162・武人二人
奇しくもオレ達が取ったのは、両足でしっかりと地を掴む構えだった。
フットワークでリズムを作って攻撃に転じるボクシングの動きが『動』から『動』なら、これは『静』から『動』へと動く空手や古武術、中国拳法の構えに近い。
どっしりと腰を落とし、相手を観察る。呼吸を整え、気を溜め、神経を研ぎ澄ます。
ジリジリと時間が過ぎていった。頬を伝う血が、汗と混じり合って顎先から落ちる。緊張感がピリピリと肌を刺す。
強者を前にした恐怖と、それを凌駕する期待感。わくわくとヒリつくこの感覚は、真剣勝負の中にしかない。
空気が変わった事に気づいたんだろう。ギャラリーからの歓声も、今は止んでいる。
静かだった。
そんな、互いの『意』を読み合う凪のような時から一転、動く時はーー
「!!」
「!!!」
嵐のように吹き荒れ、津波のように襲いかかる。
ババッッ……!!
それがーー
「オオォォッッ……!!」
「はあぁぁぁーーっ……!!」
ドッッ……!!
武術だ。
……ッガアアァァァァーーッッ……!!
同時に間合いを詰め、双方が右の中段蹴りを蹴り合った。ガードした左腕から肩口にまで衝撃が走る。
「くっ……!!」
上半身が右方向に持って行かれた。バランスが崩れる。
「……ふぅ……!」
ボッ……!!
「!!?」
同じくよろけながらも、踏みとどまったオリシアが拳を振りかぶった。打ち下ろしの右ーーチョッピングライトが顔面に迫ってくる。
「っしいぃっ!!」
「っ……!!」
ヴシュウウゥゥーー……ッッ!!
着弾する寸前、身体を右に捻って躱した。そのまま後方に回転する。右肘の裏打ち。背後の死角から後頭部を狙った。
「フゥッ!!」
ボッッ……!!
「っ!!?」
ッヒュッッ……!!
察知したオリシアが頭を下げる。肘が空を切った。その流れで引いた拳。体重移動。前足に加重する。腰を切る。
「シュッッ!!」
放ったのは打ち下ろし。お返しのチョッピングライトだった。
ブォッッ……!
「くっ……ぁ……!!」
オオォォォーー……ッ!!
直撃するかと思われた右の拳も、オリシアは躱して見せた。上半身を起こし、バックステップで距離を取る。
背後からの肘、つんのめった体勢でのチョッピングライト。どちらの被弾も許さない、驚異的な避け勘だった。未だクリーンヒットのない現状が、その事実を裏付けている。
正攻法では分が悪い。
ならばーー
「躱せない技を打つだけだ!」
ダンッッ!!
「!!??」
一息で踏み込んだ。間合いの中へ。オリシアの顔が驚愕に染まる。ガードが上がる。構わず右ストレートを放り込んだ。
「フウゥッッ!!」
ガシイィィーー……ッ!!
「っっ!!」
体重ごと打ち抜いた右の拳でさらに後ろへ押し込む。おろそかになった下半身をコンビネーションで崩していく。
「シィッ!!」
ビシイイィィッ!!
「フッ!!」
ドオオォォォーー……ッ!!
太腿へ左の下段蹴り。僅かに膝が揺れる。フォローに対角線の右上段蹴り。ガードの上から蹴り抜く。
「……っがっっ……!!」
それでもオリシアは守りを解かなかった。あくまでも防御に徹する気のようだった。
反撃の意思がない訳じゃない。無論、勝負を捨ててもいない。硬く門を閉ざしたままチャンスを伺っている。オレが見せる隙を狙っている。両腕の隙間から覗く目が、そう告げていた。
上等だ。
開く気がないなら、こじ開けてやればいい。
強固なガードに向けて、連続攻撃を叩き込んだ。
「オオォォォーー……ッ!!」
ドドドドドドッッ……!!
「ラアアアァァァーーッッ!!!」
ガガガガガガガガガッッッ……!!!
「ぐっ……うぅ……!!」
二手二足の全てを使って叩き続けた。あらゆるパンチが、キックが、オリシアに襲いかかる。
フェイントもない。フェイクもない。コンビネーションすらない。力で押すだけの、ある意味で無為な連撃は完全に逆効果だった。
北風と太陽ーー強風に、旅人はより硬くマントを閉ざす。
同じく、敵の攻撃にさらされたなら、城門はぴったりと閉ざされるだろう。今のオリシアが、隙間なく両腕でガードしているように。
だがその中に、見えない一手があればどうか。
知らぬ間に入りこみ、本丸を落とす攻撃があったとしたら。
ドンッッ!!!
震脚で地を踏みしめた。
ピクリと反応したオリシアの目ーーしかし、焦りや恐怖、不安の色はない。
『本気で固めた己が防御を、貫けるはずはない』
そう思っている。絶対の自信を持っている。そんな目だった。
すぐ分かる事になる。
思いこみと、決めつけ。
闘いにおいてこの二つが、いかに危険であるかを。
「極武蜃氣流! 掌技!」
ボッッ……!!
閉じた城門に向けて放ったのは、防げぬ当身。
ズッッ……!!
「!!??」
鉄壁の防御をすり抜ける、朧の技術だった。
「破城門……!」
ドッッ……!!
「……っぐ!!」
「朧閂貫!!」
ウウゥゥゥ……ッンンン……!!
「っはああぁぁぁ……っっっ!!!」
掌底で身体の内部に衝撃を与える破城門の応用技。
閂を断った貫手は、変化して実体のある朧と化す。
「ば……かな……腕が防御を……すり……抜けた……?」
拳の通らない僅かなガードの隙間でも、縦にした貫手なら滑りこませる事ができる。
分かってしまえば単純な理屈ーーしかし知らぬ身からすれば、合わせた腕をすり抜けて打ち込まれた実体のない一撃。
不意をついて受けたダメージは、より深く身体の内部にまで浸透する。
見えぬ衝撃が臓腑を侵食している、今。
「これで……!」
勝機はーー
「終わりだぁっ!!」
ブォッッ……!!
ここにある!!
「!!!」
渾身の右上段蹴りを放った。立ちすくんでいたオリシアが腹部に当てていた左腕を上げる。
しかし、ダメージによる反応の遅れは致命的だった。
ッオオオォォーー……ッッ!!
蹴り足が吸い込まれていく。闘いを終わらせる終着点へ。頭部最大の急所、側頭部へ。
ガッッ……!!
「っっ!!」
……ッキイイィィィーー……ッッ!!
防ごうとした左腕ごと蹴りを押し込んだ。右足に確かな感触があった。
「……がっ……」
ゆっくりと、オリシアから力が抜けていく。身体が前のめりに倒れてくる。完全に意識を刈り取った。
決まりだ。
ダンッッ!!
「!??」
しかし、その手応えはすぐ、眼前の光景に裏切られた。
オレの目に映ったのは敗者の背中じゃなかった。オリシアの、未だ消えない闘争本能ーー勝利への執念だった。
「ああぁぁぁーーっ!!」
ドッッ……!!
踏みとどまった身体が低い体勢で突っ込んでくる。低空タックルで押し倒しにくる。腰にしがみつかれ、反射的に両足を後ろに突っ張った。それでも前に出てくる力で、身体がズルズルと押されていった。
「くっ!!」
ドガアァァーーッ!!
「ぐっ……あ……!!」
突進を止めるべく背中へ肘を落とした。
だが、一向に力が衰えない。
続けざまに肘鉄を打ちこみ続けた。
「ゥオオオォォーーッ!!」
ドガッ! ドガッ! ドガッ! ドガッ! ドガッ……!!
「……っぐ……!!」
「オオオォォォーーッ!!」
ドガッ! ガッ! ガガッッ!! ドガガッ! ガッ! ドガッッ……!!
「……うぅ……っく……!
!」
いかに防御力が高い背中とはいえ、これだけ打てばダメージの蓄積は相当であるはずだ。
それでも崩れない耐久力は、怯むどころかじわじわと身体をずり上げてくる。
腰をクラッチしていた両腕も、今や背中に回っていた。気づけば、肘を落とせない体勢になっていた。
このタイミングを見計らったかのように、オリシアが頭を上げた。
「ふうぅぅ〜……」
聞こえてきたのは、深い呼吸音だった。ふっと、押す力が弱まった。身体が前につんのめった。
「!!?」
マズい!!
ダンッッ!!
気づいた時には遅かった。両脚が地を踏みしめる音がした。
「しまっ……!」
「っしゅっっ!!!」
バォッッ……!!
組みついた体勢からの投技ーー足を突っ張っていたのが仇になった。押し返す力を利用され、一気に身体を持ち上げられたのだ。
速く鋭く頭から落とす、一流の投げだった。
下は硬い石床だ。このまま落ちたらただでは済まない。
最悪ーー
「くっ……!!」
死ぬ。
「っそう!!」
ドガアァァッ!!
「ぐぅっっ!!!」
ギリギリのタイミングだった。窮屈な体勢での膝蹴りがオリシアの腹部にヒットする。衝撃で腕の力が緩んだ。強引に身体を捻った。クラッチを外した。エスケープ成功ーー頭から落とされるのは防げた。
しかし、勢いまでは消せなかった。スッポ抜けた身体が床に投げ出されたのだ。
バンッッ……!!
「がっ……は……!!」
受け身が辛うじて間に合った。だが、ダメージをゼロにはできなかった。強打した背中に激痛が走る。横隔膜が痙攣する。肺の動きが止まる。呼吸が詰まる。汗が滲み出す。視界が涙で霞む。できればこのまま寝ていたいーー愚かな願望。身体に鞭打った。うつ伏せになって顔を上げた。
「っっ!!」
オリシアが見えた。すでに膝を立てている。鬼気迫る形相だった。手をついて立ち上がる。走り出す。向かってくる。オレにとどめを刺すために。勝利を掴み取るために。
「……っ……は……!!」
一つでいい。呼吸をしろ。息を吸え。吐け。動け。動かせ。肺を。手を。足を。身体を。今だ。今、それができなければーー
「うっ……お……!!」
負ける!!!
「おおおぉぉぉぉーーっっ!!!」
迫ってくるのは、手負いの獲物を狩る狩人。間合いが詰まるまで僅か数秒。
負けられない。負けたくない。武人が二人。ぶつかり合う。肉体が。魂が。火花を散らす。プライドとプライドが。
ゆっくりと、天秤が動き始めた。
勝利への執念が、執着心が、より強い方へと傾くために。




