88・微睡(まどろみ)が見た夢
暴れ狂うマンティコアは手がつけられなかった。今の奴には、敵も味方も関係ない。
「ひぃっ!?」
巻き添えを食らいそうになったザーブラが、怯えて悲鳴を上げる。
石畳の溶ける音が刺激臭と共に充満し、立ち昇った煙が視界を塞いでいく。
「くっ……! こいつ……!」
「しし、鎮まりなさい! 落ち着くので……ひゃあぁっ!!」
「ギャヒャアアァ~!! ギャヒャア~ア~アアアァァ~~ッ!!!」
コントロールを失った魔獣の暴走に、慌てふためくザーブラの声が重なった。
デタラメに鳴らされる金管楽器と変態野郎の喚き声。
神経が削られる。
現実感が麻痺していく。
しかし、この悪夢のような二重奏が仮初めでしかなかった事をオレはすぐに思い知らされる。
それは、唐突に訪れた。
目覚めたのは、まぎれもない。
暗がりに揺蕩う微睡が両の目に映した夢――本物の悪夢だった。
「ぎゃぎい”い”い”いいいいぃぃぃぃぃーーーっ!!!!」
「!!?」
およそ、生物の口から出たとは思えない悲鳴――ひときわ大きく響いたのは、空気を引き裂く絶叫だった。
じゅうじゅうと肉が焼き爛れ溶ける音と共に、嫌な匂いが鼻を刺した。
「しまった!!」
繋がれていた女性の下腹部に、飛び散った毒液がかかったのだ。
狂ったようにばたつかせている足から大量の血を飛び散らせている様が、遠目にもはっきりと見えた。
「ぎあ”あ”ああぁぁぁっ! あ”がががががががあ”あ”ああぁぁぁーーーっっ!!!」
「くっそぅっ!!」
考える前に身体が動いていた。
駆け寄るオレの目は、眼前の惨事しか映していなかった。
ブオオォォ……ッン!!
「!!??」
ドガアアァァァッ!!!
「……っぐあっ!!!」
逸れた意識が視界を狭めた。尾の薙ぎ払いが腹に直撃し、後ろに押し戻される。
物理攻撃無効化がなければ、肋の数本は折れていただろう。
「ギヒュッ! ギヒュッ!!」
奇妙な呼吸を繰り返し、マンティコアがこちらを凝視していた。
その顔に浮かんでいたのは憤怒――牙を剥き出し、威嚇しているのが分かった。
「キュガカカカカカアァァ~~っ!!!」
ボヒュッ!!
ボヒュヒュヒュッッッ!!!
「……っくぅっ!!」
ドガアアアァァァーー……ッンン……!!
焦りと動揺が生んだ隙――四方から撃ち込まれた火球が直撃した。
辛うじて間に合った絶対魔法防御が炎を掻き消すと、煙の向こうにマンティコアが見えた。
しかし、何故かこちらではなく、悲鳴を上げる女性に歩み寄って行く。
「キャッハッ! キャッハハッハハッハハッッ!!」
「!!? まさか……!!」
頭に浮かんだのは、魔獣の性質――獲物に尾の毒を打ち、麻痺させてから捕食する。
つまり、毒液のかかった人間は奴にとって――。
「やっっ……!!」
「ギャバハハハハッ!!」
ぞぶッッ!!
「……っっぎぃっ!!!?」
ごきごきッッ……!!
ごりごりごりんんんッッッ……!!
「やめろおおぉぉぉーーっ!!!」
ぶちぶちぶちぶちぶちいいいぃぃぃーーッッッッ!!!
「ぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁーーーっっっ!!!!」
勢い良く振り上げた口から人間の下半身がぶら下がっていた。流れ出した大量の血と内蔵がどろりと落ちて地面を濡らす。半固形の血溜まりからは、うっすらと湯気が立ち昇っていた。
さっきの威嚇は、餌を取られると思っての行動だったのだ。
優先すべきは、闘いよりも食欲――魔獣の顔に浮かぶ至福の表情は、貪欲な本能を雄弁に物語っていた。
べりべりッッべきべきべきッ!
ばりんッッ……!! ごりッごりッ……!!
くっちゃくっちゃ……
くっちゃくっちゃくっちゃ……
じゅうぅるるる……
じゅ……ちゅうううぅぅぅ~~ッ……!!!
「ッッキャアァッハアアアァァ~~ッ!!」
松明が描き出す陰影の中、皺だらけの顔が歓喜に狂い、笑う。
吐き気を催す程に卑しく、怖気を震う程に醜くかった。
「っっはっ! ……はっ! ……はあ……ぁっ……!! い……や……た……たす……たす……けっ……え”ぇっ……!!」
「い“い”……い……ひい”ぃ……やだ……や……だ……やだぁ……あぁ……ぁ……ぁぁ……っ……!!」
惨劇を目の当たりにした周囲の数人が、恐怖から逃れようと必死で足掻いている。
しかし、麻痺毒を打たれているのか、目は虚ろで焦点も合っていない。ただもぞもぞと手足を動かす以外、何もできてはいなかった。
ぴちゃ……ぴちゃ……ぴちゃ……
ごりッ……ごりッ……ごりッ……
くっちゅくっちゅくっちゅくっちゅ……
むせかえるような血の匂い。
骨を噛み砕く音。
肉を咀嚼する音。
弱々しい泣き声。
狂った嬌声。
揺らめく灯が照らしていたのは、紛れもない悪夢の晩餐。
「な……んて……真似を……」
「キャッハッ! キャキャキャキャキャッハアアァァッ!!」
鮮血で口元をべったりと濡らした悪魔が高く嗤う。
口中の肉片と血を撒き散らしながら。
「そおおぉ~ですかっ! お腹が減っていたのですねっ! いいでしょういいでしょう! 好きなだけお食べなさいっ! キヒィヒィヒィヒィヒイイィィィ~~ッ!!」
凄惨な光景に思考が麻痺した。ザーブラの声すら耳を素通りした。
そんなオレをマンティコアは見ていた。酒の肴を楽しむように。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
血と肉の中から引き摺り出した何かを咥え、見せつけるようにぶらぶらと揺らしている。
「……?」
赤黒い血に塗れた肉の塊――それは、もぞもぞと動いていた。
良く見ると、四本の足らしきものがあり、きぃきぃと鳴く弱々しい声が聞こえる。
にいぃ……たあぁぁ~~……
「!!!?」
おぞましく嗤う顔を見て、肉塊の正体が分かった。
悪寒が走り、全身が鳥肌で埋め尽くされた。
それを嘲笑うかのように、次の瞬間。
べきんッッ!!!
「なっ……!!?」
咥えていた肉の塊――己の子を、マンティコアが噛み砕いた。そしてそのまま、なんの躊躇もなく頭から貪り喰い始めたのだ。
ばきばきばきッ!!
ごりゅッ……ごりゅッ……ごりゅッッ……!!
「な……んて奴だ……」
吐き気がした。
我が子の肉を、口の端からこぼしながらくちゃくちゃと噛むその姿は、ただただおぞましかった。
食欲うんぬんの問題じゃない。
奴らマンティコアにとって、自分以外は全て敵であり、餌なのだ。たとえそれが、血を分けた子であっても。
そう考えると、交尾ですら性欲を満たすためだけの行動なんだろう。子孫を残すというのは結果でしかなく、目的ではないのだ。
「こんな化物、繁殖させてたまるかっ!!」
ようやく、我を取り戻した。
性能、性質、そして行動原理。
こいつは、全部が飛びきりヤバい。
汗に滑る双剣を掴み直し、跳んだ。
危険なのは承知していた。しかし、これ以上長引かせたらこちらの神経が持たない。それほど、凄惨に過ぎる場面だった。
一気に終わらせる!!
覚悟を決めて突っ込んだオレに対してマンティコアはしかし、迎撃体勢を取ってもいなかった。
火球も毒液も飛んではこず、ただ口の周りを舐め回していただけだった。
嫌な予感がした。
図らずも一瞬の後、その予感が当たった。
「ッッッキャアアアアアアァァァァァ~~ッッッ!!!」
ズズズウゥォオオオォォォーーッ!!
「うぉっ!!?」
爆発的な魔力が、絶叫と共に押し寄せてきたのだ。
耳を劈く奇声が空気を震わせ、叩きつけられた見えない塊に身体が押し戻される。
「ぐっ……なんなんだあいつは……!?」
着地すると同時に、巨体が一直線に跳んできた。左右から鋭い爪が襲いかかってくる。
「ちっ!!」
ギャギャッッン!!
双剣で弾くと今度は上から毒針を突き刺しに来た。頭を下げて避けた。身体の下に潜り込み刃を垂直に突き上げる。狙いは胸部。入る直前、仰け反ったマンティコアが巨体を後ろに一回転させた。下から再び毒針が迫ってくる。
「キャッアッ!!」
ブォウッ!!
ギキイイィーーッン……!!
受け止めた双剣ごと身体が持ち上げられた。
スピードもパワーも今までより数段上――腕の傷も、半ば塞がっている。
ただ喰ったというだけで、驚異的な回復力だった。
「いい加減に……」
着地したマンティコアが一瞬頭をさげ、力を溜めた。攻撃前、四つ足の獣が見せる隙――双剣に魔力を乗せ風の斬擊を飛ばした。
「しやがれっ!!」
ボボヒュウゥッッ!!!
「!!?」
ザザッッ……ンンッ!!
「ギャヒイイィィィーーッ!!」
X字に切り裂かれた顔から血が飛び散る。咄嗟に前脚で押さえ踞った体勢は、後頭部が丸見えだった。
「とどめだっ!!」
落下する勢いのまま双剣を振り下ろした。両の腕には頭蓋骨ごと頭を二つに割る感触が伝わってくる――はずだった。
しかし。
「ッキィッッ……!!」
ゴギキイィーー……ッン!!
「!!!」
見えない何かに剣が弾かれた。
物理攻撃を無効化する魔法盾。
不意を突かれた所に、追い討ちが襲ってきた。
「キャア”ア”ア”アアァァァーーーッッッ!!!」
ズウゥアアアァァァーー……ッ!!!!
「!!?」
バッシイイィィィィーー……ッンン!!!
「ぐっ……おあっっ……!!!」
まるで、トラックにでもはねられたような衝撃だった。
高密度に圧縮された魔力がドーム状に広がり、成す術のない身体が真後ろに吹き飛ばされる。
ドガアアァァーー……ッンン!!
「ぐはっ……!!」
扉の上部、身体が壁にめり込んだ。
バラバラと煉瓦が砕け落ちる。
なんとか体勢を立て直し、地面に降りた。
「クソッタレがあぁっ……!!」
オレは、焦っていた。
いるだけで精神が穢されそうな空間――一刻も早くこの闘いを終わらせたい。そう思う気持ちが太刀筋を鈍らせ判断力を曇らせた。
「キャア”ア”ア”ァァーーア”ァーア”ア”ァァーーア”ーア”ーア”ーーッッ!!!」
しかしその思いとは裏腹に、マンティコアがさらにどす黒い魔力を放出し始めた。
もはや楽器の音にしか聞こえない高音域の鳴き声に鼓膜が掻き毟られ、空気がビリビリと震える。
「ぐぅぅっ……! 」
オレにすら耐え難い奇声だ。常人ならこれだけで気が触れる危険がある。繋がれた女性達の身を考えると、これ以上奴の好きにさせておく訳にはいかない。
手数は棄て、致命的な一撃で終わりにできる武器を――そう判断した時だった。
四方から、聞こえてきた。
この陰湿な地下室が身を捩り産み出したような、絶望と惨劇の声が。
悪夢はまだ、終わりじゃなかった。




