「お疲れ様。もう放していいわよ。」

 魔女がそう言うと、グズはシュレミールから触腕を退かせ、代わりに放心して転がるハイラを捕まえた。それから魔女へと合掌をした。

「では、これでお別れになるかな、魔女よ。良い出会いだった、君には心から感謝している。」

「さっさと行きなさいよ。」

 魔女はグズに見向きもしなかった。

「そうか、うむ、そうなるか。では、吾輩は暫くあの牢屋を借りているよ。少年はまだ球体を離れられないからね。語り、契約をしなければ。」

「はいはい。言われなくても行かないから。・・・行って。」

 グズはハイラを連れ、颯爽とその場を後にした。

 残った魔女は、まずシュレミールの足を確認した。期待通り、弾けた右足は再生していなかった。魔女の指輪が、シュレミールのような存在に有効な抑制力を宿していたからだ。魔女は悲し気な鼻歌を妙に陽気に奏でながら、少女の細い身体に指を這わせた。

「お嬢ちゃんはどこに埋め込んでいるのかしら。私は頬だけれど、ないものね。」

 魔女の右頬には、彼女の瞳ほどの大きさの菱形が埋め込まれていた。

 魔女はシュレミールの衣服で隠れた部位を探し終えると、次に、閉じられた瞼を開けた。探し物は眼球にはなかった。続いて口を開かせ、中を覗いて、ついに上顎に探し物を見つけると、喜んだ。

「やっぱりそうだったのね。あなた、ここで生まれ変わったのね。それならきっと私にも影を操れる。影だけじゃない。もっと多くの、あらゆるものを手にすることができるわ!」

 魔女はシュレミールの狭い口内に三本の指を捻じ込み、上あごに埋め込まれた菱形を摘まんで引き抜いた。菱形を抜き取られたシュレミールの身体は砕け、霧散した。

 魔女はその場で菱形を高く掲げ、願った。すると頭上一面に影の世が宿していた記憶が展開された。際して、魔女は球体が一瞬にして崩れ落ちてしまったと勘違いした。そう思ってしまうほどの多彩な色が、影の世の記憶を構成していたのだ。

 見知らぬ文明が炎に飲まれた。炎が明けた緑の世界に、四人の人物と、生きる炎がいた。彼らの安寧の日々は、毒々しい紫色の霧と二人の人物によって終わりを迎えた。それからの光景は、魔女にも馴染みあるものだった。あの騒乱の後、終わりのない戦いが始まった。死体、死体、死体。よく知る場所に、知った顔が転がっていた。この記憶の持ち主は感情が豊かで、犠牲の一つ一つに後悔し、悲しんでいた。最後に彼女は一人、巨大な生物に立ち向かった。そこで、影の世以前の記憶は途絶えていた。


6’

 ハイミルはつい、嘆息をもらした。東の魔女から銀の瞳を奪い、急いで影の世に帰還したというのに、誰の迎えもないのである。朗らかな笑い声は駆けて来ない、水音の一つもない。加えて何故か、馬が球体に入るのを頑なに拒む始末であった。馬を置いていかざるを得ないことは、ハイミルにとって特別に面白くないことだった。彼は計七晩の旅を経て、馬をすっかり気に入っていたのだ。「シャイラ」と、名前まで与えてしまうほどに。

 闇をいくら進めど、ハイミルの期待は一つとして叶わなかった。対して根拠のない心地悪さばかりが途方もなく湧いて溜まり、球体の外へ飛び出したくなった。すぐにでもシャイラと戯れたかった。だが、シュレミールの監視がある以上、時間を無駄にはできない。仕方なくハイミルは気を引き締め、宛もなく闇の中を歩き回った。近々にどちらかには出会えるだろうと信じ、同じ景色を彷徨い続けた。しかし長い間、呆れるほどの静寂と孤独だけがハイミルを迎えた。

 ハイミルは歌や独り言で鬱屈な心を誤魔化した。無意識に口から出た言葉たちは意味不明で難解なものばかりだったが、それでも心地よい程に滔々と、奏でるように吐き出された。穏やかな気持ちに包まれ、つい目的を忘れかけた頃。ハイミルの靴の爪先が水に沈んだ何かを蹴った。その何かの表面はいやに柔らかかったが、内側には硬質な芯があるようで、足を押し付けてみれば、猛々しい程の脈動を感じた。

「おいおい、マジかよ。あいつらの他にもいたんじゃねえか。」

 ハイミルはそれを、あの二人とは異なる生物であると推測した上でも無警戒だった。影の世に対して、下手に信頼を抱いていたのだ。ハイミルは純粋な好奇心に誘われて姿勢を低くし、水中に手を沈めた。いざ触れかけた時、突然、水中のそれが動き出した。それらは集い、ハイミルの脚首から腿の付け根にかけて速やかに這い登り、巻き付いた。

「は?」

 唖然とするハイミルの両足に絡みついていたのは、二本の太い触腕だった。滑らかな表皮に粘液を纏い、裏側に吸盤を並べた、多脚の怪物の手脚。ハイミルは反射的に影を操り触腕を斬りつけたが、即興の刃は通らなかった。果たして勝手に傷つけて良いものなのかと、理性の呵責を覚えていたハイミルは思わず安堵の息を漏らしたのだったが、そんな内情を知る由もない触腕たちは無慈悲にもハイミルを持ち上げ、逆様にぶら下げた。

 触腕が動きを止めた。ハイミルは逆様のまま、突然の理不尽に苛立ち、触腕と、その主をあらゆる言葉で罵倒した。放たれた言葉の多くはやはり意味不明であり、多くはハイラに向けられた。ハイミルの口は間断なく、騒がしく働いていたが、近づいてくる水音があると、何事もなかったかのように閉じられた。水音は、触腕の根元の方から来ているようだった。

「おい。お前、どっちだ。喋ってみろ。」

 相手がハイラではなくシュレミールであったらなと、ハイミルは知らず知らずに願っていた。水音が立ち止まった。

「君の期待に応えたいが、どちらでもないだろう。残念なことに。」

「お前か。チッ、やっぱりな。あの時に逃げてやがったか・・・。」

 再び水音が始まった。ハイミルは驚くでもなく、黙してそれの到来を待った。やがて触腕の奥からやって来たのは、予想の通りグズだった。

 ハイミルは影の世に来てから間もなくの出来事を思い出した。「マヌケな王様」が目の前でバラバラになった時のことだ。シュレミールはグズを食べた、と言ってはいた。だが、きっとそれは再生可能な部位のことで、本体には至っていなかったのだろうと、ハイミルは推理した。

「所詮、ガキはガキってことか。つまらねえ見栄を張りやがる。それよりてめえ、忘れた頃に出て来やがって。・・・何の用だ、仕返しか?それとも相変わらず阿保みてえに仲良しごっこしてえってほざくのか?」

 ハイミルはグズを挑発しつつ、新たな武器の精製に集中した。質を重視し、より鋭利になるよう、操り難い球体内の影ではなく、自身の影を用いた。これは太陽の下であれば消滅のリスクを抱える危険極まりない試みであったが、一切の光が届かない影の世では何ら問題ない行為だった。触腕を断ち切れる程の刃は直ちに完成した。ハイミルはそれを敢えてすぐには使わず、触腕の仕返しにと、最もグズに屈辱を与えられるタイミングを計らった。

「カッカッカ。相変わらずだな、君は。安心したまえ。無理に君とまで契約しようとは考えていない。必要が無い。君が影に帰れば、我が親愛なる友が帰ってくるのだから。」

「ああ?」

 ハイミルの短い返答には、明確な反抗と嫌悪が含まれていた。

「気を損ねたか?だが事実だ。君は他者の身体を借りて存在している。決断の時は必ず来る。そしてその時は、すでにもう、ここまで来ている。」

グズは自身の首下を指さした。

「勝手に仕切ってんじゃねえぞ木偶の坊。俺は俺の自由にやる。」

「見当違いだよ、権威。君を呼んだのは吾輩なのだから、吾輩が仕切る立場にあるのは当然のこと。それに本来、君に自由は望めぬものだった。許す者がいたから、自由でいられたのだ・・・。」

グズは触腕でハイミルの両手首を掴み、上下を改めて立たせた上で、触腕から解放した。

「・・・君は吾輩の前では誠実であるべきだったよ。友か、或いは従順な下僕になりえたなら、選択は変わっていたやも知れん。だが、もう遅い。・・・言ってしまえば、君は既に用済みではあるのだが、特別に少しばかり自由を許すよ。吾輩の勝手で呼んだ詫びだ。七日の後まで人としての時を楽しむといい。」

「へっ、不意打ちで捕まえただけでよく吠えるぜ。口だけじゃなくてよお、ちょっとくらい歯向かって来いよ。なあ。このままじゃお前、負け犬だぜ?」

 ハイミルは水面に落ち漂う帽子を拾い上げた。一方の手には、刃を忍ばせながら。

「構わないさ。君からの不名誉など、どうでもいいことだ。結果は変わらない。」

「何、結果だ?」

「君と球体の運命のことだよ。君には期限がある。吾輩が君を呼ぶにあたって捧げた欠片は十五。即ち十五の夜を跨いだ後に、君は影に還るのだ。ただ、これは推測であるから、多少の前後はあるかもしれんがね。だとしても大差はないだろう。・・・そして球体には既に手が打たれた。あとは見届けるのみ。惰性の日々よ。」

「俺が長くねえってのか。」

「左様。」

「・・・へっ、そうかい。いいさ、好きに吠えとけよ阿保が。」

 ハイミルはニヤリと笑った。その頬は密かに痙攣していた。

「・・・だがよお。まさかお前、あいつらに勝てるつもりでいるのか。あいつらはただのガキじゃねえ。自慢じゃねえが、俺は敗けたぜ。この俺ですら勝てなかった相手だってのに、俺に騙されなきゃあ、正面からなら勝算があると思ってんのか?成す術なく、一瞬でバラされたお前が勝てると?」

 ハイミルはどうにかしてグズに一泡吹かせたかった。しかし思い通りに事が運ばず、苛立ちを強めていた。嘲る彼の目に、一瞬、グズの首がピクリと震えたように見えた。手応えを覚えたハイミルは闘争心を沸き立たせ、特性の刃を固く握り直した。

 だが、グズはハイミルの期待に反して、酷く悲しんだのだった。

「待て。まさか・・・もしや彼らは、君の友となっていたのかな。」

「てめえ、それはどういう顔だ。」

 ハイミルは構えかけていた手を下ろした。彼はこの時に初めて、グズの顔の白渦模様を注視していた。著しく萎縮し潰れた白渦に、不吉な色を見出していた。

「権威よ。残念だが、彼らは壊れてしまったよ。魔女が核を手にかけたのだ。見よ。以来、球体の様子も変わってしまった。空気は冷め、水嵩が増した。球体そのものが溶け、小さくなっている。」

「分からねえ。一から説明しろよ。あいつらに何があった。」

「やはり、そうか。・・・よかろう、話すとも。」

 頭上からぽつぽつと、光の梯子が降りてきた。グズは天井の裂け目を仰いだ。

「生きるためだった。全てが祈願の成就のためには避けられぬ道だった。君の存在も、魔女との契約も、球体の崩壊も、幼き王の絶望も・・・。」

 光りの一筋がグズの頭に差した。グズは腕の一本でそれを捕まえようとして、指が空を切っても尚、何度も何度も繰り返した。腕輪に反射して散った光が、度々にハイミルの肌を焼いた。

「・・・君も知る通り、吾輩はあれに喰われた。そして牢に閉じ込められた。だが、そこで大いなる不幸と出会ったのだ。我が栄光、吾輩が直面すべき試練にだ。吾輩は彼女との契約によって腕輪と身体を取り戻し、牢を脱した。当然、彼らが、君の友らが我らを追いかけて来たが、吾輩は勝利した。確かな勝利だった。闘いの後、球体の核であった少女は魔女の手に渡った。この様子を見るに、無事ではないだろう。少年は吾輩が引き取ったが、心をなくしたようだ。あれ以来、牢に籠って眠り続け、目覚める様子がない。惜しいが、あれでは消滅を避けられん。」

 ハイミルの帽子の端が焼けた。彼の周りにも、既に三筋の光線が差していた。一つ、また一つと、光線は逃げ道を塞ぐように降り注いだ。

「分かったかな権威よ・・・つまりだ。ここはもう、君の帰る場所ではない。君の帰りを待つ者はいないのだ。だから、どこへでも行け。吾輩の情を受け、余生を楽しむのだ。・・・それと、ついでになるが、手遅れになる前に影を元に戻すべきだ。ここは浅い、崩壊が早い。」

 天井が大きく割れ、降り注いだ光の柱がグズを包んだ。グズは九本の腕を広げ、光を讃えた。腕輪が光を吸い、その姿は宝石で飾られた花のようだった。

「よかったのか。」

 ハイミルは気付けば、真っ暗な狭い空間で寝転がっていた。何故か両腕が存在せず、不便に思ったが、驚きはしなかった。この風景に見覚えがあった。いつの間に眠っていたのだ。

「あいつらはどうなったんだ。俺は、どうすりゃあいいんだ。」

 独り言を溢していると、足に薄布が擦れた。その正体にも覚えがあった。

「よお、来やがったか。俺を喰い散らかすんだろ。いいぜ、やってくれよ。好きなだけやりやがれ。今日は都合がいい。どうにかなっちまいたい気分だ。」

 ハイミルの足の間に片足を入れて立っていたシュレミールは笑わなかった。ハイミルの腰の横に座り、膝を抱えた。

「ハイミル。おはなし、しよ。いっしょに、おはなし。」

「とか言って、どうせ喰うんだろ。ハイラはどこだよ。」

「おにいちゃんはいないよ。ここには、さいしょから。・・・ねえ、ハイミル。わたしたち、にどと、あえないかもしれないんだよ。」

「そりゃいいや。毎日のように散々に苦しめやがって。清々する。」

 ハイミルは身を起こした。シュレミールの丸まった背中が見えた。表情を覗いてやろうとしたが、表情は無かった。黒く平らな面だけが、そこにはあった。

「ねえ。ひとつ、おねがいしてもいい?」

「マジで喰わねえってんなら考えてやる。」

「おにいちゃんをたすけて。」

「やだね。あいつは嫌いだ。生意気な上に姑息だからな。」

「・・・。」

 シュレミールは黙って立ち上がった。

「何だ、もう行くのか。ありがたいね。久々に快適すぎる夢だった。」

「ごめんね。」

「あ?」

「わたし、ハイミルと、ともだちになれなかったね。こまらせちゃっただけだったね。ごめんね。」

 シュレミールは走り出した。滑るように、彼方へと。

「何言ってんだ。おい、待てよ!シュレミール!」

 ハイミルはシュレミールを追いかけようとしたが、踏み込んだ足は水面を踏み抜いた。辺りはいつのまにか液体で満ちていて、上下左右が不明になり、身体はどこまでも深くへと沈んでいった。シュレミールの朧な背は、上へ上へと、底とは反対に離れていく。ハイミルの喉奥からは苦痛なく、声の代わりに無限の泡だけが解き放たれた。泡たちは水面で破裂してしまい、それ以上の先には届かなかった。伸ばそうとした手は靄のように曖昧で、水面にすら触れられなかった。背が底に付き、不愉快な砂利の感触を思い出すと、ハイミルは泣きながら、夢から覚めた。


6’’

 生命を拒む雄大な荒野を駆ける影。

 権威ハイミルは過ぎし日に得た銀の瞳を影に抱え、馬を東へ、東の魔女のもとへと無心でひた走らせた。前回は二日をかけた荒野を半日で抜け、赤装束の連中と遭遇した森へ入ると、草木の陰から歪な物たちが襲い掛かってきた。だが、駿馬は一切の追随を許さなかった。ハイミルは念のために、明確な支配者を失った影の世の影を拝借して槍と短剣を用意して来ていたのだったが、シャイラにしがみ付くだけであらゆる障害が過ぎ去った。前回は三晩を費やした道のりは、たったの一晩で踏破された。

 夕刻、ハイミルはシャイラを目立つ大樹の側に待たせ、東の魔女と出会った場所に赴いた。国壁に沿って流れる幅広い川と、架けられた三つの橋が遠目にも主張した。ハイミルはくまなく記憶の場所の周辺を探し廻ったが、魔女はどこにも見つからなかった。木陰で少女が一人、木の根に背を預け、抱えた膝に顔を埋めているだけで、他には人ひとりとしておらず、歪な物の気配すら感じられなかった。

 ハイミルはやむなく少女を頼ることにした。少女はきめ細かな藍色の服を着て、半透明の白い薄布を頭に乗せていたが、どれもが吹き付けた砂埃で薄汚れていた。髪までもが所々に砂埃を絡め、手の爪は割れ、滲んだ血が乾いていた。

「おい、お前、ここの住人か?」

 答えはなかった。肌寒い風が吹き、少女の毛先を浮かせた。

「生きてるだろ。寝てもいねえ。・・・取引だ。欲しいものがありゃ持ってきてやる。まずは喋れんのか、喋れねえのか、ハッキリしてくれ。」

 ハイミルは木陰の内で影を操り、少女が凭れる木から拳大の実を二つ切り落とした。両手で落下するそれらを受け止めると、少女の爪先へ転がした。少女は全く反応を示さなかった。

「まさか聞こえねえってのか、可哀そうな奴だ。」

 ハイミルは少女が聴覚を失っていると判断するや、少女に覆いかぶさるようにして屈み、片膝を付いた。

「どうせ聞こえちゃいないんだろうが一応、言っとくぜ。今からお前を覗く。大事な探し物だからよ、許してくれや。」

 ハイミルは死体のように動かない少女にそれだけを告げると、右斜め奥へと落とされた少女の影に手を伸ばした。まだ地面に不慣れだった彼は、影と重なっていた岩に触れた。地面からごく一部分を露出した、不格好な表面の岩だった。

ハイミルは必要最低限の情報を、魔女に関する記憶だけを漁ろうとした。相手が少女であるために、収穫に期待はしていなかった。だが、予想に反して、実際に流れ込んできた記憶の量は膨大だった。それは荒波のような、権威であるハイミルですら永いと感じる歳月。多くの苦痛と、数えられる程度の眩い喜びの心象が脳裏を満たした。

「・・・おにいさん、誰?」

 ハイミルは心象から覚め、自身を呼ぶ声を探した。彼の真下で、少女が首を限界まで反らして、彼の首元を見上げていた。

「お前が呼んだのか?」

「うん。おにいさん、誰?」

「俺は・・・旅人さ。なあ、ウィルインってやつを知らないか?」

「・・・うん、知ってるよ。」

「どこにいるんだ?」

「ここ。」

 そう言って、少女はハイミルが触れていた岩を指さした。

「・・・どういうことだ?」

「死んじゃったんだって。たまに声が聞こえるのに、みんな、そう言うんだ。でも、みんな頭の中が違うの。眠ったとか、隠さなきゃとか、お葬式だとか。喜んでる人もいてね、結局、よくわからないうちにウィルイン様、埋められちゃった・・・酷いよね。でもここ、静かでいいところ。そう思わない?」

 少女は岩肌を撫でた。一方の手では黄色の花を摘み、岩に添えた。

「おにいさんは何しに来たの。ウィルイン様のお友だち?」

「俺は・・・。」

「お友だちでしょ、私、わかるよ。おにいさん、悲しんでるもん。ママもそう。すごく悲しんで、ずっと泣いてて、部屋に籠りきり。しかたないよね。ウィルイン様はママのかけがえのない友だちだったから。」

「戻ってはこないのか。」

「ママはいつか元気になるよ。」

「ウィルインのことさ。」

「あ・・・。」

 少女は唇を震わせた。出しかけた答えに躊躇したようだった。

「・・・たぶん、戻ってこない。ウィルイン様とは二度と会えない。私も、ママも、国王様も、誰も。ウィルイン様、ひとりぼっちになっちゃった。たまに名前を呼んでくれるのに、私にしか聞こえないみたいだし。ウィルイン様の声ね、少しずつ小さくなってるの。やっぱり死んじゃったのかな?ねえ、おにいさん・・・。」

 少女の目から涙が零れて頬を伝い、並んだ膝頭を濡らした。

「・・・どうしたらいいのかな?どうしたら、ウィルイン様を助けてあげられるのかな?助けてよ、おにいさん。私、ウィルイン様の為になにもできない。」

 瞬きもせず、涙も拭わず、じっとハイミルを見つめて、少女は訴えた。

「・・・俺にできることはねえよ。手遅れだったんだ。正しいかどうかの判断もつかねえうちに過ぎ去っちまった。俺には、何もできねえさ。」

 ハイミルは少女を見下したまま、衣服の内側から眼球を取り出した。潤いを失わず、一定の硬度を保つ不気味なそれを布の切れ端で包み、少女に押し付けた。少女が疑いなく受け取るや、口笛を吹き、シャイラを呼んだ。駆けてきたシャイラは左足を引き摺っていた。被った布に穴が空き、左の下腿が夕日で削られていたのだ。穴を裏側から影で繋ぎ塞ぐと、腿は再生した。

「待って。私、おにいさんのこと知ってるよ。」

 ハイミルは予期せぬ少女の言葉に驚き、振り向いた。少女は風が運んできた砂や小石を、一つ一つ丁寧にかき分けていた。

「おにいさん、死神でしょ。聖書に書いてあった。全身が真っ黒で、黒い馬に乗って、死んじゃった人の所にお迎えにやってくる。おにいさん、ウィルイン様を連れて行こうとして、やって来たんでしょ?」

 少女は語りながら、岩を愛おしそうに撫でた。

「でも死神さん、優しいんだね。ウィルイン様を連れて行かないでくれるのね。やっぱり、まだ生きてるんだ。そうだよね、だって、今だって、私とママを呼んでるもん。」

 ハイミルは、少女の口を不吉に思った。シャイラに跨るとせっかちに胴を蹴り、逃げるように急がせた。去り行く彼の背に、少女は尚も語り掛けた。

「死神さん、ありがとう。私、今日のことを忘れない。大きくなったら、立派になったらお礼するから、忘れないでね。お願いだよ、死神さん。きっとだよ。」

 既に距離を離していたハイミルは、少女の言葉を聞き取れなかったが、背を向けたまま手を振った。風のように、真っすぐに走り去って行く黒い背を、少女がいつまでも見送っていた。


「・・・でも、死神さんもそっちに帰って行くんだね。」

 リンは呟いて、死神からもらったものを、布を捲って確かめた。中から現れた新鮮な眼球は、リンの手の中で銀色に輝いた。

「本物・・・かな。綺麗。ウィルイン様の伝説と似てる。」

 瞳に見惚れるリンに二つの足音が近づいてきた。リンは咄嗟に眼球を布に包み直した。

「リンちゃん、またここにいた。外は危ないって教えたのに。」

 学友のミーズが言った。紺色の頭髪の下は、相変わらず炎が渦巻く宇宙だった。

「さあ、家に送ろう。私の召使が君のお母さんのところで夕飯を作っているだろうからね。君と過ごす時間が、マイヤを早くに立ち直らせてくれるだろう。」

 ミーズの父親が言った。ファミリーネームはウィードル。名前は不明。優しい人?だけど、手段を選ばない人。ママをちょっとだけ傷つけた人。

「うん、帰る。ママ、一人にしちゃいけないから。」

 三人は横に並び、橋を渡った。リンの後ろ手に隠された瞳は、布の下からうっすらと銀色の輝きを溢していた。


7.

 恵まれぬ地に朝日が照る。半壊した球体の浅瀬に、裂け間を縫うように幾重にも梔子色のベールが降りた。薄光を跳ね返す九つの星が躍り、星の声が空を讃えた。

 グズは連日、夜の間を球体の浅い場所で過ごしては朝の到来を待った。朝日によって球体の崩壊の具合が明らかとなり、同時に元来の世界が開けていく様が妙に心地よかったのだった。天井からは影の粒子が舞い落ち、水嵩はとうに腰元までに高まっていた。しかし得体の知れない液体は陽光の影響を受けてか、日に日に色が透け、その抵抗力は軽くなっていた。

「思い返してみれば感慨深い経験だった。吾輩はここで永らく無縁であった苦難を与えられ、栄誉ある生を獲得した。球体も、どうしてかここまで美しくなった。全く、世とは分からぬものだ。愛しいものだ。」

 感嘆の声を漏らすグズの耳に、遠くからの嘶きが届いた。続いて聞きなれない、何かが割れるような足音が段々と近づいて来た。

「戻ってくる必要は無かったのだよ。しかし君は器用だな。奇妙な芸当だ。」

 グズは腕の一本を水平に持ち上げ、一点を指さした。その先では、ハイミルが水面の上を歩いていた。一歩、一歩と足が踏み出される度に、影が集まり小さな足場を生み出した。密度が足りない為か一々にヒビが入ったが、ハイミルを支えるには十分なようだった。

「当然だ、俺だからな。・・・しっかしよお、お前んとこの魔女は不器用らしいな。相も変わらず浪費するばかりで支配には至ってねえ。お陰で前よりも自由が利く。」

 ハイミルのそれぞれの手から、影の槍と短剣が伸びた。

「その武器は吾輩に?」

「かもしれねえし、そうならねえかもしれねえ。お前次第だ。いいか、俺は魔女に用がある。あとガキにもだ。まずは魔女の居場所を教えるか、連れていきやがれ。」

「彼女にそれを向けないと約束できるなら、そうしよう。」

「嫌だね。お前は信用できねえし、見る目がないみたいだからな。」

「カッカッカ・・・。」

 グズは笑いながら、これ見よがしに指輪を取り出し、爪のない尖った指先で真上へと弾き飛ばした。指輪は宙で回転しながら炎を生じ、片刃の剣となった。剣が握られると同時に、グズの背後に八本の触腕が展開された。触腕の吸盤からは爪が露出していた。百を超える爪がハイミルを狙い澄ました。

「やはり君は、影らしい。何者とも相容れぬ、光を拒絶し続ける影そのもの。・・・いやはや、今度は全てが思い通りになるような気がしたのだが、そう簡単にはいかないか。常に異分子は除かれる。世とは無情だ。」

「あ?イブンシってなんだ、悪口か。お前も俺を馬鹿にすんのか?」

「憐れむべき存在のことだよ。」

「ハッ、なんだよそりゃあ、張り合いねえなあ・・・。」

 ハイミルが水平に構えた槍の先端が、クイと二度、挑発的に上げられた。

「取り返しがつかなくなってしまう前に、念のために君の目的を聞いておこう。場合によっては、勝敗に関わらず魔女に会わせてもいい。」

「悪いが、答えはこれから探すところさ。その為に影の世を手に入れるんだ。ガキどもはついでだ。」

「友よりも球体の支配が大事と?」

「細けえなあ。ついでだろうが助けちまえば同じじゃねえのか?」

「大いに異なる。」

「あっそ。俺には何が違うのか、てんで見当がつかないね。」

 ハイミルは短剣を構えた。腰と膝を四十五度に折り、上目でグズを睨んだ。

「・・・つまんねえ話しは終わりだ。最後にアドバイスしといてやる。死にたくなきゃあ、さっさと投降しろ。俺には時間がねえからなあ。始めちまったら、手加減はできねえ。」

 そう忠告しつつも、ハイミルはグズに答える間を与えず、水平に跳躍した。槍を左脇に抱え、右手に短剣を逆手で握り、柄を左肩で支えて。対するグズは、まるでハイミルの気まぐれな襲撃を予期していたとばかりに、すぐさま触腕で迎え撃った。

 数多の影の刃が水面から生え、押し寄せる触腕を弾き、斬りつけた。刃は触腕を断つには至らず、浅い傷を与えるのみだったが、道を開くには十分に働いた。触腕と影の刃の攻防を縫い、ハイミルはグズまでの半分の距離を詰めた。そこで短剣を連続して三つ投擲した。短剣は的確に飛び、触腕の波を抜け、グズの目前にまで到達した。グズは短剣を防ぐために二本の触腕を用いたが、その為に触腕によって自身の視界を塞いでしまった。その間にハイミルは二度目の跳躍を挟み、加速した。頬に垂れた水滴が、落ちることなく後ろへ滑り抜けた。どこからともなく吹き付けた激しい風が背を押した。

 グズが短剣を弾いた直後、触腕と入れ替わって現れたハイミルが槍を突き出した。槍はグズの左胸を貫通した。遅れて集った八本の触腕が、二人を包む形で硬直した。

 暴風がハイミルの帽子を攫った。降りしきる雨が触腕に絶えず叩きつけられ、伝り垂れた糸のような水流がハイミルの肩を濡らした。

「・・・俺の勝ちだな。お前は俺に対して利口か、非情であるべきだった。そしたら未来は違ったろうな。なあ、マヌケな王様よお。」

 ハイミルは勝利の余韻を満面に滲ませていた。槍の行方を見つめていたグズが顔を上げた。それとともに、触腕が一本ずつ水中に沈んでいった。

「見事・・・素晴らしい技だ。まさか君がここまでやるとは。」

「言い訳でもすんのか。見苦しいぜ?」

「いいや、吾輩は称えたいのだ。君のその覚悟を・・・。」

 グズはそう呟くと、三本の腕で槍の柄を握り、引き抜いた。真っ黒な傷口からは、同様に黒い液体が垂れ流れた。

「・・・我が非を赦してくれ、権威よ。吾輩は君を侮っていた。生まれ間もない君がこれほどの執念を抱くなどとは思ってもみなかったのだ。こうなれば、吾輩も応えねばなるまいな。」

 ハイミルは言葉を失った。グズの左胸の傷が見る見るうちに、謎の青色の輝きによって塞がろうとしていたのだ。異変はそれだけに止まらず、グズの姿が、段々と激しさを増す雨に溶け出していた。

「この嵐は君の不幸となるか、苦難となるか・・・。」

 そんな言葉を残して、グズは雨脚に紛れて消えた。

ハイミルは頭上を見上げた。荒れ切っていた影の世の天井は、いつのまにか渦巻く分厚い雲に覆われてしまっていた。

「何だってんだ、こりゃあ。」

 ハイミルは嵐を知らなかった。

「おい、どこに隠れやがった。逃げられると思うなよクソ野郎。」

「吾輩は変わらずここにいる。君が吾輩を見失っただけのことだ。寧ろ、嵐の中で逃げ道を失くしたのは君の方だよ。」

「んだとクソが!」

 ハイミルは前方を槍で薙いだ。すると槍が硬い何かと激しくぶつかって弾かれ、予期せぬ衝撃に両手が痺れた。

「ほら、いただろう。吾輩はここにいる。」

 触腕の不意打ちが、槍を構え直そうとしていたハイミルを突き飛ばした。これによってハイミルは自身とグズの位置が分からなくなってしまった。隙間ない風雨が休みなく五感を支配していた。

「あの嵐の夜を吾輩はひとり生き残った。身を削ぐような豪雨と、喉を破らんとする狂風の感覚を今でも鮮明に思い出せる。・・・あれは、こんなものではなかったよ。君を襲っているものは腕輪で拾えたごく一部でしかない。」

 グズの声は耳元から聞こえていた。ハイミルは闇雲に槍を振り回したが、一向に手応えがなかった。惑う背が、浅く斬りつけられた。

「どうした権威よ。もっと感覚を研ぎ澄ませるのだ。吾輩の居場所も掴めないのでは、嵐を越えることはできない。越えようとも、結果は同じだが・・・。」

 次いで左腕を斬りつけられると、ハイミルは周囲に影の壁を作った。

「カッカッカ。賢いな。全てが終わるまでそうして籠れ。丁度良い。あの夜には雷もあったのだ。九つの雷だ・・・当たれば痛いぞ?閃きを見逃さず、壁を絶やすな。」

「・・・マジで言ってんのか。」

 ハイミルはぼそりと、壁の中で呟いた。

「左様。君らしく言うなら大マジだ。」

 一つ目の雷が降った。刹那の雷光は影を消滅させるには足らなかったが、影の壁をものともせずに打ち破った。雷の軌道を逸らすことには成功したが、激しい振動がハイミルの全身に渡った。

 ハイミルは本能に急かされ、すかさず右手に新たな壁を構築しようとした。だが構築が終わるのを待たずに二つ目の雷が貫通し、右腕を焼いた。ハイミルは苦笑した。

「おいおい、こいつはお前の大事な友だちの身体じゃあなかったか?」

「安心したまえ、その身体は君が思う以上に頑丈だ。コレナイを殺しえるのは最後の雷のみ。それ以外は嵐の付き物に過ぎない。残すはあと七つ・・・。」

 グズが言い終えるより先に、三つ目の雷がハイミルの左足を直撃した。ハイミルは咄嗟に不自由に陥った左足を影で補強し、体勢を保った。

「・・・よく味わうといい。」

 グズの声が閃光を連れ、ハイミルに届いた。

ハイミルは右手では短剣を解いて槍に変え、それを足元に突き刺して支柱とした。そして左手では厚い盾を作り出し、閃光へと構えた。盾は四つ目と五つ目の雷を受けると致命的な穴が空き、使い物にならなくなった。更には衝撃で槍が折れ、支えを失ったハイミルは水上を転がった。背で跳ねた位置に、立て続けの六つ目の雷が落ちた。起き上がり様に前方と後方からの七つ目と八つ目を寸前で防ぎ、即座に砕け散った影の残骸を集め、残す最後の雷に備えた。

「こんなもんか。・・・耐えてみりゃあ、案外に余裕じゃねえか。」

 ハイミルは自分の声が聞き取れなかった。稲光と雷鳴によって視力と聴力が一時的に衰えていたのだった。一方、影を操る感覚は窮地に立ってより研ぎ澄まされたようにも感じられた。ハイミルは小さな球体状の壁を何層にも張って全方位を覆い、時を待った。

「消える定めであるのによく粘る。安楽に眠りたければ今の内だよ。」

 壁を越えて、やはりグズの声は耳元から聞こえるのだった。

「へっ、馬鹿言え。ここまで来たんだ、あとは勝つだけさ。」

「そうか、そうか。カッカッカッカ。」

 グズの笑い声が壁の内側で反響した。

 それは一瞬の出来事だった。正面から到来した九つ目の雷の威力は、これまでの八つの雷の比でなかった。壁を透かして電流が迸り、四肢が緩やかに焼かれていった。蓄積した熱と痛みが、ハイミルの影の感覚を蝕んだ。

 ハイミルは自身の影すら駆使して防御に徹した。壁が破られてしまえば雷の光によって消滅しかねない危険な行為ではあったが、他に手はなかった。壁に集中した所為か、或いは雷の激しい衝撃の所為か、影の足場が割れて右足が水中に沈んだが、不自由な左足で耐え凌いだ。雷は間もなく止んだ。ハイミルは気付かなかったが、敗北は鼻の先まで来ていた。重厚と思っていた壁は、最後の層を残すだけとなっていた。

「ハハハッ・・・耐えた、耐えてやった!ざまあ見やがれ!てめえの不幸だか苦難だかってのは、俺にとっちゃあ大したことはねえのさ。権威様と呼べ。この身体も、影の繁栄も、俺様のものだ!」

 薄い壁の中、ハイミルは叫んだ。そうして初めて、己の欲と願望の形を知った。シュレミールを助け出し、ハイラを叩き起こし、影の世を復興させる。その先の未来にさえ、思いを馳せた。過る空想は思いがけず穏やかで、温かいものだった。

「今のがお前の総力だろう。つまり、お前に俺は倒せねえ。だが、逆は可能だ。お前の居場所が分からねえなら分からないなりに、ここら全体を槍で埋め尽くしてやる。いくらだって時間をかけてなあ!お前は、無様に串刺しだ!」

「良い夢を見ているな、権威よ。・・・だが、夢は夢でしかない。一刻でも吾輩に翻弄されたなら、二度と我が術中からは逃れられない。君も我が兄弟も、力ばかりの愚か者だ。」

 鈍い音とともにハイミルの息が詰まり、顎が力んだ。脇腹に燃えるような熱があった。脇腹から炎を帯びた剣が伸びていた。全身の力が抜け、壁がぼろぼろと朽ち果てた。雨もなく、風もなく、嵐は既に止んでいた。

「お前・・・いつの間に後ろに。」

「言っただろう。吾輩の居場所も掴めないのでは嵐は越えられぬと。いいかな、権威よ。不幸とはいかなる時も背後に忍び、機を窺っているのだ。膝を突いた時、不幸は君の足を噛み、重く背に圧し掛かる。再び立ち上がるだけの力と勇ある者にのみ、不幸は苦難となり、栄誉を齎すのだ。」

 倒れかけたハイミルの肩や脇腹に、グズの八本の手が添えられた。ハイミルは舌打ちし、力を振り絞って前方に逃げた。そして影で傷を塞ごうとしたが、血は一向に止まらなかった。傷口に点いた火が影の働きを阻んでいた。ハイミルの狼狽を察したグズは、口らしい部位を笑みに似せ、笑った。

「カッカッカ。治せないだろう。その火の所為だ。・・・驚いたものだよ。これはコレナイが所有していたのに、なぜか少年が持っていた。良い拾い物だった。」

 ハイミルは脇腹を抑えて唸り、うっとりと剣を見つめるグズを睨んだ。悪態をつこうとしたが、呼吸を維持することで精いっぱいだった。

「土産に教えてあげよう。これは君のような権威をも殺すことができる特別な武器だ。限られた存在だけが創り出せる、大変に貴重な代物だよ。きっと君はこれの価値を知らず、易々と少年に譲り渡してしまったのだろうな。・・・カッカッカ。」

 グズはゆっくりとした足取りで、ハイミルに歩み寄った。

「傷は塞がらない。血液を失い、肉体が不能とり、君は依り代を失うのだ。」

「やめとけよ。こいつが死んじまうぜ。」

「心配は無用だ。吾輩はここで救う手立てを得ている。例え君が八つ裂きになろうとも、心臓と頭部が繋がってさえいれば蘇らせることができる。」

「ハッ、何だよそりゃあ。インチキめ・・・畜生。」

 ハイミルは水中で密かに精製した槍を蹴り上げて握り、突き出した。同時に水面からは影の刃を起こしてグズを囲った。しかし鈍い槍は躱され、脆い刃は触腕を前にして砕け散った。剣の反撃がハイミルの胴体を水平に斬りつけた。形を与えられていた物の全てが影へと還った。足場すら失くしたハイミルは、水中へと沈んでいった。

 泡を吐き、うっすらとした光を漂わせる水面を眺めていた。深くはない筈の底に着くまでに随分と時間がかかった。底に着くと、無数の小さな手がハイミルを迎え、水底の、更に奥底へと引っ張った。ハイミルは自分が死ぬのだと思った。

「俺は何だったんだろうな。勝手に呼び起こされて、他人の都合に振り回されて、結局なんにもできねえうちに終わっちまいそうだ。悪魔だの死神だのって、自分のことだって分かってねえってのに・・・そういうもんなのか?俺たちは何のために生まれてきたんだ。」

 ただ、生きていたかった。それだけが望みだったのだと知った。だがすぐに、きっとそれだけでは足りなかったろうなと思った。ハイミルは名前のない、生まれて間もない欲望たちの宛所を求めたが、それらを宥めるだけの価値ある場所は、記憶のどこにも見つからなかった。

 呪わしい世界が誰のものかと考えた。シュレミールは消えた。ハイラは眠った。東の魔女は死んで、「こっちの魔女」は得たばかりの影の世を使い果たそうとしている。

「権威って言ってもこんなもんだ。他にいたとして、大したことはねえだろうな。なら、あいつのもんなのか。この世は全部、あいつの楽園になるのか。・・・気に入らねえなあ。」

 ハイミルは身体の自由を感じて起き上がった。すると目の前に、一帯の黒に紛れて真っ白な少女が立っていた。いつかの夢のように、シュレミールがいた。

「ハイミル、まけちゃったね。からだ、もっていかれちゃったよ。」

「なあ、俺は死んだのか。岩にでもなるのか。」

 ハイミルは指のない、輪郭が曖昧な手を眺めた。東の魔女も死の間際には同じだったのだろうかと、ちらと考えた。

「なんのこと?ハイミルはかげにもどるんだよ。」

「へえ、影ね。違うんだな。・・・お前はどうなんだ?」

「わたしは、たぶん、どこかへはいくよ。たぶんね。でも、おにいちゃんはちがう。きえちゃうんだ。とおいばしょからきたから、かえれない。」

「そうか。」

「ハイミル、さびしくないの?」

「なんのことだよ。」

「だって、しんじゃったら、ハイミルも、わたしも、おにいちゃんも、みんなひとりぼっちになるんだよ。」

「・・・。」

「さびしいんだ。」

「うっせえな。・・・てかよお、お前、夢じゃねえのか。なんで俺が敗けたこと知ってんだよ。」

「ゆめじゃないよ。わたしはまだ、いきてるもん。そとにでられないだけ。でも、もうすぐしんじゃうよ。らくえんがきえちゃうから。」

「・・・。」

「ねえ。ハイミル、おねがい、おぼえてる?」

「クソガキを助けてってやつか?今の俺にできることなんか一つもねえだろうに。」

「ハイミルはまだうごけるよ。ここにいるうちは、うごける。」

「意味わかんねえよ。」

「だいじょうぶだよ、しんぱいしないで、わたしがつれていくから。おにいちゃんをおこして、はなしてあげて。それだけでいいから、おねがい。」

 ハイミルの周りに十を超える小さな手が湧き出し、彼の背と足とを捕えた。それらは彼を、座っている場所からさらに下へと強引に引き込もうとした。

「待て。俺をどうするつもりだ。待て、助けろ!」

 ハイミルは事態を恐れて喚き、小さな手を剝がそうとしたが、指が無い靄の手は不器用だった。

「・・・ねえ、ハイミル。」

 碌に抵抗できず、闇に引きずり込まれようとするハイミルに、シュレミールが話しかけた。その穏やかな声音は、ハイミルから恐怖を取り払った。

「さびしくなったら、ちゃんといってね。たすけてあげるから。わたしはまだ、ハイミルのそばにいるから・・・。」

 全身が引き込まれると、目の前で黒い蓋が閉じた。長い長い、黒一色の洞窟を下った末、放り出されたのは暗く小さな空間だった。ハイミルは空間内に目を配った。境が曖昧な真っ暗闇、その隅には真っ白な少年、ハイラが寝転がっていた。ハイラは目を閉じて、ピクリとも動かず身体を丸めていたが、ハイミルが恐る恐る肩に触れると勢いよく跳ね起きた。

「シュレミール!」

「うるせえな。シュレミールはいねえよ。俺だけだ。」

 ハイラは暫くあたふたと動き回っていたが、ふとハイミルと触れると、気まずそうにしながらも落ち着きを取り戻した。

「・・・なんだ、君かあ。影になった、と言うよりは、身体を失くしたんだね。もしかして怪物と闘ったの?」

「ああ。」

「意外だなあ。てっきり君は怪物に加担すると思ってた。」

「誰があんな奴らに味方するか。」

「嫌いなんだ。」

 そう言ったハイラは、悪戯な笑みを浮かべていた。

「ああ、嫌いだね。最悪だったぜ、あのクソ野郎は・・・。てかよ、それよりお前、聞いたぜ。歯向かいもせずここに籠って眠っていたんだってなあ?」

 ハイミルが意地悪く言うと、ハイラは笑顔を消し、怪訝な顔を返した。

「せっかく再会できたのに酷いことを言うんだね。だって、仕方なかったんだよ。僕は力の殆どをシュレミールに預けていたし。それに、僕まで利用されるわけにはいかなかったしさ。」

「お前を利用するだ?何故だ?」

「忘れたの?僕は影を支配できるんだよ。楽園を育てられるんだ。僕が魔女に取り込まれることはないだろうけど、怪物が色々とできるみたいだったからさ。もし僕の力まであいつらの手に渡ったら、楽園が完全に支配されてしまっていた。」

「楽園そのものが奪われてたら変わらないんじゃあねえのか。」

「変わるよ。僕なしじゃ楽園は育たないし、維持だってできない。きっと魔女は手を焼いているだろうね。・・・そういえばさ、上はどうなってるの?」

「知りたいのか。悲惨だぜ。」

「覗くね?」

 ハイラはハイミルの了解を待たず、貰の体内に手を差し込み、目を瞑った。

「本当だ、酷いや。これは・・・もうダメかもしれないね。」

「どうしようもねえのか?」

「うん。そもそもが不安定だったのに、ここまでされちゃったら核を取り戻したとしても復元は難しいよ。穴だらけじゃあ、歩き回ることも危険だもん。」

 ハイラは手を引き抜くと、悲しむでもなく、ハイミルを見つめた。

「そう言えばさ、君はどうしてこんな場所に来たの?」

「シュレミールに連れてこられた。」

 ハイラの瞳が剥かれた。球体に似て、青空に近い色の瞳。

「本当に?シュレミールはまだ生きているの?」

「詳しいことは知らねえが、らしいぜ。どの道、球体と道連れらしいけどな。」

「・・・そっか。」

「落ち込んでねえで聞けよ。俺はただ連れて来られただけじゃねえ、一つ頼まれてきたんだ。・・・あいつ健気にもよお。俺に、お前を助けてくれって頼んだんだ。ここにいたらヤバイいだろ?さっさと脱出しようぜ。」

「無理だよ。逃げきれない。」

「影の世の主なのにか?」

「僕の立場なんか関係ないよ。怪物があちこちに足を伸ばしているんだ。ここから出たって、絶対にどこかで捕まってしまう。捕まるくらいなら、楽園と道連れになった方がマシさ。」

「やってみなきゃわかんねえだろうが!俺だっているんだ。」

 ハイミルは熱く食って掛かった。彼はまだ、あわよくばグズに一矢報いたいと考えていたのだ。

「君に何ができるんだい。異質な存在だから辛うじて保たれているだけで、消えかけじゃないか。・・・影を操れるか試してみなよ。」

 ハイラの言葉を受け、ハイミルは掌に意識を集めてみた。しかし靄の手では僅かにも影を操れなかった。

「・・・惨めだ。」

「ほらね、僕らは全くの無力だ。僕にできることも、ここじゃ精々が君のその空っぽな身体を同程度のものに作り変えるくらいだし、怪物に抗う術はないよ。」

「クソが・・・。」

 ハイミルは無力な現状に悪態をつき、不貞腐れたように壁に寄りかかった。舌打ちをしようとしたが、舌がなかった。

「・・・お前、冷静だよなあ。仲間がやられた上に、念願が潰えようってのに。」

「今更だもん。君にとっては全てがまるで今日の出来事なんだろうけどさ、僕には長すぎるくらいの時間があったんだよ。無力を実感する時間がね。」

 ハイラもまた、ハイミルに並んで壁に寄りかかった。

「・・・それに、実は、こういう大きな失敗は初めてじゃなかったから。せっかくだから話してあげるよ。ここに来たばかりの時も、僕は失うことから始まった。僕は、最初はもっともーーーっと大きな鳥だったんだ。君は鳥って知っているかな?」

 ハイラは指を絡めて得意げに、羽ばたく翼のような仕草をした。

「空すら真っ暗な世界から来たんだよ。僕が暗くしちゃったんだけどね。・・・長いこと、そんあ真っ暗な場所で生きてきたから、こんなに光が強い所があるだなんて考えもしなかったんだ。僕、ここに来ていきなり強い光で全身を焼かれてさ。一目散に地面に飛び込んだんだけど、木陰に隠れた頃には石ころみたいに小さくなっていた。そこで長いこと細々と生き延びたんだ、苦い思い出だよ。運よくあの死体に出会わなかったら、きっとまだどこかの木陰に隠れていたと思う。」

「死体?」

「うん、死体。シュレミールの原形のこと。」

 ハイラが打ち明けた真実にハイミルは大変に驚いたが、靄の顔には表情がなく、ハイラに感情を悟られることはなかった。

「あの頃の僕は何だって利用しようとして、血眼になっていた。でもあの死体とだけは導かれるようにして出会ったんだ。不思議な死体だった。夜の間に木陰から死体へと渡ってさ、夢中になって調べている内に朝が来てしまって、恐ろしいことに僕は木陰から孤立してしまったんだ。・・・あの時の不安と興奮は絶対に忘れられない。だって僕はね、次の夜を待つことがなかった。死体に埋め込まれていた小さな菱形が、触れた途端に影の世を生んだ。影が生きることができる世界を創り出してくれたんだ。千載一遇のチャンスだったよ。光が支配するこの絶望の地で、有り得ない奇跡だった。」

 ハイラは高らかに言放ってから、一転して弱弱しく溜息を吐いた。

「・・・本当はね。僕はこの世界を支配してやろうと企んでいたんだ。どこまでも影の世を広げて、地上の全部を飲み込んで、影の生き物で一杯にしてしまおうとしていた。でも、核になったシュレミールがそれを望まなかった。楽園を創るって言って聞かなかったんだ。強引に懐柔しようとしたら食べられて、力まで持っていかれて、一時期はここに飼われてしまったよ。まさに、この牢屋にね。せっかく育てた新しい身体をバラバラにされてさあ、すっごく辛かった。・・・実はこの身体はね、ここから出るために作り変えたものだったんだ。観察しにくるシュレミールの目を盗んで、内側から地道に似せていって、最後には自慢の嘴と翼を棄ててさ。仲間だから助けてくれって、懇願したんだ。シュレミールは快く頷いてくれたよ。今にしてみれば、出してもらえたのは身体を作り変えたからじゃなくて、僕の内面が丸くなっていたからだったと思うけどね。僕は本当に、すっかり変わってしまった。」

 ハイラは翼を模していた指を解き、立てた膝を抱え込んだ。

「僕は結局、僕の影の世を諦めたんだけどさ。・・・けれど、シュレミールと過ごした時間は悪くなかったよ。結構、楽しかったんだ。僕や影を拒絶しない、初めての存在だったからかもしれないけど、でも、望んで一緒に生きてくれる仲間だったんだ。失いたくないって、思うようになってた。」

 ハイラの頭が、ハイミルの肩に預けられた。

「だからさ。絵空事かもだけど、君もさ。もしかしたら、もしかしたらだよ。あの怪物さえいなかったら、楽園を目指す仲間になれたかもしれなかったよね。違う世界で生まれた影同士で、どんな関係になったかなあ。仲良くなれたかな?・・・あれ、でも怪物を連れ込んだのは君だったっけ。じゃあ、無理な事だったかな。」

 ハイラの口調は柔らかかった。ハイミルはそれを意外に思った。彼はまさに怪物、グズに関していくつかの負い目を感じていたのだった。

「俺を恨んじゃいないのか?」

「うーん、どうだろ。・・・まあ、ムカムカしてるから、そうしてほしいなら、そうしてもいいけど。でも、理由がないと難しいね?」

 ハイラは俯き、考え込んだ。ハイミルもまた物思いに耽り、ふとした思いつきがそのままに口を動かした。

「シュレミールが恋しいか?」

「そりゃあね。」

「なら、俺を使えよ。」

 ハイラはハイミルの肩で頭を跳ねさせ、目を点にした。

「さっき俺を作り変えられるって言っただろ。俺を使って、シュレミールの身体を作れよ、できるならだけどな。俺はもう残骸だけどよ、一応は権威って身分らしい。だから何だって気もするが、拘らなきゃあ、何とかなるんじゃねえのか。」

「それは・・・できるだろうけど、そんな今更。」

「今更なんて事はねえ。大事なんだろ、今しかねえ。お前なんか、死んじまってからじゃあ、取り返しがつかねえだろうが。」

「でも、どうして?」

「そんなもん、俺がいいって言ってんだ。他に理由がいるのか?他にできることがあるのか?俺には何もないぜ。もう用済みなんだって、そう、俺を呼んだ奴に直接告げられたんだ。だから、何にもないんだ。・・・なあ、こんな様でよお。ただ切望するだけの身分ってのは苦しいんだぜ。俺はもう、夢に浸りたいんだ。全部、全部。忘れて影に還りたいんだ。」

「君は・・・。」

 ハイラは悩み留まっていた。ハイミルは堪らず、ハイラの手を強引に引き寄せようとしたが、できなかった。触れることも難しい程にハイミルの存在は薄らいでいた。

「わかったよ。使わせてもらうよ。けど、ひとつだけ覚えていて。」

「・・・なんだよ。」

「もしかしたら君は、君自身が生まれたことを無価値だと思っているのかも知れないし、それか、後悔しているのかも知れない。他にも、例えば僕らに対して罪悪感とかを持っていたりするのかも・・・怪物のこととか、それかシツレイのこととかさ。だから当然のように、そうやって惜しげもなく身体を差し出せるのかもしれない。でも、でもね。シュレミールはずっと君の帰りを待っていたんだよ。僕も・・・決して君を好きにはなれていないけどさ、同士だと思ってる。君は僕らと同じ、影の仲間だ。」

「そうか、そうかい。わかったよ、他にはあんのか?」

「ううん。もう、全部。・・・君は?僕に言っておきたいこととか、聞いておきたいことって、ないの?」

「ああ、そうだなあ・・・。」

 ハイミルは低い天井を見上げた。

「・・・俺はどうなるんだ?」

「君はシュレミールに変わると同時に、依り代だった影と断ち切られることになる。死ぬんだよ。死んで、ちゃんと元いた影に還れるんだ。」

「それってのは一体、どんなだろうな?」

「それは分からない。僕、死んだことないから。」

「ハハッ、それもそうか。」

「ごめんね。」

「いいさ、俺の最後なんだ、自分で確かめりゃいいことだ。」

「・・・。」

「やっちまってくれ。」

「・・・・・わかった。」

 触れられる感触がないままに、意識がどろどろと溶けだした。ただでさえ暗かった世界の端々に冷たい暗がりが差した。指や手足に始まった実感の喪失が全身に及んだ。それなのに、心は寒かった。いつまでも、いつまでも、寒いままだった。これが寂しいという感情なのだろうなと思った。無意識に形のない口が動いた。吐き出されたものが息なのか、泡なのか、言葉なのか、判別が付かなかった。それでも、締め付けられるように痛む胸が救われる気がして、何度も何度も、繰り返し口を動かし続けた。

 寒さが去った。自由を感じて起き上がると、暗く狭い場所にいた。

「おかえり、ハイミル。」

 消えゆく意識の淵。最後に見たのは、無垢に笑う真っ白な少女だった。


 崩れた靄は小さな球体に纏まった後、しばらくして再び形を変え始めた。球体は時間をかけて身体を真っ白な少女に変化した。頭が出来上がるや、悲しげな翡翠が瞬いた。

「シュレミール!」

 ハイラはシュレミールを抱きしめた。

「ここで隠れて凌ごう。古い記憶だけど、確か、近くに影が乱立している場所があったんだ。あいつらが去ったら、楽園が崩壊しきってしまう前にそこに逃げ込むんだ。二度と奇跡は起きないかもしれないけれど、それでもシュレミールがいるなら、僕は、多くは望まないよ。」

「・・・だめだよ。それじゃあ、だめ。」

 シュレミールはそう囁いてハイラの胸を押し、抱擁から逃れた。そしてハイラの手を強く握ると、力いっぱいに迷いなく駆け出した。

「ちょっと!シュレミール。どこに行くんだよ!怪物に見つかっちゃうよ。」

「いまなら、だいじょうぶ。ハイミルががんばってくれたから。・・・いこう!まじょから、らくえんをとりかえそう。」


7’

 ひとえにそう呼んでしまえば簡単な事なのだ。

 妖艶な容姿が目に障ると、摩訶不思議な行いが天地を害したと、艶やかな声が隣人をたぶらかしたと。

 誰かがその真価を計れたならば、差別など存在しなかっただろうに。だが、人知の外に立つからこそに、異端なのだ。真理を追求して止まぬからこそに、魔女たり得るのだ。


 風を感じて、空を撫でた。指の跡に、微睡む頭がある人物を思い浮かべた。

「・・・あなたも行ってしまうのね、イーヴァ。」

 何かを掬い取ろうとするように、掌が空を撫でた。風も、影も、手の内には収まらなかった。得られたものは、到達しえない、遥か昔の文明の名残ばかり。

 全てが脆く、淡い夢のよう。

 広間の玉座に二つの小さな足音が近づいた。その正体は、おどおどとするハイラと、両手に握った身の丈ほどの影の大剣を引き摺るシュレミール。この大剣は、ハイラが道中で拾い集めた影の全てで作り出した武器だった。

「やめようよ、シュレミール。魔女は何を企んでいるか分からないし、僕らを捕まえられるんだよ。それに怪物が側で隠れているかも・・・。」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」

「本当に?本当に行くの?」

 ハイラはシュレミールに従いながらも、見かけた隠れられそうな影の隆起を数え、記憶に刻んでいた。一方、シュレミールは堂々と胸を張り、足元の液体をわざわざ派手に踏みつけた。

「こわいのはかいぶつ。まじょは、こわくない。」

 玉座の上に横たわる魔女が二人に気づいた。顔は天井を向いたまま、青色の瞳だけが二人に向かって目尻へと降りた。シュレミールはハイラを置いて、魔女のすぐ隣まで近づいた。魔女はただ静かな呼吸を繰り返し。シュレミールの行動を待っていた。

「おねがい。らくえんをかえして。」

「お願いって、そんな物騒な物を見せ付けてすることかしら。私が知る限りでは、例えば捧げものをするものよ。遠回しな言い方をしないで、したいことをしなさいよ。私をバラバラにしたいんじゃないの?暗い場所に縛り付けて苛めたいんじゃないの?」

「ちがうよ。まじょさん、てきい、ないもん。」

「だとしても関係ないじゃない。私はあんたらから大事なものを奪って、壊した。」

 そう言って、魔女は背伸びをして上半身を起こした。無防備な脇腹や腋を前にしても、シュレミールは動かなかった。

「これだけ近づいて、不意打ちもしかけて来ないなんて。本当に口先だけで事が片付くと?・・・救いようのない馬鹿ね。そんなんじゃあ、外では生きていけないわ。」

 魔女は右手でどこからか菱形を摘まみ上げ、蔑むような目付きでそれを眺めた。それはシュレミールから奪い取った、球体の核だった。

「あら、ごめんなさい。一度は死んだんだったわね。あなた、生きていた時は一体どんな使者だったんでしょうね。こんなに遠くまで来ていたんだから、もしかしたら私みたいに特別だったりしたのかも。」

「わからないことばっかりいわないで。」

「ええ、そうね。悪かったわ、核の話よね。フフッ、ダメ。タダじゃ返せない。交換ならいいけれど、出せるかな?これと相応しいもの。勿論、私にとっての価値よ。」

「ない。」

「そうなの?・・・残念ね。」 

 魔女は右手を身体の陰に潜ませ、そのまま菱形を隠してしまうと、二人に背を向け、玉座の奥へと立ち去ろうとした。シュレミールが両手の大剣を打ち鳴らし、大きな音を響かせたが、魔女は足を止めなかった。

「まってよ。」

「結局やるの?いいけど覚悟してね。私、王様よりも手堅いわ。」

「あそびだよ。」

「私は遊びで済ませる気はないけれど、いいのかしら?」

 そう言って、魔女が振り向いた時には既に、シュレミールが大剣を引き摺りながら突進してきていた。

「・・・仕方ない子。」

 魔女の腰の位置から火花が散った。目が眩むような火光の後、魔女の手から四つの短剣が頭を下ろした。右手の二本は絶えず赤い液体を垂れ流し、左手の二本は鈍い銀色を発していた。

「・・・あなたたちがどれだけ恵まれていたか教えてあげる。」

 四つの短剣が魔女の胸の前で擦り合わされた。短剣から赤い液体が飛散し、生じた火花が炎となり、液体がその炎を帯びた。小さな炎の群れが、シュレミールに襲い掛かった。

 シュレミールは大剣を盾代わりにして炎を防いだ。しかし大剣に付着した液体は炎を絶やさず、大剣そのものを侵食しようとした。シュレミールは大剣を部分的に削ぎ落すことで炎を切り離したものの、液体が炎を保ち続けた為に、辺りに点々と炎が灯ってしまった。

「鋭いわね。じわじわ苦しめてあげたかったのだけど・・・。」

 魔女は呟き、炎から距離を取って慎重に詰めてくる少女に一本の短剣を投じた。シュレミールは低く水平に飛来するそれを、高く飛ぶことで回避した。

「・・・フフッ、良かった。楽しめそう。」

 投じられた短剣からは大量の赤い液体が滴っていた。魔女が再び短剣を擦り合わせると液体が着火し、短剣の軌道に沿って炎の直線が走った。続いて銀の短剣が炎の直線の端を下から上へと薙ぐと、炎の直線は連なる柱となって宙のシュレミールに迫った。

 シュレミール!

 物陰から様子を見届けていたハイラが胸の中で叫んだ。その顔は絶望で染まっていた。

 シュレミールは両手の大剣を一つに絡め合わせて長物に変え、それで左方向の水面を突いた。そして長物を支えとして宙で身を翻し、危うく炎の柱を回避した。水面に着地すると、高さを保ち続ける直線の炎の壁の向こう側から拍手が鳴り、拍手が鳴りやむや、炎の壁から音もなく、燃える三本の短剣が連続して投じられた。一本目はシュレミールの右手首に突き刺さった。シュレミールは右前腕を自切し、左手で最低限の影を用いた盾を構え、続く二本を受け止めた。盾はすぐに遠くへと放り捨てられた。盾が燃え尽きても尚、やはり炎はその場に残った。

 防戦一方のまま、シュレミールの左手に残ったのは、彼女の掌にも満たない小さな影のナイフだけとなった。

「詰み・・・ってところかしらね。」

 炎の壁を挟み、魔女がシュレミールに話しかけた。シュレミールは答えず、短剣を自身の右肩に突き刺した。無事だった上腕までもが失われ、代わりに短剣の刃がより太く、長く補強された。

「もう諦めたらどう?その身体も武器も無限じゃあないんでしょ?」

「まだあるよ。」

「あら、そう。奇遇ね。私の短剣も底無しなのよ。」

 突如として炎を裂いて現れた短剣がシュレミールの短剣を掠め、炎をうつした。シュレミールはしばらく茫然と燃える影の短剣を見つめた後、ほど近い場所にそれを転がした。

「あーあ、最後の武器も無くなっちゃった。諦めないなら、早く次の武器を用意しなくちゃね?」

「・・・。」

 シュレミールは左肩に噛みつき、左腕を代償に剣を生み出した。柄を口内と同化して安定させ、凛然と炎の壁に向かって構えた。

「馬鹿みたい。」

 魔女が漏らしたその呟きは嘲りとは遠く、静かで、冷めていた。

「・・・あまりに可哀そうだから、ちょっと遊んであげるわ。そうやって手札を誤魔化すうちに身体を使い果たしてしまうのが先か、身体のどこかに火が点いちゃって燃え尽きてしまうのが先か、賭けてみましょうよ。もしあなたが勝ったなら、後ろで隠れているお兄さんのことは考えてあげる。」

 魔女からの提案に、シュレミールは迷わず口の剣を吐き捨てた。

「わかった。それじゃあ、わたしがさき。」

 シュレミールは膝を降り、両膝を水面に浸した。

「どうぞ、まじょさん。」

「あなた、賭けを知らないでしょ?」

「しってるよ。おにいちゃんとしたことあるから。」

「私を疑わないの?」

「うん、しんじるよ。」

「そう。いいお兄さんを持ったのね。」

 炎の向こうから短剣が放られた。それは弧を描いてシュレミールの目の前で自ら垂れ流す燃える粘液の上に突き立ち、少しずつ火の範囲を広げ始めた。

「それじゃあ、その短剣を使って自分で死んでみせて?」

「・・・うん。」

 シュレミールは短剣の位置を確かめると瞼を下ろし、短剣へと倒れた。後方のハイラは短剣が見えず、一体なにが行われようとしているのか理解できなかった。炎の壁を越えて、魔女が二人の動向を窺っていた。

 真っ白な少女が赤色の炎にくべられようとした直前、炎が色を変えた。青色の炎は短剣を焼き尽くし、最後には液体をも連れて消えてしまった。少女の身体は水面に叩きつけられ、周囲に水しぶきを上げた。程なくして起き上がったシュレミールは疑念に満ちた眼差しを魔女に向けた。炎の壁は既に消えており、魔女とシュレミールの視線が重なった。

「命が惜しくはないの?」

 吐息まじりに、魔女が問いかけた。

「おにいちゃんがたすかるなら、ひつようない。」

「どうしてそこまで私を信じるの?」

「だってまじょさん、てきい、ないから。」

「・・・。」

 魔女は片眉を顰め、不満げに浅く首を倒した。その様子を遠くから眺めていたハイラは怖気づいて全身を震わせたが、魔女は特別に何をするでもなく、指に摘まんで吊った二本の短剣をぶらぶらと揺らしていた。

 シュレミールが影の剣を踏んだ。剣が溶け、足、腰、脇腹を伝って登り、左腕を再生させた。その左腕が挙げられ、天井を指さした。

「わたし、さっきまであそこにいたんだよ。あそこからずっと、まじょさんのこと、みてたんだよ。」

「見ただけで私の考えていることが分かると?」

「わかるよ。わたし、みえるから。」

「どれだけ見えるのかしら?」

「かげがふれてたら、たくさん。」

「・・・そう。便利な力ね、羨ましいわ。」

 口では称賛する魔女だったが、目は虚空を見つめ、抱えた繁雑な思惑の為に唇を浅く噛みながら、長い爪の先をカチカチと打ち鳴らしていた。魔女は時折に何か言いたげに薄く口を開閉したが、その度に躊躇い、表情をより複雑にした。話し始めたのは、大きなため息を吐いてからのことだった。

「・・・正直ね、あなたをどうしようか迷っていたのよ。経験から言えば殺すべきだったわ。間違いなく、それが無難だから。でも異質よね。出自も考え方も、その能力も。面倒なことに、価値がある。・・・だから少し考えたの。例えばだけど、あなたたちは私たちが助け合えると思う?ここでの一時の軋轢を忘れて、お互いの立場や能力、特質を活かして、何かを成し遂げることができると。そんな未来を考えられる?」

「できるよ。わたし、しんじているから。」

「・・・・・そっちは?」

「・・・。」

「さっさと出てきなさいよ。」

 魔女が銀色の短剣を投擲した。短剣は楕円を描いてシュレミールの頭上を越え、区別のない影の隆起物に突き刺さった。その裏に隠れていたハイラはゆっくり時間をかけて観念し、魔女の前に姿を現した。

「協力は、できるよ。・・・君が今後、僕らに危害を加えないと約束してくれるならだけど。でも理解できない。僕らにできることは多くないし、楽園を失った今では無いに等しい。それは君も分かっているはずだけど・・・。」

 ハイラは魔女を注視しつつ、じりじりとシュレミールに近づき、小さな背に縋りついた。

「いいえ、あるわよ。何より大事なものがひとつね。」

 魔女は残った短剣を手の裏に潜めた。そして二秒の後、二人に手の表裏を確かめさせるように何度も翻した。短剣はまるで魔法のように、魔女の手中から消えてしまっていた。

「正直に答えてちょうだいね。銀の瞳のことを覚えているかしら?あなたたち、あれを、私との取引をハイミルとか言う部外者に預けたでしょ。」

「教えてたっけ?」

「いいえ。私もその子のことを覗いたから知ってるだけ。」

 魔女はシュレミールを一瞥した。

「・・・で、あの後はどうなったの?」

「会いはしたけど、聞かなかったよ。取引なんて無くなったものと思っていたし、ハイミルは怪物に敗れて身体を失っていたから。」

「でも帰って来たってことは、瞳を持って来てたかもしれないってことよね?」

「それは・・・そうかもしれないけど、身体は怪物のところだよ。」

「取り返してきなさいよ。」

「無理だよ。今の僕らじゃあ、手も足も出ない。自分で頼めばいだろ。」

「嫌。私、王様のこと嫌いだもの、あり得ない。」

 魔女の手からぽいと菱形が放られ、シュレミールがすかさず受け取った。

「返してくれるの?」

「違うわ、まだ私の物だから、貸してあげるだけ。銀の瞳を持ってきてくれたら返してあげる。それと、ここからの脱出も手伝ってあげる。」

「・・・わかったよ。でも、もし身体に瞳がなかったら?」

「その時はあなたたち次第ね。まずは行きなさいよ。瞳を手に入れることができれば、あなたたちは自由になれる。重要なことって、それだけでしょ?」

 魔女は玉座に戻り寝転がった。それ以降、ハイラが何を話し掛けても不機嫌そうに寝返りを打つだけで、一言も答えてはくれなかった。

 広間を出たハイラは右隣を歩くシュレミールの左手を握った。

「ねえ、シュレミール。」

「なに?」

「魔女との取引だけどさ。僕がやるよ。」

「・・・。」

「影の世を使い切るつもりで闘えば、僕でもいい勝負ができると思うんだ。どこかで隙をついて深い場所に連れ込むことができたら、十分に勝ち目があるはず。逆に時間を稼がれて楽園の天井が開けてしまったり、僕本体があの太陽の直撃を受けてしまったらお終いだけれど・・・そうなっちゃいそうだったら、できる限り時間を稼ぐことにするよ。だからシュレミールには隠れて、逃げる準備をしていてほしいんだ。」

「やだ。しんじゃうよ。」

「やだじゃない。逃げなきゃ、僕らは道連れなんだ。」

「おにいちゃん、たたかわなくていいんだよ。」

「そんな訳ない、誰かは戦わなくちゃいけない。魔女との話は、そういう取引だったろ。」

「じゃあ、ハイミル、よぼう?」

「・・・シュレミール。」

 ハイラはシュレミールの手を引っ張った。互いに向かい合うと、シュレミールの左手に、新たにハイラの左手が添えられた。

「ねえ、シュレミール。ハイミルは君の為に死んだんだよ。」

「まだいるよ。」

「いないよ。ハイミルはもう影に還ったんだ。」

「いるよ。」

「いるはずない。残っていたって、これ以上、ここに留めてちゃいけない。」

「いるんだよ、おにいちゃん。だってわたし、ハイミルのこと、たべたんだよ。」

「・・・え?」

 シュレミールは、力が抜け、落ちてしまおうとしたハイラの手を捕まえ、自らのお腹に当てた。

「わかる?・・・いるでしょ?だいじょうぶだよ、おにいちゃん。わたしたち、ずっとおともだちだもん。だれも、さびしくならないね。」

「・・・シュレミール。」

 シュレミールの捕食が与える結末は主に二通りである。対象が形あるものであった場合、多くは自立不能な状態に変えられ、楽園の底に保存される。一方で形のない、例えば影のような存在であった場合、対象はシュレミールの体内に楽園の材料として保管される。だが、曖昧な存在の保管は永続ではない。異質な影は時とともに排斥され、移り変わる。ハイラが手を加えずとも、シュレミールが腹の内にハイミルを保ち続けたなら、ハイミルはやがて別の存在に変わってしまう。

 何をしたか分かっているの?

 ハイラはそう、問い質すつもりだった。加えて、ハイミルを元に戻すべきと訴えるつもりだった。・・・できなかったのは、そうしたところで、意味がないと分かっていたから。シュレミールの瞳が、後悔の色を微塵にも映していなかったから。

 無限の無垢と、無垢故の、底無しの渇望の色。


7’’

 膝に顔を埋める真っ白な少女がいた。朧気な暗闇の中、一見して、確かな存在はそれだけだった。少女は見えない小さな何かに引っ張られているようだったが、微動だにしなかった。何かは必死だったが、非力だったのだ。

「彼らは無垢故に知らないのだ。文明の根源を、生きるものが、時にその命を擲ってでも抱き続けようとするものの何たるかを。彼らは屈託なくそれらを取り除こうとしている。破滅が来るぞ。忌まわしき呪いが、あらゆる生命の根源を貪るのだ。」

 そんな言葉とともに、傍らに白渦顔の怪物が現れた。ハイミルはこの怪物を妙に親しく思った。不意に怪物の膝頭がハイミルの頭を小突き、軽く頭が揺れた拍子に怪物は消えてしまった。

「心配は要らないさ。あれは、あの少年には重そうだ。とても運べまい。ほら、足踏みしているうちに支配者様の登場だ。いや待て、あれは悪魔だろうか。まあ、どちらにせよこれで世界は安泰だろう。ああ、良かった。助かったんだ。」

 怪物とは反対の傍らで、顔の無い老人が言った。老人は辺りの暗闇と決して交わらぬ闇を全身に纏っていた。老人が指し示した先、少女の背後に、八つの腕を左右に広げた怪物が立っていた。怪物は九本目の腕で巨大な鎌を構え、今まさに、その切先を少女へと振り下ろそうとしていた。

「君はどうしたい?」

「・・・。」

「一度は考えたことがあるだろう。それともまさか、あれが彼らだけのものと?」

 悲痛な叫びが響いた。鎌に腹を貫かれた少女が高く掲げられていた。不思議なことに、ハイミルはあの怪物が心底から憎らしくて仕方がなかった。少女のものか、あの何かのものか、悲鳴は長いこと耳に残響した。老人は我関せずと、落ち着いた様子でハイミルに話しかけ続けた。

「私は世界を誰よりもよく理解している。この世界、或いは運命にとって、私たちの存在は本当にちっぽけなものなんだよ。空しく聞こえるかもしれないが、それは彼らにだって同じことだ。どれだけの力を持っていようと、等しく運命に導かれてやって来たのだからね。踏み込んでしまった以上、進む他にはないんだ。誰もが遅かれ早かれ滅びる定めなのさ。だから君の選択だって些細な問題だ。どう転じようともね。」

「・・・どうせ俺は利用されるだけだ。」

「それでもいいさ。選んだ末に利用されてしまったのならば、次の選択の機会を待つだけのことだろう。」

「偉そうに。ならよ、お前が選んで見せろよ。」

「それはできない。何せ、あれは私の手には落ちないものだから。分からないかい?君だからこそ選べるんだよ。」

 老人はハイミルの握られた拳を指で突いた。自然と開かれた拳の中には、四つの菱形が並んでいた。老人は菱形に目を奪われるハイミルの顔を下から覗き込み、浅く頷いて立ち上がった。

「いいかい、何事も長くなってはいけない。選択は兎に角、素早くだ。失ってからでは遅いのだからね。しかし焦ってもいけない。志が確かなものでなければ躓くばかりだ。次があるとも限らない。君はそれを痛いほどに知っているはずだ。」

「知らねえよ。知っていたとしても、もうどうしようもねえ。」

「いいや、知っているさ。君が知らなかったのは方法だ。君は考えなければならない。限られた時間でも十分に悩むんだ、選ぶことを躊躇ってしまわないようにね。・・・さあ、そろそろ次が来る。もっと話していたいがね、選択の時はもう、そこまで来てしまっている。」

 ハイミルの背を、凍てつく老人の手が叩いた。微かな衝撃であったが、それはハイミルの身体を光よりも速く突き飛ばし、闇と無限の光彩の間に解き放った。それは夢のような光景だった。ハイミルの脳裏に老人の声が鳴った。

「選んだ結末が、君にとって幸福であるように。」

そこはまだ、あの暗く狭い牢屋だった。ハイミルは過ぎ切らない、束の間の死の名残であろう、刺すような冷たさを背に覚えていたが、一瞬の気の悪戯の隙に綺麗に忘れてしまった。探すまでもなく、傍らに膝を抱えて座るハイラを見つけた。

「起きたんだね、ハイミル。僕のこと分かる?」

 ハイラはそう口にしながら満面の柔らかい笑みを浮かべた。ハイミルもつい笑いかけたが、成り行きを思い出すや、笑みを消して酷く不機嫌になった。

「良かっただあ?話しが違うだろうが。シュレミールはどうした。俺のことは作り変えたんじゃあなかったのか。それとも、なんだ、俺はただ寝てたのか、夢だったのか。」

 ハイミルは動揺した。記憶の最後に、旅の最中に魘された、シュレミールの夢を見ていた気がしたからだ。倒れようとするハイミルの背を、ハイラの小さな手が支えた。

「落ち着いて。記憶は全て現実のはずだよ。・・・えっとね、色々とあったんだ。簡単に説明したいんだけど、まず、シュレミールは呼べたんだ。話しもしたし、それに・・・。」

 ハイラはハイミルから目を反らし、両手の指を絡めた。

「それに、その、兎に角、今は君を作り直したところでさ。状況が変わって、君の力が必要になったんだ。」

 どこかそわそわとして落ち着かないハイラを、ハイミルはどこか妙には感じていたが、動揺の余韻の為に追及どころではなかった。

「俺の力って、冗談だろ。こんな俺にかあ?」

「勿論そうだよ。影を操ってみてよ。」

「おいおい、まさか自棄になってんのか、からかいやがって。夢じゃなかったんなら試したはずだよな?」

「いいから、いいから。」

 ハイラがやけに促すので、ハイミルは渋々、影で槍を作ろうと試みた。感覚は覚めきらず、槍は生み出せなかった。しかし確かな変化があった。不定形な靄状の両手に五本の指の区別が生まれ、左手の甲に小さな菱形が浮かび上がったのだ。

「何だよ、これ。砂か?」

ハイミルは摩擦の無い菱形の表面を指で撫でた。

「それはシュレミールが持っていた影の世の核だよ。」

「あいつはどうしたんだ?」

「大丈夫、別の場所にいるだけで、生きてるよ。君のお陰でね。これを君に渡すのには訳があってさ。東の魔女の瞳のこと覚えてるかな?」

「あれがどうした。」

「持ってきてくれてた?」

「あ、ああ、あれのことなら・・・。」

 ハイミルは言葉を溜めた。瞳の在処は、どこの誰とも知れない少女の手の中である。それを正直に言った時、どうなるかと考えた。「ハイラへのシツレイ」を思い出すとともにシュレミールにバラバラにされた屈辱が蘇り、その瞬間に、答えが決まった。

「・・・持って来てはいたぜ!」

「手に入れてくれていたんだね!」

「おうよ!」

「やるじゃんか!ハイミル!」

 ハイラは無邪気に喜んでいた。言葉の綾というものを知らなかったのだ。

「それなら、してほしいことは一つだけだよ。君には、君の身体を取り戻してきてほしい。たぶん怪物との闘いは避けられないだろうけど、今度は核がある。僕の力の一部を宿してあるから、楽園を思い通りに、際限なく操れるようになっているはず。」

「本当かあ?まだ感覚が鈍いんだが。」

 ハイミルは尚も掌に集中していたが、小さな球体を生み出すのが精いっぱいだった。

「それは・・・たぶん、目覚めたばっかりで感覚が鈍っているだけだと思う。身体を取り戻したら元通りに操れるんじゃないかな。そうなるまでは僕も戦闘を手伝うし、必要な物があればあらかじめ作ってあげるよ。」

「お前、戦えるのか?」

「闘えるよ。一応は影の主だからね。でも、あんまり期待はしないでね。怪物が太陽を手にしている限り、闘いの大半は君の仕事になる。」

 ハイラの両手が、ハイミルの左手の下に添えられた。

「・・・僕らの為に、闘ってくれるよね、ハイミル。」

「・・・ああ。」

 ハイミルは必要のない息をいっぱいに吸い、菱形を睨んだ。

「頼まれなくたってやってやるさ。願ってもねえチャンスだ。」

誰の為かなど、どうでもよかった。ただ単純に、あの怪物が気に食わないだけ。


8.

 闇の中で太陽が灯り、青色が輝いた。

 グズは意識を戻さない友、コレナイを世話していた。腕の一本を五か所ほど折り曲げ、眠るコレナイの口内に肩までを飲み込ませた。コレナイは激しく咳込み、吐き気すら催したが、意識は戻らなかった。グズが腕を引き抜くと、コレナイは数度の咳の後に呼吸を落ち着かせた。

 遠くから人らしい影がその様子をじっと眺めていた。グズは見覚えのないその姿に戸惑ったが、すぐに触腕を呼んで友を預けると、人影と対面した。

「誰かな。影の仲間のようではあるが・・・見ない姿だ。もし影の存在ならば、どうだろうか、吾輩と友になる気はないかな?ここはもうじき滅びてしまう。」

 人影は答えず、くすりと揺らいだ。そして水面へ仰向けに倒れると、波一つ立てずに消えてしまった。グズは気配を逃さず、天井を仰いだ。そこには、夜空を覗かせていた天井を隠す程の巨大な影があった。影はグズへと垂直に降下して来ており、近づくほどに、その歪な輪郭を明らかにした。雄大な翼と四つの脚と、頭部を持たない長い首、そして鋭い尾には棘のような突起が並んでいた。

 巨大な影に、小さな太陽が翳された。グズの頭上では影が二本の角を持った頭部を生やし、黒煙状の息を吐き出した。厚い煙はグズを包み込み、しつこく視界を遮った。間もなく、歪な影と太陽が衝突し、せめぎ合ったが、太陽は空を覆うほどの影を抑えるにはあまりに小さすぎた。光に浮かび上がった二本角の頭は光に潰されながらも牙を剥き、その鋭利な牙はグズの四本目の腕を繋げた肩を捉えた。煙が晴れた時、太陽は消えており、太陽を掲げていた腕も根元から失われていた。

 あの人影が、再び先程の位置に浮きあがった。人影は短剣と槍を持っており、短剣でグズの四本目の腕を四つに裂いた。グズは人影の槍と短剣の形を知らなかったが、その手法には覚えがあった。

「君だったか、執念深いやつめ。・・・しかし、おかしいな。今のはただならない規模の攻撃だった。もしや球体を支配しているのかな?そうでなければ、君には望めないはずの力だ。だがどうして・・・。」

 不意に、天井から垂れた影の一滴が氷柱に変わった。影の氷柱は思考を巡らそうとするグズの肩に深く、重く突き刺さった。体勢を崩したグズを水面からの無数の槍が囲んだ。

 腕輪の一つが輝き、グズの足元から触腕が湧いた。槍が触腕に深々と突き刺さり、水中から悍ましい絶叫が響いた。触腕はしばらく不規則に暴れていたが、やがて痙攣を始めると外殻から順に粉々に崩れてしまった。腕輪の残骸は、指輪から生じた熱を受けて舞い上がった。

「ああ、解ったとも。来たまえよ。君は許しえぬ仇敵だ。」

 グズは九つ目の腕輪で肩の傷と四本目の腕を再生させると、別の腕で回収していた四つ目の腕輪をはめ、太陽を呼んだ。太陽を右に低く保ち、指輪の炎を左で手繰り剣とした。剣先を人影へと向け、更に異なる二本の腕を掲げた。すると嵐が訪れた。雷が絶え間なく人影に降り注いだが、それらは逐一に影の盾によって防がれた。

 最初に攻勢に及んだのは人影だった。嵐の中でも音もなく正確にグズに近づいた。しかし動き自体は鈍く、突き出された槍は太陽で受け止められ、喉元へ振られようとした短剣は届きすらしなかった。影の水面に弾かれた嵐の雨水が凍り付き、人影の膝下までを拘束していたのだ。隙だらけの人影を、炎の横薙ぎが両断した。靄となって散ろうとしたその断片をも、剣が必要以上に、徹底的に切り刻んだ。

「どうあれ結末は明らかだ。如何なる策を講じようとも、君はただ母体をすり減らし、朝日とともに滅びる。我が楽園に与せぬ者、害為す者は全てがそうなる。」

 グズの猛攻によって靄は塵さえ残さなかった。しかし離れた位置で再び人影が湧き起こり、同様に槍と短剣を構えた。

「カッカッカ。無駄と分かっていても立ち向かうのか。それもいい、愚か者には相応しい最期だ。無様に浪費し、無力を知り、儚い夢とともに果ててしまえ。」

 今度も、先に動いたのは人影だった。ゆっくりと歩くだけであったが、これにグズは戸惑った。人影は足音を鳴らしていた。そして影にはハッキリとした輪郭があった。それはグズには馴染みある姿であった。

「そう連れないこと言うなよ。喜ばしいことに、俺はまだ散らねえ身分らしい。・・・長い付き合いになるぜ、クソ野郎。」

 荒れ解れた髪と、皴の目立つ頬、枯れた声の主はコレナイだった。しかし彼の口が発した外見と不釣り合いな口調は紛れもないハイミルのものだった。

「姑息な・・・友の身体に触れるな。忌々しい悪魔め。」

「ハッ、笑わせる。そもそも、こいつを捧げたのはどこのどいつだったけなあ・・・なあ?それによお。お前は嫌でも、こいつは俺を拒んでねえんじゃねえか?上手くいったんだ、この上なくすんなりとな。」

「黙れ、不快極まりない虫けらめ。何度でも追い出すだけのことだ。」

 グズは頭上で、五つ目の腕輪を拳で打った。腕輪から氷晶が舞い、グズの手に氷の槍を形作った。嵐に紛れてグズが仕掛けた。凍らせた足場を滑るようにして駆け、瞬時にハイミルとの距離を詰めた。綿密に凍りついた水面は足音を殺し、嵐の轟音も相まってグズの位置の特定は困難なはずだった。しかし、ハイミルは球体と一体であった。水面からの正確な槍の奇襲がグズを迎撃し、後退させた。それとともにハイミルの左右から大きな四つの影が起き上がり、まず三つがグズに襲い掛かった。それらは少なくとも頭と胴と足を持ち、一つは翼と二本角の頭を有していた。

 先頭の四足の影に氷の槍が投じられた。槍は影の肩に半身を沈めると冷気を放ち、影に降り落ちた雨を介して隙間なく凍り付かせた。動かぬ氷塊はグズの鼻先で身動きを停止させた。間髪入れず、氷塊を砕いて二つ目の長身多脚の影が牙で満たされた細長い口を開けた。しかし太陽が翳されてしまうと、影は頭を反らした。グズは左後方へ逃れようとする影の硬い胴に炎の剣を突き立て両断しながら、一方で氷の鎚を生み出した。鎚が振り下ろされるや細かな氷粒が飛び、続いて飛来した三つ目の影の翼と胴体を射止めた。氷粒の威力は凄まじく、空飛ぶ影の巨体は天井を覆う雨雲の内まで運ばれ、そこで三度の雷に襲われ消滅した。

「あの大波は無限の世界そのものだった。五人目の高潔なる王は祈りの末に大波を、絶対零度を以て支配したのだ。故に、限りあるものなど敵ではない。」

「同じようなもんさ。この夜に俺を縛るものは存在しないんだからな。」

 グズの目の前で氷の床が破られた。激しい飛沫をあげ、鳥とも魚とも似た影が現れた。その鰭らしい部位にはハイミルが摑まっていた。ハイミルは影から手を放し、器用に氷の鎚の上に着地して、担いでいた大剣を振り下ろした。重い一撃は翳された氷の槍を容易く砕き、グズの肩に深く食い込んだ。両断に至らなかったのは、グズが咄嗟に炎の剣で大剣を受け止めたからだった。

「いいや、君は紛い物だ。真似事では、吾輩を仕留めるには足りぬよ。」

 剣が激しく炎を放つと大剣が別たれた。鳥とも魚とも似た影は次の着水を待たずに雷に打たれ、氷上で身を跳ねさせた後、消滅した。グズは後ろ手で腕輪を輝かせ、腹部にまで至っていた深手を癒した。ハイミルはその輝きの源に目を凝らし、在処を見出そうとした。

 影の世を得たハイミルの手数は圧倒的で、グズの胴体を傷つけるだけでなく、時には腕を斬り撥ねた。しかしどれもが決定打にはならなかった。撥ねることができたのは、どれも重要でない腕ばかりであり、急所へ迫る攻撃は太陽と氷の槍によって阻まれたのだ。加えてグズの豊富な腕が、欠けた役割を巧みに補っていた。傷を逐一に再生し、落ちかけた腕輪を器用に拾っては嵌め直し、力を絶え間なく行使した。

「やはり君では間に合わない。球体を支配し、吾輩の居場所が分かったとてこの通りだ。夜は永遠ではない。影の中でしか碌に抗えない君たちの終わりは決まっている。」

 グズは剣による猛攻を仕掛けようとした。最早、ハイミルに一切の抵抗を許さず、片付けてしまおうとしたのだった。それは影に対する太陽という防衛手段への過信と、朝日という絶対的な勝利条件への慢心から来た行動でもあった。

「・・・そうでもねえ。」

 緊迫した攻防を経て、グズの防衛は偏っていた。グズは継戦に欠かせない九つ目の再生の腕輪と、七つ目の嵐の腕輪を背に隠すようになり、この二つを絶え間ない影の槍の襲撃から護るために、四つ目の太陽の腕輪と五つ目の絶対零度の腕輪までもが常に後ろ手に保たれていた。残る五本の自由な腕の内、一本は炎の剣を握っている。つまり同時に三本の腕を切り落とすことができたなら、防衛の均衡が崩壊する。

 剣を突き出すグズの腕を、水面から飛び出した交差する二本の槍が貫いた。ハイミルは浮き上がった剣撃を屈んで躱しながら、短剣によってその腕を断ち切った。寸前で手放された炎の剣はすぐさま自由な他の腕によって宙で拾われたが、その短い間にハイミルの槍の一撃がグズの足を襲った。槍は先端を水面と同化され、そのままグズを拘束した。

 グズは冷静に、拾い直したばかりの剣で拘束された足を切り落とそうとした。しかし、あからさまな軌道が仇となり、足へ刃を到達させる前に肘から先が短剣の餌食となった。

 二本の腕の損失と片足の不自由が生んだ危機的状況は、グズの選択の時となった。再生を待たず、追撃の構えを取る短剣と、迫る槍の嵐。追撃を防ぐためには剣を拾い直すか、太陽を身体の前へと持ってくる必要があった。だが、後手の状況で炎の剣に手を伸ばせば間違いなく短剣の反撃を受け、三本の腕を失うことになる。一方で太陽を頼り防御を疎かにしたなら、後ろの三本の腕を護り切ることができなくなる。或いは甘んじて一撃を受け、その間に剣を拾って足を自由にしたならば、劣勢を打開する手段が見えてくるかもしれない。だが、ハイミルがそれだけの余裕を与えてくれる保証はない。

 グズはニヤリと、口を歪めた。窮地に立ちながら、選んだのは苦難の末の栄光だった。空の太陽による受動的なものではなく、自らの手による誇りある勝利だった。

 翳した太陽が短剣を消し飛ばした。その隙に手にした炎の剣を、ハイミルの胴へと振った。背後では氷の槍を掻い潜った槍が腕の一本を八つ裂きにした。だが、それは九本目ではなく、七本目だった。

 嵐が止み、訪れた静けさ。空けた穴だらけの球体の天井には、うっすらと朝日の気配が灯っていた。降りる薄日と、落ちる影。静寂を破り、水面が砕けた。グズの背後、太陽の裏側。突如として浮上した巨大な嘴が大口を開けた。

 グズは何かが来ているとは察していた。防御にのみ用いていた絶対零度の全力をその何かに向けて解放したが、凍り付かせるには足らなかった。嘴はグズの剣を振る腕と太陽を持つ腕を噛み千切ぎって丸呑みし、水底へと帰って行った。

「・・・・・。」

 グズは液体で満たされた球体に浮いていた。その球体は窮屈ではないが自由がなく、底には千切れた手足と四つの腕輪が溜まっていた。二と四と、七の腕輪。もう一つは半壊しており、判別が付かなかった。

 グズはまだ身体に繋がる腕をできる限りに伸ばして腕輪を拾おうとしたが、できなかった。どの腕も手首から先が失われていた。

「君は僕らに敗けたんだよ。」

そう言って、グズに近づく小さな影があった。グズはその姿をまともに視認できなかったが、きっとあの少年だろうと勘付いた。

「カッカッカ。僕ら、とな。吾輩を破ったのは権威だろう。恥を知れ、臆病者め。」

「・・・。」

「返す言葉もないのか。君は卑劣な嘘つきだ。」

「嘘じゃないよ、最後に君を食べたのは僕だもん。」

「それにしては浮かないようだな。」

「別に、気にしてなんかない。臆病者とか、ヒレツとか。僕は勝ったんだ・・・。」

 ハイラは口だけは笑っていたが、声は暗かった。内心では酷く苦悩し、落ち込んでいたのだ。グズは聡く、ハイラの感情を読み取り、白渦を委縮させた。

「うむ、そうか、察するとも。吾輩は君が理解できる。それはきっと、断じて何者にも明かせない秘密なのだろう。無理に抑えつけるのは苦しいはずだ。」

「・・・優しくしても君のことは助けないよ?」

「ああ、それは当然のことだ。吾輩だって、望んではいない。だが、聞くのだ。君は吾輩を退けた勝者なのだ。苦難を越えた、未来を享受する者だ。そんな君が過去に囚われるべきではない。幸いにも、ここに死にゆく耳がある。さあ、言ってみたまえ。預けたまえよ。」

「でも。」

「悩みは無駄だ。そら、権威に何をしたのだ。」

 目を泳がせていたハイラだったが、グズが核心に迫ると目付きを変え、意を決した。

グズはすっかり全身の力を抜き、空間に腰から背の中ほどまでを預けて座ったよう姿勢で、ハイラが話し始めるのを待っていた。

「・・・ハイミルを、権威を取り込んでしまったんだ。この世界にとって大事なものだって分かっていたのに、引きはがして、勝手に僕らのものに作り変えてしまった。よくないことをしてしまったんだ。でも、よくよく考えてみたら、それが僕とシュレミールの安全を思えば最善の策だった気もするし、そうしなかったら君には勝てていなかったと思う。シュレミールはきっとそれを分かってて・・・。でも、間違ったことをしたんじゃないかって、怖いんだ。ハイミルに、なんて説明したらいいかもわからない。」

 震えるハイラの声に、グズは何度も何度も頷いた。

「解るとも。吾輩も君と同じ鐘に導かれた一つだ。我らは皆が同じなのだ。君も、故郷に覆せぬ失敗を捨ててきたのだろう。それを今宵、繰り返してしまった。だからそうして、拭えぬほどに恐れている。」

「・・・。」

「案ずるな。見届けるのだよ。ここは特異だ。吾輩や君の故郷とは違う。ここには多くの力ある権威がいる。そして他にも、我らがいる。故にひとつやふたつ失われたとて、そう支障はあるまい。それで滅びたのなら、その程度。足りぬ器だったということだ。吾輩や君が悔いる必要はないのだよ。」

「君は・・・。」

 ハイラはグズに歩み寄り、グズを封じ込める影の繭の表面をそっと撫でた。

「いや、何でもないや。ごめんね。時間がなくてさ。光が来てしまう。」

 ハイラの小さな掌に、繭の内側からグズの手首の断面が重ねられた。

「構わないとも。君は優しい。敵である吾輩にすら情を抱いてしまうほどに。だがこれは宿命だ。宿命は果たさねば延々と繰り返されるもの。それは悲しく、愚かで、無駄なことだ。だから、さあ、終わらせたまえよ。」

「・・・うん。」

 ハイラの指が繭の表面を引っ掻いた。するとグズと腕輪を包んだ液体が捻じれ、含んだものの全てを跡形もなく磨り潰した。

 佇み、繭を見つめるハイラのもとにシュレミールが駆け寄ってきた。

「おにいちゃん、はやく。ハイミルをみつけてまじょさんのところへいこう。いそがないと、ひかりがきちゃうよ。」

「うん・・・そうだね。行こうか。」


9.

 朝とともに球体は崩壊の足を早めた。ハイミルは溶け落ちる天井に向けて、菱形が埋め込まれた左手を翳したり、強く念じてみたりと試したが、崩落は止まらなかった。

「そりゃあ、そうか。一部は一部だよな。ガキのくせに上手いことやりやがって。俺ならどうにかできるんじゃねえかって期待したんだが、試す資格もねえとはな。畜生め。」

 ハイミルは唾を吐き捨て、それから左手の甲を見つめた。

「あいつ、銀の瞳がどうのとか言ってたよなあ。・・・あげちまったよ。どうすりゃいいんだ。東へ行って、瞳を見つけ出して帰って来るだけの時間が俺に残されてるとは思えねえしなあ。」

 ハイミルは勝利の余韻に浸る間もなく、ハイラたちの目的を勘ぐり憂鬱になった。気晴らしに掌で指輪を転がした。それはハイラに取り上げられ、グズの手に渡っていた、権威を殺める能力を宿したあの指輪であった。

「あいつら、たぶん今ごろ底の方にいるだろ。今しかねえよな、やっちまうか?・・・なあ、お前、喋れたりしねえのか。てかよ、わざわざここまで迎えに来たってことは、つまりはそういうことだろ。そいうことだよな、なあ?」

 背を撫でられ、影の馬が嘶いた。影の馬、シャイラはグズが倒れた後になって球体に侵入し、ハイミルのもとへやって来たのだった。ハイミルが跨ってみると、シャイラは一際高く嘶いた。

「おいおい、いい声で鳴くじゃねえか。やっぱそうだよな。答えは一つしかねえよなあ!よおし、逃げてやるぜ!俺は影の世の天敵をぶっ倒した英雄だ。それでなんだってチャラになんだろ!・・・どうせ俺たちは捕まらねえ。俺とお前なら、どこへだって行けるからなあ!」

 胴を蹴られた馬は待っていたとばかりに前足を上げ、溜め込んだ勢いと膂力をいかんなく奮った。どれだけ速度が上がろうとも、気にもとめなかった。どこまでも自由に気のままに駆け彼らを、荒野の荒々しい風が迎えた。


とある明け方、荒野にて。

 五晩の放浪の末、旅の終わりの気配を感じ取ったハイミルはシャイラとともに荒野に戻って来ていた。きっと二度と抜け出すことができないであろう死を前にして、彼は愛馬とともに緩やかな時を過ごしていた。

「色んなやつに利用されるわ、約束も守れねえわ。滅茶苦茶だったけどよお、なんだかんだで俺たちよく生きたよなあ。マジでよくやったぜ。・・・ただ、こいつには悪いな。こんなところで目を覚まして生き残れるとは思えねえ。せめて東の人気のある場所でくたばるんだったな。いや、そうとも限らねえか、お前がいるもんな。なあ、お前は消えねえよな?」

 ハイミルに頭を撫でられたシャイラは痩せた喉で細く鳴いた。シャイラが被る布は壊滅的な状態であり、所々の穴から差す光によって胴や脚が蝕まれ、走ることもままならなくなっていた。実のところ、荒野の真ん中の球体跡地から動けずにいる理由は、これに在った。

 ハイミルは荒野を見渡した。そして大声で言った。

「信じられねえよな。ここに星みてえな訳わかんねえ世界が在ったってのに、今じゃ欠片も残っちゃいないんだ。爽快なのか、空しいのか・・・なんつーか、複雑だ!でもよ、きっと何かの下に埋まっていたんじゃあ、どれも知れなかったことだろ。愛しいよな。この荒野も、風も、闘いも、ガキどもも、勿論お前も。忘れられねえ思い出だ。」

 ハイミルは無意識に、掌で顔を覆った。

「ヘヘッ・・・ああ、何だってんだ。全部どうだってよかったのによお。おかしいなあ。嫌だなあ、・・・嫌だ。」

 そう言い残し、ハイミルの首が力なく垂れた。帽子と首巻と、手袋と靴が中身を失い、ただの布切れに戻った。馬が弱弱しくハイミルに頭を寄せ、か細く嘶き、顔を舐めた。枯れた老人が目を覚ますと同時に、影の馬もまた中身を失くした。被っていた布は風に舞い、遥か彼方へと飛んで行った。

「・・・私はどうしていたかな。」

 コレナイが覚えていることは多くあった。しかしよりもよって最後の記憶が曖昧で、置かれた状況を飲み込めずにいた。

「そういえばグズはどこだ。荒野にいると言うことは、旅をしていたに違いないのだろうが。・・・それともまさか、また放浪癖か?昨晩は酒を飲んだのだったか。酒はどこにしまっていたか。待て、酒とは、何だったか・・・。」

 コレナイはもう一つ、異なる名前を呼ぼうとしたが、それがなかなか出てこなかった。酷く断片的な記憶だった。結局、それは奇妙な現実味のある夢であったと、あっさりと結論付けた。しかし、それでも中々に混迷から晴れないコレナイの目に光るものが止まった。近寄ってみれば、それは腕輪だった。何個目の腕輪かは判明しないが、見るからに特徴的なそれは、グズの所有物に違いなかった。

「さては悪戯か。あいつめ。隠れられる場所は少ないぞ。」

 コレナイは散らばった腕輪を探し回った。それらが光を反射したために、事は順調だった。二つ、三つと集め、そして妙に錆び付いた四つ目を手に取った時、手の中で腕輪が青く輝き、コレナイは腹痛と冷や汗と眩暈に襲われ倒れた。暫くしてコレナイの腹が膨らみ、裂けて破れ、九本の腕が産まれ出た。


ある焼けた荒野に、酷く渇いた老人と真っ黒で奇妙な怪物がいた。空高く昇った陽は一人と一つをどこまでも照り付け、乾ききり漠然とした大地は彼らが隠れることを許さなかった。

 老人が目を覚ました時、怪物はまだ言葉に迷っていた。それでも、どうやら心には決めていたようで、頭を掻く老人の左手の甲を鬱陶しそうに見下ろして、告げた。

「おはよう、コレナイ。我らの旅は終わったよ。君の貢献によって見事、球体は滅んだのだ。危機は去った。これで君の友も、彼の国も安泰だ。」

 渇いた老人、コレナイは起き上がり、辺りを見回した。怪物が言う通り、確かに、あの真っ黒な球体は地平のどこにも見当たらなかった。

「そうか。それは良かった。私は何も覚えていないのだが・・・意外と感慨深いものだな。そうか、本当にやったのか。」

 話している最中に風が運んだ砂が目に及び、コレナイは苦しみながら目を擦った。

「身体は大丈夫かな?」

 グズが右から手を差し出した。コレナイも右手で、グズの右手を頼った。

「何ともないよ。いくらか熱いが、不思議と調子がいいくらいだ。流石にお前と八十年近くも旅をしてきただけはあるな。」

「・・・今、なんと?」

「ん?調子がいいんだ。長年の功だろうか。この歳でも人は成長するものだな。」

「いや、違う。君は今、八十年と。確かにそう言ったのか。」

「ああ、そうだが、どうした。何か変か?」

 グズは天を見上げ、豹変した白渦を隠した。

「・・・グズ?一体どうしたんだ。」

「なんでもないとも。」

 いつも通りの白渦が、コレナイを見下ろした。

「・・・君との旅路に思いを馳せていたのだよ。実はな、コレナイよ。悲しいが、我らの旅はこれでお終いだ。吾輩は、これからは一人で旅をしなければならない。この頭に、完全なる救済の術が降りてきてしまったのだ。先の見えない、危険な旅になる。君はもう連れてはいけない。」

「契約はいいのか?」

「問題ではない。どうやら君は旅を経てすっかり別人に変わったようだからね。勿論、成長したという意味でだよ。光栄なことだ、我が友よ。」

 コレナイはグズの言葉を真に受け、僅かに照れた。

「そ、そうか。私はどうだった。いい友だったか?」

「ああ。忘れがたい、かけがえのない存在だった。君には必ずや楽園が来るだろう。来る楽園の王たる吾輩が保証する。安心して、胸を張って語るといい。君と王の、栄光の旅物語を・・・。」

「ああ、いいな。・・・だが、語る機会は訪れるのだろうか。とてもティバの前では語れそうにない。」

「そうだなあ。あれは断じて許すまい。カッカッカ!」

 グズの高笑いを機に、二人は長く笑い合った。二人は鐘の国へ戻るまで、休むことなく互いの不幸を語り合い、門を迎えると、惜しみながらも別れを告げたのだった。


 影の世 おしまい。



......................................................。


おまけ「影の世へようこそ!」


 ようこそ!楽園へ!

 あなたは第〇△番目の移住者様です。緊張すると思いますが安心してください!中には頼れる先輩がたーくさんいますし、主のシュレミールちゃんはとっても楽しい方です!

 喋っている私は誰かって?私はあなたの先輩の一人です。・・・姿がよく見えない?大丈夫!目が慣れたら見えるようになります!見えるようになったところで靄ですから、あんまり意味ないと思いますが!あ、因みに容姿の不満についてはハイラくんまで!説明は以上!次の移住者の案内がありますから、ささ、中へどうぞっ・・・どうぞ!


 ・・・はい、居住者諸君。慌てない、騒がない。ここの水は溺れないから、小さいみんなも落ち着いて。じゃあ、改めてようこそ、影の世へ。僕はハイラ。みんなに楽園の説明をするよ・・・と、その前に。新しい身体はどうかな?食べる必要もないし、疲れないし、苛々しないし、便利でしょ?外見もみんな似たり寄ったりで差別がないし・・・え?全く見分けがつかない?・・・ごめんね、その辺はまだ誠意取組中なんだ!きっといつの日か望み通りの姿に変えてあげるから、当分は自分のことより楽園を楽しんでみてよ!

 それじゃ、楽園の注意事項を話すね。

 まず一つ、地下に無断で降りないこと。・・・牢屋だった場所だから、落っこちちゃうと出てくるのにコツがいるんだ。あとで脱出マニュアルと救助マニュアルを配るけど、だからって不用意に入ったり、誰かを落としたりしないように!たまに悪いやつを閉じ込めることがあるんだから、絶対に遊び場にしちゃダメだからね!

 次に二つ目。シュレミールが暇なときは遊びに付き合ってあげること。・・・遊びは遊びだから、説明は要らないね。まあ一応、助言しておくとすれば、なにがあっても逃げ出そうとしないことかなあ。稀に悪戯で牢屋に閉じ込められちゃうことがあるけど、その場合はシュレミールがきちんと監督してくれるから、安心して閉じ込められていてね。寧ろ安全だから!間違っても脱出しちゃわないように気を付けてね!

 最後に三つ目!なんだっけ・・・えーと・・・・・「危険な触腕生物が水中に潜んでいるかもしれないので、遭遇したら刺激しないように。」・・・だって。見かけたら僕かシュレミールに報告してね、気が向いたら駆除するから!よろしくね!

 注意事項は以上!

スバラシイ影生活の為にも、みんなで協力して、スバラシイ楽園を築こうね!

「・・・おにいちゃん。」

「・・・。」

「おにいちゃん、起きなよ。」

「いやだぁ・・・もう少し寝かせてよ、シュレミールぅ・・・。」

「早く起きて、しーえむだよ。」

「・・・・・CM????」



『 走ることが好きだ。 』

 ( 音楽イン )

『 でも、小さい頃はよく転んだ。 』

『 転ぶたびに、泣いていた。 』

 ( 音楽アウト )

『 痛かったからじゃない。 』

『 悔しかったから。 』

 ( ドラム イン )

『 私の足が、星を蹴り飛ばせなかったから。 』

 ( ギター イン )

 ( 画面暗転 )

『 苦難なんか、蹴っ飛ばせ。 』

 ( ドラム ギター アウト )

『 あなただけの希望の靴 「ハッピネス・ワン」 』

『 お求めはお近くの楽園で。 』


( 音楽 )

『辛いこと。』

 (それっぽいイメージ映像)

『悲しいこと。』

 (それっぽいイメージ映像)

『人生って、なんだろう。』

 (なんか載せとけ)

『世界って、なんだろう。』

 (物寂しい自然的な背景)

『知りたい。』

 ( ドラム イン )

 ( 漂う白煙に浮き上がるいかにもな少女 )

『真理は・・・どこだっ!』

 ( ギター イン )

 ( バックに少女の内なるパワー系ゴリラモンスター登場 )

『鐘の学寮。全ての答えが集う場所。』

 ( 現場イメージ画 現在未提出 )

『期間限定。寮内見学会、好評開催中。』


 ( ドラム イン )

 つい、そんな言葉を胸に浮かべてしまったのは、シュレミールが両手の影の棒で、調子よく床を激しく叩き始めたからだった。上にも木の天井、左右にも木の壁。そこは楽園の底とは異なった、極めて閉鎖的な、暗く狭い空間。

 突然、バキッ、と、けたたましい音が聞こえた。

「おにいちゃん。床、こわれちゃいそう。」

「どうせ壊すなら天井にしてよ。床なんか意味ない。僕らは落とされて来たんだから。」

「こわしてもいいの?」

「冗談だよ。」

「ジョウダン?」

「ジョウダンっていうのはね。」

「めんどくさいから、こわしちゃうね。」

 シュレミールは両手の影の棒を重ね合わせて槍とし、それを頭上へと力いっぱいに投じった。天井に穴が空き、破片のいくつかがハイラの頭にぶつかった。

「シュレミール・・・僕たち、絶対に後悔するよ。」

「コウカイ?」

「コウカイっていうのはさ・・・。」

 ハイラは説明の途中で竦み上がり、空間の角に潜り込んで蹲った。穴の先から足音が聞こえたのだった。穴から何者かが覗き込んだ。学長のものではない、青色の髪が垂れてくるのを見て、ハイラはほっと胸を撫でおろした。

「誰かいるの?」

「いるよ。」

 上からの問いに、シュレミールが答えた。

「誰?」

「わたし、シュレミール。」

「人?」

「影だよ。」

「カゲ?」

「カゲは、影だよ。」

「・・・。」

「・・・。」

「ねえ、影さん。」

「なに?」

「そこって広い?」

「せまい。」

「辛くないの?」

「つらくはないけど、退屈。」

「じゃあ、一緒に探検しない?」

「いいよ。」

 シュレミールは穴へと影の梯子を伸ばした。そして一段を登ろうとした時、ハイラに肩を掴まれた。

「駄目だよシュレミール。学長サマに怒られるよ。」

「バレなかったら大丈夫だよ。」

「鉢会わせちゃったらどうするんだ!」

「心配いらないよ。もう指輪にはつかまらないから。」

 シュレミールはそう言ってハイラの手を振り落とすや、カツカツと梯子を猛スピードで登って行ってしまった。

「シュレミールぅ・・・。」

「君もおいでよ。」

 シュレミールのものではない声がハイラを呼んだ。

「うぅ・・・。」

 ハイラは嫌々ながらも、梯子に足を掛けた。


おまけ2「初期の旅路」


 まだ何者も頭角を現していなかった、再興の時代。後に「鐘の国」と呼ばれるようになるその地にはまだ防壁がなく、門もなく、国の境界を定めるものといえば、等間隔に並ぶ積石の監視塔のみだった。国内に至っては大半が人の手の及ばぬ深い森であり、その中央にポツンと小さな木の建築物があるだけで、百年の後にこの一帯に文明が栄えることになるとは、とても想像できない有様だった。

 さて、そこはある監視塔の傍ら。当地の主たるティバが外交に赴く一方、不幸な記憶の全てを回収されてしまったコレナイは、親鳥を追いかける雛鳥のようにグズに付きっきりだった。記憶の大半が不幸だったのか、内面が幼稚になってしまっていたのだ。グズは初め、それを喜んでいた。自身を慕い、頼ってくれる従者がいることが、さも栄光の指導者らしい姿であると感じていたのだ。しかし段々に嫌気がさすようになった。と言うのも、無力なコレナイは頻繁に歪な物たちに襲われた。その度にコレナイを護るために、法則なく腕輪が働いて回るのである。グズの腕はいつも忙しく、「死体」や「不幸」の回収に支障が出る始末だった。

 ある日、とうとうグズは決起した。「コレナイを殺してしまおう」と。そして方法を考えた。契約がある以上、コレナイはただ殺すことも、ただ死なせることも不可能だ。この状況を打破する手段は一つしかない。それは、コレナイが抱く死生観を覆すこと。生を渇望させ、死を恐れさせること。そうと判断すれば、早速、策を口にした。

「コレナイよ。」

 コレナイは目に止まった石を手当たり次第に裏返しているところだった。石の裏側の、湿った色濃い土の窪みを覗こうとしていた顔が「ん?」と応え、グズに向いた。グズは監視塔とは反対側の、遠目に見えた森を、腕の一本で示した。

「先程な、あそこに巨大な影を見たのだ。明らかに並みならぬ、危険な生物だった。所謂、害ある者、とかいう連中であろう。」

 コレナイの手から石が滑り、鈍い音とともに窪みにはまった。

「あれはどうも賢いらしい、吾輩を避けている。だが、放っておけば君の友を危険に晒してしまうことになる。・・・故に、ここで殺しておかねばならない。その為には君の協力が必要だ。」

 グズは五本目の腕に氷の槍を生み出し、しゃがんだまま固まるコレナイのあしもとへと転がした。

「吾輩はこれからあの森に入ってあれを追い立て、君のもとに誘導する。だから君は、吾輩が置いて行った腕輪の力たる氷の槍であれを突いてくれ。しっかりと刺したなら一撃で全身を凍り付かせることができるはずだ。・・・できるだろうか?」

 コレナイはコクコクと頷いた。グズはコレナイの頭を撫でた後に、森の方へと歩いて行った。グズが森に消えてから、程なくして、声が聞こえた。人のものではない、グズのものでもない。大きく、甲高い、獣の声。木々を薙ぎ倒して森から飛び出したのは、大きな四足。コレナイは知る由もないが、雌の獅子に似た姿をした生物だった。ただし、その頭は欠けて細長く歪んでいた。

 慄き震えていたコレナイだったが、獅子が半分の距離を過ぎると思い切って右手で氷の槍を拾おうとした。しかし槍と触れた途端、コレナイの指と掌が凍り付いた。コレナイは驚き、槍から飛び退いた。その間にも獅子は迫ってくる。だが、獅子に立ち向かうものたちがいた。

 三人は鐘の使者たち。彼らは手に石や、頼りなくもそこそこに尖った木の枝を持ち、果敢に獅子に挑みかかった。獅子は鋭く発達した四本の爪を有した手で使者らを攻撃した。爪は容易く石を、木の枝を、使者の胴体をも両断した。だが、最後の一人は獅子の掌に枝を束ねた槍を突き立て、爪の到達を阻んでいた。それでも所詮、枝は枝である。獅子が暴れた拍子に槍は折られてしまい、使者は地に投げ出された。巨体が無防備な使者に覆いかぶさり、牙を剥いた。その時、コレナイが動いた。手を凍らせる槍を握り、獅子の前足に突き刺した。

 槍の先端から肉が焼けるような音が聞こえ、獅子が叫び、後退した。

「私は、なぜ・・・。」

 そう呟いて、コレナイは握った槍の先端に残った、凍った獅子の血肉を見つめた。そしてゆっくりと、視線を槍とつながった右手に下げた。凍ってしまった手は、二度と槍を手放せないだろう。冷気が肌から肉へ、肉から骨へ緩やかに登って来ていた。最後には全身に及ぶのだろうかと考え至ると、コレナイは自身の行いが軽率だったと後悔した。だが心根には、それ以上に強い感情があった。

 目の前で誰かが失われることが嫌だった。その由来は決して正義感などという体のいいものではなく、焦燥や悲愴を連れた、ヘドロのような願いだった。理想のように縋りつくものではない。自我の保全の為に、堰き止め続けなければならない何かだった。

 コレナイは獅子に向かって走った。脳裏に過った、名も顔も覚えていない誰かの最期を振り切るために。

 獅子が砂を蹴り散らした。コレナイは立ち止まって目を庇ったが、防ぎ切れなかった砂を喉に受け、咳込んだ。その隙に迫っていた獅子の右前脚が、爪が、砂埃を裂いてコレナイの左腕に襲い掛かった。

 激痛と、滝のように滴る血。近づく爪、遠ざかる爪、血まみれの爪・・・。コレナイは痛みを恐れた。痛みを伴う死を恐れた。死の元凶に背を向け、切断寸前の四つの傷を受けた左腕を凍った右手で抱えながら、辛くも近くの監視塔に逃げ込んだ。

 塔が揺れた。獅子が塔に体当たりし、破壊しようとしていたのだ。絶えず振り落ちる埃と瓦礫。まるで雨の後のような冷や汗が流れていた。何にも当たっていない筈の背中が熱く湿り、冷や汗が染みて痛んだ。

 コレナイは絶叫した。目を、耳を塞いでしまいたかった。目を閉じて、全ては夢だと喚いて、いっそ発狂してしまいたかった。なぜこんなことになったのか、なぜ・・・。

「・・・そういえば、あの使者はどうなった?」

 誰とも知れない、使者の為に握った槍。使者の為に奮った勇気。事の経緯を思い出してみれば、再びヘドロが胸に香った。

「確かめなければ。」

 転がり落ちてくる石を踏んでしまわぬように、壁を頼りながら、監視塔内の螺旋階段を早足で登った。崩れかけた頂上へ至ると、塔への体当たりを繰り返す獅子と、二つの無残な死体の隣で座り込む使者の背が見えた。

 

 ヘドロが煮えた。熱を呼ぶのは希望か、戦意か、或いは憎しみか・・・。底で眠っているのは大事な記憶なのだ。それでも、思い出せずよかったと、コレナイは心から安堵した。触れてしまえば、きっと心が壊れてしまうから。

 痛みも苦しみも、嫌で、嫌で、仕方なかった。そして面倒なことに、それは自分だけではない。主が誰であれ、苦痛とは根本から忌まわしいものだ。


 コレナイは塔の頂から降下した。特別な計らいなどなく、既に放しようのない槍を、感覚のない手で精一杯に握りしめて。

 足から落ち始めたつもりが、気づけば頭が下を向いていた。気配に勘付いた獅子が後ろ足で立ちあがり、コレナイ目掛けて爪を振った。槍より早く、爪がコレナイに到達した。だが、槍が獅子の頭に深く突き刺さったのは、コレナイの身体が両断されるよりも先のことだった。

 力が抜け、浮き上がる首。動かなくなった獅子の尾の先に震える背中が見えた、きっと救うことができた、小さな背中。

 コレナイはおだやかに冷たい息を垂れた。心臓が凍り、脳が凍り、心のヘドロまでもが凍っていく・・・。何も感じない死は、幸福だった。


 しばらくして、森から帰ってきたグズが見た物は、らしくなく死体を抱いて泣き喚く一人の使者と、場違いなヘンテコな氷塊だった。グズは震えた。甚く感動していた。ここに氷塊があることが、そして氷塊の奇妙な造形が、この場で行われた聖戦の全てを物語っていたのだ。

「吾輩は浅はかだった。・・・君は英雄に足る者だったよ、コレナイ。」

 腕輪が青く輝き、小さな太陽が灯った。太陽の光が氷層を照らし、その内なる姿を透かした。氷の槍はその両端に、獅子の頭と、コレナイの左胸とを貫いていた。


お疲れさまでした。長かったですね、ごめんなさい。

楽しんでいただけましたか?コメントもらえたら嬉しいです。学がないので、表現のアドバイスなんかもありがたいです。

神様を信じている訳ではありませんが、誰しもに、運命的な選択の時って来るんじゃないかって思います。一度や二度じゃあなくて、きっと何度でも。とりあえず踏み出してみたら、見えてくるものってあるでしょう?

見えるものが綺麗だといいですね!


世界観的には「春の国」に続きますが、登場人物は大きく異なります。後続作ではそれぞれのキャラクターが合流することもあります。

ところで、省いていた「狩人とエイメルの反乱エピソード」をそのうち追記します。戦闘描写に自身がなくてねー・・・。大したことはしませんし、短いですけど、まあ、深みが増す(?)でしょ!

「鐘の国」のお話は執筆中!正直、キツイ!無理そう!書き切ってはみるけどさ...;;

じゃあね!!

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