60・今ここにある世界
色々と……本当に、色々あったナーロッパ初日を終えたオレ達は、酒場にいた。
グラスと二人、まずは果実酒で乾杯し、運ばれてきた料理に舌鼓をうった。
運河に挟まれたここカロンの名物は魚介類との事だった。
香辛料がふんだんに使われた焼き魚や豊富な調味料で煮込んだシチュー、貝類の燻製や甲殻類のフライ、水草のサラダなど、料理はどれも美味かった。
労働者の多い土地柄なんだろう。濃い目の味付けは食べごたえがあり、酒ともパンとも相性が良かった。
満腹感と適度に回った酔いが自然と会話を弾ませ、楽しい雰囲気にまた一層、酒が進んだ。
「ジル?」
何杯目かの果実酒をちびちびと舐めながらナーロッパの話をしている内に、通貨の話題になった。
「はい」
陶器製の杯に口をつけたグラスが、ほっと小さく息を吐いてからいった。
「文明国の通貨単位は『ジル』で統一されています」
「何か、名前みたいだね」
「語源の『ジルコニス』は、神の名前なのです。商業を司る、十二神の一人ですね」
アルコールでほんのり頬を染めたグラスは、何ともいえず色っぽかった。少し酔っているのか、潤んだ瞳は熱っぽく、普段より饒舌だった。
「ここ、十二人も神様がいるの?」
「いえ、実在している訳ではありません。人間によって生み出された信仰対象としての存在です。主神ゴルドと妻である主母神ルヴィアは十人の子を創った、と伝承にはあります」
「それで十二神か。で、各々が手分けして万物を司どってる、と」
「中でもジルコニスは商いの神ですからね。通貨単位となっている事も含めて、最も身近といえるのではないでしょうか」
神様の名前がそのまま通貨の名前になっているというのは、シンプルで分かりやすかった。
と、ここでひとつ疑問が浮かんだ。
「そういえばさ、流通してるのはやっぱり、金貨とかなの?」
「あ、そうですね。ご説明しておきます」
そういって、グラスが皮袋から何かを取り出し、テーブルに並べた。
それは、四種の硬貨と、一枚の紙だった。
「こちらが、ナーロッパで使用できる貨幣です。丸い銅貨が一ジル、四角い銅貨が十ジル、銀貨が百ジル、金貨が千ジル、そして紙幣が一万ジルになります」
「へえ。紙幣もあるんだ」
一万ジル紙幣を手にとってみると、思ったより厚みがあった。どうやら、普通の紙じゃないらしい。
「これ、獣皮紙だよね。ギルドの契約書なんかもそうだったけど、ナーロッパの紙って、全部こうなの?」
「いいえ、植物から作った物もあります。ただ、獣皮紙の方が丈夫ですので、紙幣や重要な書類にはこちらを使う事が多いのです」
「なるほど。用途によって使い分けてるのか」
それぞれの貨幣には、立派な髭を蓄えた男の肖像が描かれていた。これが、語源となったジルコニスなんだろう。
「オレが元いた国と種類が似てるな」
「と、おっしゃいますと、地球の日本、ですよね?」
「知ってるんだ」
「はい。あそこは少々特殊な異世界ですので、勉強しておきました」
“異世界”といわれて、ちょっと変な感じがした。しかし考えてみれば、ナーロッパを担当するグラスからしたら、地球の方が異世界なんだよな。
「一ジルが約一円になりますので、買い物などの時は計算しやすいと思いますよ」
「え? そうなの?」
「はい。ただし、ナーロッパの物価は日本の十分の一程度ですので、貨幣価値は同じという訳ではありません。例えばこのお酒は一杯三十ジルですから、日本円だと、三百円くらいという事になりますね」
「文明に差があるから物価の違いは分かるけど、一ジルが一円ってのは……」
何とも都合のいい話だった。
しかし、この後グラスの口から語られた説明を聞くと、そうである訳が分かった。
「ルキト様もお気づきだとは思いますが、ここナーロッパには、地球と似通った部分が多くあります。貨幣や文字は日本、街並みや数字は欧州。その他、料理や文化、宗教、風習、一部の生態系に関してもです」
両手で持った杯を口に運び、果実酒で喉を潤して、グラスが先を続けた。
「それは決して偶然などではなく、理由があるのです。ナーロッパと地球を含む世界が『同一世界群』である、という理由が」
「同一……世界群?」
おうむ返しに尋ねた。
聞いた事のない言葉には、意味を推測できるようなできないような、微妙な響きがあった。
「俗に『異世界』と呼ばれる世界は、無限に存在します。そして、同じ数だけ次元も存在しています。その中で、世界線の近い次元……異世界同士を一括りにしたものを世界群と呼ぶのです」
「つまり、地球とナーロッパは同じカテゴリーにある、って事?」
「そうです。宇宙に例えれば分かりやすいでしょうか。星々の集まりを星雲と呼び、それが無限にあるのと同じです」
「星を異世界に、星雲を世界群に置き換えればいいのか。なるほど、分かりやすい」
世界線の近さから、文明が発達する過程も似通っていたため、共通点が生まれた訳だ。
「基本的に、生物の転生や転移は、同一世界群の中でしか行う事はできません。また、異世界間で環境以上に違うのが、含有魔力量です」
「その世界にある魔力の量、って事だよね」
「はい。ナーロッパが極めて豊富なのに対して、地球にはほとんど魔力はありません」
「なんでそんなに違うの?」
「元々、地球を含むルキト様のいらした世界自体が、含有魔力がほぼない状態で生まれたからです。それを補う手段として発達したのが、『科学』です」
超自然的な現象である魔法がない代わりに、科学という論理的な魔法をオレ達は手にした。
果たしてそれは、幸運だったのか、否か。
賛否が分かれる所だろう。
「逆にナーロッパでは、科学はほとんど発展していません。魔法で代用できてしまうからです」
「各々(おのおの)、世界の特性を活かした方向に発展していったんだね」
「そうですね。これは他の異世界にも見られる現象で、両方がバランス良く発展した例もあれば、逆にどちらも発展していない例もあります」
「まさに千差万別、って訳だ」
手元で弄んでいた杯から、酒をあおった。クセのない果実酒が、フルーティーな甘さと香りを残して喉を滑り落ちていった。
「ん? 待てよ? さっき、転生や転移は、同一世界群の中でできるっていったよね?」
「はい」
「てことは、だ。地球にも、異世界から転生や転移してきた人がいるって事?」
「いらっしゃいます。ルキフル様もそうでしたし」
「現代にもいるの?」
「天才、あるいは奇才などと呼ばれている方の中にはわりと多いですね。あるいは、偉業を成した後、若くして亡くなった方の中にも、地球での使命を終えて次の世界に転生なさる例は数多くあります」
「そ、そうだったのか……」
「一部では、宇宙人の仕業などといわれる程の事をなさってしまう方もいらっしゃいます。与えられた自身の能力を扱い慣れていなかったのでしょうね……」
七不思議やオーパーツ、未確認生物なんかの存在も、チートや異世界の生き物と結びつければ説明がつく。
つまり人類は、わりと昔からクソラノベに触れてたって訳だ。
そう考えると、何ていうか、感慨深い物があるよな。
その後、しばらく雑談しながら飲んでいると、酒がなくなった。
「おかわりは……」
いるかどうか訊こうと目を上げて、途中でやめた。
ちょうど最後の一口を飲み終えたグラスの身体が、ゆらゆらと揺れていたからだ。
口調があまり変わらないので気付かなかったが、結構、酔いが回っているみたいだ。
「酒もなくなった事だし、今日はこのくらいにして休もうか」
「はい……ごちそうさまでした……」
「だいぶ酔ってるみたいだけど、大丈夫?」
「大丈夫です……。少しだけ……身体がふわふわします……けど……」
話はできるものの、向けてきた目はとろんとして、今にも閉じられてしまいそうだった。
とりあえずグラスを座らせたまま、預かった皮袋から会計を済ませた。ついでに宿があるかと店主に尋ねると、どうやらここの二階から上が宿屋になっているらしい。
グラスの手を取り、階段を上がった。少しばかり足元はおぼつかなかったが、歩けない程じゃなかったのは幸いだった。
「空きがない?」
受付で宿泊したい旨を伝えると、二部屋は空いていないとの返事が返ってきた。
二人用の部屋なら一室空いているので、それで良ければ宿泊できるらしかった。
「相部屋か……」
他を探そうかとも考えた。
しかし、この状態のグラスを連れて街を歩きたくはなかった。
しかも、探すといっても土地勘もなければ別の宿屋の場所も知らないし、何より、そこが都合良く二部屋空いているとも限らない。
「じゃあ……その部屋でお願いします」
そう答える以外、オレに道はなかった。
二人用というだけあって、広い部屋だった。通りに面した壁にある窓からは、賑わう街を見る事ができる。
壁掛けのランプに照らされた室内にはベッドが二台とテーブルに燭台、チェアが二脚とクローゼット。それだけの質素なインテリアだったが、ベッドシーツも清潔ないい宿だった。これなら、ぐっすり眠れるだろう。
ただし。
一人でだったら、の話だけど。
「う……ん……」
ベッドに横たわらせたグラスが、寝返りをうった。一瞬ドキッとしながらも様子を伺っていると、そのまま気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
オレは、ほっと息を吐いた。
まぁ、確かに。
このシチュエーションはマズいっちゃあマズいんだけど、完全に熟睡しているあの状態なら問題はないだろう。残ね……幸いな事にベッドも二つあるし。
――性に奔放な神々の中にも、幼女趣味はあまりいないのだがな
唐突に、ルキフルの台詞を思い出した。あの時は聞き流していたのに、何故かこのタイミングでハッキリと頭に浮かんだのだ。
……セイニホンポウナカミガミ?
…………。
いかあああぁぁぁーーんっ!!
勢いよく頭を振り、邪念を追い払った。
この展開は、クソラノベになくちゃならないお約束イベントではある。
だがしかし。
眠ってる女性に手を出すっていうのは、流石にない。
そりゃそうだ。
だってそれ、ただの犯罪だし。
人様に闇堕ちするななんていっといて、自分が色堕ちしてりゃ世話ないだろって話だ。
するならちゃんと双方同意の上で正しい手順を踏みつつ法や倫理に触れないよう細心の注意を払ってというか女神と人間が例の行為をするのはタブーだって何かで読んだ事があったようななかったようなでも本人の許しがあれば大丈夫だと思うんだけど肝心のグラスが寝ちゃってんだからやっぱり手を出すのはマズいよな、うん。
…………。
……いや、待てよ?
考えてみれば……。
健康でかつ独身の男女が同じ部屋で一夜を明かすっていうのはつまりそういう展開になるのを双方が納得してるとも考えられる訳で俗にいう酔った勢い的なアクシデントが発生しても不思議じゃないどころかこれは見方を変えれば誘われてるって解釈もできるんじゃないだろうか。
………………。
なんじゃあこりゃあっ!!
いやもう、脳味噌だけはこれでもかってくらい回転してるのに、捻り出されるのは結論に達する事のない堂々巡りの思考だけだった。
放っといたらこれ、一晩中迷い続ける羽目になるんじゃないだろうか。
「……ん……」
一人で悶々(もんもん)としながらあれこれ考えていると、ベッドから声がした。
目を向けると、不届き者の一人相撲など知るよしもないグラスが、すやすやと眠っている。
顔を眺めてる内に、不埒な気持ちが薄れていくのを感じた。
「……ふぅ~」
大きく息を吐くと、肩から力が抜けた。
こんな無防備な寝顔を見せられたんじゃあ、信頼を裏切るような真似なんてできねぇよなぁ……。
安心したような、残念なような。
いやいや、これでいいんだ。
そう思い直すと、途端に眠気を感じた。
「……寝るか」
誰にともなくいって、上着を脱いだ。そっと開けたクローゼットにしまい、卓上の蝋燭を吹き消す。
何だかんだで内容盛り沢山の一日だった。今夜は、ゆっくり眠ろう。
そう一人ごちてベッドに入り、隣に声をかけた。
「おやすみ、グラ……」
がばっ!!
「!!?」
突然だった。
今まで大人しく眠っていたグラスが、急に起き上がったのだ。
「???」
いきなりの出来事に面食らっていると、ゆらゆらしながら立ち上がる姿がランプの灯りに照らし出しされた。
訳が分からずフリーズして数秒の後――もぞもぞ動く身体で、何をしようとしているのかが分かった。
グラスは、服を脱ぎ始めていた。
いやいやいやいやいやいやいやいや!
待て待て待て待て待て待て待て待て!!
パニクった脳内で、同じ言葉が暴れまくった。
バグりそうな理性を必死にかき集めて、オレは絶叫した。
「ちち、ちょっと! 何してんのグラ……!!」
返事の代わりに、身体をするりと滑ったドレスが音もなく床に落ちた。
すると、そこにいたのは――
「……ス……」
ランプの灯りに照らし出された、半裸の女神だった。
薄闇の中、下着とオレンジ色の光だけを纏ったグラスは、美しかった。
流れるような髪も、白い肌を舐める灯りも、豊かな胸も、細い腰から描かれるマーメイドラインも、すらりと伸びた足も。
柔らかく、艶かしく、温かく、艶やかで、そして、神秘的だった。
「…………」
気がつくとオレは、言葉を失っていた。
色欲、性欲、欲望、情欲――いや、愛情ですら意味を失いそうな程の“美”が、目の前にはあった。あまりにも非現実的な存在に、おとぎ話の世界に迷いこんだような錯覚さえ覚えた。
「ルキト……様……」
ゆっくりと……揺蕩う夜のようにゆっくりと、グラスが近づいてきた。
動けなかった。
まるで、優しい何かに全身を包み込まれたみたいに、身体が、いや、心が、いう事を聞いてくれなかった。
「グ……グラス……」
かろうじてそれだけを口にできたオレの目を、濡れた瞳が覗き込んできた。ベッドに手をついたグラスの双眸は深い色をたたえて、熱っぽく揺れていた。
震える手を動かし、指先で柔らかな頬に触れた。
「んっ……」
小さく開いた唇から、声が漏れた。
体温に、匂いに、熱に、吐息に。
顔を、身体を、心を、愛しさを。
そっと撫でられているようだった。
「グ……」
抱きしめたい。
そう思った。
ぎこちなくも何とか動き出した腕を伸ばすと、それに応えるようにグラスが優しく微笑んだ。
「グラス!」
ぎゅっと抱きしめた身体は、温かかった。柔らかかった。
愛しい女性の熱を、匂いを、存在を。
自分の全てで感じるこの時が、今あるオレの世界、全てだった。
…………と。
恐らくそう、思っただろう。
グラスを抱きしめる事ができていたなら。
「…………ん?」
一瞬遅れて、違和感に気がついた。
「……むにゃ……むにゃ……」
「…………へ?」
見事にスカッた両腕の下――
「す~……す~……」
うつ伏せのまま眠るグラスの横顔が見えた。
………………。
「ええええぇぇぇぇぇ~~っ!!???」
動けなかった。
まるで、優しさの欠片もないたちの悪い何かに、動く気力を根こそぎ奪われたみたいに、身体が、いや、心が、いう事を聞いてくれなかった。
「……っこ……! マ……っ! なんっっっ…………!!!」
チーーーン……。
言葉にならない言葉を悶絶しながら吐き出していると、終了の合図が頭に響いた。
――女性との接し方も、そのくらい知っていればねぇ……
ご丁寧にもこのタイミングで、ノエルの台詞までが浮かんできた。
「……っっはああぁぁ~……」
止めを刺されたオレの口から、これでもかってくらいのクソデカため息が出た。
膝の上で眠るグラスをちゃんと寝かせて、隣のベッドに移動した。
温もりの残るシーツにくるまり、つくづく思った。
これが……今ここにあるこれこそが、オレの世界だ。しかも、当分は変わる事がなさそうだった。
シーツを頭から被ると、グラスの残り香が鼻をくすぐった。
ぎゅっと目を閉じた。
眠れそうになかった。




