償い(にゃあ)
“まっくらくらすけ出ておいで。出ないと目玉をほじくるぞ”
目を見張ったのは、忘れようもない姿だったからだ。
例えば着ているものが変わろうと、成長に伴って顔立ちが大人びようと、持っているオーラ、というか、雰囲気と言うか、
ともかく、あれは彼女に違いなかった。
反射だった。気が付いたときにはやめて、とその足元にすがりついていた。その先で一瞬大きく見開いたかに思えた目は、次の瞬間にはこの上なくきれいに細まる。
「ん? 何だ?」
舌なめずりしそうなその気配に、しまった、と思うには既に遅かった。全身が総毛立つ。
その人は顔を上げて従業員を立ち止まらせると、再度視線をよこした。
「何だ?」
あの子は。
口の端が震える。押さえ込もうとするから尚、その震えは一層大きくなり。
頭が真っ白になる。とんでもない何かが渦巻いているのに、その切れ端さえつかめない。ただ、分かる事が一つだけある。
「にゃあ」
従順に鳴けばいい。それさえできれば、何も悪い方には進まない。それだけは、分かった。その人は、この上なく満足そうにあごに手を当てて笑った。
「ほう」
そうしてずしん、とその手のひらをあたしの頭の上に置くと、左右に動かした。
「いいか? 約束は一つだけだ」
さも心の広い人間だと言いたげな口ぶりだった。何を言っても聞かなかった生き物に、優位を得る。その隠し切れない欲望。
「ここから、出るな」
一歩もだ。と付け加えると、あたしの頭から手を上げて従業員に何か指図をした。彼女の向かう先が百八十度変わる。その横顔。うつむきがちな視線の先。
やっぱり。彼女だ。
何処までもつつましく、しとやかな毛並み。その漆黒。ずきん、ずきん、と脈打つ心臓は一向におとなしくなる気配を見せない。
“まっくらくらすけ出ておいで。出ないと目玉をほじくるぞ”
あれは七年前だった。一緒のカゴに、軽く十匹も仲良く敷き詰められたあたしたちは、無理な共同生活を強いられた。
猫。犬。豚。鳥。猿。違う生き物、という自覚はなかった。皆同じように息をして、同じものを食べて、同じように眠って、彼女もその仲間だった。
ぶう。
全身真っ黒の彼女は、足が短く、たまに外に出ても誰よりも走るのが遅かった。小さな目、そこだけ桃色の鼻先。短い毛並みはいつもツンツンしていて触るとちくりとした。
絹のようだと褒められて、毛並みを誇りにしていたあたしは、そうして異なる生物が珍しくてしょうがなかった。
排他。自分を肯定することしか知らなかったあたしは、彼女を珍しく思い、自分とは違うと思い、すなわちその尊厳さえ違うものだと思っていた。
“まっくらくらすけ出ておいで。”
でもだからと言って、そんなつもりはなかった。冗談だった。ただ目に付くというだけで、まさか傷つけるつもりなんてなかった。
“出ないと”
「にゃあ」
彼女は、音に反応しておもむろに顔を上げた。
全身が凍りつく。さっき以上に大きくなる震え。歯がかみ合わない。その左目は。
彼女は何の顔色を変えることもなく、再び自分の行く先に顔を戻した。おそらく機能していないだろうその左目とともに。
動物実験、というものがある。日頃女性が容姿を美しく見せるために使用するファンデーション、は、直接肌に塗布する以上、刺激のある成分を含んではいけない。防腐剤カット。パッチテスト済み。それは彼女のような小動物を「使って」実験される。その目につけて、どうなるか見るのだ。
“真っ黒くろすけでておいでー。出ないと”
ああ、なんてことを。何で彼女が
皆同じように息をして。同じようにペットショップに並べられて。あたしはたまたま買われただけで。
償い、なんかじゃない。あのときを謝る事は赦してもらうこと。この期に及んで、あたしはあの彼女に、してもらうことを望むのか。重ねられていく罪が、因果関係なくとも後悔をあおる。
「にゃあ」
償い、なんかじゃない。あたしは自分の苦しさから逃れたいだけで。ただそれだけで。彼女のためになることではない。彼女は自分の尊厳で、歩いている。たとえ他力による影響が大きいとしても、それは代え難い事実。彼女は今、ちゃんと彼女を、生きている。
閉まろうとするドアに向かって走り出そうとしたその瞬間、再び頭を押さえつけられた。
「いい子だ」
ああ、
ごめん。
ごめんなさい。違う。そんなつもりじゃなくて。あたしはただ。ごめんなさい。ごめんなさい。違う。ごめんなさい。
ドアがしまった。ぶう、という七年前聞いた声が聞こえた気がした。
幻聴に違いなかった。




