117・揺篭(ゆりかご)の滴(したた)り
血濡れのローブが、返り血でさらに紅く染まった。
信じられなかった。
あのダメージで、出血量で、なぜあんな動きができるのか。
あの執念はどこから湧いてくるのか。
血が沸騰した。熱を帯びた身体は意識せずとも駆け出していた。
同時にヴェルベッタも走って来た。ザロメが再び貫手を引き、覆いかぶさるようにマリリアを攻撃しようとしている。
「くっ……そぅっっ!!」
「はあぁっ!!」
ボボッ……!!
ビュボッ……!!!
「!!?」
ドガガアアァァーー……ッッン!!!
オレの火球とヴェルベッタの斬撃がすんでの所で躱された。
それでも今のザロメには、二つの力がぶつかり合った衝撃だけでもきついんだろう。後ろに跳んだ直後、踏ん張りがきかない足腰はふらつき、その場に両膝をついてしまった。
「マリリア!!」
「マリリアちゃん!!」
駆け寄って抱き起こすと、マリリアが目を開いた。左肩から出血しているが、致命傷ではなさそうだった。
「へ……平気よ……ちょっと掠っただけだから……」
「マリリア! 大丈夫ですかっ!?」
グラスが膝をつき、患部に手を添える。
癒やしの魔力が緑光を放ち始めた。
「すぐに治癒します。少し我慢してくださいね」
「うん……ありがと……」
「チッ……なんて奴だ。痛みやダメージがねぇのかよ」
「とどめを刺さないかぎり、動き続けそうですね」
「なかなかにしぶといようじゃな……どれ、わらわが引導を渡してやろう」
ロメウ、ティラ、ビョーウが、マリリアを守るようにザロメとの間に立ち塞がる。
ダメージは甚大、数の上でも圧倒的に不利。
しかし、窮地に追い込まれたはずの当人に自覚はないようだった。
いや。
「お〜……つき……さ〜まが……み〜ている……よる……に〜……ち〜いさな……お〜はなは……ひ〜とり……ぼっち〜……」
それすらも理解できないくらいに壊れてしまっている、といった方が正しいのかもしれない。
「な〜みだを……ぽ〜ろぽ〜ろ〜……な〜がし……ながら〜……ひ〜っそり……さ〜みしく……か〜れま〜……した〜……」
「歌……じゃと……?」
「小さいお花……北の国に伝わる古い童謡ですね」
「故郷の唄、って訳か……」
膝をついたザロメが、宙に顔を向けたまま歌い、呟いている。
徐々に広がっていく血溜まりの中、まるで、夢の世界を彷徨う少女のように。
「大丈夫……? お母様……あああぁぁ……おっしゃらないで……おひさまが……夜にしか入れちゃ駄目って……ふふ……お兄様……隠れんぼは……お庭でしちゃ駄目でしょう? ……汗がお拭いになって……薔薇の棘がたくさんあるから……ほら……綺麗な目しか傷だらけ……ふふふ……さ……茨を束ねたら……ザロメの手で……お父様……あぁ……大きい……白い薔薇がたぁくさん……蕾がお好きなんですって……すぐに……赤くなるのよ? ……いじわるなの……あぁ……ぁぁ……固い……おひさまが……ふふ……いじめないで……いじめ……ないでよぅ……」
のろのろと、顔がこちらを向いた。黒い眼窩と頬に貼りつく目玉が見ていたのは、眼前の三人でもなければ、オレ達でもない。
マリリアだった。
「あぁはああぁぁ……お返し……しなきゃ……聖女様が……お濡れになった……あぁ……返して……ね? 地下のお部屋に……しっとり座って……滴るぬいぐるみ……ぅぅふふふ……お兄様はお二人とも……返してくださいまし……お目々が取れかけて……こんなに大きくなった……すぐに……うふふふ……縮んでしまいました……ぺちゃ……ぺちゃって……聖女様ったら……赤ちゃんのお乳が食べれば……たくさん……たぁくさん……さ……あと一つ? ……帰りますよぉ……あぁあぁぁ……くださいな……雫を……赤ちゃんが絞るの……明け方には……アリマ様の聖液が……硬くなってるから……ほら……宝石みたい……ああぁ……あ……ぁ……キラキラしてる……ふ……ふふふ……」
枯れ枝のような手を、ザロメが伸ばしてくる。
何かを掴もうとしているような、物を乞うているような、そんな仕草だった。
「ア……アリマ様の、せいえき……聖液? 宝石……?」
治療が済むと、回復したマリリアが呟いた。
そして、はっと気づいたような顔で、ふらふらと立ち上がった。
「いけませんマリリア! まだ動いては……」
「大丈夫よ、グラス。分かったの。なんでわたしが狙われてたのか……」
「分かった? 本当か?」
「うん」
ザロメから目を逸らさず、いや、ザロメの目を見据えながら、マリリアがいった。
「聖女アリマの聖液を固めた宝石……あいつの目的は……」
いいながら、袋状にして下げていた布を左肩から外した。
一部が引き裂かれ自身の血で汚れた布を開き、取り出した中身を手に取る。
「この、水晶よ」
「ふっ……!! ふふふううぅぅ……ぅ……うううぅぅぅ〜〜っっ!!!」
ボッッッ……!!
「!!??」
ザロメが不気味に笑い出した。予備動作もなく獣のように跳び、長剣を振りかぶって襲いかかってくる。
しかしーー
ザシュッ……ンンッ!!
「……っぅ………!!」
「そうはさせぬ」
ビョーウが空中で迎撃した。手刀が右肩から上腕までをざっくりと斬り裂いている。
バランスを崩してザロメが地に落ちた。なんとか膝から着地し頭を上げる。
泣き出しそうな顔だった。
「……どうやら、正解みたいだな。アリマっていうのか、例の揺篭」
「そう。教団の象徴、“揺篭のアリマ”よ」
「察するに、聖女の魔力が込められた水晶、って事かしらね」
「もしくは、魔力そのものを精製して固めた物かもしれない。いずれにせよ、ザロメの目的はこれを奪い返す事だったのよ」
空間転移の後、マリリアの足元に転がっていたボロボロの水晶ーー頭に一つの可能性が浮かんできた。
「ひょっとしてそれ……鼠の巣の奥にあったマジック・アイテムか……?」
「巣の奥? ……ああ、穴蔵に染みついてたっていう、魔力の元?」
「うん。なんでかは分からないけど、お前が持ってきちゃったんじゃないのか?」
「!!? そうか、だから蜘蛛は洞窟を襲ったのね。これを取られないように……」
落石に埋もれ、存在そのものが不明だったマジック・アイテムは、やはりあったのだ。しかも、飛びきりのいわく付きで。
そう考えると、ラットレースが変異した理由も見えてくる。水晶の魔力が関係していると考えれば、辻褄が合うからだ。
「いぃいじわる……するの……? あぁぁぁぁ……おひさまが……いじわる……したのぉ……お父様みたいに……お母様が……ザロメに飲めないなら……お薬から……ぎゅっとしてください……ほら……果実酒がもうこぼれて……こんなに細い首から……チーズに焼きましょう……ああぁぁぁ……とろとろ……溶けて濁ります……にがい……柔らかいでしょ? ……にがいよぅ……ふふぅぅふふふ……いじわる……ふふふ……いわないでください……」
「戯れ言はそこまでじゃ」
仄暗く漂う声を遮り、ビョーウが一歩踏み出した。
殺気と冷たい瞳が獲物に向けられる。
「首を出せ。仕舞いにしてやろう」
ザロメが、投げ捨てられたような勢いで後方に跳び退いた。大きく距離を開け、警戒心も露わにビョーウを見ている。
同時に、しゃがんだままで左手をゴソゴソ動かし始めたかと思うと、ゆらりと立ち上がった。
ローブから取り出した左手には、青い水晶が握られていた。
「よぉく……練らないと……練って……練って……ふふ……お母様……大きな乳房を……一つにしましょうねぇ……お兄様と……うふふ……お兄様の……一つづつ……ザロメのはないから……ねぇ……練りましょう……練り……ましょう……練りましょう……練って……練ってぇ……ねってえぇ……ねえぇってええぇぇぇ……!!……ぅふふふふふ……うふふふふふ……うぅうふふふふふふふふふううぅぅぅ〜〜……っっ!!!」
カッッ!!!
「っっ!!!? ばアぁ”ァ”ああ“ァあア“ァ“ぁあ“あ“ァァぁァぁ〜〜っっ!!!」
「!!??」
「なんだ!!?」
「み、見て!! あれっ……!!!」
「アぁあ“ァァ〜でイ“ィ“ぃ〜まァ〜〜!! ざアァあ“ア“ぁぁァぁぁァァ〜〜ッっ!!!!」
ドドドオオォォォーー……ッッンンン!!!
ザロメの水晶が光を発したと同時だった。
それまで大人しくしていた蜘蛛が突然暴れ始めたのだ。
奇声を発しながら狂ったように頭を振り、出来損ないの腕で地面をドカドカと叩いている。デタラメに振り回される棘鞭が周囲の岩を砕き、大地のそこかしこに穴を開けていた。
「うっ……わっっ……!!!」
「うああああぁぁぁぁぁーーっっ!!」
ドドドドドドドドドドドドッッ……!!!!
不意を突かれた冒険者達がパニックに陥っている。何人かが鞭を食らい、ビー玉のように弾き飛ばされた。
「な、なんなの、いきなりっ!!?」
「マズいぞっ!! 巻き添えを食らってるっ!!」
「みんなぁーーっ!! 逃げてええぇぇぇーーっ!!!」
「くっ……グラスっ!!」
「はいっ!」
「一緒に来てくれ! 怪我人の治癒を頼む!!」
「分かりました!!」
いいながら走り出そうとした時だった。
背後から、ビョーウに声をかけられた。
「待てルキト! わらわがゆく! お主は残れ!!」
「バカヤロウっ! こんな時に何いってんだ!!」
「勘違いするでない。元凶を叩けというておるのじゃ。あの水晶で操っておるのじゃろう?」
「そ、それはそうだけど、あっちを放おっておくわけには……!!」
「虫ケラはわらわとグラスが抑える。お主は水晶をなんとかせい」
「ティラ! お前も行ってやってくれ!!」
「了解しました」
「わ、わたしも行くっ!!」
「まだ動いては駄目ですマリリア!」
「そうよ。傷は塞がっているけど酷い顔色だわ。大人しくしてなさい」
「で、でも……」
「お前を追って奴があっちに行くと厄介だ。囮みたいで悪いが残ってくれ。ヴェルベッタ」
「えぇ。わたしがしっかり守るから大丈夫。ここは我慢しなさいな、マリリアちゃん」
「……分かった」
「ルキトさん」
「は、はい」
「あちらはわたし達がお引き受けします。調査隊を街に送り届け次第、部下達も戻りますので」
「…………」
「あの方と、決着をつけてください」
尚も逡巡するオレに、グラスが声をかけてきた。
深く、澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「ルキト様が、思うままに」
「グラス……」
真摯な想いが伝わってきた。
心情を汲み、かけてくれた言葉ーー優しく、しかし強く背中を押す、そんな言葉と瞳だった。
「……分かったよ。あっちは任せた」
「はい!」
「ビョーウ! 頼んだぞ!!」
不敵に笑い、ビョーウが走り出した。
オレに頷き、グラスが続く。
その後を、ティラが追う。
「まずは奴の注意を引きつけましょう、ビョーウさん」
「うむ。怪我人は任せたぞグラス」
「はいっ! 治癒後、すぐに結界を張ります! それまで時間を稼いでくださいっ!!」
走り去る三人の向こう、暴れ狂う蜘蛛が地形を変えていた。
肩に手を置かれ、振り向いた。
親指で背後を指しながらロメウがいった。
「どのみち、あの調子で暴れられたんじゃ手が出せねぇ。まずは奴をなんとかしねぇとな」
魔力の輝きに照らされ、ザロメが立っている。
青く染まった顔の中、両頬の眼球がぐるぐると動いていた。それはまるで、自らが生み出した破壊と混乱を、身体で体現してでもいるかのようだった。
「分かった。ザロメを倒すぞ!」
「あぁ。共闘といこうや」
ニヤリ、と。
手に力をこめ、ロメウが笑った。




