償い(ぶう)
痛いとは思わなかった。
あの時感じた痛みに比べたら、何のことない。ものすごい「痛み」を受ければ、痛覚は麻痺させることだってできるのだ。
最初に惹かれたのは、皆がほめるのびやかな栗色の毛じゃない。暖かさを閉じ込めたような小さな瞳だった。
ゴールデンレトリバー。長い鼻先に付随した口元は、笑うと大きく開いて、とがった歯をむき出しにした。ともすれば凶器にもなりうるのに、まるで構わなかったのは、彼の性質に絶大な信頼を寄せていたからだ。
彼は所謂リーダーだった。
狭いカゴの中では、ともすれば争いが耐えない。自覚症状なしに溜まっていくストレスは、形を変えながらあっちにこっちに溢れていた。
〈俺に言え〉
一番からだの大きい彼は、そうして自ら掃き溜めの役を買って出た。今考えれば、自分の図体が他の生き物からすれば最も邪魔になっていると分かっていたがための申し出だったのかもしれない。
プライベートなんてあってないようなものだったけれど、それでもゴールデンレトリバー一匹入るかごだ。給水機を境に、なんちゃって相談室は開かれた。
かく言うあたしも何度か「相談」をしたけれど、その回答はあまり覚えていない。そんなことより黙って耳を傾けてくれる姿や、落ち着いた声色に気が行ってしまっていた。
「何をそんなくだらないことで」
そうして快活に笑い飛ばしてくれることもあった。その笑顔にどれだけ救われたか。彼こそが心のよりどころだった。なのに
「わん」
いつも胸を張って堂々としているはずの彼が、妙にかっこ悪くなるときがある。声が自信なさ気に揺らぐ。その視線の先にはいつも彼女がいた。
透き通るような白の毛並み。どこか水色まで併せ持つようなそのきらめきに「絹」の名を当てた誰かがいた。黒く縁取られた目元に長いまつげ。さばさばと思ったことを口にする彼女は、そうして表裏がなかった。その潔さは、この空間で生きていくのにこの上なく適していた。
いつも隅にいるのに存在感があるのは、そうした物言いの気質によるものだったのだろう。
彼女はぶれなかった。そうして、頼られた。
「わん」
大きな身体をちぢこめて、口を開く。なんだか滑稽で、面白くもないのに笑いそうになる。
あたしの前に彼女が笑った。
視界が白くぼけるのが分かった。優しくあたしの背中をなでている手。そのもう一方の手が手元にある用紙に何かを書き込みはじめた。
続いて訪れたのは痛み。それはメンソールをぬりこんだような鈍痛。暴力的な痛み。たまらず、うめいた。
なでていた手に力が加わる。今度は背中にチクリと痛みが走った。ふいに訪れた眠気に、全てを忘れて目を閉じる。背中に水が落ちたようだ。
生暖かい水。なんだか気持ちよかった。
知ってる。
「彼女」はあの後、両手にいっぱい指輪をはめた人につれてかれた。
覚えてる。
彼があの時、カゴの内側で初めて牙を鳴らしたこと。
あたしは見てはいけないものを見てしまった。見たくないものを見てしまった。
見えるものがつぶれて尚、その姿は鮮やか。
知ってる。
彼もあの後他の誰かに連れて行かれて、でもそこから逃げ出したってこと。記憶を頼りに、残り香を頼りに、彼女の居場所を突き止めたってこと。
でも彼女は、そこから、出られないこと。
「にゃあ」
視界に彼女の姿が映りこむ。変わらない絹の毛並み。大きな目元。小さな口。
自分の醜さが目に付く。赦してなんか、あげない。誰にでも公平だった彼が、彼女にだけは特別を赦した。それが何より、疎ましかった。
「にゃあ」
あたしはまっくらくらすけじゃない。苦しめばいい。そうしてここで生きるんだ。
あたしと一緒に、ずっとここにいるんだ。




