127・“バカだからだろ?”
覚束ない足どりで、ふらふらとロッグスが歩み寄ってきた。
鼻の頭に皺を寄せ、どろりと濁った瞳を向けてくる。
「……何か、用か?」
警戒心が頭をもたげた。
明らかに酔った目つきと、敵愾心剥き出しの顔。ろくでもない理由に違いなかった。
「んだぁ!? 用がなきゃ声もかけちゃいけねぇってのか!? 未来の英雄様にはよぉ!!」
返ってきたのは案の定、いわれのないイチャモンだった。
相手にしない方がいい。
そう思っていると、後ろから冷たい声がした。
「失せい、羽虫が」
普段なら、目を合わせる事すらできないだろう。しかしロッグスは、憎悪の浮かぶ瞳をビョーウに向けた。
危険な兆候だった。
正常な判断力をなくす程、酷い酔い方をしている証だからだ。
「……なんじゃ、その目は」
動く気配があった。右手を上げて制止した。
「手を出すな」
ゆっくりと前に出る。
ビョーウに向いていた目が、再びオレを捉えた。
「……気に入らねぇな、そのツラ」
吐き出すようにロッグスがいった。
夜の灯りに照らされた顔は悪意に歪み、どうしようもないくらい醜くかった。
「だったら、どうするってんだ?」
「どうもしねぇよ。ギルドマスター殿のお気に入りだ、手を出したらエラい目に合わされちまう」
「そうか。ならもう、絡んでこないでくれ。余計な騒ぎは起こしたくない」
「はっ! お利口なこって! 優等生は出来が違うよなぁ!! あぁ、それとも……!」
卑しい笑みを浮かべ、ロッグスがことさら大声でいった。
「愛しのヴェルベッタに迷惑かけちゃマズいってか!? カマ野郎に夜のお相手をしてもらえなくなっちまうからなぁっ!!」
「あんたねぇっ!!!」
「待て!」
激昂して掴みかかろうとしたマリリアの腕を取った。
振り向いた顔が、激しい怒りに染まっている。
「なんで止めんのよ!!」
「気持ちは分かるけど、ここは任せてくれ」
「マスターをバカにされたのよ!? 黙ってられるわけ……」
「頼む」
まっすぐに、目を見ていった。
束の間動かなかったマリリアが、やがて大きく呼吸をした。
「……分かったわよ」
身体から力を抜いて後ろに下がる。
ロッグスが、忌々(いまいま)しそうに唾を吐いた。
「オレの事はいい。だけど、ヴェルベッタさんを侮辱するのはやめておけ」
「なんだぁ、偉そうに! 命令してんのかよ!?」
「忠告してるんだよ。不当に誰かを貶める行為は、それ以上に自分を貶める事になる。ましてやお前はパーティーのリーダーだ。メンバーの名前にまで傷がつく」
「ふざけんなっ! テメェに説教されるいわれはねぇっ!!」
「だから駄目なんだよ、お前は」
「あぁっ!?」
酔いに赤らんだ顔が、さらに赤黒く染まる。
野犬のように歯を剥いたロッグスは、今にも掴みかかってきそうだった。
「人の忠告をウザい説教くらいにしか思わず、耳も貸さない。その思慮の浅さが成長を止めてるって、ジェイミーさんもいってたよな」
「あんなアバズレ知ったことか! いわれなくても強くなってやらぁっ!!」
「それは無理だ。お前、銀星っていっても四銀星だろ? 五銀星じゃないよな?」
質問を投げると、途端にこれまでの勢いがなくなった。ロッグスの顔に、明らかな狼狽が浮かぶ。
「な、なんで、そんな事、誰から聞いて……」
「聞かなくても分かる。実力的に、ギリギリで銀星。そんなとこだと思ってたよ」
「ギリギリ? そんなとこ……だと?」
「今のお前に四銀星以上は無理だ。変わらない限り、これから先もな」
「テ……メェ……」
「ろくに戦略も立てずモンスターに突っこんでパーティーを危険に晒してるようじゃ、リーダーとしても失格だ。それもこれも原因は同じ、考えが足りてないからだよ」
瞳に憎しみの炎を宿したまま、ロッグスが俯いた。
やがて、ギリギリと食いしばった歯の隙間から、押し出すような声が漏れてきた。
「……黙れ……」
「だから、そこをまず直さなきゃ成長しないっていってるんだ」
どこかで目を覚まさなければ、ロッグスにも仲間達にも未来はない。
たとえどんなに屈辱的な言葉を浴びせられたとしても、死の間際、己に浴びせる後悔の言葉に比べたらはるかにマシだ。
「黙れよ……」
「自分の至らなさと向き合う事から逃げ続けている限り、お前は……」
回りくどいいい方をする必要はない。
優しくいって聞かせる必要もない。
「黙れ……!」
何故ならこれは、命に関わる問題なのだから。
「弱いままだ」
「黙れええぇぇぇっ!!!」
絶叫しながら、ロッグスが直剣を抜いた。野次馬から小さな悲鳴が上がる。
突きつけられた切っ先には、明確な殺意が宿っていた。
「……ぶち殺してやる……」
「ま、待ちなさいよっ!!」
取っ組み合い程度ならまだしも、剣を抜かれては流石に見過ごす訳にはいかなかったんだろう。前に出たマリリアが身体を張って制止した。
ビョーウの殺気とグラスの警戒心に、空気が緊張を帯びる。
「冒険者同士の私闘はご法度でしょっ!!」
「うるっせぇ! 引っこんでろっ!!」
「ライセンスが剥奪されてもいいの!?」
「クソ喰らえだ! こいつをぶった斬って盗賊でも山賊でもなってやらぁ!!」
「この……!!」
「いいだろう。相手してやるよ」
「ルキト!!」
目を剥いて、マリリアが振り返った。普段は見せない表情が、事の重大さを物語っていた。
「悪い、目を瞑ってくれ」
「できる訳ないでしょそんな事! あんたまでライセンス取り上げられちゃうわよ!?」
「すぐに終わるし、怪我人も出ないから。酒のせいにでもして、ごまかしといてくれよ」
「こんなのただのやっかみじゃない! リスクしかないのに受ける理由がある!?」
「挑まれたからだ。引く訳にはいかない」
「バカっ! どうして引かないのよ!!」
「バカだからだろ?」
マリリアが言葉に詰まった。何かをいおうとして口を開きかけ、やめた。
代わりに出てきたのは、深く大きいため息だった。
「……っっはああぁぁぁ〜〜……」
「すまないな」
「……ホントよ、バカ」
諦めの表情が返ってきた。
それ以上は何もいわず、口元をきつく結んで引き下がった。
「持たせたな。じゃあ、闘ろうか。バカ同士、水入らずでな」
「本っ……当にっ! ムカつく野郎だぜ……!!」
「闘いに私情を挟むのは悪い癖だ。直した方がいい」
「テメェに俺の何が分かるってんだ! あぁっ!!?」
「うじうじねちねちやってるだけのイジケ野郎の事なんか、分かりたくもないね。ただ、放っておいたらいずれ必ず命を落とす。それが不憫だと思っただけだ」
「上からいってんじゃねぇぞクソガキがぁっ!!」
口汚い罵りを発し、直剣を振りかぶったロッグスが突進してきた。斬り下ろしをサイドステップで躱すと、空振りの勢いでバランスを崩した。
たたらを踏んだ足元は頼りなげにふらついている。
明らかに、身体が剣に振り回されていた。相当、酒が入っているんだろう。
「うおおぉぉっ!!」
何とか体勢を立て直しての横薙ぎ。力任せの袈裟斬り。切っ先のブレた突き。強引な大振り。雑な連撃。目を瞑ってても躱せる。
剣術などとは到底呼べない、児戯にも等しい攻撃だった。
「クッソ野郎があぁぁぁーーっ!!」
業を煮やしたロッグスが、目を血走らせて叫んだ。再び、刃が真上から襲いかかってくる。
ブオォォッ……!!
「ふっ!」
ビキイィィッ……!!
「っぐあっ……!!」
一歩踏みこみ、カウンターで迎撃した。
持ち手に叩きこんだ上段蹴りが直剣を弾き飛ばす。
夜の歓楽街に、乾いた音が響き渡った。
ガラアァァ……ッン……!!
「勝負ありだ」
手首を押さえたロッグスが苦痛に顔を歪めていた。
しかし、憎悪に染まった瞳は未だ黒く燃え立ったままだった。
「ふ、ふざけんな……終わりじゃねぇ……」
「やめとけ。折れちゃいないだろうが、その手だ。もう闘えない」
「闘えない……? なんだそりゃ? 俺はまだ立ってんだぜ? テメェを……ブチのめすためになぁっ!!」
今のロッグスを動かしているのはもはや、憎しみだけなんだろう。正常な判断力を失った頭では、戦況を見極める事などできはしない。
ただ怒りに任せて殴りかかってくるだけの蛮勇ーー実戦において、愚行は命取りになる。
「……バカ」
右の拳を捕り、下に向かって直角に曲げた。極まった手首が発する激痛に、ロッグスの身体が硬直する。そのまま勢いを殺さず、前方に向かって投げた。
ブオォッ……ン!!
しかし、逆さまになった顔には、驚愕も恐怖もなかった。
何が起きているのか、理解していないーー貼りついたまま固まっている怒りの表情が、それを物語っていた。
「……え?」
一瞬オレと目が合ったロッグスの口から、小さな疑問符が漏れた。
落とす寸前、手首を決めている腕を引いた。
地面と垂直だった頭と身体が水平になり、背中から石畳に叩きつけられた。
ドオォォッ……!!
「ぐっ……ぼぁっ……!!」
受け身の取れなかったロッグスが、唾液と苦痛の声を吐き出した。一度弾んだ身体を大きく反り返らせ、口をパクパク動かしている。
「……っっっ……!!!」
言葉も出せずひたすら空気を貪る姿を、オレは黙って見下ろしていた。
やがて、呼吸が整ってきて初めて状況が理解できたようだった。
「クソっ……! クッソ……おぉぉ……!!」
「これで、納得したか?」
問いかけに、脂汗の浮いた顔を向けてくる。
しかし、震える口から出たのは、敗北宣言ではなかった。
「負け……て……ねぇ……オレは、まだ……ま、負けてねぇ……ぞ……」
「背中を強打して心が折れないのは立派だ。でも、負けを受け入れるのも強さだぞ」
「な、なぁにが……強さ……だ……敵に……と、どどめも刺せねぇ……甘ちゃん……がよ……」
やっぱりそうだ。
こいつは、何も分かっちゃいない。
「愚か者が。貴様はとっくに死んでおる」
振り向くと、ビョーウとマリリア、グラスが背後に立っていた。
ロッグスが何かをいう前に、ビョーウがオレに目を向けてきた。
「あの女にかけた技とは似て非なる物じゃったな。なぜ手心を加えた?」
「死んじゃうからだよ」
手首を極めて投げ、頭から落とす。この投技を『帳』という。
そこから、空中で逆さまになった相手に追撃を加えるのが夜覗帳であり、その他、裏の帳を始めとしたいくつかの派生技が存在する。
どれもが極めて高い殺傷力を持っているが、投げ落とすだけの帳でさえ、まともに決まれば命を奪えるのだ。
「生かしておく必要などなかろうに」
「そうはいかないよ。“死“闘はご法度だからな。これは酔っぱらい同士の喧嘩だ」
「喧嘩ならいいってわけじゃないんだけどね……」
「後の事は敏腕受付嬢のマリリアさんにお任せするよ。いい感じに処理しといてくれるだろ」
「あんたねぇ……」
「……後悔……するぞ……」
大の字になったロッグスが、言葉を絞り出した。
瞳には、未だ消えない炎が黒く燻っていた。
「いつか……必ずテメェに追いついて……ぶ……ぶちのめしてやる! 吠え面かかせて! じ、地面に……這いつくばらせてやるからなぁっ!!」
「……好きにしろよ」
街灯代わりの松明が、ロッグスの顔をゆらゆらと照らしていた。ことさら強調された陰影は、刻まれた復讐者の刻印ででもあるかのようだった。
「ただし、待っててやるほどオレはお人好しじゃない」
遺恨が、一つ。
「お前が一歩進む間に二歩進む。十歩進む間に二十歩進む。死ぬ気じゃ足りない。命を賭けてなお追いつけない。超えられない」
しかし、これもまた、避けては通れない闘いの形なのだ。
「オレがいるのはそれほどの高みだ。覚悟があるなら追ってこい。人を超えた先までな。お前の覚悟が本物だったなら、その時に、その場所で……」
逸らさず見据えたロッグスの瞳、憎悪の奥に在ったものーー
「本当の決着をつけてやる」
「クソ……ヤ……ロウ……」
いつか再び、見える事になるのだろうか。
今はまだ、分からなかった。
「……気絶した?」
おっかなびっくり覗きこみながらマリリアがいった。
グラスが、心配そうな顔をしている。
「治療した方が良いのでしょうか……?」
「死にはせぬから放おっておけ。せいぜい、風邪を引く程度じゃろう」
興味を失った投げやりな口調でビョーウがいった。
腰に手を当てたマリリアの顔に、複雑な表情が浮かんた。
「あんな約束するなんてホント、どうかしてるわ。なんの意味があるのよ……」
「さぁ。そんなもの、ないんじゃないか?」
「意味もなく命のやり取りしようっての? なんでよ?」
「バカだからさ」
大きく見開いた目の中、瞳には松明の灯りが映りこんでいた。やがて、諦めの滲んだ顔でマリリアが首を振った。
ビョーウの口が小さく弧を描き、グラスが困ったように笑った。
野次馬が離れていくと、後にはただ、オレ達とロッグスだけが残された。
「……帰ろう。ソラが待ってる」
無言のまま、三人が小さく頷いた。




