笑う箱
ハァハァ、ハァハァ、それは四つ足をちぎれるほどに回して駆けていた。
白と茶色の入り交じった中型の雑種犬だった。小さいがピンと立った耳、賢そうな目、どことなく愛嬌のある口には小さな箱をくわえていた。
この箱を発見し、隙を見つけて持ち出した。はじめて箱をみたときに、犬にはすぐにそれがあの娘に必要なものだと分かった。駆けはじめてからどれくらい走ったのだろう。腹が空かないため犬はずっと駆けどうしだった。方向はこちらであっている。その雑種犬に迷いはなかった。
鹿島ともえは、箱をじっと眺めていた。
それはなんの変哲もない、段ボールでできた、ノートが数冊入るくらいのちんまりとした箱だった。今その箱はともえの部屋のフローリングの上にあった。ふたは開いていて、中には何も入っていない。だが、そこから笑い声が聞こえたような気がした。
(空耳かしら)
ともえは今日、中学校の自分の机の上でそれを見つけた。そのとき、箱の蓋は閉じてあった。宛名も、何の印刷も、その箱にはなかった。最後の授業、6限目は理科の移動教室で、その授業が終わってから自分の教室、3−2に入ったとき、それを見つけた。
ともえは見覚えのないその箱に眉をひそめ、次にそれを持ち上げて振ってみた。音はしなかった。持ち上げたときに気づいたのだが、箱には少し湿り気があった。目を近づけて見ると、うっすらとアルファベットのUの形に濡れた跡がある。
(なんだろうこれ、でも、どこかでこれと似たものをみたことがあるようが気がする、けれど思い出せない。)
「この箱、誰のか知ってる?机に置いてあったんだけど」周囲のクラスメイトに呼びかけた。
「は?あたし知らんし」隣の席の湯本さんが答えた。
他の生徒は無視だ。鹿島ともえは友達がいない。無視され、クラスの誰も彼女に興味を持っていない、という態度をとられていた。
小学校、中学校1年までは、鹿島ともえは目立たない生徒ではあったがは友達と呼べる生徒がいたし、無視や冷たく接する生徒もいなかった。
どうして、自分がこのような存在になったのか、ともえにははっきりとは分からなかった。ただ、公然と無視される存在になってから見えてくるものもあった。誰もともえに話しかけない、だから、ともえは教室で、誰が、誰に話しかけているのかがよく見えるようになった。湯本さんと宮地さんには、みんな話しかけ、意見を聞いていた。
(わたしにはこのことが分かっていなかった。みんながそうするように、湯本さんと宮地さんに話しかけていれば、こんなことにはならなかったのかしら。ねぇ湯本さん、この雑誌のこのページどう思う、とか、宮地さんのお母さんって建築士の資格もっているんだ、すごーい、とか)
最近ではそのようなことを考えているため、自分の机にのっている箱を見たとき、手足が冷たくなった。
(新しいいじめだったらどうしよう)
だが、周囲にともえの反応を見ようとする空気はないようだった。どうやら、みな本当にその箱が何なのか知らないのだ。
その場で箱を開けることはためらわれた。中身が何だったにせよ、それを共有できる友達はここにはいなかった。
そして、ともえは、箱を持ち帰り、自分の部屋で開けたのだ。
箱を開けたとき、笑い声が聞こえた、気がした。
子どもが他愛なく笑う声。鈴のような、鞠の弾むような音。
ともえはそれを聞くと懐かしいような気分になった。本当に箱の中から聞こえたのだろうか。あたりを見渡すがともえの部屋にはテレビも置いていないし、スマホも持っていない。ともえはひとりっ子なので、家には他の子どももいない。一階の居間に降りてみたが、テレビもついておらず、母親はまだ買い物から戻っていなかった。つまり家にいるのはともえ一人なのだ。そうだとしても、ともえは不思議と怖い気分にならなかった。ただ、なんだか懐かしいのだ。
夕食を終えて、風呂に入って、自分の部屋に戻ったときだった。また、笑い声が聞こえたようが気がした。
その夜、ともえは夢を見た。昔飼っていたシロが帰ってくる夢だった。
シロがともえを見つめ、まるで笑っているかのような、あの口を近づけて、ともえの顔を舐めた。
たまらず、ともえは笑い声をあげた。ともえは気づかなかったが、その声は箱から聞こえた笑い声と同じだった。
朝、目が覚めたとき、ともえはその夢を憶えていなかったし、箱はあった場所から消えていた。
(お母さんが片付けたのかな)ともえは箱を探そうとも思わなかったし、その箱から笑い声が聞こえてきたことも忘れていた。ただ、今日はほんの少しだけ、学校に向かう足取りが軽かった。
(大丈夫。今がいつまでも続くわけではないし。もしも、いじめがこれ以上ひどくなるようなら、お母さんに相談しよう)