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26・咎人を撫でる手

 ズズ……ズズズ……

 ズズズズズズズズズズズズズ……!


 ゆっくりと――鏡の中を這うようにゆっくりと、何者かの手は近づいてきた。

 女性特有の繊細さと、病的なまでの白さを持つ手には、関節が三つある指が七本生えていた。

 それは、大きさ故に禍々しく、艶かしさ故に美しく、美しさ故に恐ろしかった。


 《鏡ノ、中ニシカ、見エヌ、手……? 不可視化……イヤ、認識阻害、カ……?》


「そがぁにチンケな代物じゃないわい。神の姿が肉眼で見れる訳ないじゃろうが」


 《神、ジャト!? ソンナ物、呼ビ出、セルハズガ、ナカロウガッ! ホラヲ吹、クノモ、大概ニ、センカッ!》


「嘘か本当かはすぐに分かるじゃろ。それと、ひとつ忠告しちゃるわ。あの手に撫でられんように、気ぃつけた方がええで」


 《撫デル? 何、ヲ、イウテオル、ノジャ……?》


 気がつくと、七指の手がリッチーの頭上まで迫っていた。

 そして、鏡の中、霧に指先が触れた。

 次の瞬間――。


 《!!!!!?》


 獣のような絶叫が、宮殿内の空気を震わせた。

 剥き出しの痛覚神経を掻き毟られでもしたのかと思える、怖気(おぞけ)(ふる)う悲鳴だった。

 起きている事が理解できなかった。

 それは、悲痛の叫びを上げた当のリッチーも同様のようだった。


 《アグ……ア! グアァガアアアァァッ……!! ナナ……何ジャ、イ、今、イイ、今ノハ……痛ミ!? ワシガナゼ、カカ、カ、感ジテ……?》


「逃げんでええんか? ほれ、また来よるぞ」


 見ると、確かに指先が霧に触れようとしていた。

 慌てたリッチーが、その場から移動した。

 しかし――。


 《ギィイイイァアアアアアアアアアーーッ!!》


 再び、獣の悲鳴が木霊する。


 《コ、コココ、レハ! ガア……グウウアァァ……! キ、貴様アッ! 何ヲシタアァァァッ!!》


「ワシは何もしちょらんわい。ただ、『彼女』が撫でただけじゃ。オドレの魂を、な」


 《タ、魂ヲ……撫デ、ル?》


「ほうじゃ。咎なる者の魂から罪を削ぎ落とす死神の手。罪が重い程、苦痛も増す。身に覚えがあるじゃろうが」


 《デ、デタラメヲ、抜カスナ! カ、神ノ、手、ナドトッ!》


「痛みを感じたじゃろ? 何でか教えちゃるわ。それはな、肉体と命は捨てられても、魂は捨てられんからじゃ。そして魂には、感覚が残っちょる。不死の存在になったとしてもな」


 《魂ニ、触レル!? ソンナ真似、デキル訳……》


「できよるから、オドレは叫びまくっとるんじゃないんか? まぁ、そがぁな事、ゆっくり話しちょる場合じゃないと思うがの」


 《!!?》


 オオ……オオオオォ……ンン……


 愛しい人を求める淑女のような優しさで、ゆっくりと指先が迫る。

 罰から逃れる罪人(とがびと)のような必死さで、リッチーが飛び回る。


 《キイイイイイガアアアアアーーッ!!》


 しかし、結果は同じだった。


「いい忘れちょったがの。鏡に写る姿のどれに触られてもアウトじゃ。気ぃつけろや」


 《イギ、イギ、ギ……イイィィィッ……!》


 手負いの獣の唸り声を残して、それまで一ヶ所に渦巻いていた霧が広がり、消えた。霧散し、姿を眩ませる気のようだ。


 《グク、グ、カカ……! コ、コレナラ、手ヲ出セ……》


 続く言葉を、リッチーはいえなかった。空気を切り裂く絶叫に取って変わられたからだ。


「無駄じゃ。姿は消せても、魂は消せんけぇの」


 あれは一体、なんだ?

 何処から来た、どういう存在なんだ?

 死神の手とレイが呼ぶ異形は、これまで見てきたどんなモンスターや化け物にもカテゴライズできなかった。

 恐ろしかった。

 それは、未知の存在に触れたがゆえの、原始的な恐怖だったのだろう。

 だが、目を放せない自分がいた事もまた、事実だった。

 知らず知らずの内に、オレは鏡壁を凝視していた。


『……っ!』


 しかし、伝わってきたグラスの怯えに、無言で語りかけられた。

 これ以上、ここにいるべきではない。

 一体、どんな痛みを感じればあんな声を上げられるのか――想像する気にすらならない悲鳴が、容赦なく神経を削ってくる、この場所に。


『グラス。もう離れよう』


『え……?』


『あんなもん聞いてたら、正気じゃいられなくなる。やっぱり、君を連れてくるべきじゃなかった。ごめん』


『ルキト様……し、しかし……』


「無理しない方がいいですよ、グラスさん」


 不意に、レイが声をかけてきた。視線はリッチーに向けたまま、しかし、口調は元に戻っていた。


『レイ、お前……』


「すいません、少し冷静さをなくしてたみたいで。闘いは終わりです。撤退しましょう」


『あいつは、あのままでいいのか?』


「ボクにはもう、手が出せません。彼はすでに、『彼女』のものです」


 惨劇の声は、断続的に聞こえてきた。死神の手から逃れようと、必死でリッチーがもがいている。

 しかし、それら全てが徒労でしかない事を、自らの悲鳴で思い知る羽目になるだけだった。


『……分かった。行こう、グラス』


『は、はい』


 レイが踵を返した。その背を、言葉にならない言葉が追ってきた。


 《バ、()アァデエェェェェッ!!》


 踏み出しかけた足を、レイは止めた。もはや呂律すら怪しくなった口調で、リッチーがいった。


 《ニニ、逃ゲ、ダディダ、イド、ダラ! ギ、貴様(ギザバ)、ブォ、ゴゴ、ゴ、(ゴド)! ズゥウウウウウウッ!!》


 絶叫と共に、悪あがきの霧が一直線に伸びてくる。

 反応できなかった訳ではないだろう。しかし、レイは躱すどころか、振り向きすらしなかった。


 《!!?》


 理由はすぐに分かった。攻撃が身体をすり抜けたのだ。

 まるで、そこに何もないかのように。


 《ゴゴゴ、攻撃(ゴグゥウベギ)、ガ、ババ、()ダルゥブァ、ダイ!?》


 さらに続けて伸ばした霧も、ことごとくレイをすり抜ける。


 《ダ、何故(ダデェ)、ダ!? (ダン)デエェ、攻撃(ゴウブェギ)ガ、ズリ(ドゥ)ゲ……キィイアアアアァァァァァーーッ!!》


 術者を殺す事による呪文の解除が不可能だという事実が、疑問と混乱を絶望に変えていく。

 慈悲深い死神の愛撫と重なり、金切り声が尾を引いて紅宮内に響き渡る。


「あなたがいる世界にボクが存在していないからですよ。在るように見える物は虚でしかなく、鏡の中に在る虚こそが存在する実。それが、紅宮内(ここ)を支配している法則なんです」


 レイの言葉は果たして、リッチーに届いていただろうか。


 《ググ、グゾオオォォッ! ()ルナ! グ、グ、()ル……ゴアアァァァァァァッ!!》


 愚問だった。


 《イビイ、イ、イ、イイイ……!! ヤ、ヤベ、ヤベ……ギャイイイイイイイイイッ!!》


 裁きに翻弄される今のリッチーに、届くはずもない。


 《ィィィアァアアアアアアアアアーーッ!!》


 恐怖、絶望、呪詛、悲壮、そして、悔恨。


 《ヒギャアアアアアァァァァァーーッ!!》


 内包した全てを血反吐ごと吐き出してもまだ足りない償いの儀式は、悲の上に凄を、凄の上に惨を、そして、惨の上に悲を、繰り返し繰り返し重ねていく無限地獄に等しかった。


 《ボボ……ボウ、イ"イ"……ワジ、ド、(バゲ)、ジャ……ボウ、ダ、(ダズ)ゲ……(ダズゥ)……ゲデエェェエェェ……》


 何度目に上げた悲鳴の後だったろうか。ついにリッチーが、息も絶え絶えに敗北を認めた。

 しかし――。


「残念ながら、ボクにはあなたを助ける事はおろか、殺してあげる事すらできません」


 レイの口から出たのは、死刑宣告すら慈悲深く聞こえる絶望的な応えだった。


「禊を終え、罪がなくなれば死ぬ事ができるでしょう。ただしそれは……命があれば、の話しです」


 《!!?》


「死ぬまで殺す、と、先程ボクはいいましたね。すみません、あれは撤回します」


 《ババ……バ……バザ……ガアアァァ……》


「死なずに殺され続けてください。その、歪で醜悪な精神を」


 レイの眼前で、巨大な扉がゆっくりと左右に開いていく。陽光が、今や血生臭さすら漂う宮殿内に差し込んだ。


 アァ……アアアァァァ……


 しかし、聞こえてきたのは、紅い宮殿を重ねて深紅に染める、嘆き、撫でる死神の声。

 そして――。


 《ヒ……ヒヒ……》


 不死者が奏でる、精神が壊れた(おと)だった。


 《ヒッヒヒヒ……イ、イヒ……イヒ……ヒヒヒヒヒ……!!》


「死が訪れる奇跡に恵まれる幸運が貴方にあったなら……あるいは、転生した先で会う事もあるかもしれませんね」


 アアアアァ……!

 アアアアアアアァァァァ……!!


「それでは……」


 肩越しに最後の一瞥を投げ、レイはいった。


 《ヒイィ~ッヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒイイイィィィ~~!!!!》


「死ねるその時まで、さようなら」

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