92・奴隷城でおやすみ
気配を感じなかった。
ザーブラの襟首を掴んだ影が、気づいたらそこにいた。まるで、闇の一部が実体化したかのようだった。
驚きと同時に、警戒心が頭をもたげてきた。
「……そいつを渡せよ」
「…………」
返事の代わりに、顔をアデュクテスに向けてくる。どこか朧気で、静かな佇まいだった。
無言の中に漂うのは、明確な非難――冷たい怒りに身を任せた事を咎められている。そんな気がした。
芽生えた反発心が、警戒心を吹き飛ばした。
「渡せって……いってんだろがっ!!」
踏み込んで振るった凶刃が空を切った。
影の跳躍は驚異的だった。掴んだザーブラごと、苦もなく跳んでふわりと地面に降り立つ。
追って、刃を突き出した。
受ける事すらせず、身体を捻って躱された。水平に薙いだ。頭を沈めて躱される。袈裟懸けに斬り下ろした。再び後方に跳ばれる。
「テメェ……」
頭の中で血が沸騰し始めた。赤い激情が渦を巻き始めた。
しかしそれは、ザーブラやマンティコア達に対する怒りとは違っていた。いうなれば、人が人に対して抱く怒り。行き場をなくして燻っていたモノが燃えたぎっているような、人間らしい感覚だった。
「おおおぉぉぉぉぉぉーーーっ!!!」
がむしゃらに斬りつけた。
刃を振るう度、空を切る度、炎の感情に身体中が掻き回される。
加速度的に、頭が、身体が、熱を帯びていく。
「クソッタレがぁっ!!!」
憤怒の叫びを嘲笑うかのように、ふわふわと影は舞った。
ヤツに闘う気はない。避けるだけで攻撃してこないのがその証拠だ。
それが、内なる激情をさらに燃え上がらせた。
「がっ……あああああぁぁぁぁーーーっっ!!!」
狂ったようにアデュクテスを振り回し続けた。
それでも、刃先は掠りもしなかった。
元より、怒りで乱れた斬擊など通用する相手じゃない。
分かっていた。分かっていながら攻撃を止める事ができなかった。
自分でも制御できない衝動に、オレは突き動かされていた。
「なんで闘わないんだっ!!」
「…………」
答えはない。
心が燃えたぎった。頭に血が逆流した。視界が赤く染まった。目眩がした。
構わず両手持ちでアデュクテスを振り上げた。口から、獣の咆哮が迸る。
「ふざけんなテメエェェっっ!!」
ただ斬りかかっただけの、力に任せた一撃――剣術なんて呼べる代物じゃなかった。安易な大振りは命取りになる。そんな基本的な事すら、オレは見失っていた。
案の定、振り下ろした刃は横からあっさりと弾かれた。
身体が泳ぎ、バランスが崩れる。
ゴッ……
「!!?」
ガンッッ……!!!
「ぐっ……おっ……!!」
柄尻を横っ面に叩き付けられた。今のオレに、首を捻って衝撃を逃がす冷静さなんてなかった。そのまま、身体ごと吹っ飛ばされる。
「くぅっ……!」
片膝をついて見上げると、追撃する事なく影が見下ろしてきた。
口内に違和感を感じた。
「……ぷっ!」
吐き出した歯が、乾いた音を立てて石畳を転がった。
血の味がした。鈍い痛みと熱が、じんわりと顔に広がってくる。
今のが刃先だったなら、転がっていたのはオレの死体だったろう。
その事実が、頭に昇った血を下げてくれた。
「……ふううぅぅぅ~……」
立ち上がり、大きく息を吐いた。
自分にいい聞かせた。
頭を冷やせ。
ヴェルベッタ戦を思い出せ。
あの闘いで、なぜ負けた?
熱い心と、冷たい頭脳――それを忘れていたからだ。
何を学んだ?
常に冷静でいる事。そして良く見て、考える事。
大きく深呼吸をした。身体から、黒く暗い塊が出ていったように感じた。
熱の下がった頭で、改めてアデュクテスを構えた。
すると――
「目は覚めたようだな」
例の合成されたような声で影がいった。
「……なんだと?」
「お前の相手は俺じゃない。今すべき事を見誤るな」
気づけば武器が消えていた。だらりと下げた手は、闘う意志がない事を表している。
「見誤ってなんかねぇよ。そいつだけは生かしちゃおけない」
「ザーブラにはまだやってもらう事がある」
「あんたの事情なんか知らないね。いいからよこせよ」
「……この惨状を、どう説明するつもりだ?」
「説明?」
「理由はどうあれ、多数の犠牲者が出てる。ザーブラの悪事を白日の元に晒せなければ、罪を問われるのはお前だ」
「……オレが殺した訳じゃない」
「それを、どうやって証明するんだ?」
返す言葉がなかった。
確かに、ここで行われていた事をザーブラに白状させる以外、潔白を証明する方法はないだろう。
「こいつには色々と喋ってもらう。それが、証拠になる」
「あんた、部下なんだろ? 信用できると思うか?」
「どう思うかは、お前の勝手だ」
「そうか、なら……勝手にさせてもらうっ!!」
不意をついたつもりだった。
一息で距離を詰め、攻撃をしようとした。
刹那――
ボウンッ!!
「!!??」
視界が塞がれた。
紫色の煙が、影とザーブラを覆った。
「煙幕か!?」
水平に薙いだアデュクテスが紫煙を斬り裂く。
しかし、その時にはもう、二人の姿はなかった。
「……くっ!!」
周囲を見回した。どこにもいなかった。煙が晴れるよりも早く、文字通り影は消えていた。
またしても逃げられた。
一度は収まった怒りの衝動が、再び爆発した。
「くっそおおぉぉぉーーっ!!」
ガツンッ!!
石畳に叩き付けた刃が、虚しく音を鳴らした。
散った火花は、獲物を逃したアデュクテスの怒りでもあるかのようだった。
狂乱の去った地下室は静かだった。時折爆ぜる火の音だけが、寂しげに響いている。
「…………」
激情が去った後も、しばらく動けなかった。
血の臭い。湿った空気。陰気な闇。揺れる松明の灯り。どれもが入ってきた時と同じだった。
しかし、今ここに充満しているのは、目に見えるものじゃない。
痛み。苦しみ。嘆き。哀しみ。慟哭。怨み。そして、無念。
愛する人達に看取られる事なく、鎮魂の歌に送られる事もなく、ただ無惨に散らされた命達。
いたたまれなかった。
後悔が、無力感が、慚愧の念が、胸を締めつける。軽率だった己に対する忸怩たる思いが、止めどなく湧いてくる。
しかし、そんな事にはなんの意味もない。二度と同じ過ちを繰り返すまいと誓った所で、この惨劇をなかった事にはできない。失われた命は返ってこない。枯れるまで涙を流した所で、そんなものは自己満足でしかない。
ならば、全てを抱えて生きていこう。
彼女達の未来を、人生を、幸せを奪った事実から目を背けずに生きていこう。
あの女性がくれた言葉。
立てた誓い。
一緒に抱きながら生きていく。それが、今のオレにできる唯一の償いだ。
目を閉じた。
腕を広げ、意識を集中した。
「……ロンザート・サーリルィ・リレイラ・ラーアード……」
今夜の騒動は、すぐに知れ渡るだろう。ここで何が起きたのか。調査の手が入るはずだ。
「此方なる地、生命は眠りにつき、彼方なる地にて輪廻の緣を紡ぐ……」
ならば、彼女達をこのままにしてはおけない。この上、晒し者にするような真似などしたくない。
「終の遺灰は蒼炎を灯し、始なる聖灰は白炎を宿す」
罪悪感を少しでも薄れさせたいがための、浅ましい行為――分かっている。こんな事をした所で、なんの償いにもならない。
「無白の野に伏せ、字なき者! 汝が導に永遠の浄火を!!」
しかし、分かっていて尚、放ってはおけなかった。
「シー・ラーメロイス・アルティシアン・ラムザ……」
せめて、彼女達の魂が迷わず天に帰れるように。
「レプシロン・ローア・アーノード……」
聖なる炎に抱かれて、安らかな眠りにつけるように。
「クーリア・シシ・シュリアノン!!」
古代語が宙に灯したのは、揺れる二つの炎。
詠唱が進むにつれ、現世の蒼炎と隠世の白炎が一つに重なり、交わっていった。
やがて成された球体に、蒼白い光が宿った。発光が明るさを増すと同時に、事切れた女性達がぼんやりと輝き始める。
「白浄蒼葬焔灰!!」
ボウッッ……ンンンッッ……!!!
術式が完成すると、鎮魂の浄火が全ての遺体を包みこんだ。
燃え上がる炎が、蒼く白く揺らめいて闇を祓う。
ゴ……オオオオオォォォォ…………!!!!
立ち尽くしたまま、オレは見つめていた。
彼女達の悪夢が燃えていくのを。
狂気の棲家が朽ちていくのを。
腐水を清める聖水の如く、濁った闇を蒼白い浄炎が覆い尽くしていく。
ゆっくりと。
そして、密やかに。
それは、約束された安息の眠り――醒めない夢なら、どうか、幸せな夢でありますように。
目覚めた先の生が、幸福に満ちたものになりますように――。
炎に背を向けた。
足元には、長く地面を伸びる影。ゆらゆらと揺れながら、しかし決して消える事なく在り続ける。
心に差した陰が残す、傷痕のように。
「…………」
詫びの言葉は出てこなかった。
別れの言葉も出てこなかった。
そんなもの、必要ない。薄っぺらい言葉になど、なんの意味もない。
今はただ、歩み続ければいい。
この道を。
自分で決めた、自分の道を。
背負ったものに恥じない生を全うできた時、初めてオレは口にできる。
詫びの言葉を。
そして。
さようならの、言葉を。




