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影の世  作者: 居道
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前半

予備告知(読まなくてもたぶん支障ない)

・「魔法」って定番の言葉が出てきますが、魔法らしい魔法は、作中では永久に存在しません。文明の理解を逸脱したものを魔法と呼称するだけです。

・マナや魔力的な概念は存在しません。大体のことにそれっぽい経緯があります。なので、登場人物が突然に莫大な成長を見せたり、物凄い能力を獲得したりすることは、そうそうありません。寧ろ、後継作を含め、失われていくことの方が多いです。

・以上。

1.

ある焼けた荒野に、巨大な黒い球体と、その外周に沿って歩く、酷く渇いた老人と真っ黒で奇妙な朽ち木がいた。空高く昇った陽は二人をどこまでも照り付け、乾ききり漠然とした大地は二人が隠れることを許さなかった。

 肌を削るような熱砂の海原の中、老人は今にも倒れてしまいそうな疲れ切った身体を、亡霊のような青白い顔を揺らして頼りなく漕ぎ繋いでいた。時に、いつかの汗と砂を帯びて絡まった頭髪が目を刺しては平らな足場に躓いた。とてとてと、ゆらりゆらりと漂泊して、ついに倒れかけた時、遅れて身体に引かれた腕が、傍らを行く朽ち木の枝に掛かった。

「朦朧としてきたかな。」

 そう口にしたのは老人ではない。朽ち木である。

 朽ち木はどうやら、ただの朽ち木ではなく、いかにも朽ち木らしい独特な生物らしかった。朽ち木には口らしい部位は無かったが、代わりに真っ黒な顔には、本来ならば目鼻口があるべき場所に、白い渦模様が刻まれていた。その模様が、いかにも愉快そうに末端を反りあがらせた。

 朽ち木の、火を受けた木の残骸と見紛うような、骨張った黒い九本の腕。その内の四本は常に宙に向かい、節々の金銀の輪を鈍く光らせていた。

「・・・勿論だ、勿論だとも。もうすぐだろう。踏ん張らなきゃあなあ。」

 酷いかすれ声で老人が答えた。一語一語に唇が裂け、赤色が滲み出た。

「せめて、気晴らしに話をしてあげようか。」

 朽ち木が身体を倒し、老人の耳元に顔を寄せ、呟いた。それとともに、朽ち木は右足を高々と上げ、焼けた砂に音のない一歩を踏み込んだ。後ろで、朽ち木が引きずる木の棒が何かに当たって跳ね、小気味よい音を立てた。

「話か、いいな。新しいものはあるか?」

「あるとも、あるとも・・・。」

 朽ち木は深く頷いて、探し物をするように、荒野を見渡した。

「・・・遥か昔のことだ。ちょうどこの辺りの地の底にな。なんと地底人が生きていたらしい。君よりも吾輩と近しい色の肌を持った彼らは、優れた記憶力を持っていた。その上、肉体も強固だった。何もかもが秀でていた、例えば他にも・・・。」

 語りながら朽ち木が再び右足を高く上げたので、老人は背後に期待した。しかし、今度は小気味よい音は鳴らなかった。朽ち木の足はやはり静かに着地した。ちらと振り反ってみると、木の棒によって描かれた黒い溝線沿いに細く尖った石が倒れていた。

「あれじゃあ、鳴らないよなあ。」

「鳴らない?違うぞ、鳴らすのだ。待て、なぜ結末を知っている?」

「あー、きっと、それはだな。」

 老人は頭を抱えた。ここ数日、或いは数十日か数百日の間、深刻な頭痛に苦しめられていた。蟀谷を振り乱し、四方八方へ飛び交う意識を捕まえた時には、先の会話の内容を忘れてしまっていた。

「・・・なんだったか、それはあ・・・ああ、そうだ。その話はたしか聞いたことがあった気がした。いつだったかな。名前は確か甘そうな、そう、ガーリンだ。お前みたいに真っ黒な肌の人種の地底人だ。違うか?」

 老人は咄嗟の出まかせに頼ろうとしたのだったが、口は思いがけず、すらすらと正確に言葉を吐き出した。老人は自分のことながら驚いていたが、対して朽ち木は感心していた。「ほう、ほう」と唱え、今度は朽ち木が頭を抱えた。

「うむ、当たっている。これは困った。一体どこまで話したのだったか、何を話したのだったか。吾輩ともあろう者が、熱さにやられてしまったのか。まるで思い出せない。・・・では彼らの地上での生活は知っているか?いかがかな、コレナイ。」

 コレナイと呼ばれた老人は、名を呼ばれるまで虚ろに目を漂わせていた。我に返ると仕切りに瞬きをして、深呼吸を挟んだ。

「なんだったかな?」

コレナイは「今、なんと言ったのかな?」と、そんな問いを砕いて口にしたつもりだった。しかし抑揚に欠けた語調は、朽ち木に異なる解釈を与えた。

「よしよし、よかった、これはまだ言っていなかったのだな。では気を取り直して語るとしよう!・・・地底人だがな、驚くことに彼らは寝食を必要としなかったらしい。更には全く労せずに三日三晩を歩き続けることができたとか。つまり地上で彼らは、ひたすらに旅をして過ごしていたのだ。まさに今の吾輩と、君のように。」

 朽ち木は果たして何本目か知れない腕の一本を動かして、コレナイを指した。コレナイはつい朽ち木の尖った指先に注目したが、疲労の為かまともに焦点を合わせられず、果てには酔って気を害した。

「おえっ。すまないが、手を下げてくれないか。」

 言われて朽ち木は指を引っ込め、その腕を、既に空へと掲げていた腕らの五本目として加えた。意識が曖昧だったコレナイは、見れば見る程に木のようになった朽ち木の手首に、一瞬ばかり瑞々しい果実を空目した。瞬きをすると、果実がまた生っていた。

「なあ、グズ。お前は地底人を優れていると言ったが、お前も疲れないだろう。飢えない、乾きもしない。なのに、どうして果実が腕に生ることを隠していたんだ。私に恵んでくれてもいいだろうに、ずっと黙っていたなんて、酷いやつだ。」

 そうぼやいて、空に果実を求めだした老人を、朽ち木、グズは嘲笑った。

「カカカ、とうとう始まったなあ、コレナイ。だが今回はよく頑張った。君は飢えも乾きもするが、成長することができる。さあ、休憩だ。嫌と渋っても休憩だ。褒美の水をやるぞ、カカカカ。」

 グズは笑いながらコレナイの手首を掴み、都合よく見かけた休憩に手ごろな岩へと引き連れようとした。だが、コレナイは意外なほどの力で抵抗した。グズを払いのけ、睨みつけた。

「なにが、なにが頑張っただ。羨ましい、私はお前たちが羨ましい、妬ましい!私が地底人だったなら、日ごろから抱えている問題の多くが解決する。羨ましい。実に憎たらしい!!」

 コレナイは気迫の無い、消え入る声で叫んだ。そして少しの間をおいて絶叫し、覚醒して目を見開いた。

「ああああ!!!決めた、決めたぞ。私は地底人になる。今ならなれる。お前たちの全てが手に取る様に分かる!・・・協力してくれ、グズ。まずは方法だ。大事なのは方法なんだ。何が必要だ。儀式か、呪いか!どこにある?!」

 コレナイは「どこだ、どこだ」と叫びながらグズの周りを走り回った。その異常な様子に流石に焦ったのか、グズの顔の 白渦模様が色を薄めて縮んだ。

「落ち着いてくれコレナイ。君は人間だ。残念だが、どう頑張ったとて地底人にはなれないし、私のようにもなれやしない。身体の構造が根本的に違うのだ。こら、走るのをやめないか、本当に干からびるぞ。」

「知らない。関係ない。信じろ。見ろ。不可能はない。ほら、グズ。例えばこの灼熱の荒野はどうだ。風は熱く、夜は寒い。分かるか、これは試練だ。」

 コレナイは追い込まれた小動物のように、周囲を囲う見えない壁との距離を測るように、落ち着きなくその場で一回転すると、息も絶え絶えに、汗一つ流さずして、グズの方を向いて、語り続けた。

「これがヒントなんだ。見えるだろう、彼らがそこかしこから私を見定めている!つまりだ!つまり、今から私は真の姿でこの地に横たわることになる。そうしたら私をそこらの石や砂で埋めてしまってくれ。この大地に還るためだ。後は見ていろ、どうなると思う。解るか?」

「分かるとも。君は石と砂に焼かれてオイシクなる。・・・コレナイ、休もう。君は熱さにやられてしまった。さあ、そこの岩に腰かけて水を飲もう。」

 そう言って、グズは掲げた腕の一本を、纏った黒衣の胸元の隙間から内側へと忍び込ませた。深く肘元までを黒衣に沈められた腕は、次に木製の水筒を持って外へ出た。水筒はからりと鳴り、今まさに衣服を脱ごうとするコレナイの視線を攫ったが、それだけだった。コレナイはまず丈の長い上着の一枚を脱いで投げ捨てると、速やかに次の衣服へと取り掛かった。

「ああ、なんということだ。コレナイ、見ろ、こっちを見てくれ。仕方がないから吾輩が秘伝を教えようじゃないか・・・。」

 グズは岩の上に厚い皮布を敷いて、腕輪の一つを岩に叩きつけた。涼やかな音が響き渡り、コレナイの動きを止めた。グズはここぞとばかりに水筒を振り水の音を振りまいた。

「・・・コレナイよ、聞こえるか。ほおら、気づかないか?これこそ、地底で汲まれたふしぎの水だ。これをな、この地底人の聖地たる岩の上で飲むと、どうなると思う?」

「・・・なれるのか?」

「そうとも。ふしぎの水を飲んでみたいだろう。カカカ、カカ。」

「ふしぎの・・・水?」

「そうだ、そう。さあ、おいで。」

 よたよたと、コレナイは水筒へと導かれた。グズはこの時のコレナイを、後に、まさに廃人であったとコレナイに語った。

 ・・・数刻後。

「私はどうしていたかな。」

「何も。無理が祟った水分不足だ。少しばかり朦朧として、あまりに暑かったから衣服を脱いだ。ただそれだけのことだとも。初めてじゃあないのだ、恥じることは無い。全て忘れたままに、この雄大な荒野に置いていこうじゃないか。」

「本当だろうか。私はなんだか、さっきに大切な物を失いかけていた気がしてならない。」

「失っていないと思うなら、いいじゃあないか。」

「・・・・・確かに、それもそうだな。」

 そう言いつつも、コレナイは不格好な器から水を一口飲んで、考えた。陽はまだ高く、衣服には異常に砂が付着している。珍しく穏やかに気遣うグズと、酷く乾いた唇と喉と、どうしようもなく押し寄せる羞恥。得体の知れない胸の枷は、振り切れるほどには軽くなく、破り捨てるには硬すぎた。溜息と気晴らしのついでに掌に張り付いた砂埃を吹き払おうとした。だが、貴重な湿った吐息は掌に達する前に、通りすがった熱風にたちまちに飲み込まれてしまった。

「やっぱり、私はなにか失ったのではないか?」

「いいや、君は恐れているだけだよ。知らぬ間に失ってしまうこと。そして知らぬままに、失った物が何であったか忘れてしまうことを。」

「そうだろうか。」

 コレナイは残った少量の水を残らず手に垂らすと、器を力任せに背後へと放り投げた。指を絡ませ手を洗っていると、器が何かにぶつかり割れる音がした。それがやけに痛快な音で、コレナイは気をよくした。

「そうとも。全て、気のせいだろう。吾輩が言った通り、君は何もしなかったのだ。無理に悩むことはない。己に鞭打ち、より永くを歩き続けようとした君は勇敢だった。吾輩は君が誇らしい。」

 グズの腕が二本、コレナイのそれぞれの肩に乗せられ、慰めるように撫でた。コレナイは手首を捻ったり曲げたりして燻ったが、程なくして飽きてしまうと立ち上がった。

「そうだな。確かに、下らないことだったかもな。・・・少しだけ時間が欲しい。足が痺れているから、ゆっくり慣らしたい。日が傾く頃まででいいんだ。」

「構わないとも。吾輩は急いではいないからな。君が急ぎたいと言ったのだ。」

「・・・私が?」

 コレナイは指の腹を額に当てた。汗が一滴、額から指へ下り、肘までを舐めた。指から手首までに纏わりついたやんわりとした涼しさがコレナイのぼやけた記憶に訴えかけ、ある人物を思い起こさせた。

「ああ、そうだった。あいつは、あいつを待たせるのは良くない。やはりすぐにでも行こう。今回の計測はもうすぐ終わるのだろう?」

「あと半日ほどはかかるかな。いやあ、今回は長かった。水もな、あれだけ汲んで回ったのに、無くなった。」

 グズが空になった水筒を逆さにして振った。カラカラと、軽い音だけが垂れ流れた。

「半日も掛けてはいられない。早足で行こう。日が変わってしまう前に帰りたい。」

 コレナイは勇み歩き出そうとしたが、グズの三本の腕がそれを阻み、コレナイを岩の上に居直らせた。

「なんだ。」

 振り向こうとしたコレナイの目の前に逆さの白渦が降りてきた。

「君は四日前にも同じことを声高らかに宣言して、今日に倒れてしまったのだ。望むならば止めはしないが、良いのかな?」

「・・・・・。」

 結局、コレナイは身を労わりつつ旅を続けた。道中で二度の休息を挟み、気が焦ろうとも決して急がず、堅実に足を進めた。いつしか日も落ちて、気温が著しく下がり、常に隣に置いていた黒い球体との距離感が曖昧になった頃。コレナイは球体から横向きに伸びた太く黒い垂線と出会った。それは昔、コレナイとグズが最初の旅に出た時に、グズが旅の始点の目印として刻んだものだった。他ならぬ、グズが引き摺る棒を伝う黒い液体が残した証である。

 グズは木の棒を垂線まで引き摺った。用済みになった棒は投げ捨てられた。

コレナイがしゃがみ込み、線と線の接点に目を凝らした。

「暗くて目盛りがよく見えない。お前はどうだ?」

「吾輩にも見えないよ。」

「夜目が利くんじゃなかったのか?」

「吾輩に欠点はない。言うなれば、君が発狂したのは無理もなかったということだ。こいつは我らの想像を超え、とてつもない速度で成長していたのだよ。」

「・・・発狂?」

「球体に関する質問だけ聞くとしよう。」

「こいつはどこまで大きくなるんだ?」

「今ですら、大国を三つは飲み込めるほどだ。・・・失礼、君にも分かるように例えれば、君たちの国が八つ分だ。こうなれば、球体の成長には終わりがないと見るべきだろう。放っておけばこの星どころか、その外側すらも包み込んでしまうやもな。」

「そうなったら、どうなるんだ?」

「さあな、吾輩には到底わからんよ・・・。」

 グズは球体へと手を伸ばし、触れるか触れないかのところで撫でるような仕草をした。コレナイは黙ってその仕草を見届けた。

「・・・何せ、ただでは触れることさえ叶わない。全ては球体の創造主、影の主の意思のままだ。共生の道を探れたならば良いが、影の主は我らのことなど、羽虫程度にしか思っていないだろう。あらゆる手を尽くし、抑え込まなければ、我らに未来はない。」

 球体へと伸ばされていた手の、手首の腕輪が青く輝いた。腕輪の表面が煮えたぎり、泡が起こった。グズの撫でるような仕草は、腕輪から呪いを放つためのものだったのだ。棘を備えた巨大な触腕が泡を破って放たれ、球体の中へ侵入した。

「今回の君の努力と、君の友には申し訳ないがね、こうなっては仕方がない。せめて一つ、試して帰らなければ。」

「今日中には帰れないか。」

「残念だが、難しいだろうな、友よ。」

 グズが朗らかに答えた直後、触腕が急速に球体へと呑み込まれ始めた。その勢いは凄まじく、危うく体ごと吸い込まれそうになったグズは、触腕を吐き出し続ける腕輪を他の八本の腕で抑えながら、必死に堪えた。コレナイもグズを支えようとしたが、攻防は長くは続かなかった。無限とも思えた触腕が底を尽き、腕輪が弾け、その破片までもが球体内に吞み込まれた。

「成果は?」

「カッカッカ、失ったことが成果と言えよう。」

「それは損失と言うんじゃあないのか?」

「コレナイ・・・君は、つまらなくなったな。」

「・・・は?」

 重い夜の静けさが、二人に圧し掛かった。


2.

その国にはかつて、頂きに雄大な鐘を飾った無骨な塔があった。国を訪れた数少ない客人らは、神聖な歴史を匂わす塔と鐘に感銘を受け、ここを鐘の国と呼び、そう語り広めた。お陰で今では誰もが当たり前のように、この国を鐘の国と呼び、鐘の国と知る。それは国に住む私の友人も、グズも同様のことだった。だが私はもっと相応しい呼び名を知っている。

 私はこの国を、門の国と呼ぶ。きっと未来永劫、誰にも伝わることはないのだろうが、この国には、それはそれは素晴らしい門があるのだ。


コレナイが口笛を吹くと轟音が鳴り渡り、霧の中に聳えた巨大な影が後退を始めた。開いた縦長の大口が霧を帯びた空気を呑み、四方八方から押し寄せる湿気が耳を掠め、抜けていく。音が止み、気流が穏やかになると、コレナイは歩き出した。数歩して、隣にグズの肩から上だけが、霧を躱して突き出した。

「何年ぶりの帰国かな。吾輩の故郷ならばざっと二年というところだろうが、ここの時間の感覚は未だに馴染まない。教えてもらえるかな?」

「私もさっぱりだ。」

 コレナイは浅い呼吸を維持しながら、小さな声で答えた。漂う濃霧は毒を含んでいた。強力ではないが、時間を与えれば喉を焼かれる。

「投げ遣りは悪い癖だぞ、コレナイ。君はきちんと学ぶべきだ。全く、生まれ故郷の摂理だろうに。それだから残してきた友にまともな予定を告げられず、要らぬ心配をかけることになるのだろう。」

 グズは濃霧などお構いなしに、本来ならば必要のない息をわざわざ荒げ、不満を吠えた。後方で再び、轟音が始まった。

「そうは言われても、私はお前と違ってひ弱なんだ。長旅の中で、来る日も来る日も同じ風景を歩き続けて、いつのまにか正気を失って、当たり前のように気絶する。・・・正確な日時の把握は無理がある。お前だって、旅が私に無理のあることだってことくらい、分かっているだろうに。」

「うむ。確かに君の言い分には一理ある。だが、君の怠慢は事実だ。君が老いないのは吾輩がいてこそだ。吾輩が居なくなったら、どうするつもりだ。」

「お前がいなけりゃあ死ねるんだ。」

「幸福はまだ見いだせないか?」

「この頃じゃあ苦しみが可愛く思えて来たよ。」

 気丈なコレナイに、グズは項垂れた。

「いやはや、吾輩はもしや、君を甘やかしてしまっているのかもしれん。」

「言葉の意味を知れ。」

「知っているとも。知っていて口にしているのだ。」

 轟音が止み、グズが立ち止まった。コレナイも並んで止まり、肩を揺らした。霧が晴れ出し、明らかになった景色に身震いしたのだった。

「ほおら、コレナイ。懐かしき彼らだ。鐘の使者たち。国の守護者。君の後輩でありながら、時と使命に狂いなく誠実なものたち。」

 二人は同時に歩き出して、次々と浮かび上がる物者に目を移らせた。一面の鬱蒼とした草原。左右に隙間なく並ぶ艶やかな肌の木々。道らしからぬ、奥に構えた巨城まで辛うじて開かれた獣道。そして、草木の陰に寄り添う人影。・・・人影らは、鐘の使者。一様に質素なローブを身に纏った、謎多い戦士たち。彼らはみながコレナイとグズを、深く被ったフードの奥底から監視していた。鋭い視線が二人の裸足の指先までをも追いかけた。

「しかし慣れないものだ。どうして彼らはいつもいつも、帰国する我らを歓迎してくれないのか。星を窮地から救った英雄の帰還であるのに。そうでなくとも、この吾輩との謁見であるのに。・・・教育がなっていない。」

 不満げにグズが石ころを蹴飛ばした。石ころはコロコロと転がって跳ね、人影の一つにぶつかった。コレナイはギョッとしたが、グズは石の行方には気づかず、人影もまた、まるで気にしていないようだった。

「無闇に石を蹴るな。・・・それにだ、忘れたのか。使者は私たちを匂いで判別する。長いこと外にいたから、外の匂いが染み付いているのだろう。」

「忘れてなどいない。いやな、信じ難いのだ。彼らは嗅覚に頼る必要がないと、吾輩はそう思うのだよ。それに君からは常に刺激臭と加齢臭しか香らない気がするしなあ。・・・わからん、全く、侮れないものだ。」

 グズはコレナイの首元へ密かに白渦を寄せ、「ほらな」と囁いた。コレナイは顔を顰め、グズの頭を掌で強引に押し退けた。

「お前はデリカシーを学ぶべきだ。ここを新たな故郷とするなら。」

「馬鹿馬鹿しい、不要だ。吾輩は吾輩の、この蓄えられた才と、知と、誇りを以て突き進む。デリカシーなどという宗教紛いの思想など、吾輩には戯言に等しい。」

「それだからあいつにも嫌われたままなんだろう。お前は私たちを理解しなければならない。同調しなければ。ここは私たちの故郷で、お前の故郷では無いのだから。まずはな・・・。」

 コレナイはグズに説教をしようした。城までの中間地点を越えたところだった。そこは草や木々が抜きん出て高く、更には壁のように生え積もった葉が通りかかる者の死角を広げていた。説教の為にグズに面し、横向きに歩いていたコレナイは肘を何かにぶつけてしまった。その妙に柔らかな衝撃から、コレナイは自分がしでかしたことを察して冷や汗を垂らし、おどおどと、相手を確かめた。コレナイの足元では小柄な使者が腰を付き、地に打ちかけた上半身を危うく両肘で支えていた。フードの下から、艶やかな青色の長髪が顔を隠すように垂れていた。使者は起き上がるよりも先に、片手で髪を掻き分けた。それでも顔は見えなかったが、コレナイはこの使者が女なのだと分かった。そしてすぐに、性別が曖昧な彼らに対して、どうしてハッキリと断定ができたのかと、不思議に思った。そうして、たちまちに頬を流れる冷や汗の理由まで忘れてしまって、困惑のままに立ち尽くした。

 茫然とするコレナイを押してグズが割り込み、倒れたままの使者に手を差し伸べた。グズの白渦は深刻な焦慮で捻じれていた。

「これはすまない事をした、使者よ。どうか気を乱さないで欲しい。我が友の非礼、この吾輩に免じて許してはくれないか。」

 使者に反応は無く、一段と戸惑ったグズは渦模様を委縮させた。瞬きの間に、渦模様がコレナイの眼前に迫った。

「何をしている、君も詫びるのだ。彼らがまだ我らの匂いに慣れていないかも知れないと言ったのは君だろう。早急に宥めなければ!いつかのように殴り掛かられたら面倒だろう!」

コレナイはグズの耳打ちでようやく我に返ると、深く屈み、グズと同様にして使者を助け起こそうとした。屈んだことで視線が低くなり、フードの下に隠れていた細く白い鼻筋視えるようになった。

「すまなかった、どうか警戒しないで欲しい。私はこの国の者で、一体どれくらい経ったのかは知らないが、ずっと旅に出ていた。あなたは、言葉が通じるだろうか?せめて、せめて敵意が無いことをわかって欲しいのだが・・・。」

 口では詫びながらも、コレナイは使者の鼻筋に目を泳がせて、あと少し顔を上げてくれないかと胸の内で願っていた。期待に反して鼻筋はまるで作り物のように微動だにしなかったが、どうやら言葉の意図は伝わったようで、差し出した右手に細い指の感触があった。コレナイは使者の手を引き、丁重に立ち上がらせた。

「ああ、良かった。いやだ、いやだ。もう使者とは闘いたくない。殺してはいけないし、しぶといし、中々に一撃が痛いし。・・・助かった。君もやるものだな。感心したぞコレナイ。」

 グズは溢れるほどの安堵の為に白渦を溶かし、抑え切れぬ緊張のために渦模様を鼓動させていた。

「本当にすまなかった。本当に、本当にすまなかったよ。」

 コレナイは謝りながら、動かぬ使者をできる限りに最後まで気遣おうとした。そんな体で、なんとかフードの下を一目見ようと画策したのだ。しかし胸の片隅では長く触れていてはならないと直感し、使者の指を心惜しく思いつつも手放した。そして、その場を立ち去ろうとした、その時だった。

「春はどちらにありますか?」

 透き通った、静かな声音が鳴った。コレナイは迷うことなく使者に振り返ったが、グズは声の正体に思い当たれず、霧がかった空を見上げ、思考をあらぬ場所へと昇華させた。

「橋の国は知っているだろうか。東の果てにある国なのだが、知らなくとも、東へ道なりに進めば、途中で人里の跡がある。そこから北へ行って、最も大きな山を目指せばいい。春の国は自ずから現れる。」

 ぼおっと天を見上げるグズを余所に、コレナイは小柄な使者にそつなく答えた。すると使者は一礼をして、門の方へと歩いていった。背を見送っていると暫くして強風が吹き付け、僅かの間、懐かしい香草が香った。

「なんと、あれは使者の声であったか。彼らが話すとは知らなかったから、とうとう空が喋ったのだろうかと思い当たったのだが、どうも霧で見通しが悪いし、待てど二言目が無いし。・・・ところで、なんだろうな。あの行動の速さ、迷いのなさは如何にもな様ではあるが、あれは本当に使者だったのだろうか?違和感がある。君はどう考えるかな?」

 グズが首を直角に捻って問いかけたが、コレナイは答えなかった。コレナイはどことなく、あの小柄な使者を追いかけるべきだったのではないかと強く感じ、囚われていた。同時に、向かうべきは後方であり、遥か先へ駆けて散った香草の残滓が、この得体の知れない衝動を解決してくれるようにも感じていた。沈黙に耐えかねたグズに名を叫ばれるまで、コレナイは要領を得ない思考に夢中になっていた。

「コレナイ!おい、どうした!まさかと思うが、使者に嘘を教えたのではないか?それで今になって後悔しているのではないか?・・・だとしたらとんでもないことだ。少なくとも吾輩は橋の国も、春の国も噂にしか知らない。どうなんだ!」

「私も行ったことは無いが。詳しい奴がいるだろう。」

 我に返ったコレナイは顎先で城を指した。

「ティバか。まあ、確かにあれが言うことなら間違いはあるまい。・・・久しい再会になるなあ。腕が騒いでいる、心が湧くようだ。」

「お前に心があるとはね。」

「吾輩と会わなければ心が何たるかを知ることもなかった君が、よくまあ言うようになったものだ。」

 草原を抜けた二人は簡素な木の扉へと続く石段と出会った。グズは愉快そうに石段を跳ねて登り、扉の前に立つと、右の鉄輪を引いた。そして先にコレナイを中へ招こうとして、扉とともに石段の端に流れたのだが、それが良くなかった。城内から大胆な足音が聞こえた。それは段々と近づいてきて、最後には大柄な男の姿を纏い、コレナイに抱きついた。

「よく帰ってきたコレナイ。随分と遅かったな。てっきり俺は、今度こそお前がどこかで野垂れ死んでしまったのではないかと覚悟していたよ。・・・見回りに出ていた使者の知らせを聞いて驚いた。本当に良かった。なんともないか。傷は、病は。あの怪物になにかされなかったか。」

 大男の大声による労りは、長旅の疲弊で緩んだコレナイの鼓膜と脳を揺さぶった。コレナイは気が滅入りそうになりながらも、健気に男の巨体を押し返した。

「やあ、ティバ、久しいな。この通り私は何ともないよ。・・・だけれど、とても疲れているんだ。良ければ椅子に座らせてはくれないか。なあ、グズ。お前も座りたいだろう。」

 コレナイが呼びかけると、開き切った扉の陰から長身の黒い影が這い出てきた。大男、ティバは驚き飛び退いて、開いていないもう一方の扉の裏に隠れた。

「吾輩は疲れなど感じない。ほれ、ティバ。喜びは同じだが、先にコレナイを休ませてやってくれ。吾輩はともかく、コレナイはボロボロなのだ。感動の再開も束の間、悲劇の別れを迎えては無粋だろう。・・・いや、案外に興か?」

「ありえん。」

 コレナイがすかさず否定した。

「お前はいつもいつもどこから現れているんだ。忌々しい怪物め。」

ティバは扉から顔を半分だけ覗かせ、グズを睨みつけた。

「カッカッカ、いやはや、目が悪い。機転が利かない。足も鈍い。歳ばかり取るなあ、ティバよ。」

「五月蠅い。今に見ていろ。お前の存在を東に証明して、必ず殺してやる。」

「君らでは若い、若すぎる。全く、その日はいつになるだろうかなあ。千か、万か。たかだか百の老いぼれめが、カッカッカ。」

「黙れ!」

 ティバが悪態をつき、グズがあしらう。帰国の度に繰り広げられる光景だった。コレナイは度々に、実のところ二人は仲が良いのではないかと考えることもあった。

「・・・それに忘れるなよ。何度でも言うが、吾輩は怪物ではない。二足で歩き、天辺の頭で考える。そしてコレナイの友人だつまり吾輩は君の、君の・・・何者だ?旅の最中で素晴らしい表現を思いついたのだが、困った、忘れてしまった。」

「怪物と仲良くなどするものか!」

 ティバが城内から椅子を持ってきて、グズを威嚇した。グズは「こわいこわい」、と言いながら八本の腕で壁を作り、一方でコレナイに顔を寄せた。

「コレナイよ、吾輩は今日こそはこいつと友になるぞ。どうにか仲裁してくれ。今日は上手くいく気がするのだ。」

「おい、コレナイに何を吹き込んでいる。お前、汚いぞ。」

 ティバは椅子でグズの腕の壁を攻撃し始めた。するとグズは「いたいいたい」、とわざとらしくティバに聞こえるように言いながら、尚もコレナイに語り掛けた。

「早く、早く。君は麗しき鷹だ。鷹のひとっとび・・・ん?梟の一叫び?・・・わからん!兎に角、君の一声で全ては解決する。友よ、意見を聞かせておくれ。ところでこの星に鷹や梟は生息しているのだろうか。」

「変な言葉でコレナイを惑わすな!」


「・・・私を労わってはくれないのか。」

 コレナイは度々に思うのだった。実のところ二人の言う友とは形だけで、別に好意や親切心がある訳ではないのではないかと。コレナイは深いため息を漏らした。その重い息に真っ先に気づいたのはティバだった。ティバは足の折れた椅子を放り出し、グズの腕の壁を潜ってコレナイに近づき、その背を支えた。

「すまないコレナイ。俺としたことがつい、馬鹿に夢中になっていた。許してくれよ、全てあいつが悪いんだから。」

 平静を装い、コレナイを城内へと導こうとしたティバだったが、顔は紅潮していて、声にはまだ興奮が籠っており、ちらりとグズを目尻で威嚇しては、言葉の間間に歯を食い縛っていた。

「いや、いいのさ。お前が元気なようで嬉しいよ。まあ、だが、やっぱり歳をとったな。」

 コレナイは再び漏らしかけた溜息を今度は呑み込んで、ティバの顔をまじまじと見つめた。記憶の中のティバは若かった。だが、目の前のティバはその頃より肌が粗くなったようで、いくらか覇気も薄らいで見えた。はっきりと老いたと言うほどではないが、抗い難い時間の報いを感じた。

 ティバは城内の廊下を真っすぐに進み、扉を二つ抜けた先の客間に到着すると、コレナイを白く塗装された椅子へと導いた。密かに付いて来ていたグズは座らず、右手前の角で朽ち木を真似た。

ティバはコレナイの汚れ切った服や、乱れた髪といった、旅の跡を眺めた。

「髪も服も砂まみれ、本当に厳しい旅だったようだな。・・・それでも、お前は変わらないな。いや、寧ろ若返っているようですらある。不思議なことだ。怪物は信用ならないが、あいつの何らかの力がお前の無事に一役買っているのなら、有難いことだ。」

 話しながらティバはコレナイの衣服の乱れを整え、側の棚から取った小道具で砂を掃い始めた。流れるような手つきであったが、視線は落ち着かず、絶えず部屋の角を気にしていた。ティバは自然な動作でコレナイの耳元へ顔を寄せると、告げた。

「だが、いいか。絶対に心は許すなよ。東で学んできたんだが、世には悪魔という生き物がいるらしい。悪魔はだな・・・魔女という妖艶でずる賢い女を従えていて、真っ黒で、翼と角があるんだ。」

「なぜ女を?」

「悪魔は人を誘惑する。そのために女を使うんだ。巧妙に騙し、最後には石にして食ってしまうためにな。・・・見ろ、あのグズとかいうやつは角も翼もないが、どうだ!真っ黒だ!それに、改めて観察して気づいたが、あいつの腕は見様では角にも翼にも見える気がする。間違いない、あいつは悪魔だ。ちょっと違う雰囲気の生物にギリギリで擬態しているに違いない!・・・聞け、コレナイ。上手く誤魔化して機を衒え。東に手がある。近いうちに俺がおおおっ!!」

 突然、ティバの身体が宙に浮いた。忍び寄っていたグズに襟を摘まみ上げられてしまったのだ。情けない格好で吊られるティバの揺れる袖の隙間からグズの手が伸び、コレナイに向けてブイの字を作った。

「逸話に乱されるなよ、友らよ。吾輩は悪魔なんぞ知らぬし、元は君らとそう変わらぬ生物だった。そうでなくとも吾輩は君たちの親愛なる王。栄誉ある協力者なのだ。」

「・・・っく。」

 ティバは悔しそうな顔をしたものの、抵抗はしなかった。ティバは悪魔に詳しかったが、具体的な対抗手段までは学んでいなかった。

 意外にも大人しいティバに、グズが満足した。

「よしよし、いいぞ。それでいい、偉いぞ!聞き入れるのは楽なようでタダではない。それ相応の勇気と覚悟がいる。」

 グズはそう言って、ティバの頭をポンと叩き、ティバをコレナイの反対側に降ろした。そして、自身の四つの手を打った。椅子の上で眠りかけていたコレナイが跳ね起き、椅子の脚を暴れさせた。

「さあさ、戯れは良いが、辞め時が肝心だ。さて、恒例の報告会といこうじゃないか。旅の成果を話すぞ!」

 声高らかに宣言したグズは六本の腕を広げ、それらの腕や指を、関節とは無関係に、不規則に折り曲げては組み合わせ、頭の上と左右にそれぞれ大、中、小の三つの円を模った。指先を絡めた大の円は他より著しく大きく、肘を掴み合った中くらいの円は小より二回りほど大きかった。

 挙げられた腕腕の、手首から肩へと滑り落ちた金銀の腕輪が擦れ合い、耳障りな音を立てた。コレナイとティバは耳を塞ぎ、歯を食い縛った。

「見比べてくれ。この大きな円が昨日に確認した球体の姿だ。次に大きいものが前回。最も小さいものが前々回になっている・・・。」

 グズは更に、七本目の腕の指で、とても小さな円を作った。

「・・・そしてこれが、吾輩とコレナイが最初に旅した時の球体だ。」

「なぜいつも腕を用いるんだ。正確なのか?」

 不満げな面持ちで腕を組むティバが指摘した。

「吾輩の腕が誤ることはない。コレナイとともに球体に沿って歩き、実際にこの腕で計ったのだ。疑うのなら、今からコレナイの心臓と胃袋の大きさを当ててやろう。吾輩は詳しいぞ。」

「冗談じゃない。いつの間に計ったのか知らないが、やめてくれ。」

 コレナイが身震いしながら拒んだ。グズの言葉には一片の悪意も無いようだったが、声に纏った一途な好奇心と自信が、コレナイの頭に世にも恐ろしい想像を現実的に彩ったのだった。

「カッカッカ。冗談だよ、コレナイ。・・・まあ、全てはティバ次第だが。」

 白渦と、コレナイの不安の眼差しが示し合わせたようにティバに向いた。不服なところはあったが、友を想えば、ティバに選択の余地はなかった。

「わかった、わかったよ。お前の腕は正しいのだとしよう。だが、一つだけ言わせてもらうがな。その一番に大きい円だけは間違っている。球体がここらからも見えるようになって長いが、それ程までに極端な成長は感じない。」

「おお、よく見ているな。しかしだ、ティバ。君は見事に騙されている。」

「なに?」

「球体だがな。どうやら、あれは離れた地からは小さく見えるらしい。まだ仮説だが、危機感を与えぬ策ではないかな。球体は意思を持つ一つの生命体なのかもしれない。」

 答えながらグズは三つの円を解き、コキリと節々を鳴らした。それに対抗してか、ティバも拳を鳴らした。

「フン、どうだか。俺は、あれを自然現象だと考えているが。」

「分からん奴だ。吾輩が生命体だと言っているのに。」

「証拠でもあるのか?」

「ああ、見せてやろう。」

グズは唯一、腕輪のない腕を上げ、その手をひらひらと振った。

「何も持っていないじゃないか。」

「馬鹿め。ここにあった腕輪がないだろう。」

 グズの答えに、ティバはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「腕輪を失くしたことが生命体の証拠だと?阿保らしい。」

 そう言って、ティバは高笑いを始めた。だが、グズは全く気に留めず、静かに白渦を躍らせた。

「生命体は確実に存在する。そして敵らしいことも分かっている。・・・腕輪を失った経緯だがな。先の旅の最後に、吾輩の至宝の一つを球体内に潜入させてみたのだ。すると恐ろしいことに攻撃を受け、腕輪ごと奪われてしまった。吾輩からは敵意を示してはいなのにも関わらずだ。コレナイも見ていた。なあ、コレナイ。」

 白渦とティバが一斉にコレナイに向き、コレナイは慌ただしくたじろいだ。グズが言う至宝が腕輪のこととは察しきれなかったが、思い当たる新しい記憶があった。

「ああ、見た。グズが球体に触腕を伸ばして、それから、見る見るうちに触腕が吸い込まれて行って、最後には腕輪が砕け散った。グズの腕輪自体は球体には触れていなかったのに、だ。つまり・・・。」

 コレナイは結論を急がず、一度、落ち着いた頭で球体に考えを巡らせた。真っ黒な球体の中の様子は外からは観測できない。故に、生物がいる確かな証拠はない。だが、例えば球体が嵐のような自然現象であるとしたなら、球体の内部に入った触腕にこそ影響はあれども、腕輪までもが干渉されるとは考えられないのだ。

「・・・ティバ。グズが言う通り、球体の中には何かがいる。いてもおかしくはない。少なくとも、外の私たちに敵意か警戒心を持ち、球体の外にまで干渉してグズの腕輪を破壊できる何かが。」

「・・・そうなのか。」

 コレナイが断言するや、ティバは明らかに落胆した。

「何も落ち込むことはないだろう。事実、そうとしか考えられない。私は、この目で全て見届けて来たんだ。」

「お前は、俺じゃなく悪魔に加担するんだな。」

 当て所のない消え入りそうな声が、ティバの胸元から立ちのぼった。

「分かってくれ、ティバ。」

 ティバに寄り添い、慰めようとする姿勢を見せながらも、コレナイはティバの有様に困惑していた。青年らしかった頃の彼も同じ様だったろうか。知らぬ間に時は彼の内面までもを変えてしまったのではないだろうか。思えば、旅を挟むごとに、ティバの人格はまるで別人のように塗り替わってきていたような気さえした。コレナイはティバに触れることを躊躇い、あくまで側で語り掛けることに専念しようとした。

「なあ、ティバ・・・。」

「分かった。」

 ティバのだらしなく下げられていた腕が突如として確固たる意志を得て、コレナイの両肩を掴んだ。続いて上げられた顔は嬉々として輝き、恐ろしい程の実直さすら浮かべて見せた。誇らしげに緩んだ唇は静かに呼吸を繰り返し、ただ一言を告げた。

「飯にしよう。」

 ティバは早足でコレナイを客間から連れ出し、外へ向かった。道すがら、通り過ぎた三つの扉に一々に鍵をかけていったが、どれもグズの足を二秒と止められなかった。城を出るなり、ティバは進路を左に変え、生い茂る木々の間の細道をずかずかと進んでいった。

「腹が減ってるだろう、コレナイ。今回は手によりをかけて準備していたんだ。言わなくてもいい、当然、楽しみだろうな。久しぶりのごちそうだもんなあ。」

「待て、球体の対策をだな。」

「いいから、いいから。いいんだ。ここはお前の家なんだ、焦ることはない。・・・みんな待っていた。俺は特に待っていた。実はお前がいない間に東で修行して来たんだ。なんと国王が直々に料理人やら技術者を手配して下さってな。お陰で何だって出来る。さあさ、着いてきてくれ。着いてくるんだ。ところで国王って階級、聞いたことはあるか?」

「聞いたことは無いが、偉いんだろうな?」

「そう、偉いんだ。つまりだな、なあ、コレナイ、お前なら俺の頑張りを分かってくれるだろう?」

「あ、ああ、頑張っているとは思うが・・・。」

 コレナイはいかにしてティバを説得しようかと考えた。しかし、細道を抜けたところで目に入った景色に唖然とし、頭が真っ白になってしまった。

 細道の後に現れた見通しのよい浅い草原の中央に、円形の頭をした、驚くほど巨大な木造の建築物があった。広く苔むした外観は新緑に見事に溶け込んでいたが、明らかに人工的な窓も散見された。コレナイはこの神秘の建造物を如何に理解しようかと興奮し、悩んだ。果てに、偶然にも自然的に創られた人工物、と、明らかな矛盾の元で頭を落ち着かせた。

「まさか、私がいない間に作ったのか。」

「まさか。こんなの、使者総出だって造れやしないさ。なんと、こいつは自分で歩いて来たんだ。六足で歩いて、生きていたんだよ。コレナイにも当時の光景を見せたかった。圧巻だったんだ。・・・いやあ、いつ見ても素晴らしい。誇らしき春の国からの贈り物。初めは俺が一から造った建物に迎えるつもりでいたんだが、春の国の主は、それはもう美しく寛容な方でな。あの方に貰ったのでは無下には出来んし、考えれば俺の外交の成果でもあったから、受け入れてしまった。」

 先行したティバが木製の二枚扉に手を添え、押した。中に入ると、わずかに暖かい、剥き出しの木の香りが辺りを包みこんだ。中は暗かったが、比較的、夜目に慣れていたコレナイは、一階と二階の区別があることに気づけた。

 ティバはコレナイの手を放し、届く範囲の蝋飾りに火を灯しながら奥へと進んでいった。少しずつ内装が浮かび上がり、最後に灯された三つの蝋が、ポツンと置かれた長机と三つの椅子を露わにした。ティバが椅子の一つを引いて、手招きした。

 コレナイは案内された椅子に腰かけ、明かりの端々に目を凝らした。そして二階に廊下らしい輪郭を見かけ、「上もあるのか。」と、独り言ちた。

「聞いて驚け。あの廊下は楕円状にぐるっと一周して繋がっていて、それに沿って五十の部屋が設けられている。」

 独り言を聞きのがさず、ティバが誇らしげに答えた。

「ほお、流石は春の国だな。泊ることはできるのかな?」

 コレナイは深く感心し、部屋に興味を持った。だが反してティバは気まずそうに表情を歪め、項垂れた。

「・・・泊ることはできない。寝具を揃えていないんだ。」

「お前という者が、一つもか?」

「ああ、情けないことに手つかずだ。・・・そもそもの話だが、この建物は野晒で夜を過ごす使者らを労わってやりたくて春の国に願った物だったんだ。だが結果は、お前も見てきただろう。あの通り、あいつらは相変わらず草が寝床、木の根が枕さ。飯も保存処理した粗末な肉以外には手を付けない。どんな努力をしたって、伝わるものは何一つなかった。あいつらは、まるで獣だよ・・・。」

 ティバはうんざりだと言わんばかりに、乱暴に首を左右に振った。

「・・・だからと言ってはなんだが、お前が無事に帰って来てくれて本当に良かった、嬉しかった。俺の心の救いは、お前だけだ。」

「ティバ、私は・・・。」

 コレナイはティバを慰めようとしたが、舌が挟み込まれるような違和感があって口ごもった。ティバはもごもごと言葉にならない声を吐き出すコレナイを案じはしたが、不審には思わなかった。

「なんだ、急にどうした?・・・いや、すまない。思えば長旅の後で疲れていたよな。全く、駄目だな。俺は自分勝手な奴だ。・・・飯の準備をしてくるよ。何もないから退屈かもしれないが、下準備は済ませてあるから、大して時間はかからない。だからコレナイ、どこにも行かないで待っていてくれよ。」

 そう伝え残して、ティバは建物から去って行った。その直後、コレナイの舌から異物感が抜け、それとともに目の前に真っ黒な山が屹立した。

「ティバめ、カッカッカ。弱い、弱いなあ。」

 嘲るようなグズの物言いに、コレナイは苛立った。

「あいつは弱くなんかない、寧ろ強いほうじゃあないか。特殊な身の上に苦労しているだけで、一人で良くやってくれている。」

「ああ、分かるよ。吾輩もあれの苦心は理解している。」

「なら素直に褒めてやってもいいだろうに。」

「カッカッ、弱さを褒めて何になる。いいかコレナイ、我らは弱さに立ち向かうことで強くなるのだ。知る者、そして立ち向かえる者だけが、己を誇るに値する。」

「ああ、ああ、始まった。・・・今日は控えてくれ。お前のご高説は耳に痛い。」

「痛みを受け入れたまえよ。最後に誇りがあるために。」

「はあ、今の私は労わられるべき存在ではないかな?」

「・・・うむ、そうだな、それは、そうだ。確かに、打ちひしがれた君を痛めつけても意味がない。仕方がないな、残りは明日に語るとしよう。」

「・・・。」

 それから、そう経たずしてティバが帰ってきた。彼は萎びた老人を乗せた車輪付きの椅子を押し、料理を乗せた皿を手にした四人の使者を従えていた。

 ティバは車椅子をコレナイの対面から僅かに右に逸れた位置に寄せると、自身はその隣に座った。机の両脇に使者が二人ずつ並び、机に四つの皿を並べた。それだけをして、使者らは帰って行った。

「早かったな。」

「日々の鍛錬の賜物さ。さ、冷めてしまう前に食べてくれ。」

「いただくよ。」

コレナイは二又の食器を握り、目の前の四種の料理を吟味しようとした。しかし眺めている内に、皿を飾った豊富な色に酔ってしまった。果てには果たしてどれが真に食べ物であるだろうかと、真剣に悩んでしまうほどだった。

 頭と目をふらつかせ混乱するコレナイを見かねたティバが、底のある取り皿に乳白色の液体を分け、コレナイに勧めた。

「これを飲んでみろ。これは東で最もナウい料理でな。意味は知らないが、優しい味で、旨いんだ。具材のほとんどは春の国からの貰い物だが、注目はこれ。この、赤い根菜なんだが・・・。」

 ティバは輪切りにされた赤いそれを二又の食器で突き刺し、持ち上げた。

「・・・なんと俺が育てた。この国でだぞ。意外なことに、ここらの土地は農作に向いているらしい。他にも色々と育ててみているんだ。収穫はまだまだ先になりそうだが、かわいい芽がぽつぽつと出てきていてなあ・・・そうだ!よかったら明日にでも農園を案内してやろう。二泊三日でどうだ?」

「気持ちは嬉しいが、いいよ。」

 コレナイは乳白色の底から赤色を拾い、口に入れた。噛んでみると歯切れがよく、音も良かった。しかし、そうして満足しかけた所に強い酸味が押し寄せて脳天まで突き抜けた。コレナイは咄嗟に口元を掌で覆い、悶絶した。

「・・・不味かったか?」

 慌てて水を含むコレナイに、ティバが苦く笑いかけた。

「悪い。実は、これを収穫したのはだいぶ前の事でな。初めての収穫物だったから、どうしてもお前に食べさせたくて保存していたんだ。たぶんあれだろう、酸っぱかったな?」

「ヒヒィ、ヒ・・・。」

 コレナイはどうにか世辞を言おうとしたが、舌が痙攣しており、喋ることができなかった。ティバも恐る恐る赤い根菜を齧った。二、三度の慎重な咀嚼の後、表情を固めた。

「待て。旨い。美味いぞコレナイ。」

「冗談らろう。」

 漸く舌に自由を得始めたコレナイは、回りきらぬ滑舌でどうにか答えた。

「俺の味覚に間違いはない。おい、おーい、グズ。」

「とうとうか!何用かな、友よ!」

 グズが机の下から這い出てきた。ティバに呼ばれたことが嬉しかったのか、白渦は期待を映していた。

「味見してみてくれないか。口、あるよな?」

「勿論。」

 断言して、グズは白渦の下を真横にパックリと割った。断面からはどこまでも果てのない暗闇が覗いていた。ティバは二又の食器を刺せる限りの根菜で飾って、食器ごと暗闇へと投じた。根菜と食器はグズの体内へ入ると、まるで遥か彼方へと遠ざかっていくように、どこまでも小さくなり、最後には消えてしまうと、口が閉じられた。

白渦が赤く染った。

「・・・うむ、うむ。これは美味だ。美味!吾輩は知っている!喧喧囂囂、いいや、オウアチョウタツ?これこそ、そう!失われた我が故郷の味。懐かしき朝風。木漏れ日の軌跡。冷ややかな星の嬌声。だが、故郷はもう・・・ん?ここが故郷か?いいや、断ずる相違、有り得ない!かくも美しきかな遠い過去よ、何故!」

 グズは叫び、全ての腕を折りに折り、乱れに乱れた。絶え間なく擦れ合う腕輪が不協和音を奏でた。その為にコレナイとティバは頻りに歯を食いしばり、ティバの隣で黙々と食事を進めていた萎びた老人は舌を噛んで呻いた。

「ほらな、見ろ。こんなグズを見たことがあるか。美味いのさ。乱れてしまうほどに!グズ、お前、なかなか分かるやつじゃあないか。」

 顰め面で喋りにくそうにしながらも、ティバは嬉しそうに言った。

「美味!何故?故郷よ何故!」

 グズは滅茶苦茶に喚き、より乱れた。腕輪の合唱がテンポを早め、とうとう耐えられなくなったのか、ティバは叫んだ。

「解った!もう十分に解った!グズ。俺はお前を見直すよ。だから、頼むからもうやめてくれ。・・・おい、グズ?!」

 ティバの訴えはグズには届いていないようで、動きは止まるどころか、益々に激しさを増していった。

「なあ、コレナイ。どうしたらいい。」

「分からない。私もこんなグズを見たのは初めてだ。」

「嘘だろう!それなりに長い付き合いだろうに!」

ティバは大声でそう言うなり、青ざめた。そして隠そうとした非を指摘された子どものように、斜め下を凝視して石のように固まった。

 一方、コレナイは事を楽観視して、全てを時間に任せてしまおうと考えていた。終結を待つ間にふと、ティバを眺めて、過去を想った。昔のティバはどんな人物だったろうかと、とうに薄らいだ記憶に問いつめた。その時、思い出しかけた若かりしティバの面影に砂煙が集った。どうしてかコレナイは不定形な煙たちが重要な知人であると悟っていた。その正体は全く思い出せなかったが、彼らに抱いた感情は鮮明だった。腐敗した後悔が堰を切り、冷たい濁流が束の間の郷愁を凍らせた。

「〇△▽◇◇。」

 ごく自然に吐き出されたコレナイの形ない囁きは騒音に飲まれた。だがグズは聞き届けていた。肩が微かに震えるとともに、全ての腕が静止した。

「友よ・・・。」

 目に光を失い、底なしの白昼夢に落ちたコレナイに、グズが冷たくも優しげに呼びかけた。八本の腕が翼のように広げられ、九本目がコレナイの顎をそっと摘んだ。

「・・・背負いきれぬ禍根に潰されてしまうな、委ねてしまえ。」

 グズがコレナイの顎を爪先で引っ掻くと、コレナイは虚ろなままに口を開け、喉から青い息を昇らせた。するとグズが口をぱっくりと開け、ゆっくりと時間をかけて、青い吐息を残さず吸い込んだ。

「お前、それはなんだ。コレナイに何をしている。」

 傍で一部始終を見届けていたティバが震える声で言った。彼は血の引けた顔と血眼でグズの背を睨みつけていた。それに対してグズはそっけなく一瞥を返し、「なにも」とだけ答え、また背を向けた。

「・・・嘘だ。お前、コレナイから何かを奪っただろう。喰っただろう!悪魔め。今すぐコレナイから離れろ!」

 ティバは机を跨いでグズに迫り、左手を振りかざした。その手には凶器と化した二又の食器が握られていた。グズはじっとコレナイを見つめており、無防備であったが、ティバに迷いはなかった。明確な殺意を、勢いのまま振り下ろした。

「ティバ?」

 不意に友の声に名を呼ばれ、ティバは動きを止めた。グズの肩の上から、コレナイが心配そうにティバを見つめていた。

 ティバは悪魔の首筋に達しかけた刃先を、既の所で止めた。そしてグズの背に数秒ばかり隠れて友の顔を作り、コレナイと目を合わせた。

「無事なのか、コレナイ?」

「お前こそ大丈夫か?机の上に立って・・・食事中には立つなと、マナーがどうだのと五月蝿かったのに。それともまた、お得意の新しいマナー講座か?頼むから方法はハッキリしくれ。逆らう気は無いが、私は決して器用ではないんだ。」

 コレナイは目に光を宿していた。昔から変わらぬ友の目だった。ティバは目を瞑り、息を整えて、握っていた食器をこっそりと机に置いた。

「吾輩は何をしていたのだったかな。夜闇に紛れて使者のフードを攫おうと画策していたはずだったが、気づけばここにいて、コレナイが憑りつかれていた。はて、はて?」

 グズはどうやら根菜を食べた記憶がないらしく、首を傾げていた。その間に、ティバがグズとコレナイの間に割って入って、ついでとばかりにグズを後ろへと押しのけた。

「コレナイ。今のは何だ。俺は見たぞ、あいつが悪魔になった瞬間を。なあ、お前とあいつはどういう関係なんだ。正直に教えておくれよ。」

 ティバの真剣な眼差しと懇願の理由を、コレナイは全く理解できなかった。記憶をいくら探れど、根菜が舌に合わず苦しんだ事実だけに行き着いた。

「コレナイは知らないはずだよ。吾輩が喰ったのだからね。」

 あっけにとられるコレナイの代わりに、グズが答えた。

「やっぱ喰ってるんじゃあないかあ!」

 ティバは叫び、今度は隠すことなく、明確な殺意を纏った。再び二又の食器を取ろうとしたが、先にグズに拾われてしまった。グズは「まあまあ」、と繰り返しながら四つの腕を巧みに操り、ティバを羽交い絞めにした。

「どうか聞いてくれ、ティバよ。君はその勤勉さと好奇心の故に、知識と技術と、興ろうとする異郷の文明に囚われてしまっている。追い付かねばと、与えねばとな。解るとも。空は、さぞや辛いだろう。できることなら、吾輩が手を差し伸べて救ってやりたいものだよ。・・・だが、君のそれは不幸ではない。苦難だ。だから吾輩には救ってやることができない。君が独りで乗り超えるべきものであるからな。・・・そして勘違いしないでくれよ、友よ。吾輩はコレナイを救おうとしているのだ。コレナイは大いなる不幸に苛まれている。生を呪ってしまうほどに、死を祝福と思うほどに。故に、吾輩がああして、不幸の一部を預かっている。間違いが起こらぬようにな、そういう契約なのだ。勿論、預かっている以上、いつかは返すことになる。コレナイがいつか、己の不幸を苦難として迎えられるようになった時にだ。・・・いいか、友よ。吾輩は君が妄信して止まない悪魔のように、コレナイを餌として喰っているのではない。救おうとしているだけなのだ。それだけは理解してほしい。」

 グズはそっと、静かな口調でそう告げると、ティバの拘束を解いた。自由を得るや反抗を志そうとしたティバだったが、彼の身体はグズの呪いのような声に支配され、指先一つとして動かなかった。漆黒の怪物に対して、僅かな疑いすらも抱けなくなっていた。

「・・・契約って、なんだよ。」

 ティバは譫言のように呟いた。そして呆けて座るコレナイに向かうと、長机に手を突き、逃げ場を塞いだ。

「教えてくれよ。それくらい、いいだろう。俺はお前が心配で言っているんだ。なあ。俺はお前の為に、この寂しい国の為に努力してきた。長い仲だってのに、それなのに、俺を信じられないか?頼れないか?怪物の方がまともだって言うのか?」

 コレナイはティバと目を合わせられなかった。俯き、考えつくだけの答えを試そうとした。しかし、どの言葉も息を詰まらせ、醜く唇を歪ませるばかりだった。

「・・・コレナイ。きっとお前は疲れてしまったんだ。何年も外にいて、気が休まらず、限界なんだ。二度も失敗して死にかけて・・・旅なんか、もういいじゃないか。球体は急がずともどうにかなる。動いているのはお前たちだけじゃない。東や春にもあれは認知されているんだ。彼らなら俺たちを助けてくれる。だから、別に俺たちが無理しなくたっていい筈なんだ。俺たちは、彼らのように強くはないのだから。そうじゃないか?」

「ティバ・・・。」

 コレナイは友の名を呼び、少しの間を空けて、意を固めた。

「・・・どうか私を許してほしい。決してお前を嫌っているわけではないし、かけがえのない存在だと思っている。この国も好きだよ。それでも、私はグズとともに行かなければならない。どんな危険が待ち受けていたとしても、そうしたいと思っているし、そうすべきだと思っている。・・・なにも教えてやれないことを許してくれ。契約のことは、まだ話せるようなことじゃない。」

 コレナイは胸の内を、できる限りを話したつもりだったが、それでもティバの顔を確かめることができなかった。友の失望が恐ろしかった。

 ティバは何も言わなかった。溢れる失意が、感情を底に沈めてしまっていた。

 萎びた老人が淡々と汁を啜る音だけが、木の壁に木霊した。


 七度目の出国は一段と濃い霧が出迎えた。城を出て間もなくからの、手厚い歓迎だった。二人を見送る者はいなかった。ティバも、萎びた老人も、木の根に群がり寝転がる使者さえも。だがそれはいつものことと、コレナイは飄飄として口笛を吹き、気紛れと、風の流れに身を任せた。

「君の良いところは切り替えが早いところだ。死にかけても歩く。気絶しようとも、狂おうとも走り出す。友との仲が滞ってもこの通り。良い男だぞ、コレナイよ。君は間違いなく大いなる幸福を得る。この吾輩が保証しよう。」

 濃霧の中、グズの肩から下はいつも決まって隠れていた。霧が晴れるまでの数刻、グズは言葉を交わそうとする度に、コレナイを探す。今になってコレナイは、もしかしたら自分はこれまでずっと、全身が霧に完全に埋もれてしまっていたのではないかと思った。そして次には違うことを、どうでもいいようなことばかりを思い、考えた。

「・・・なんだ、コレナイ、語らう気も起こらないのか。実は気がかりなのか?ならば一応、伝えておこう。君の友はまともではなかったよ。あれは焦りか、何か、兎に角、自分を見失っている。虚ろのままに、あれよこれよと新しいものを知ろうとする内に追い詰められてしまったのだろう。」

「忘れさせてくれよ。どうせティバは、次に会った時には何事もなかったかのように新しい文化と技術で私を歓迎してくれる。恥や過ちを残しておくことは、あいつの為にも、私の為にもならない。一昨日のことは、もう何も言わないでくれ。」

「ああ、分かった。全て忘れよう。だが君は一つ覚えておいてくれ。吾輩はね、君のことも、あれのことも、未来永劫、否定しないよ。君ら引き延ばされた者たちには、やりきれぬ同情ばかりだ。」

「それも言わない約束だったろう。訳が分からないから。」

「そうだったろうか。うむ、そうだったかもな。失敬、失敬。」

 その後、暫くの間、二人は会話なく歩き続けた。霧を抜け、深緑を越え、ついに延々と思える荒野の始まりに至ると、息を潜めた。七度目の旅にして話題が無くなったから、とか、悪い雰囲気になってしまったから、とかではない。そこが敵地だったからだ。

 蠢く殺意。彼らは歪な物たち。常に飢え乾いた歪んだ命たち。彼らは使者らを天敵とし、球体には決して近づこうとしない。それ故に、国と球体の中間の地域に多くが逃れ、群れを成して生息していた。この日、飢えた獣たちは恰好の血肉を一人見つけた。待つことはない。彼らは草木の影から、それぞれの牙や爪を剥いてコレナイに襲い掛かった。

 コレナイは風のように跳躍してきた鋭利なそれらを避けようとはしなかった。なぜなら、これはコレナイにとって抗いえる苦難そのものではなかったから。コレナイは落ち着くように重ねて胸に言い聞かせた。それでも心臓は高鳴り、連なる苦痛の想像が歯を打ち鳴らし、四肢を震わせた。

「グズ!」

 コレナイが叫ぶとともに凛とした音色が響き渡り、迫っていた爪が塵に変わり出し、緩やかな風に散った。歪な物らはコレナイに一定の距離まで近づいた部位から順に、同様に塵へと変じていった。跳躍していた彼らは為す術もなく、脚らしい部位だけを残して消えてしまった。

「カッカッカ、なんという様だ。そろそろ慣れてきた頃と思っていたのに、今日は随分と酷い荒れようだ。吾輩に任せてただ歩いていればいいだけのことを。これでは、今回は球体に到達する前に倒れてしまうかもなあ・・・。」

 グズは懐から水筒を取り出し、カラカラと鳴らした。

「・・・ここで一杯、いかがかな。」

「いいから、早く全部殺してしまってくれ。音が聞こえる。いる。そこらにいる。」

コレナイはもう、歩くことはままならなかった。倒れてしまわないように気を張ることで精いっぱいだった。グズは溜息の代わりに、白渦を呆れさせた。そして二本の左方の腕を掲げ、捻り、腕輪を鳴かせた。

「吾輩は少し億劫になってきたよ。契約だから、願われては断れないがね。」

 二つの腕輪が共鳴し、心地よい涼やかな音を響かせた。音は辺りの木々や岩や地面に反響し、不快な音に変じて帰って来た。音を追って、どこからともなく湧き出す羽音と咀嚼音。コレナイはそれらを見てしまわないよう、固く瞼を結んだ。あらゆる音が届かぬよう耳を塞ごうとしたが、それより先に不快感がこみ上げ、口元を覆ったが間に合わず、足元に吐いた。すると足元からも羽音と咀嚼音と、悍ましい消化音がピリピリと鳴り出した。コレナイは吐瀉物で汚れた手でも構わずに耳を塞ぎ、唸り続けた。

 どれほどの時が経ったか、そう長くは無かったはずだと思ったが、まるで束の間に数年を経てしまったような疲労と喪失感があった。肩に手が置かれる感覚があって、目と耳を開放した。目の前にグズが立っていた。周囲からは既に、足音も気配も、羽音も咀嚼音も消えていた。その代わり、ちらほらと見えていた草木や岩や石ころが、砂と空と風を除いた全ての存在が消えてしまっていた。

「もう大丈夫か。あいつらはどこにもいないか?私は、何ともないか?」

 コレナイは不安がぽっかりと空けた胸の穴を、会話によって誤魔化そうとした。

「なにもない。君が吐いてしまった物まで綺麗さっぱり食べてしまったよ。」

「本当か、どこも欠けてはいないか?」

「安心したまえ、吾輩の誓いは絶対だ。敵はどこにもいないし、君も無事だ。少々、手に汚れが残ってしまったがね。」

 グズが水筒で濡らした黒衣の袖で、コレナイの耳と爪の間の汚れを拭きとった。

「すまない。助かるが・・・球体に達してすらいないのに、水をそんなことに使ってもいいのか。私たちは二度、それで失敗したろう。」

「問題ないよ。球体の旅は今回で最後になるから。」

 グズは水筒の蓋を閉じて黒衣にしまい、汚れた袖を千切って捨てた。

「解決策が見つかったんだな。」

「明かしてしまえば、最初から検討はついていたのだがね、昨日に決心したのだ。・・・コレナイ。あれの解決には、君にも協力してもらわなければならない。必要なのは覚悟だ。それだけだが、生半可ではいけない。」

「今の私にできるだろうか?」

 コレナイが不安をこぼすと、グズは青空を仰ぎ、口を割った。笑っているように見える口の端から青い息が吐き出され、それはゆっくりとコレナイへと漂った。

「思い出すといい。君の初めの不幸、契約の時だ。あの時の君にとってすれば、覚悟の一つなど苦難ですらない。面倒なだけの、瓦礫の山だ。」

 コレナイは無意識に口を開いた。たちまち青い吐息は腹へと吸い込まれて、コレナイの意識を溶かした。とてつもない苦みが蘇った。ぬるま湯に沈んでいくような感覚に沈み、脳裏の奥の底から、刹那の閃きに似た、いつかの記憶が息を吹き返した。

「越えれば、行く果てはそこにある。受け入れるだけだよ、友よ。」


 それはいつのことだったか。少なくとも、それが全ての始まりだったのだと、今では思う。

 些細な経緯だった。明確な目的はなかった。唯一、旅をしたいのだと感じた。必需品も持たず、友に一言も告げず、身一つで安住の地を去った。容易な事だった。その時はまだ、厳重な門が無く、独りになることができたから。

 一人の時間が、見も知らぬ外界が、私を溶かしてくれると信じていた。付き纏う漫然が、怠惰が、失意が嫌だった。恐れはなかった。もし感覚を超えて、私の全てが溶け切ってしまったとしても、当然のようにすぐに再構築されるものだと信じていた。きっと全てが良いものに転化するはずだと、漠然と妄信していた。

 旅の先、方位も判らぬ辺境で、私はそれと出会った。枝に死体を吊り下げた、気味の悪い真っ黒な朽ち木である。それが歩いている気がして、好奇心から近づいた。そして、それが生物なのだと知った。未知との遭遇に私は興奮した。あの時は同じほどの背丈だった、生きた朽ち木。居てもたってもいられず、私はとぼとぼと頼りなく歩行する朽ち木を呼び止めた。

「やあやあ、星の遣いよ。君はどこから来たのかな。見ない風貌だ、きっとどこか他所から来たのだろうね。どうか話を聞かせてはくれないだろうか。」

 朽ち木は鈍い動きで首を回し、私に白渦を向けた。

「吾輩は王だ。今は小さな、異郷の王。こうして楽園を探している。集めて大きくなるのだ、未来の臣民の為に。その為だけに、こうして、集めている。」

 朽ち木は右腕を二本、ぶらぶらと振った。その手に握られた人の足らしい何かが肉片と異臭をまき散らした。私はそれらを不快に感じたが、数奇な出会いを逃す理由には足らなかった。

「何という奇遇だろう。実は、私も楽園を探しているんだ。いや、楽園のようなもの、と言うべきだろうか。良かったら一緒に探さないか。もしかしたら、私たちは似通ったものを探し求めているのかも知れない。」

 私はなるべく笑顔を作って言った。当時の私を悩ませた、いつの間にか身体に染み付いていた、奇妙な癖の一つだった。だが、どうやら効果はあったようだった。朽ち木は口らしい位置を笑顔に似せて曲線型に割り、空の腕の一本で一方向を指さした。朽ち木には目が無いのにもかかわらず、一瞬、確かに目が合った。私はなんだか、この生物に全てを見透かされたような気がした。

「この先にある。我らの楽園がそこにある。」

「ああ、そうか。そうなのか、ありがとう。」

 私は感謝の意を告げて、早速その方向へと進もうとした。しかしふと振り返り、朽ち木を確かめた。朽ち木はじっと佇んでいたが、また目が合うと手を振った。

「吾輩は行かないよ。それは君だけの道だから。・・・果ては同じ楽園なのにね。生命とはどうして、不思議なものだよ。さあ、吾輩のことは気にせず行ってくるといい。きっとまた会うことになるだろうが、今はここで、君の楽園を祈っているよ。」

 朽ち木の言葉を、私はそれも当然と解釈した。根拠のない妄信と、底無しの期待感が足を急がせた。何を求めていたのだろうか。何を期待したのだろうか。脅威に溢れた外界を望んで彷徨っていたが、別に危険を求めていたのではなかったと思う。だが、どうあれ、無力な人一人が無謀に突き進んだのであれば、最後に辿り着くのは死地の他にあり得ない。

 とある森で、至る所から唸り声と、忍び寄る足音を聞いた。囲まれた私は、襲い来る死の影を歓迎した。牙が、爪が。首を、腹を、脚を切り裂いた。やがて覚えた耐えがたい苦痛に後悔した時間は長かった。私は生きながらにして喰われ、助けを求める口を失ったまま、腐る間もこともなく消えてしまえるはずだった。

 不愉快な振動で目を覚ました。靡く、穴だらけの黒衣が視界を埋めた。

 どうやら私は何者かの肩に腰を担がれ、運ばれている最中らしかった。頭部が垂れていた為か、頭に血液が登っていた。頭が熱く、割れるように痛んだ。それでも変に無気力であって、私は動かず、いっそ気絶してしまおうと企んだが、意識はいつまでも鮮明なままで、不快感が増すばかりだった。

 我慢ならず、藻掻いた。黒衣の何者かは私を簡単に手放し、落とされた私は乾いた土に腹を打った。腹を摩りながら体を起こし、見上げると、あの朽ち木がいた。白渦が、どこか不審な様子で私を見下ろしていた。

 朽ち木は力なく四本の左腕を垂れた。それらの手には死体が握られていた。

「なぜお前がここに?・・・私は一体、どうしたんだ。」

 私が問いかけても、朽ち木はすぐには答えてくれなかった。朽ち木は肩を揺らし、白渦を絶えず渦巻かせた。その動きが意味する驚愕と困惑が入り混じった感情が、私にも痛いほどに伝わった。

「どうしたことか、おかしなことになった。君は内臓を喰われていた。骨の髄まで無駄なく綺麗にな。てっきり死んだとばかり・・・。」

 朽ち木はそこまで言って、私に手を差し伸べた。その時だった。背後から、恐怖を誘う唸り声が聞こえた。そして直後、差し伸べられた手に付けられていた腕輪が輝いた。冷気が耳を掠め、唸り声が止んだ。輝きの行方を確かめると、ちょうど肩の高さで歪な何かが氷漬けになっていた。

「・・・お前がやったのか?」

「吾輩ではない、腕輪がしたことだ。・・・まさか、まさか、何ということだ、面倒なことになった。もしや君はただ死にたかったのか。死の不幸を引き受けるつもりが、吾輩は君の生を預かり受けてしまったのか。」

「何を言っている。お前は一体、何者なんだ。」

 私は途端に朽ち木を恐れ、そのあまり腰を抜かしてしまった。対して朽ち木は、優しく、慈悲すら感じさせて、私に覆いかぶさり、顎先を摘まんだ。

「言っただろう。吾輩は異郷の王様、楽園の探究者だ。ああ、哀れな男よ。今や君の全てが手に取れる。望みも、悲しみも、羞恥も、恐怖すらも。・・・可哀そうに。君はもう、楽園が来るその日まで死ぬことができなくなってしまった。楽園があらゆる不幸を解き放つその日まで。可哀そうに、可哀そうに・・・。」

 朽ち木は私の顎先を引っ掻いた。すると指先から順に感覚が失われ、意識が朦朧とし、喉奥から温度を持った何かが上ってくるのを感じた。

「これは契約だよ、コレナイ。偶然の事故ではある、だが、数奇もまた運命だ。吾輩が君の記憶を預かろう。目に障る傷には影を落としてやろう。君がいつか、全ては苦難であると知るようになるまで・・・。」

 朽ち木の顔が半分に割れた。底のない暗闇に、青い息が吸われていった。龍と、火と、鐘と、翡翠と、幻想のような重苦しかったものの全てが。中身が失われた空の胸に虚無ではない、使命感に似た何かがあった。私は、自分が生まれ変わるのだと感じた。それが支配や洗脳であるとは考えもしなかった。

「・・・いつか君は楽園を求める。あらゆる障害を潰し、立ちはだかる敵を殺し、不幸を集めるのだ。その果てにはただ一つ、永遠の幸福だけが待っている。」

 私は思い出した。私が一度、終わり、そして始まった日を。だが、今はまだ夢のままだろう。訳のわからぬ、夢物語。取り留めのない、不幸の断片。


「どうした、触れるな。影の主に腕を飲み込まれてしまうぞ。それとも腕なしで生きたいのかな。まあ、そうなったら、代わりに吾輩の腕を一本与えてみても面白いかも知れんな。相手が君なればこそ、試したいことだ。カッカッカ。」

 そんな陽気なグズの忠告がコレナイを夢中から呼び覚ました。コレナイは球体に触れかけていた腕を引っ込め、五歩ほど後ろに下がった。そしてはぐらかすように、足元の砂を球体へと蹴り飛ばした。砂は球体の表面の、粘液のような組織にただ吸い込まれた。

「考え事をしていた。・・・何を考えていたんだか忘れてしまったが。」

 コレナイの声は掠れていた。しばらく水を飲んでいなかった。

「気を抜くなよ、コレナイ。吾輩が側にいるとは言え、敵は小物ばかりではない。昔には大きく危険な物らがそこらを徘徊していたのだ。加えて言えば、最も謎の多い存在がすぐそこにいる。」

 そう語るグズは球体から離れた位置で黒い液体がつたる木の棒を手繰り、地面に何やら描いていた。今は大きな円の内側の模様に着手しているところだった。

「私は何をしていたらいい。私は、餌になるんだろう。」

「時間でも数えて、気がまえず楽にしているといい。別に君は実際に取って喰われるわけではないのだからな。苦痛とは縁なく、事が過ぎるのを待つだけだ。」

 コレナイはグズの背後に回って、枝によって描かれた模様を観察した。幾重もの円の内側には、形容し難い幾何学模様が並んでいた。どれもがいっそ滅茶苦茶なくらいで、どの角度からどう見ても、それぞれの形が判別できないほどだった。

「これは何を描いているんだ。」

「呪いの道具、魔法陣と言う。吾輩の故郷で使われていたものだが、主が吾輩ならばここでも有効なのではないかと思い当たってな。気休めではあるが、何もしないよりは良いだろう。」

「呼び出すのはここの影なのだろう。元王様とは言え、余所者の為に権威とやらは応えてくれるだろうか。」

「今日は冴えないな。だから君を餌にするのだ。分かっていない、コレナイはなあんにも分かっていない。吾輩は悲しい。」

「五月蠅いな。」

 しばらくして、グズが魔法陣を描き終えた。グズは明後日の方角へ木の棒を投げ捨てると、四つの手を打った。

「始めるぞ、コレナイ。円の中心に君の影が重なるようにして円の縁に立て。」

「他に決まりはないのか?」

「勿論、儀式は簡単でなければな。」

 コレナイは爪先で円を踏んだ。特に調整をせずとも、影は見事に、ちょうど胸の位置を円の中心と重ねた。目配せすると、グズは黒衣の内側を弄り、引き抜いた拳をコレナイの目の前で開いた。その掌には、そこらの砂と色が似た、様々な大きさの菱形が乗せられていた。白渦は誇らしげであったが、コレナイはイマイチ釈然としなかった。

「石ころか、砂の塊か・・・自慢げに取り出すようなものか?」

「待て、見覚えがないのか?」

 グズに問われ、コレナイはまじまじと菱形に目を凝らしたが、思い当たる物は何一つとして無かった。グズがいくら手を揺らして菱形を転がしても、それは変わらなかった。

「ないな、これといって。」

「変だな。これは君の国に所縁ある驚異的な呪いの断片なのだが。」

「そうは言われても。昔のことは、特に旅以前のことはよく覚えていない。」

「はあ。そう言えばそうか。まあ、良しとしよう。兎に角この菱形は、ここで呪いを行使するためには必須の道具だ。それだけ伝わればいい・・・。」

 グズは菱形を拳に握り、説明を続けた。

「・・・では、だ。コレナイよ。栄誉ある異郷の王たる吾輩による儀式と、現地の呪いの断片と、そして選りすぐりの餌が掛け合わさったなら、どうなると思う?」

「空から魔王でも降りてくるのか?」

「違う、違うぞ。・・・言うまでもない、大成功だ。権威が現れるだけでなく、楽園への道が開かれるやも知れん。素晴らしきかな。おめでとう!そうなれば契約の成就だコレナイよ。やっと死ねるぞ!」

「そう上手くいけばいいがな。」

 コレナイは目で円をなぞり、胸で事の成功を願う一方で、友を想っていた。仮にここで契約が成就したならば、ティバとは二度と会うことができなくなるかもしれない。果たしてそれで良いのかと、自問した。決して良い別れではなかった。後悔はしないだろうかと、ティバを独り残してしまっていいのだろうかと、悩んだ。蓋を開けてみれば、溢れ出したのは焦りと後悔ばかりだった。

まだ儀式を行ってはならない。

「グズ、ちょっと待ってくれないか。」

「何をかな。どれをかな。もう始めてしまっていたが、駄目だったろうか。」

 グズは既に菱形を一つずつ円の中心へと落としているところだった。菱形は幾何学模様と触れるや、重なるコレナイの影に波紋を残して沈んでいった。コレナイは思いがけぬ儀式の行程に動転したが、どうにか口だけは動かして、胸の内を告げた。

「待ってくれ。私はティバと会わなければ!最後に、あいつと話さなければならない。」

「臆したのか?」

「違う。・・・儀式には賛成だが、やり残したことがあるんだ。禍根を残すべきではない、そうじゃないか、グズ?」

「ふむ、一理ある。禍根は悪しきものだ。」

 グズは顎を抱えた。それでも、一方の手では淡々と菱形を落とし続けていた。そのうち、落下する菱形が途絶えた。コレナイは何となく、それが最後の一つが落ちる瞬間だったのだと悟った。勘の通り、全ての行程を終えたグズは、顎を抱えたまま、爛々と白渦を躍らせた。

「・・・しかしだ。すまないがね、コレナイ。儀式を途中でやめることはできない。なにせ影の権威がすぐそこまで来てしまっている。」

 そう言って、グズは円の中心を指さした。

「いいや、悪いが私にだって譲れない理由がある。帰らせてくれ!」

 コレナイは声を荒げ、逃げ出そうとしたが、できなかった。円を踏んだ足が、まるで杭を打たれたかの様に動かなかったのだ。見えない何かがコレナイを縛り付けていた。

「言っただろう。もう遅い。権威は君の影の中にいる。」

 グズが言うと同時に、コレナイの影が不気味に泡立った。それは段々と音と高さを増しながらコレナイの身体を這い、足首へ膝へ腰へ、腹へ背へ肩へと、纏わりつくようにして登っていった。泡が首まで達すると、コレナイは全身を力ませた。それが精々の抵抗だった。唇に粘液を感じ、壮絶な死を覚悟した瞬間、意外にも漆黒の泡は影へと垂れ戻り、奇妙な静寂が訪れた。だがそれは、ほんの一瞬のことだった。

「モラッテいいんだな?」

「無論。これはもう君のものだ。」 

 地を割るような声がコレナイの足元から放たれ、間を空けずグズが答えた。次の瞬間、コレナイは足元の声の正体を確認する間もなく、突如として何者かに、円の外へと突き飛ばされた。


3.

 円の中心に立つ男の影は秩序を持っていなかった。まるで藻掻くように蠢き、不規則に変形した。しかし、その異様は束の間のことで、次の風の一吹きの間には正しく日に従うようになっていた。

 男はグズに背を向け、聳え立つ球体の方を見続けていた。そんな彼の背後にグズが忍び寄り、そっと短く合掌した。

「目覚めはいかがかな。影よ。」

「・・・最悪だ。」

 男はさも不機嫌そうに答えた。彼の装いはコレナイと瓜二つだったが、声音は低くも若々しかった。

「確認なのだが、君は影の権威で間違いないだろうか?」

 男はグズを無視し、拳を握ってみたり、掌を確かめたりした。そして指に見つけた指輪を気紛れに爪で引っ掻いた。すると指輪から炎が生じて指を伝い、手の上で片刃の武器に変化した。男は武器を空へと掲げて振った。陽光が刃を滑って目へと落ちる度に、苦しそうに瞬きした。

「なんだあ・・・ここは。滅茶苦茶に眩しいなあ。」

 男の横顔を斜めに照った日が照らしていた。皴一つない白い肌と、白髪の混じらぬ黒髪。男は声だけでなく、容姿までもが若かった。

 男は屈み、衣服の余分な端を四角く千切り取り、それを自身の影に沈みこませた。次に取り出された時、四角い布は帽子に変わっていた。男は満足そうに帽子を被ると、思いつくごとに同様の手法で手袋、首巻、靴、腕輪、指輪などを生み出した。だが、最後には気に入った手袋と首巻と帽子と靴以外は捨ててしまった。捨てられたものはたちまちに中身を失って布へと戻り、風に攫われた。

 その様子を見ていたグズが笑いながら、称えるように四本の腕を掲げた。笑い声に誘われ、男がグズに振り向いた。

「カッカッカ、面白い。影から物を作り出せるとは。帽子も靴も、良い趣味だ。影よ、是非とも吾輩と友になろう。」

 グズは屈託のない白渦を男に向けた。だが、男にとってグズの表情代わりの白渦はただの模様に過ぎず、そこに含まれた感情は微塵も読み取れなかった。男は寧ろグズの積極的さを訝しみ、軽蔑的な視線を返した。

「何なんだ、お前。」

「よく聞いてくれた!吾輩の名はグズ、異郷より来た王だ。」

「意味わかんねえな・・・王だあ?下らねえ。」

 男はそう吐き捨てると、グズを通り過ぎて果てのない荒野へと立ち去ろうとした。するとグズが男の前に走って回り込み、八本の腕を広げ、行く手を遮った。

「待て、待つのだ。君を呼んだのには訳がある。今まさに、この星が敵に害されようとしているのだ。見ただろう、そこの球体によってだ。吾輩の友が君に身を捧げた。友のためにも、あれを破壊してはくれないだろうか。この通り、頼むよ。」

 グズは四つの掌を合わせ、首を垂らして願った。それが、グズが知る中でも最善の物の頼み方であった。甲斐あってか、男は足を止めたままでいた。だが、彼の目は相変わらず軽蔑を映していた。

「あれが俺たちの敵だって?」

 男の指がグズの合掌する指を摘まんだ。

「ワガハイ様の敵、の間違いだろ、クソ野郎。いいか、オタマジャクシ君。教えてやるよ。俺たちを出し抜くのは簡単じゃあないぜ。特に俺はなあ。」

 男はグズの合わされた指を強引に一本一本、引き剥がし始めた。

「お前の家じゃどうかは知らねえが、ここにいる以上は誰にだって、何にだって影が付き纏う。そして俺は影の権威。全部とはいかねえが、お前が今に考えてることぐらいは、さくっとお見通しなんだぜ。・・・分かるか?もし俺に頼みてえことがあるなら、取引じゃあなくてよ。大人しく崇めろ、供物を持ってこい。俺が飽きるまで欠かさずにな。そんでお前がいつの日かぜぇんぶ忘れちまって、馬鹿みてえに素直になったんなら、願いの一つくらい聞いてやる。」

 男が語り終えた時には、グズの四つの手の指の全てが逆向きに折られていた。この程度はグズにとって大した支障ではなかったが、過程で与えられた屈辱だけは容易に拭えるものでなかった。グズは密かに、残す五つの腕を怒りで震わせた。

「影よ。君を利用しようとしたことは謝る。吾輩が浅はかだった。・・・だが、訳があったのだ。吾輩は楽園を築かなければならない。祖国に散った愛する者たちとの、果たさねばならぬ約束なのだ。この通りだ、頼む。球体の中へ、吾輩を連れて行ってくれるだけでもいい。それだけでもいいのだ。」

「んー・・・まあ、身体を貰った恩があるしよ。道案内ぐらいは頼まれてやるが、本当にいいのか?中の奴はお前より強いかもなあ。もしかしたらいつぞやみてえに、大事な腕輪みてえにバラバラにされちまうかもなあ?」

 純粋な、不敵な嘲り。グズはその気配を敏感に感じ取ったが、徹して嘆願した。

「構わないとも。吾輩にはまだ七つの腕輪が残っている。身を護るだけの力はあるはずだ。」

「へえ?」

 男は愉快そうに口を歪め、グズの横を通り抜け、グズの影を踏みつけた。

「・・・まあ、いいぜ、連れて行ってやるよ。今度は嘘がないようだしな。だが、面倒を見るのは入るところまでだ。その後は一切、助けない。絶対にだ。しっかし急に素直になっなあ。そういうモンなのか?・・・へへっ、いいじゃねえか。俺は素直な奴は大好きだ。」

 男はそう告げるなり、球体へと先導を始めた。グズは足音でそれに気づき、置いていかれないよう、急いで男の背を追った。男は球体の直前で立ち止まると、グズに様式的なお辞儀をしつつ、掌を差し出した。

「預けなよ。お前の勇気を讃えてエスコートしてやる。」

「なんと、君は優しいな。そして正しい。吾輩は君を誤解していたやも知れん・・・。」

 グズは男を紳士に思い、躊躇なく腕の一本を預けた。

「・・・この礼は、君さえよければ、いつか我が楽園で贅を尽くして饗したいが。」

「気にすんなって。そんなことより足元に注意しな。中はどうなってるかわからねえからな、変に足を取られると面倒だ。さあ、入るぜ。」

 一転して親切な男に、グズは奇妙な感情を抱き始めていた。球体と言う、未知の世界を前にした緊張を追い越して、若き日に忘れ去った、諦めてきた幾つもの甘酸っぱい桃色が、胸をはち切れんばかりに熟れさせた。

「ああ、もう入ってしまうのか。権威よ。本当に。そんな、そんな急に。吾輩はまだ君の名前も知らないのに!」

 錯乱するグズを、男はあくまで冷静に、丁重に扱った。感触の無い球体の表面を潜ると、四つの足が順に、浅い液体に膝下まで浸かった。

 球体の内側は果てしない暗闇が広がっていた。勿論、光源は存在しなかったが、なんとなく遠くを見渡せるようではあった。空気は湿って生暖かく、それに加えてグズは僅かにひりひりとした、張り付くような刺激を覚えていた。突然、どこか遠くから水が跳ねる音が聞こえた。男は縮こまるグズを十数歩ばかり強引に引き連れ、止まった。

「よし、よく出来たな。偉いぞ、お前は未知への恐怖を乗り越えた。きっと、そうだな、あれだ。お前は最高に幸せになる。この世の誰よりも。そうだろう、なあ!」

 男は快活に言い放って、グズの手を振りほどこうとした。だがグズはなかなか男の手を放さず、白渦を疑いで染めた。相変わらず男は白渦の些細な変化など知る由もないが、それでも、この時ばかりは良からぬ感情を読み取った。グズが次から次へと腕を回し、計八つの手で男の手を拘束した。

「おいおい、どうした。約束だろうが。俺はここに入るまでお前の面倒を見る、それが終わればおさらばって話だったろ。今更あまえたって駄目だぜ?王様なんだからよお、ちゃんと約束は守らなきゃあいけねえ。だろ?」

「なぜここまで連れて来た。」

 四十本の指が、骨を軋ませるほどに食い込んだ。

「あ?」

「君は確かに、入るところまで面倒を見ると言った。その後は一切、関わらない、と。だというのにどうして、よりにもよって何故ここまで連れてきた。」

「そりゃあ、親切心さ。俺は紳士だからな、当然だろ?」

 男は陽気に笑った。その笑い声は球体内を木霊し、その内に男の低い声とは異なる、屈託のない高い笑い声を連れて帰ってきた。そしてその高い笑い声を追うように、短い間隔で小さな水音が段々と二人に近づいてくるのだった。

「権威よ、君は吾輩を騙そうとしていたのではないか。もしそうならばただではおけない。あの声の対処よりもまず、君を罰しなければならない。」

 グズは男を掴んでいた手の一つを使おうとした。しかし、手は男から離れず、それは他の七本も同様だった。見れば、黒い枝のようなものが男の腕を伝ってグズの手首へと伸びており、それぞれの腕輪を包み込んでしまっていた。グズは苦悶の声を上げた。

「おっと。その様子じゃ当たりか?」

「黙れ。吾輩を離せ。今すぐに!」

 グズは白渦を薄赤色に染めて叫び、隠していた九本目の腕を力ませたが、何も起こらなかった。白渦が赤色を失い、委縮した。

「くっ、何故だ。何故こんなことに。頼む、頼む。ああ、コレナイ。吾輩を助けてくれ。吾輩はまだ、こんな所では終われない。コレナイ、いるのだろう。起きてくれコレナイ!」

 グズは足元に向かって友の名を叫んだが、身動きの振動で水面が揺れるばかりだった。

「ああ、ああ、全く、そんな取り乱すなよ。・・・ごめんなあ。やっぱあんたは王様だからな。俺じゃあ役不足も仕方ねえだろ。つい手が出ちまったしよお、まあ、不届きは許してくれよ。ちゃんと代わりのエスコートが来るみたいだからさあ。」

「待て、コレナイ。どこか、コレナイ!」

「悪いね。」

 男が軽薄な謝罪を口にするとともに、水面から槍に似た三本の鋭利な影が飛び出し、グズの八本の腕を、肘から先を切り落とした。関節を支えとしていた腕輪がひとつ、またひとつと落ちていく様を、グズは絶望に苛まれながら見届けた。直後、グズの背後を、あの屈託のない笑い声が通り過ぎた。

「よくも、よくも。」

 押し殺された荒れた声で囁くグズの視界が突如、斜めに崩れた。原因は確かめるまでも無かった。首に伝わる浮遊感が全てを物語っていた。

「じゃあな、素直でマヌケな王様。俺はマヌケも大好きだからな、また会うことがあれば今度こそ歓迎してやるよ。楽園とやらに招待されてやってもいい。とは言っても、二度と会うことはないだろうが。」

 グズは最後に、落ちゆく白渦を見送る男の瞳に映った、曖昧で小さな人型の靄を見た。間もなく、グズの頭は水に飲まれ、数秒して、水面は波一つ立たなくなった。あまりのあっけなさに男はグズの死を疑い、足で水中を探り、手当たり次第に蹴りあげた。しかし靴には黒衣が絡まるばかりだった。

「おいおい、まさか上手いこと逃げたのか?」

「ちがうよ、おじちゃん。」

 その晴れやかな声は、男の後ろから聞こえた。声を追ってみると、そこには真っ白な少女が立っていた。髪が短く、細身の、持て余した活発さを落ち着きなく所作に溢れさせた少女だった。

「わたしがね、たべちゃった。だってあのひと、こわいんだもの。だからね。もうここにはいないの。ごめんね。おじちゃんのともだちだった?」

 少女は幼気なく悲しんだ。自分の非のためにでは無く、男のために。男は屈んで、少女と目線を合わせた。そして優しく語り掛けた。

「いーや。大丈夫さ。おじちゃん、ちょっとおどろいちゃっただけだからな。あんな奴は友だちじゃあない。ありゃあ嘘つきの悪い怪物さ。」

「ほんとう?」

「本当だよ。おじちゃんは怪物と違って正直者だからな。信じていいぜ。それにおじちゃんは君と仲良くなりたくて来たんだ。嘘なんか吐くわけねえ。」

「ほんと!」

「ああ、本当さ。」

 男は慎重に手を挙げて、少女の頭を撫でた。粘液が纏わりつくような、奇妙な感触があった。喜び翡翠を見開く少女に、男は話し続けた。

「おじちゃん、君のおにいちゃんともお友だちになりたいんだ。ってことで頼みたいんだが、お兄ちゃんと会わせてくれないか。仲良くなるためには話さなきゃあいけねえ、そうだろう?」

「いいよ!きっとおにいちゃん、よろこぶもん!」

 少女は背伸びして、男の手を頭に押し付けた。そして名残惜しそうにして離れると、笑い声とともに走り出した。

「うれしいな!あたらしいかげのおともだち。ほーらこっち、こっちにきてよ!」

 一心に駆けていく小さな背を見失うまいと、男は早足で少女の後を追いかけた。


3’

 そこはティバやコレナイが拠点とする小国から遥か東。人々が住む大国、橋の国。火から逃れたウィルインと、彼女が連れ立った模造品による小さな集落から始まったこの国は、龍から授かった知識と技術を活かし、短い歳月で著しい発展を遂げていた。発展の最たる功労者である龍の眷属たるウィルインは、古い民らに声高らかに称えられた。時に外敵を退ける戦士として、時に知を積み上げる学者として、時に文明を育む開拓者として、そして少数からは世界の創造主として。

 でも、そんな栄光はもう昔の物語。今や、全能の龍の眷属の正体を知る者はなく、龍の眷属は伝承の存在となっていた。

 人々の自立を信じ、とうとう王の座を捨てたウィルインは人気のない丘の隠れ家でひっそりと、人々に忘れ去られる日が訪れるのを待っていた。


 ウィルインは穏やかな時を過ごしていた。書に耽り、詩を嗜み、花を愛で、茶を啜り、時偶に町を見下ろしては人々の往来を眺める。自由と文明を謳歌した日々は幸福だった。この幸福が何事もなく享受され続けることを祈りながら、内心では振るってきた自身の手腕に絶対の自信を持っていた彼女は、自由の損失など、文明の崩壊などあるはずがないと信じていた。

「・・・どうして。」

 ウィルインは物憂げな眼差しを、なにとなしに枝の間を潜る一人の町人に落とした。

 あらゆる困難を乗り越えて来た。力を駆使し、速やかに、偉大なる発展を施した。十分な基盤を置いてきたはずだった。だというのに、国務を離れた途端、たて続けに問題が起こった。謎の新資源活用実験による公害、疫病の放流、鎖国的思想の蔓延、資本の偏り等々。恐ろしい悪夢の連鎖が愛する国を脅かしていた。定期的に隠れ家を訪れる遣いの調印書によれば、問題の大半が「現在も原因を調査中」とのことだが、ウィルインは原因に目星がついていた。いや、実際には誰もが分かっているはずなのだ。

 民の間で宗教が興っていた。名を、火の教えと言った。有志の情報によれば既に国民の二割程が信望者であるらしく、彼らは代表者をたて、国務への干渉を企てているらしかった。

 信徒らは頻繁に集会を開き、小さな暴動と、自治区の宣言を行ってきた。活動を経て拡張した実質的な自治区に教徒を集めて住まわせ、一帯の資源の独占し、以来、彼らの自治区からは数々の資源実験の副産物である毒々しい紫色の煙が登るようになった。その結果。一部水路が汚染され、疫病が発生する始末であった。ウィルインは現国王に組織の処断を提言したこともあったのだが、組織が扱う資源が危険なものであったために、計画は立てども逡巡していた。つまり組織は現在、野放しである。疫病も広まる一方である。だが、国王に焦る様子はない。民すらも、危機感を抱く者はそう多くないようだった。

 理由は明白である。なぜなら幸運にも、疫病は人を死には至らしめないのである。皮膚が腫れ上がる程度のもので、深刻な疾患がある者でなければ、痛みも痒みも伴わない。加えてこの国は国内でどれ程の失敗をおかしたとしても食料に困ることがない。北西にある春の国からの無尽蔵の食料の供給がある限り、飢えは有り得ないのだ。加工の知識と技術が根付いた現状で、ウィルイン自身も一定以上の食にはありつける。しかし、もしいつか、組織が春の国との交易を掌握しようとしたなら、どうなるか。それらしい噂は既に耳に入っている。国王は絵空事と笑うが、組織には侮れない行動力がある。

 この頃、ウィルインは国務への復帰を考えていた。力ある誰かが国を崩落から、混迷の淵から救い出さなければならない。思想を纏め上げなければならない。人にはまだ、それは難しかったのだ。しかし、決意しようとするたびに内なる使命感の指針が考えとは真逆の方向を示すので、ウィルインは憂鬱になった。掃いようのない不安が重なった。朝には苦悩を思い出し、憂鬱が固めた指先を湯に浸し、葛藤が縛り付ける歯をなるべく苦い茶で洗う。幸福であった娯楽のいくつかは、不安を祓う行為へと転じていた。


 そんなウィルインに、この日は客人があった。朝の内の、まさに、口に含んだ苦い茶をぷくぷくと大人げなく泡立てていた時だった。

 来客用のベルが鳴った。ウィルインは息を荒して居間から玄関へと走り、念の為に備え付けのベルを三度、鳴らした。これは合図だった。来訪者が知人であれば、ベルに続いて二度、一泊置いてもう一度。計三度のノックが帰ってくる手筈である。しかし此度の客人は、どうやら知人ではないのかも知れない。無邪気なノックが繰り返し太腿ほどの高さから打ち鳴らされた。

 ウィルインは冷静に客人を聞き定めようとした。黙していると、ノックは急かすようにテンポを早めた。ウィルインは思わず微笑んだ。いっそもう開けてしまいたい、いや、まだだと、衝動を堪えようとして、やっぱり敵わず、扉を開けてしまった。存分に焦らされた小さな刺客が靴も脱がずに、ウィルインの膝へと飛び込んだ。

「ねえ、どうしてすぐに開けてくれないの?ねえ、どうして、どうして?」

 泣きじゃくり、訴えながらぽかぽかと膝を打つ少女を、ウィルインがそっと抱えあげた。少女の目は微かに潤んでいたが、目が合うと満面の笑みになった。ここに太陽がある。数々の憂鬱が曇らせていたウィルインの心が、たちまちに晴天の如く晴れ渡った。

「ごめんね。ママ、そこでつまづいちゃったの。それで時間が掛かっちゃった。悪気は無かったのよ。ごめんね、ごめんね。」

 ウィルインは今にも泣き出してしまいそうな顔で、少女の頭を撫でた。とても他人には見せられない、ウィルインの子煩悩の姿があった。客人はもう一人いたのだが、ウィルインはお構い無しに、少女を抱き上げて悪戯し、一々の反応に夢中になった。

「母親は私ですよ、ウィルイン様。ほら、リン、靴も脱がないで失礼でしょう。こっちへ来なさい。」

 もう一人の客人、マイヤが両手の荷物を床に置きながら言った。マイヤは空になった手でリンを引っ張ろうとしたが、ひらりと躱されてしまった。

「ママ待って。ウィルイン様、ケガしちゃったんだって。どこかな、いたくない?痛くないように、わたしがウィルイン様みたいに魔法かけてあげる!」

 リンの人差し指がくるりと宙で弧を描いた。在るはずのない魔法の粒子が、弧の軌跡をなぞってウィルインの胸に到達した。不思議と動悸が早まり、ウィルインは耐えられなくなった。もう未練はないと思った。いっそこの無垢な太陽に焼かれて死ねるなら本望であるとすら、本気で考えた。

 でも、やっぱりまだ死ぬわけにはいかない。優しい温もりで満ちた太陽で焼け死ねるはずもない。

「うん、ありがとう。お陰で私、とっても元気になっちゃった。」

 ウィルインはリンを床に降ろした。リンが手を振り、ウィルインも同じくして応じた。沸き起こる衝動を抑えきれず、ウィルインはもう一度、リンを抱き締めようとした。

「ウィルイン様。」

 マイヤの感情のない声がウィルインの衝動を冷ました。名前が呼ばれたのは、この間に五度目のことだった。ウィルインは我に返り、軽く乱れた前髪を整えながら弁明を考えた。

「ええ、聞いているわ、マイヤ。あなたのことを忘れていたわけではないのよ。・・・えっと、仕事よね?さあて、今日は確か、疫病対策の・・・新体制の相談?で、来たのだったかしら。」

「いえ。今回は職務上の用件はありません。」

「あら、じゃあ今日はどうして?」

「今日はリンに、魔法を指導してくださる約束でしたでしょう?」

 マイヤの言葉に、ウィルインの笑顔が年甲斐もなく咲き乱れた。

「そうよ。そうだったわ、かわいいリン!なんでも教えてあげる。リーン。何がしたいかしら。私にして欲しいことでもいいわよ。何だってするわ!」

 ウィルインに迫られると、リンはもじもじとして固まった。何かを言おうとはしているようだったが、それが思うように形にならず、苦心しているようだった。

「話し辛いことなのかしら。」

「そうみたいです。きっとウィルイン様にだけ伝えたいことなのでしょう。私はいつものようにしていますから、娘をどうぞよろしくお願いします。」

「ええ、ええ。勿論よ!きっと偉大に育てるわ!」

 ウィルインはリンを抱えて書斎に駆け込んだ。内鍵が掛けられる音を聞いて、マイヤは肩の力を抜いた。そして堅苦しかった表情を緩ませた。

「ふーっ、休暇!やっと、休暇!」

 マイヤにとって近頃では久しい、至福の時が来た。荷物から次から次へと、茶葉や菓子を取り出して、居間へとそそっかしい摺足で急いだ。

 ウィルインとリンは書斎に入るなり、床一面のこげ茶色の絨毯に互いに寝転がった。向かい合い、頬の紅潮や微かに浮かぶ涙を観察するだけでも、刻々と時間が経過した。

「・・・リンちゃん。そろそろ聞かせて欲しいなあ?」

 そう、ウィルインが穏やかに話し掛けたが、リンは恥ずかしさに耐えられず、両手で顔を覆って悶えた。ウィルインはリンの心情を察してはいたが、驚異的な執着心でリンを捉え続けた。目を離せば、その隙に逃げられてしまう気がしたのだ。

「リンちゃん。いいのよ、楽にして。私はいくらでも待っているから、ね。かわいいお顔を隠さないで。勿体ないわ。」

 花弁を扱うように、小さな指の壁が丁寧に解された。隙間から徐々に天使が現われ、しまいには照れ顔に見つめられると、ウィルインの視界の端で白い火花が散った。祝福を知った瞬間だった。

「・・・あのね、ウィルイン様。わたしね。」

 リンの声は緊張で震えていた。

「うん、うん。」

「わたし、ウィルイン様とね・・・。」

「うん!」

「ウィルイン様と、けっこんしたい。」

「いいわ。今すぐにしましょう!」

 ウィルインは間髪入れずに嬉々として答えた。しかし、次にはリンが浮かない気色で「でもね。」と口にしたので、つられて眉を下げた。

「でも?」

「ママが無理って言うの。それはできないって。」

「うっ・・・。」

 突きつけられた思いがけない現実は、夢見心地のウィルインをより深い夢へと引きずり込んだ。視線は彼方へと投げられ、顎が脱力した。だが、愛しいリンの前で、ウィルインは気丈であろうとした。誘惑的な幻想の中、逃げ回る理性をやっとのことで捕まえ、いかにも大人らしく平然と答えた。

「マイヤは・・・ママは、正しいわ。私とリンちゃんの結婚には、たくさんの大きな障害があるもの。世の中、難しいことってたくさんあるわ。」

「そうだよね。」

 リンは悲しんだ。ウィルインは同情して、唇を窄め、深く鼻で呼吸した。

「でもね。難しいこととか、不可能に思えるようなことを可能にするのが魔法なのよ。リンちゃんにはその才能があるんだもの、大丈夫よ。だから、そうね。今日は、心の魔法を教えてあげる。」

「心の魔法?」

「ええ、人の心を読む魔法と、操る魔法。ちょっとコツがいるけれど、いつの日か使えるようになったら、リンちゃんは立派になれるわ。国王様のもとで、すっごく偉くなれる。あとね。」

「あと?」

 無垢な少女は続く言葉に期待した。ウィルインの目が、心が、邪な私欲で満たされていることも知らずに。

「ママの心を操っちゃえばいいのよ、そうしたら私と結婚できるわ!」

 私、元国王だし!

「ママには、ダメ。だって、ママだもん。それに・・・結婚できなくても、ウィルイン様はずっと一緒にいてくれるでしょ。ママとも、わたしとも。」

 不安まじりの少女の声は、ウィルインの心を完璧に射抜いた。

「勿論よ、勿論!私どこへも行かないわ!」

 ウィルインは絨毯から起き上がり、リンを深く胸に抱いた。背中に小さな手が回されるのを感じると、もう、魔法のことすら、どうでもよくなった。

「あーもう、リンちゃんっ!」

 伝承の龍の眷属が、たった一人の少女によって、あっけなく陥落した瞬間だった。


4.

 男はそこが球体の底なのだろうと推測した。先ほどまでは果てしなく奥へと広がっていた水面が、より深淵を極めた真っ黒な壁に当たって途切れていたからだ。前を進んでいたはずの少女を探し見渡して、加えて、どうやらここは円形に切り抜かれた広々とした空間らしいと気付いた。

 男の背後に潜んでいた少女は、男を追い抜いて先へと走って行き、空間の中心にあたる位置に着くと何かに寄り添った。いくら目を凝らしても、少女が背を預けるそれが物なのか、或いは生物なのか、まるで判別できなかった。

 それは突然、椅子から立ち上がった。悠然と立ち、男を待っているようだった。男はそれへと残すところ五歩程度の距離まで近づいて、その全貌を目の当たりにした。

 湾曲した嘴を持った、目が埋もれてしまうほどに毛深い漆黒の鳥が立っていた。鳥は男を認めると翼を広げた。翼の下から現れた胴体は質素な黒衣で覆われていたが、人に似た形をしていた。男はつい、それの足の構造が気になったが、真実は液体の底に沈んでいた。

「ああ、忌まわしき太陽の奴隷よ。ようこそ、楽園へ。」

 鳥頭が話した。嘴は動かず、声はその内側から響いてきているようだった。

「太陽なんざ興味ねえよ。どうだっていい、俺は俺だからな。陽の下だろうが、日陰だろうが好きにやるぜ。」

 男は答え、ニヤリと笑った。そして周辺の闇を掌にまとめ、細長く鋭利な影を作り出し、慣らすように手の上で遊んだ。

「ついでに教えといてやる。ようこそ、ってのは迎える側が口にする言葉だ。つまり本来なら俺のセリフになる。なんたって、ここを満たしている影は、元々は俺だからなあ。・・・因みにだが、俺はお前を歓迎しねえぜ。」

 男は手の上で跳ねさせていた鋭利な影を逆手で握ると、鳥頭へと浅く、一直線に跳躍した。鳥頭は身震いした。それとともに、鳥頭の全身の毛がはらはらと散り始め、遂には嘴までもがずり落ちて、その下から怯えた少年の顔が現れた。

「挨拶も無しに手当たり次第に掻っ攫いやがって。よくも好き放題やってくれたよなあ、クソガキ!」

 吠え、続け様の跳躍。男は液体を蹴散らし、拳を握り、一切の無駄のない動作で少年の胸元へと飛び込んだ。一連の動きは少年の瞬きよりも速かった。だが次に少年が見たものは、両手を広げた少女の後ろ姿だった。

「おじちゃんやめて!おにいちゃんとけんかしないで!」

「シュレミール!」

 身を挺して少年を庇おうとする少女の後ろで、少年が腰を抜かしながらも必死の形相で叫んだ。男は少女の目の前で激しく飛沫を飛ばして着水すると、小さな二人を見下した。男に追い打ちを仕掛ける様子はなかったが、少女は男にしがみついて、頻りに「やめて、やめて」と喚いた。

「よく生き残って来れたなあ、お前。運がいいのか、爪を隠してんのか・・・どっちにしたってこのザマじゃあ、いくら強くたって意味ねえよなあ。こっちのガキの方がよっぽど立派だぜ。お前、故郷に帰った方がいいんじゃねえのか?」

 そう言って、男はしがみつく少女の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。尚も少女は止まらない、勇猛果敢であった。反して少年は、目付きだけはキッと男に歯向かう姿勢であったが、未だ立ち上がることができずにいた。

「ば、馬鹿にするな。僕は影の主だぞ。楽園の支配者なんだぞ。・・・僕は、か、寛容なんだ。ぼく、僕は、ここでお前を待っていただけなのに。歓迎しようとしていたのに。いきなり攻撃してくる方がおかしい!絶対に、絶対にお前がおかしい!」

「他人様の一部を無断で奪っていく方がおかしいだろうが泥棒野郎。」

 男は少女を帯びたまま少年へと近づき、少年の顔面を鷲掴みにした。掌に、鳥のように甲高い叫びが抗った。男は少年を強引に立ちあがらせると、手放した。顕れた少年の顔は屈辱に染まり、歯をきつく食い縛っていた。

「いい加減にしろよ、くそ爺。」

「まず詫びろや、クソガキ。」

 男は怒りを顕わにして脅迫のための鋭利な影を探したが、逆手で握っていたはずのそれはいつの間にか消えてしまっていた。足元に目を配って、ふと、引き摺られながらも懸命にしがみ付く少女の泣き顔と目が合った。

「おねがい。けんかしないで。わたし、おじちゃんのこと、たべたくない。」

 少女は辛そうに、しゃくりをあげながら言った。

「そうだ、そうだぞ。食べちゃうぞ!お前は圧倒的に不利なんだ。お前こそいますぐに謝れ。でないとシュレミールがお前をバラバラにするぞ。いいのか、バーカ!」

 少年は少女を背後から捕まえて、威勢よく言い放った。

「はあ?俺が不利だ?馬鹿は休み休みに言えよ。俺はお前らよりも、かなりでかい。似た生まれなら比べるまでもない事実だろ。お前らちびっことは格が違う。それともわざわざ一から理屈を教えてやんなきゃダメなのか。」

 男は再び鋭利な影を生み出した。しかし影は長く形を保てず、たちまちに崩れてしまった。これに、男は流石に驚いた。

「ほおら、言っただろ。」

 少年が余裕と自信で満ちた面持ちで言った。

「昔はお前の一部でも、今は僕らの物だ。影の主だぞ。他所の影だって支配して、最後には自分のものにできるんだ。楽園は僕らの世界だ。ここでは君は、自由じゃない。」

 少年は高らかに宣言してから、少女に何やら耳打ちした。少女は、はじめは首を横に振って拒んでいたが、二言三言と聞く内に、とうとう迷いつつも頷いて、男を見上げた。少女の隣で少年がニタニタと笑った。

「おじちゃん。ごめんね。いたくないからね。ちゃんと、あとでかえすからね。」

 男は呆れ、少年に挑発的な笑みを返した。

「おいおい、まさか俺を喰えると思ってんのか?俺はあのマヌケな王様とは違うんだぜ。」

「喰えるとも。シュレミールは特別だ。僕もいるしね。ほら、シュレミール。」

「うん・・・。」

 少女は落ち着きなく数回、瞬きした。

「・・・おじちゃん。わたしたちのこと、きらいにならないでね。」

 少女の声と姿が薄らぎ始め、輪郭から順に闇に溶けていった。完全に見えなくなると、少女がいた場所で小さな水音が跳ねた。水音は笑い声ではなく、啜り泣きを連れて辺りを走り回った。しばらくして男の背後で音が止んだが、泣き声だけは聞こえ続けていた。

「やれ、やってくれ、シュレミール・・・!」

 少年は一点を力強く見つめ、催促した。どうやら少年には少女の姿が見えるようだった。男を挟んで、少年が会話を始めた。

「・・・大丈夫。後で返せば許してくれるよ。うん、うん、大丈夫。必要な事なんだ。うん、えっ、僕が?・・・うん、わかったよ。そうするよ。だからね、やってくれ。おじちゃんを分からせてやるんだ。」

 その会話の最中、男には少年の声しか聞き取れなかった。男は、いくら気配を探ろうとしても少女の存在を感知できないと、置かれた状況を理解した。

「まさかな・・・いや、そうか。本当にもう、俺のものじゃあないのか。」

 男の背後で水音が跳ね、男の左腕が消えた。男が何か言おうとした拍子に左前方で水が跳ね、舌と前歯が消えた。次は右前方、右足が消えた。繰り返して、左足が消えた。言葉と四肢を失った男は為す術なく落下した。

 水面に絶えず泡が浮かんだ。少年が男を水中から掬い上げた。少年は笑顔だった。暗中に似合わぬその表情が憎らしく、男は唾を吐き付けたが、少年はより笑みを濃くして喉奥をちらりと覗かせた。少年には歯がなかった。

「だから言ったでしょ。いくらお前でも、ここではシュレミールには勝てないよ。影の世は僕らの世界なんだから。」

「ああ、そうらな。そうらしい。」

 男が滝のように水を吐き出し、少年と少女はけたけたと笑った。


「あーあ。ちっちゃいおじちゃん、かわいかったのに。」

「だめだよシュレミール、僕らは大人だから、約束はちゃんと守るんだ。それに指輪はまだ返していないだろう。あれで、おじちゃんと仲良くなろう。」

「でもそれじゃ、やくそくをやぶっちゃう。かえさないと。」

「違うよシュレミール。僕らは大人だから、悪い子には躾をしなくちゃ。躾て、解りあって、成長するんだよ。シュレミールだって、友だちになりたくておじちゃんを連れて来たんだろ。ここはお兄ちゃんにまかせて、いいね?」

「いつまでやってんだ、ガキども。」

 機嫌を損ねた男が少年の首根を掴んで持ち上げた。少年はじたばたと暴れたが、男が一向に離そうとしないので、諦めてぶら下がった。

「先に身体を返すんじゃなかった。腕の一本でも餌にしていたなら、もっと手懐けやすかっただろうに。」

「だめだよおにいちゃん。わたしたち、おとなでしょ。」

「そうだね、シュレミール。僕らは大人だ。」

 少年は尤もらしく答えながら、大人とは何だろうかと考えた。少なくとも自分は大人なのだから、大人とはきっと、こうしてひたすらに大人しくしているものなのだろうと合点した。前触れなく男が少年を落としたが、少年は器用に着水して、やけに凛々しく立ちあがった。

「さて、じゃあ、遅くなっちゃったけど挨拶をしよう。これから僕らは協力関係になるんだから、お互いのことは共有しないとね・・・。」

 少年は少女の肩に手を回して抱き寄せた。隣り合ってみると、二人は背丈が同じほどで顔立ちも似ていたが、少女は翡翠、少年は薄浅葱色と、瞳の色だけは異なっていた。

「・・・僕はハイラ。こっちはシュレミール。二人でこの影の世を支配して、楽園を目指している。君の名前はなんだい。あと、本当の目的は?まさかあんな失礼を働いて、実は友だちになりたかった、なんて言わないでよね。」

「名前はねえよ。一応、権威とかいう身分らしいが、生憎、呼び出されたばっかりだ。目的もねえ。俺を呼んだ奴に行けって言われたから来た。強いて言えば、多少、興味があったってとこだな。」

 男が不機嫌そうに答えると、少年ハイラは頬を膨らませ、顔を紅潮させた。

「冗談じゃなくて?」

「ああ。」

 ハイラはついに吹き出して倒れ込み、水中で笑い転げた。

「ハハハ、生まれたばかりか。なあんだ、大口叩いた割に大したことないわけだ。ぜーったいに僕らよりも下じゃないか。アハハハ。」

 男はハイラに憤りを覚えたが、少女シュレミールの手前、我慢した。またバラバラにされては堪らなかった。帽子で顔を覆い隠し、ありたけの悪意で表情を歪めた。そんな男をシュレミールは気遣って、転げまわるハイラを制しようとした。

「おにいちゃん!」

 名を呼ばれ、ハイラは大人しくなった。シュレミールの手を借りて立ち上がり、そそくさと体裁を繕いながら、口の隅では不規則に粗い息を漏らした。

「ふふっ。そうだね、ごめんよシュレミール。忘れるところだった。僕たちはふひっ、大人だもんね。当たり前じゃないか、クフッ・・・。」

 ハイラの衣服は濡れていなかった。衣服に浮いた水滴の中で虚ろな影が揺れていた。

「・・・よし。それじゃあ早速だけど、取引しようじゃないか、権威。」

 そう言ってハイラは懐から、男から押収した指輪を取り出した。

「僕は今、君の指輪を持っている。僕には分かる。これはすごく価値があるものだ。これを返すのと、君の失礼を赦す代わりにしてほしいことがある!」

「要らねえよ、そんなもん。価値があるってんならくれてやるからよ、もう飽きたし、帰らせてくれ。・・・案内、いいか?」

「いいよー。」

 男が顎で案内を促すと、シュレミールが快く返事した。

「あっそう。まあ、そうだよねえ。こんな指輪、いらないよねえ・・・。」

 ハイラは、指輪が綺麗で、加えて何となくすごい気がしたので取引材料に選んだのだったが、男の言う指輪の使い方が分からないし、気に入らないならただの飾りでしかないと、価値の低さに納得してしまった。それでもどこかで使う機会があればと期待し、指輪を再び懐にしまおうとして、ハッとした。

「いや違う。違うよ。天秤には君の、僕に対する失礼も乗っているんだ。権威。君は否が応でも僕との取引に応じなければならない。さもなくば君を待つのは死だ!」

 ハイラは力強く断言した。それによって先導しかけていたシュレミールが立ち止まったが、男は足を止めようとしなかった。

「ねえ、どこに行こうと逃げ場はないんだよ。」

「上等だ、まずは好きにするさ。」

 男は後ろに手を振り、ゆったりとした足取りで、飄飄とその場を離れて行った。まだ男の後ろ姿が見えるうちに少女が少年に駆け寄り、ひそひそと耳打ちした。初め、不満げであったハイラだったが、シュレミールの一途な眼差しに中てられると、頬を引き攣らせながらも意を決した。

「・・・待ってよ権威。訂正しよう。やっぱり、君を待つのは死じゃあない。僕との取引に応じないならば、さもなくばっ・・・さもなくば!君を待つのはこの世界での永遠だよ!つまりっ、僕とシュレミールとのズットモ生活だ!」

 ハイラが叫ぶと、男はピタリと止まり、勢いよく身を翻して戻ってきた。

「いいぜ、取引だ。」

 男はハイラと同じように、いや、より深刻に頬を引きつらせていた。

 以降、男はすっかり大人しくなった。用意された、真っ黒な小さな椅子の上で胡坐をかき、懐く少女を抱きかかえながら、無意識の手先の微動作と辛うじて操れる微量の影で少女と戯れていた。少年は中心にある大きな椅子の背もたれの上に仁王立ちし、高所から語った。

「まずは僕らのことを説明するとしよう。わからないことがあれば逐一に質問してほしい。・・・まず、この場所についてだけど、さっきも言ったように、ここは僕らの楽園の始まりなんだ。影によって生まれた、影が生きる世界・・・影の世という。」

 男が手を挙げた。一緒にシュレミールも手を挙げた。

「楽園ってのは何だ。」

「あらそいのない、へいわなせかいだよ。」

 答えながら、シュレミールがハイミルの手から伸びた影に噛みついた。噛みつかれた影はたちまちに消滅し、すぐさま代わりの影がハイミルの指先から生み出された。

「楽園はシュレミールを母体として作られている。因みにここはシュレミールの、言うなれば腹の中だ。・・・シュレミールは侵入者の敵意を察知するとそいつを食べてくれる。あの真っ黒な怪物みたいにね。だから地上の全てを楽園で包み込んで、選別してもらうんだ。後に残るのは正しい平和主義者と楽園信者だけってこと。間違いなくとても良い世界になる。」

 続いたハイラの補足に、男がまた手を挙げた。

「こんな辛気臭い所で満足に生きていけると思ってんのか。どこもかしこも真っ暗、見通しがいいんだか、悪いんだかもわからねえ。外と比べたら、あまりに退屈だ。」

「それも問題ない。僕が一つ一つ作り変えるから。何を隠そう、シュレミールはもともと僕とは何の関係もない存在だった。詳しくは言えないけれど、拾って、馴染ませたんだ。一度できたことだから、なんてことはないよ。」

「へえ。」

 男はまじまじとシュレミールを見た。男が作った影の糸で遊ぶ真っ白な少女は、根拠なく、どこまでも楽しそうだった。誰しもがこれ程に無垢になれるなら、と、男は柄にもなく考え込んでしまった。

「楽園についてはこんなところでいいかな。」

「ん、ああ。いいぜ。」

 少年は腕を組み、得意げに背を反らした。

「次に状況だよ。実は僕たちは今、行き詰っている。どうやらこの地は過去に何かあったみたいで、なんていうか、変なんだ。偶に反発して影を壊してしまうことがあるから、お陰でそこら中が穴だらけ。補強して誤魔化してはいるんだけど、もし影を持たない僕ら、生粋の影の存在がもろに光を受けてしまったら、跡形もなく消滅してしまう。」

「死ぬのか?」

「よくわからないけど、もしかしたら死ねる方が幸せかも。・・・兎に角、シカツモンダイでさ。そこでなんだけど、僕らは魔女に頼ることにしたんだ。」

「魔女?誰だそりゃ。」

「魔女は魔女だよ。ふしぎな女の人。魔女はここに、いつのまにか迷い込んできていたんだ。そいつが変な奴で、僕は追い出したかったんだけど、シュレミールが気に入ってしまってさ。今は底で飼われているよ。」

「素性の知れない奴を連れ込んでいいのか?」

「あれは大丈夫だよ。シュレミールが気に入るくらいだから害はないはずだし、何よりボロボロだったし、何かあってもシュレミールが食べてくれるだろうし。」

 言いながら、ハイラは駆け回るシュレミールを目で追いかけた。男もまたそうして、そこで漸く、腕の中がいつのまにか空になっていたことに気づいた。目の前を通り過ぎるシュレミールを見送りながら、男は苦い記憶を思い出した。

「ところでよ、俺は喰われる必要あったのか。そんだけ話せたんなら、やりようはあったんじゃねえか?」

「ねちっこいね。過ぎたことはいいじゃないか、建設的な関係でいようよ。・・・それで、話を戻すけど。その魔女なんだけどさ、土地に詳しいらしいんだ。しかも、この頃は保護してくれたお礼をしたいって言っているみたいで。僕らとしては、親切にした覚えは一切ないんだけど、まあ、いい話しだからね。魔女は、東の魔女の銀の瞳をくれたら楽園を手伝ってあげると、そう約束したんだ。そうだよね、シュレミール。」

「うん。そうだよ。」

 シュレミールは答え、急停止した。彼女の勢いを預けられた水飛沫が男の顔面を襲ったが、やはり濡れなかった。

「魔女の瞳なら、なにもそいつの目を引っこ抜きゃいいだけじゃねえか。簡単だ。お前らでやりゃあよくねえか?」

「馬鹿だなあ、僕が言っているのは、シュレミールが飼っている魔女が魔女と呼ぶ、東にいる誰かのことだよ。それに銀色でなきゃダメなんだ、そんなことも理解できないの?本当に馬鹿なんだなあ。」

「うるせえクソガキ。」

 暴言とともに男が勢いよく右腕を振り上げたので、ハイラは縮こまった。咄嗟にシュレミールが男の右腕にしがみ付いて歯を立てると、男は自然と影の糸を作り出して微動作を始め、シュレミールを誤魔化した。

「・・・まあ、その、そう言う訳でさ、君には東まで行ってきてほしいんだ。僕らは外で生きられないし、東まで楽園を広げられる保証もないから、代わりにね。瞳を持ってきてくれたらちゃんと失礼を赦すし、要らないとは言うけど、指輪も返す。ね、いいだろ。」

「・・・・・。」

「今なら楽園での優待付き。シュレミールのお世話係に任命するよ。」

「あー・・・。」

 男はだらしなく鳴いて、考えた。ハイラの提案についてではない。働かせたのは悪知恵だった。男は企みを全く隠そうとせず、嫌らしい笑みを浮かべた。

「まあ、いいぜ。行ってやるよ、暇だしな。観光ついでにもなる。」

「ありがとう、おじちゃん!」

 じゃれつくシュレミールを、男は高々と抱え上げた。

「いいってことよ。おじちゃん、お友だちだからな。でも頼むから、もうおじちゃんのことは食べないでくれよ。」

「うん、やくそく!」

「おーう。いいね。約束だ、約束。」

 しばらくじゃれていると、シュレミールの脇を支えて緩やかに揺さぶる男の足を、ハイラがつついた。ハイラは大きな四足の靄を連れ、薄汚れた布を抱えて立っていた。

「これに乗って行くといいよ。」

 男はシュレミールを降ろして、布を受け取って広げた。布は大きく、腕を精一杯に開いても広げきれなかった。

「魔女の衣と、影の馬だよ。」

 布の幾何学模様の奥からハイラが言った。

「馬ってなんだ。」

「便利で速い乗物、僕の故郷では引っ張りだこな生物だった。東の国は遠いみたいだから乗って行くべきだよ。影はそのままでは外へ連れ出せないから、ここを出る前に布を被せてあげてね。衝撃に弱いから。くれぐれも慎重にね。あと・・・。」

 布の下が捲り上げられ、冷たい眼が覗いた。

「・・・外に出たからって逃げることはできないよ。君の影にはもう、シュレミールの一部が紛れ込んでいる。さっき食べた時にだよ。」

「もし逃げたら?」

「うーん。例えばいつまでも帰ってこないと、最悪の場合、シュレミールの一部が君のことを吸収し始めてしまうかも。そうすると君は外で影を失うことになる。あとは、わかるね?・・・だから、なかなか成果が得られなくても、定期的に帰ってきた方がいいと思うよ。全てはシュレミールの匙加減だから。」

「マジ?」

「まじ。瞳を持ってきてくれたら自由にしてあげるから、それまでは頑張ってよ。帰ってきたら、僕らで迎えに行くからさ。」

「・・・。」

 渾身の企みが破綻し、男は酷く気を落とした。シュレミールの案内に従いながら、挫けず次なる策の案出に取り掛かったが、思考は鈍く、足取りも重かった。

「まって、おじちゃん。」

 ふらふらと楽園を出て行こうとした男を、シュレミールが呼び止めた。シュレミールは後ろ手を汲み、いじらしく、ゆらゆらと揺れていた。

「用なら早く言っちまってくれ。俺はもう行かなきゃならねえ。」

 男はシュレミールに構う余裕を保持していなかった。この小さな抗えぬ元凶を、不吉な物として扱おうとしていた。

「おじちゃん、なまえ、ないでしょ。ほしくない?」

「いらねえよ。影とか、権威とか、呼びようはいくらでもあるだろ。」

 ぶっきらぼうな男の反応に、少女は涙ぐんだ。

「そんなこといわないでよ。せっかく・・・せっかくかんがえたんだよ?」

「・・・っ!」

 男は頑なに拒むつもりでいたが、何も言えなかった。「何か」によって首が締め付けられ、呼吸がままならなかった。

「ねえ、おじちゃん。ハイミルってどうかな?・・・ハイミル!おにいちゃんとわたしからとったの。すてきでしょ。」

「・・・お、おうっ、いいね!なんだっけ?・・・ハイドラ?・・・おっ、おお、すげーよ、滅茶苦茶にいいセンスだと思うぜ!」

「ハイミルだよ、おじちゃん。きにいってくれたなら、ちゃんとおぼえてね?」

 男の首から違和感が消え去った。

 男は名前に興味など微塵もなかった。煩わしささえ覚えていたが、受け入れてもいいかも知れないと強引に思いこんだ。名乗る名が無いよりはいいだろうと前向きに捉え、不本意を誤魔化しながら球体の縁に踏み込んだ。

「わすれないでね。ハイミル。かえってきてね!」

 少女の声に追われ、ハイミルは球体を飛び出した。景色は一変し、生まれた場所、懐かしい荒野が広がった。時刻は真夜中。球体に沿って流れた冷たい風が後方から吹き付け、帽子を攫おうとした。男は帽子を押さえながら、傍らでカラカラと主張する蹄に目をやった。視線を感じてか、布を被ったヘンテコな馬が短く嘶いた。

「・・・馬ねえ。」

 ハイミルは試しに馬に跨ってみた。なんとも言い難い感覚だった。布を捲れば黒い靄でしかないのに、布越しに触れてみれば、逞しい肉や骨の確かな感触があるのだ。

 ハイミルは直感的に馬の胴を蹴った。だが、馬は動じず、首を下げて砂を舐めた。

「うんともすんともいわねえ。イカしてるが、駄目だなこりゃあ。」

 そう言って馬の首を撫でた。図らずも、それが引き金になった。突として馬が前足を高く上げ、ため込んだ勢いをそのままに、着地とともに風の如く疾走した。ハイミルは馬の正しい乗り方を知らなかった。それ故に、不格好に必死に馬の背にしがみ着いて、苦悶を漏らした。

「あのガキ、慎重にぃ、とか言ってたよなあ・・・?」

 馬は一層に加速した。後方から吹いていたはずの空気の流れはいつの間にか、逆向きに変わっていた。

「・・・こんなん、無理に決まってんだろお!」

 馬が足を止めたのは次の夜になってのことだった。その夜、ハイミルは肉体の疲労に耐えきれず、偶然に拾った平らな石を枕にして荒野の真ん中で眠った。

 急ぎ拵えた影の繭の中、ハイミルは早速、悪夢に苛まれた。影の世に似た狭い空間で笑顔のシュレミールに四肢をもがれ、少しずつ食べられていく夢。それは短い間隔で繰り返された。ハイミルは何度も達磨にされ、その度に顔の無いハイラに罵られた。

 朝日が繭を溶かして瞼に届くまで、悪夢が終わることはなかった。


4’

あるところに、幸せの国がありました。

幸せの国はその名の通り、国民の誰もが幸福な国でした。

不幸な人は、誰一人としていませんでした。


幸せの国には九人の王様がいます。

王様たちは生まれた時から、器を宿されて育ちます。

器は不幸を汲み取り、幸福を生む道具でした。

王様たちと器の働きが、国に希望を齎していたのです。


ですが、幸せの国に絶望が全く存在しない訳ではありません、

国民は何度も困難に襲われました。

でもその度に、王様たちが先陣に立って戦いました。

王様たちは負け知らず。

幸せの国が不幸に陥ることはありません。


一番目の王様は勇敢で、大海を沈めてしまうほどの巨大なタコと戦いました。

タコは魚を食べ、ウミネコを追い払い、海を支配しようとしたのです。

国民たちはこまりました。

お魚がたべられない。

王様は小船に乗り、七日をかけて、器にタコを封じ込めました。

以来、タコは王様のともだちになりました。


二番目の王様はおっちょこちょい。

けれど、とても頭が良かったので、器に頼ることがありませんでした。

でもある日、困った羊飼いが言いました。

「凶暴な獣が現れて羊たちを食べてしまった。」

王様は三日悩んだ末に、獰猛な虫を放ちました。

お見事!獣はいなくなったけれど、王様と羊飼いは大慌て。

獰猛な虫は木も、実も、花も、羊飼いの家までも食べてしまったのです。

そこで二番目の王様は、初めて器に頼ることにしました。

器に封じられた虫たちは、王様のかわいいペットになりました。


三番目の王様はおなかぺこぺこ。いつも何かを食べてばっかり。

寝ることも大好き。寝てばかり。でも悪夢を見てしまいました。

食べ物がなくなってしまう夢。

王様は怖くなって、夜を通して器に祈りました。

王様の涙が、器に零れ落ちた、その時です。

器が星のように光り出し、次から次へと、美味しい食べ物を生み出した!

三番目の王様と国民は大喜び。

もう誰も、お腹が空くことはありません。


王様たちはみんな立派。

どこか抜けているところはあるけれど、国の為に頑張ります。

でも、いつまでも国は満たされません。

どうしてだろう?王様たちは考えました。

一人の王様が思いついて、いいました。

「みんな、どこか欠けてしまっているんだ。

欠けたところに、何度も不幸がやってくるんだ。」

八人の王様は頷きました。

王様たちは力を合わせ、大いなる不幸と戦う決意したのです。


九人の王様はある嵐の夜に、離れの小島にあつまりました。

そこは昔から不幸がやってくるといわれる、恐ろしい災いの島でした。

一人の王様がいいました。

「みんなで手をつなごう。」

これでもう怖くない。王様たちは勇気いっぱい。

別の王様がいいました。

「もっとちかづこう。手を交互に組もう。」

これでもう寒くない。王様たちはげんきいっぱい。

でも一人が泣き出してしまいました。

また別の王様がいいました。

「円を書こう。円の中で、僕らはいっしょだ。」

これでもう怖くない。

でもみんな、なんだか寂しくなっちゃった。

「みんなで思い出を描こう。円をいっぱいにしよう」

九人の落書きで円の中はもうめちゃくちゃ。

でも、もう、みんな大丈夫。


とうとう大いなる不幸がやってきた。

激しい雨と風と雷が、王様たちを襲います。

何人かの王様は立っていられなくなりました。

そこで王様たちは組み合った腕を器で繋ぎ止めました。

みんなで戦えばつらくない。

王様たちは勇敢です。


でも、不幸だって負けてはいません。

強力な雷を落として、王様たちを苦しめます。

でも、王様たちは信じあっています。

まぶしくて目が見えなくなっても。

雨と風で耳が聞こえなくても。

みんなでしっかりと手を握り合っています。


やがて不幸は疲れてしまって、落とせる雷はあと一回。

雨と風が弱くなり、王様はやっと目を開けました。

でもやっぱり、前が良く見えないみたい。

みんな手を繋いでいるのに、七人の王様の姿がありません。

むかいあった二人の王様。

目を合わせて頷いて、いっしょに最後の雷を受けました。


八人目の王様は臆病者。

一番に小さくて、でも、一番に優しい。

だから誰からも愛されました。

今日の王様はげんきと勇気でいっぱいでした。

器にひっしに祈ります。

大切な弟を助けてください。

すると器は輝いて、最後の王様を雷から救いました。


嵐がやみ、力尽きた不幸は負けを認めます。

目を覚ました、勝ち残った王様。

嬉しいけれど、あたりには器の落とし物。

いなくなってしまった四人の兄弟を探したくても、繋いだ手は離せません。

きっと先に帰ったに違いない。

王様は繋がれた九本の手を引き摺って、小船で国へと帰りました。


国へ帰ると、国民たちは王様を称えました。

一人の王様。偉大な王様。

九つの器。栄誉ある王様。

王様は幸せの国を統治して、末永く幸せに過ごしました。

でも王様は独りぼっち。少し寂しいね。でも大丈夫。

器があれば、怖くない。王様の器は、一つじゃない。


めでたし、めでたし。


「上からのお客さん、ちゃんと聞いていた?とても、とても悲しいお話だと思わない?ねえ、しっかり。あなた、まだ生きているでしょう?」

 永久にも思えた微睡に、掠れた声が問いかけた。声は、喉が裂けているのか、時折ひゅうひゅうと、息を不快に鳴らしていた。グズは残った頭と半分の胴体だけを頼りに、声の本体を探そうとした。

「無理よ。あなた、あの子に食べられたんでしょ。可哀そうに、どう頑張ったって動けないわ。私とおんなじで、可哀そう。でも喋ることはできるでしょう?・・・動くことは諦めて感想を教えて?私がたったいま思いついた、悲しい物語の・・・あら、なんでしょう、奇遇ね。あなた、王様だったのね。もしかして、あなたの物語だったのかしら。まさか、ね。」

 声は、起伏のある口調をしていた。グズは声に、微かに親しみを覚えた。

「物知りなご婦人よ、吾輩を苛めないではくれないか。見ての通り、吾輩にはもう何一つ残ってはいないのだ。希望、或いは苦難に抗う術さえも。どうか、静かに眠らせてはもらえないだろうか。」

 グズは顔を地に伏せたまま、言った。

「あら、連れないのね。でも、駄目よ。だって私、見えないんだもの。あなたの状態なんて関係ないし、信じないわ。それにずっとずっと、あなたが目覚めるのを待っていたんだから。ねえ、私、暇で暇で仕方がないの。このままじゃ心まで朽ちてしまいそう。」

「カッカッカ。朽ちるか。おかしな話だ。そんな当たり前のことを、君はどうして思い悩むのか。カッカッカ。」

「何を言うの?生きながらに朽ちるのは悲しいことだわ。例えば明日に声まで失くしてしまったなら、あなた、耐えられる?私は無理。できないことばかりが増えていくって、苦しいことよ。」

 グズは妙な気分になった。それはたぶん、この女の口の所為である。女の言葉は耳に香るようだった。グズは酔狂に興じるのも悪くないような気がした。

「・・・少しだ。少し話そう。ほんの少しだけだ。吾輩は君には興味がないから、君が好きに語りたまえよ。質問でも構わないが、吾輩を長く留めたければ、くれぐれも吾輩の心を乱さないことだ。」

「ありがとう、王様。感謝するわ。じゃあ早速だけれど、さっきの物語は突然、頭に浮かんできたの。あなたがここへ落ちてきたのと同時にね。これってきっと偶然じゃないわ。だって私、想像するのは得意じゃないんだもの。ねえ、あなたは物語の王様なの?生き残った一人なの?」

 声は闇に似合わず爛々とした。寂しい耳には甘いが、疲弊した頭には苦かった。グズは頭を痛め、早くも嫌気がさしてきたのだったが、約束は約束と、切実に答えた。

「きっとそうだろう。君が語った王の境遇は吾輩と酷似している。だが明確に異なるところもある。我が故郷は、吾輩が帰った時には跡形もなく滅びていた。生存者は一人もいなかった。大規模な天災と人災が一度に押し寄せたのだ。・・・民も、決して幸福ではなかった。来る日も不幸ばかりが積もり、統治もままならなかった。そもそも吾輩が王となった時点で、既に国は滅びゆく定めにあった。我らはあまりに多くを費やしすぎた。」

「・・・そう。ごめんなさいね。」

 同情を映す声を、グズはつい愛しく思った。

「君が悲しむことはない。我らが愚かだったのだ。愚かさ故に、選択を誤った。たった一度だったが、故郷を滅ぼすには十分だったよ。」

 グズはあの日を、見届けた兄弟たちの最期を想起した。淀んでいた願望がふつふつと煮え、グズの胸を毒々しく曇らせた。

「さて、大筋は君が語った通りなのだ。吾輩のことは知れただろう。すまないが、そろそろ休ませてくれ。過去は、吾輩にとって酸気の沼だ。蓋をせねば。もう、考えたくはない。」

 グズは眠ろうとした。視界を閉ざしても、変わらぬ闇の景色が待っていた。

「そんな、まだ足りないわ。もっと教えて。私を退屈させないで。」

 グズは声の願いに耳を貸さなかった。黙っていれば、いつかは口を塞ぐだろうと思っていた。だが、それは浅慮だった。声はグズを休ませる気がないようで、寧ろ、矢鱈に物を叩いて雑音を奏でたり、悲し気な鼻歌を陽気に歌ってみたりするのだった。それが余りに鬱陶しいので、グズは聴覚さえ閉ざしてしまおうとした。

「待って。嫌な思いをさせたなら謝るわ。ごめんなさい、静かにするって約束する。でも、これだけは聞いてほしいの。私、あなたを理解している。あなたなら、可哀そうな私を救うことができるって知っているの。」

「物分かりの悪いご婦人だ。吾輩にあるのは、虚無だけだよ。」

 そう呟いてから、グズは酷く辛くなった。全ては自分が犯した愚行の結末である。果たせなかった故郷の無念と、友への混沌とした気持ちの悪さが、ただでさえ荒れた心を打ちのめした。

「・・・驕っていた。情けない。吾輩は己の苦難にすら値しなかった。」

 声はグズの絶望を感じ取ったのか、息を飲んだ。暫しの間、暗闇を完全な静寂が支配した。グズは、続く言葉はないと思った。しかし、声は諦めなかった。

「そんなことはないわ。あなたは立派よ。幸せの国の、親愛なる王様。万民の栄誉ある協力者。ほら、もう忘れたふりは止めて。あなたにはまだ器が残っているでしょう?錆び付いて汚れながらも静かに使命を待つ、鈍色の首輪が、そこに・・・。」

 グズは声の指摘を受け、誘惑の波間から意識を起こした。すると身体を失ったことによる違和感と不快感から逃れるために無意識下で捨てていた触覚が蘇り、首にかけられた馴染み深い重さを思い出させた。それはあの小柄な靄に喰われながらも、辛くも密かに掴み取った九つ目の腕輪だった。グズは微かな希望に触れ、腕輪を大変に喜んだが、それは短いことで、現実に堅牢な壁を見出した。

「もう遅い。過ぎ去ってしまえば抗えない。」

「いいえ、まだ、まだ希望はあるわ。ねえ、私を見て?」

 冷たい指がグズの首を掴み、宙に上げた。グズは視界が急激に反転して酔いかけたが、次に見えた声の姿に魅せられ、歓喜した。

 彼女の身体は、グズの首を持ち支える右腕と、肩と、頭の他には何も持っていなかった。黒い壁に不定形な杭で磔にされ、千切れた臓器を無残に垂らしていたが、露出した心臓らしい臓器は絶えず鼓動し、彼女がまだ生きていることを証明していた。それは如何なる矮小にも抗いえぬ、紛うことなき、絶対的な不幸が生きる姿だった。

「ねえ、私は不幸でしょう?可哀そうでしょう?ただ知識を欲しただけだったのに、それだけで全てを奪われて、こんなところにまで迷い込んで・・・この有様。ねえ、不幸でしょう。不幸だと言って?」

「ああ、ああ。違いない。君はきっとこの世の最たる不幸だ。君は救われなければならない。我が楽園が訪れなければ、そうでなければならない!」

 グズは失った手足の毛が逆立つのを感じた。体毛はもう、手足よりもずっと昔に失っていたのだが、若き日の記憶が、滾る英気が、過去の感覚を伴って蘇ったのだ。

「身体があれば、私もあなたを助けられる。だから交換しましょう。あなたの楽園の始まりに、まずは私を救って見せて。」

 グズは答えのかわりに首輪に願いを呟いた。首輪が青く輝き、彼女とグズを包み込んだ。

「器よ。この哀れな女を救い給え。楽園をここに導き給え。」

 腕輪の光りが朽ちた女の身体へと漂い、吸い込まれていった。見る見るうちに露出した心臓が新鮮な骨に、肉に、皮に包み込まれた。再生した女の指がひらりと泳ぐとともに、グズもまたゆっくりと手足を取り戻し始め、やがて全身を再生した。

 グズは愛らしく美しい女に九本目の腕を伸ばし、金色の髪をかき分け、滑らかな頬に埋め込まれた菱形に、そっと、指を添えた。


5.

文明は、在らぬ炎によって築かれた。

在らぬ炎は点在し、瞳に宿り、瞳を導く。

在らぬ炎は時を選び、人を捨てる。

導かれし民草よ、選ばれよ、追従せよ。

影を恐れよ、炎を崇めよ。


 マイヤは忌まわしい書を閉じた。腕の倍も太く、無駄に重く、その割に陳腐な短文と空白ばかりを並べた聖書を。聖書の表紙は一面の赤色に、大きく教祖の名が金の文字で記されていた。それに触れないよう、慎重に皮布で包み、書棚に押し込んだ。毒を持つ金鉱。組織の管轄地にある有害な資源の一つであるそれは、人の肌を限定的な形で、長期間に渡り腫れさせる。教祖の名に似た腫れ物は、組織の自治区に於いて敬虔な信者であることを証明した。触れることがあってはならない。国民の多くにとって、愚かな教祖の名を身に冠することは、この上ない恥辱であった。

 マイヤが職務の為に訪れていたのは、前国王、ウィルインの命によって秘密裏に辺境の地下に造られた、国営書庫。そこは禁書や機密を扱っており、限られた者のみが出入りを許されていた。

 職務を終えたマイヤは出口へ向かい、受付の老人に手帳を示した。この老人はいつも受付に座っている、知る人ぞ知る、橋の国の七不思議の一つ。老人は物言わず、手帳を認めると良しの合図を残し、奥から差す闇に紛れてしまった。

 無機質な廊下を幾度も曲がり、行き着いた石段を登って外に出ると、二頭立ての馬車が待っていた。マイヤは二人乗りの余裕のある車内に乗り込むと、仕事終わりのお決まりの背伸びを我慢して、急いで腰鞄から笛を取り出して吹いた。笛の音に連なって二頭の馬が太く嘶き、車が進み出した。車内を、新鮮な冷たい森の息吹が抜けていった。

 マイヤには急がなければならない理由があった。旧知の友人との茶会である。馬車は友のもとへ行く前に、娘リンを迎えるべく、城近辺に構えるこれまた小さな書庫へと馬車を向かわせた。その書庫も同様にウィルインによって造られたのだが、国営書庫とは異なりウィルインの名で私営される公共の場であり、彼女の私的な魔法書や学術書のみが寄贈され、魔法に学を望む子どもにのみ学び舎として貸し与えられていた。


 国にはウィルインを除いて魔法を行使できるものがいない。そもそも魔法の存在を正しく認知している者自体がごく僅かである。だが、ウィルインの魔法が成し遂げてきた数々の奇跡の痕は伝説として語り継がれていた。そして伝説はある日、一人の国民に神を想像させた。火の教えはそうして始まったと語られる。それはある種の精神的な防衛本能が働いた結果だったのかもしれない。少なくともマイヤは、国民が姿なき神秘の形跡を受け入れるために、宗教に思想を任せてしまうのは無理もないことだと考えていた。だが、だからと言って組織の蛮行を許すわけにはいかない。今も尚、国民の七割以上が組織に与せず、静かな生活と繁栄を望んでいるのだから。


 馬車が停止した。

 マイヤが馬車から降りるより早く、黒髪の少女が隣座席に転がり込み、膝に手を乗せて凛々しく座った。作り物のような少女は、頬を膨らませた上で目を細め、精一杯にそれとなく不機嫌を主張した。

「ママ、今日もおしごとお疲れ様。」

 少女、リンがなぜ不機嫌なのか?

 リンは、マイヤが待ち合わせの時刻を少しばかり過ぎてしまっていたので、決して長い時間ではなかったが、外で待ちぼうけを食らっていたのだった。だが、リンは不満までは口にしなかった。憧れる人物がそうであるから、自身もそうあるように努めていた。

 物思いのためにリンの不機嫌の理由を察しきれなかったマイヤは、意図せず外の飾り時計を目の端で捉えて、自分の非に気づいた。

「ごめんね、リン。私ったら、てっきり急いで来たつもりでいたから、遅れていたことに気づかなかった。早くに出てきたはずなのだけれど、どうしてかしら。」

 マイヤは記憶を探り、すぐに原因に思い当たった。うっかり気に留めなかったが、馬車は道中、町で三度の足止めを受けていたのだ。馬車が速度を緩める度に、夢中の耳に雑踏が犇めいたのを覚えていた。マイヤは今更に、あれがどういった人の集まりだったのかと疑ったが、どの道、確かめるために引き返す暇はない。今日はこれから欠かせない大事な用があるのだから。マイヤは疑念をかなぐり捨て、笛で再出発の合図を奏でた。そして馬車が動き出すと、鞄から木の容器を取り出し、中から小さな白い四角を拾った。

「ねえ、リン。これが何か分かる?ヒントは甘くて美味しいもの。」

「おさとう!」

 リンは糸のように細めていた目を、大輪の花のように開かせた。そしてマイヤの手から素早く角砂糖を掠め取ると、迷いなく口に放り、一嘗めで表情を蕩けさせた。

「どうして持ってるの?きちょうひんでしょ?」

「春の国から試食品として貰ったの。悪い人たちに狙われない、燃えることがないお砂糖よ。これ、本当はウィルイン様に贈る分なのだけれど、特別に一つだけあげるわ。いい?ウィルイン様の物だから、一つだけよ。」

「わたし、ウィルイン様のおさとう食べた!」

「そうよ。ウィルイン様の特別なお砂糖。良かったわね、味はどう?」

「とっても甘くておいしい!」

「そうよね、分かるわ。実は私も昨日、摘まんじゃったの。一個だけね。でもウィルイン様には秘密よ。私たちだけの秘密。内緒のお仕事よ。」

「うん、秘密のおしごと!」

 マイヤはほっと胸を撫でおろした。もしリンを不機嫌なまま連れて行くようなことがあれば、友人が黙っていなかっただろうから。機嫌を良くしたリンは、自身の鞄をごそごそと漁りだした。

「わたしもね、今日、友だちからもらった物があるんだあ。とっても難しい本。難しいけど、綺麗なの。読んでウィルイン様に褒めてもらいたい。ママ、読んで教えて!」

 それが余程に小さい本なのか、リンは詰められた手帳や文具を一つ一つ丁寧にかき分けていた。

「あら、友だちができたのね。良かった。今度、ママにも紹介してね。」

 実のところ、マイヤはリンに友だちができるとは思っていなかった。なぜなら、リンが通っている書庫は人の出入りが少ないのだ。魔法は一般的には逸話の存在であるし、加えて分野の先駆者であるウィルインが残した魔術書は歴史書に近しいものばかりだったので、興味を持つ者は在っても、継続的に学ぼうとする者は希有なのだ。

 マイヤは覚えている限りの来庫者を思い浮かべた。リンの他に女の子が二人と、男の子が一人、学びに来ていたはずだった。友だちが女の子ならいいなと、つい願った。

「あった!見て、この表紙。早くウィルイン様にも見せてあげたい。」

 リンは掌ほどの大きさのそれをマイヤに渡そうとした。本の表紙を見て、マイヤは戦慄し、伸ばしかけていた指を一瞬、引っ込めた。まるで流動し、生きているかのような赤の炎の絵。恐ろしいことに、リンが持つそれは組織が扱う聖書に違いなかった。子どもでも持ち歩きやすいようにするためか随分と小さく調整されてはいるが、それはマイヤが国営書庫で読んだ聖書とあらゆる特徴が一致していたのだ。幸いにも金の文字は削り取られているようだが、危険な物であることには変わりない。

「あら、本当にすごい本。読んでみるから貸してみなさい?」

 マイヤは自然に聖書を要求したつもりだった。同時に聖書をどう処分したものかを考えようとしたのだが、何故かリンが本を両腕で抱え込んでしまい、それどころではなくなった。

「どうしたの・・・リン?」

 リンはマイヤを拒絶するように、マイヤとは逆の方へ、座席の隅へとにじり寄った。

「嫌!ママ、独り占めする気でしょ。」

「そんなことないわ。まず読み解かなければならないから、借りるだけよ。」

「嘘。だってママ、本のことを怖い顔で見てたもん。」

「・・・リン?」

 マイヤは咄嗟に娘を案じる母を繕ったが、内心では自分が人前で、一時的にでも無自覚の感情を表に出してしまったことに驚いていた。一度の失態はマイヤを酷く不安にさせた。これまで仕事柄、至って誠実らしくあるよう努めてきた日々は、実際には他人の目にどう映っていたのだろうか。マイヤは粘りつく雑念に覆われた。だが、迷っている場合ではない。このことは、友の家に着く前に片付けなければならない。マイヤは迷いを振り払い、禁断の兵器を持ち出した。

「ねえ、リン。欲しくない・・・?」

 挙げられたマイヤの手に、リンの双眸が病的に釘付けになった。人差し指から小指の間に挟まれた三つの角砂糖。それらはじわじわとリンに近づき、誘うようにゆらゆらと、上下左右に揺れた。

「・・・欲しいでしょ、お砂糖。ママが本を読み解く間、退屈だと思うから。今日はちょっと待たせちゃって悪かったし、読んでいる間だったら何個でもあげちゃうわ。・・・どう?ほら、ほら?」

 マイヤはこの時ばかりは、自身の感情の露見をはっきりと自覚していた。実際の表情の有様は想像もしたくないが、少なくともこれから会う友人にはとても見せられないものだろうなと思った。

「おさとう、ほしい。」

 リンもまた、同様だった。飢えた少女が瞳孔を抉じ開け、獣のように喉を鳴らした。


 数刻して、馬車がウィルインの隠れ家へ到着した。

 マイヤは夕刻の丘の上から浮かない顔で町を鳥瞰した。変わらぬ人の往来と、資本と物の絶えぬ循環。しかしその裏では、予想だにしない過激な思想が根を張り巡らせている。見えない影の暗躍が、そこかしこで息を潜め、時が来るのを待っている。

「リンにまで危険が迫ってる。私は一体、どうすれば・・・。」

 読みかけの小さな聖書から、栞代わりに挟んでいた指をそっと引き抜いた。後ろで友人と戯れるリンに悟られないよう、そっと本に火を点け、崖側へと捨てた。

「マイヤ。リンちゃんが疲れちゃったみたいだからお茶にしましょうよ。町は夜の方が綺麗だわ。あとで一緒に眺めましょうよ。」

 眠そうに目を閉じるリンを背負ったウィルインがマイヤを呼んだ。

「・・・ええ、そうね。すぐ行くわ。」

 マイヤはウィルインの隠れ家へと入り、何事もなかったかのように、穏やかに茶会の席に着いた。だが、その努力は思わぬ出来事によって、あっけなく無駄なものとなった。


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