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喜びの歌

作者: やす

喜びの歌       

【笑ってみよう】

 喫茶店を背にして、何年振りかに洋介は笑いました。常に笑顔が張り付いていて、本当に笑っているのがどんな時か、彼はもう思い出すことが出来ないのです。でも今本当に笑うことが出来たような気がして、なんだか嬉しく思っています。

 『今、心の底から笑えているぞ。』

自分に言い聞かせるほどでした。しかしふと我に帰り、そんなことをわざわざ実感している自分の姿がなんだか野暮ったく思えて、何年振りかの自然な笑顔の上には、瞬く間にいつも通りの何処か達観したようで斜に構えた笑顔が張り付くのでした。

 小学生の時、彼は笑顔になるとえくぼが出来る少年でした。そのえくぼが、彼にとって堪らないコンプレックスだったのです。クラスで一番目立つ、古い言い方をするのならガキ大将のような男の子にそれを指摘され、みんなが『笑って』と一人ずつ面白がって見に来たのがキッカケで極度の恥ずかしがり屋さんになり、仮面のような笑顔がその日から彼の顔にへばり付いているのです。

 洋介は人が苦手で、所謂人見知りです。しかし、今まで女の子に嫌われたりはしませんでした。彼の独特の間を持ち、少しずつ考えながら話すこの話し方は、コンプレックスから生まれたもので人によってはたどたどしいのですが、物腰柔らかで下心のなさそうな、害のない男という印象を周りの人間に与えていました。なので、変に警戒される事がなかったのです。しかしながら警戒心が解けたときに初めて芽生える恋が多いのか、初めから警戒していない彼には、二十二年間浮いた話などほとんどありませんでした。女の子の友達は多く居りましたが、誰もその中から彼を恋人にしたいという人は現れなかったのです。これも彼の深いコンプレックスでした。

 そんな洋介の自然な笑顔を引き出したのは、彼が大学の時に知り合った香奈江という一人の女性でした。香奈江は彼の考え方や話し方に魅力を見出した女性の一人で、ゼミでたまたま同じグループになった洋介と喫茶店に行くことになりました。誘ったのは彼女の方で、とても蒸し暑い七月の初めのことでした。

 『洋介くん、今度コーヒー行かない?』

 『え、、、嬉しいけど、でも僕なんかとでいいのかな。楽しいかな。』

すこし驚いてしまって、いつもの間がとれませんでした。無粋なことを聞いた、と洋介は思いました。どうにも昔から客観的すぎて面白みにかける。そんな風に彼は自分をその場で分析するのでした。

 『楽しいかはわからないけど、コーヒー好きって言ってたし』

そう香奈江は、少しひねくれた洋介の答えに言葉をあてがってみせました。

 『じゃあ行こうか』

手を引く勇気はないまでも、自分のオススメの店があると言ってたまに暇を潰していた喫茶店に彼女を案内することにしました。何を隠そう、片思いは夏より先に始まっていたのです。

 大学の校舎を出ると、忘れていた夏が毛穴から染み込んで来るようでした。湿気は服と肌を一つの物ようにへばり付かせ、彼のつまらない希望的観測を遠いところまで追いやってしまいました。しかし、人が寛ぐ場所は何処も冷房が効いているもので、喫茶店に着くとつまらない考えは改めて俄かに洋介の心の奥で湧き上がるのです。四つ年上の香奈江に状況を支配されないように務めましたが、汗ばんだ香奈江の色白い胸元に視線が奪われてしまうのでした。

 『ここのコーヒーはね、二種類あるんだ。(ニレ)と(カゼ)があって僕はいつも(ニレ)にするんだ。香奈江さんはどっちにする?』

 メニューに救われた彼は聞きました。

 『じゃあ洋介くんが選ばなかった方』

妙に魅力的な言葉でした。同調するでもなく、角の立つ言い方でもなく、自分の連れて来た店に関心を持っていることを感じさせるわけでもない。単純にスケベ心が頭の中で都合よく変換しているのか、その一言で洋介は、なぜか彼女の女性としての魅力が自分の中で弾けたような気がしました。

 小さな窓の際にあるこの席は二人を恋人同士のように周りに写すのでした。もったりと大きな雲が地球の表面にべったりとくっついていて、そのせいで遮られているぼんやりとした昼下がりの陽射しは、窓の際に佇む彼らをを柔らかく閉じ込めています。建物の中からでは信じられないほど蒸し暑い外の景色も、なんだかドラマチックに洋介の目に写るのでした。他愛のない話に花が咲く頃、(ニレ)と(カゼ)が運ばれて来ました。

 『実は、ここはチーズケーキも美味しいんだ。』

コーヒーが運ばれて来る直前にこんなことを洋介は雑談の流れで話しました。コーヒーが二人の前に置かれたところで香奈江は、

 『チーズケーキもください。洋介くんは食べる?』

と注文し洋介に尋ねたのですが、

 『僕は、、、大丈夫です。』

といつもは食べるチーズケーキを頼まなかったのです。少しばかり緊張しているからなのか、食欲は薄れていました。素直な、実に素直な選択だったのです。またしばらくして、今度はチーズケーキが香奈江の前に置かれました。その音は大きな音ではなかったのですが、店中に響いて、洋介の緊張を際立たせました。

 彼女の白く細長い指が柔らかに、そしてしっかりとフォークを掴み、ケーキを口に運ぶ様はえもいわれぬほど官能的で、室内でも拭いきれない湿気の中にいる洋介にねっとりと絡みついたのです。

 『一口食べる?』

洋介は狼狽しました。他に女の子の友達が居るとはいえ、承認欲求に語りかけて来る出来事は彼にとって初めてでした。フォークが一つしかないこの状況で、一口食べるか聞かれるということは、間接キスが嫌ではないのです。何気なく一口もらえばいいものを、そこに洋介は気づいてしまいました。ケーキは二、三口食べたところで形を残しています。自分が口にしたものを嫌がることなくまた彼女も口にするという状況が、洋介の承認欲求に響き渡りました。

 『う、、うん、、ありがとう』

 初恋をして居る中学生のそれで、香奈江が皿の上に裏返しに置いたフォークをとろうと手を伸ばした時、彼女はおもむろにフォークを持ち直し、

 『口をあけて?食べさせてあげるね』

少しだけ笑いながら洋介の口元に小さなケーキの載ったフォークを差し出しました。完全に洋介の味覚は奪われてしまったのです。味のしないケーキを飲み込み、置かれて居る状況を飲み込み、お腹いっぱいの彼は言いました。

 『そろそろ、おひらきにしようか。。』

洋介はそそくさと二人分の代金を払って、そそくさと二人で店を出て、買い物があるから先に帰っていいよと言って別れた後に街を一人で歩きました。買うものもないのに街に残った彼は、顔を真っ赤に染め上げて何年振りかに心から笑うのでした。

【ディズニーランドへ】

 海月がのっそりと現れる頃になって、香奈江は静かに思います。彼、洋介とのことです。付き合ってふた月ほど経ちますが、彼に言うべきかどうか迷っている事がありました。まだふた月ほどなのだから隠し事の一つや二つ、あってもいいと心の何処かで思っていましたが、あまりに誠実な洋介の瞳を見ると後ろめたいことを全て清算しておきたい気持ちに苛まれます。香奈江は今度遊びに行く時にハッキリ言おうと決めました。

 『ディズニーランドへ行こう』

 洋介は電話でそう言います。初めてできた恋人である香奈江とは、ベタなことをしたがるのでした。香奈江も洋介を翻弄するような言動をとるので、満更でもない彼は少しばかり子供っぽくなってしまったようでした。とても気が合うとか、お互いの全部が好きだとか、そう言う理由で二人は付き合っているのではありません。本当に好きなものや好きなこと、はたまた人になると『なぜ好きなのか』と言う理由は好きなほど曖昧になっていきます。なぜ付き合っているのかと言われれば『好きだから』になるのでしょうが、『なぜ好きなのか』二人には全くわかりません。嫌いにも同じことが言えます。このことを二人はわかっていました。

 秋口とは言え、ディズニーランドの門に並ぶ人の群れは暑苦しく、体温を持ち寄っています。今日すれ違って、残りの人生で一度も合わぬであろう人たちと同じ時を待つのは、何処かロマンに溢れている気がして洋介は少し人混みが苦手でなくなりました。

 『わかっていたけど、、すごい人だねえ。。』

 『そうね、私この国にこんなに人が居たんだってここに来るたびに思う』

この言葉が少しだけ洋介に引っかかりました。香奈江にとって洋介が初めての彼でないことを洋介はしっていましたが、昔誰と付き合っていたとしても今自分が付き合っていられればそれでいいと考えていたのです。しかし、現実に初めて洋介の前に見たことのない影がちらつきました。自分のことより大切に思える存在は、彼にとってとても大きすぎるものでした。経験のない彼は名前のついていない感情が湧き上がり、すこし動揺しました。こんなに大切な人が、以前自分以外に愛されて居たと思うとどうにも胸の奥がむず痒くなるのです。

 開園時間になると、塊になっていた人たちが一斉に夢の中へ吸い込まれていきます。夢の中へ向かって行く様子は、微睡んで居る状態に似通っていると香奈江は感じました。香奈江もまたこのように洋介に通じる考え方で群衆の動きを捉えるのでした。気が合うのではなく二人は似ているだけなのかもしれません。

 園内に入りあらゆる乗り物や見物がある中、洋介はどこから巡って良いやらわかりませんでした。小学生くらいの頃まで両親に連れられて兄と四人で来た以来、ここでの記憶は止まっています。しかし香奈江は前の彼と一昨年くらいまでなんどか来ていたせいかあれに乗りたい、これが食べたい、あれが見たいなど、夢の国の中をある程度わかっていた様子でした。そんな言葉の端々にも自分より経験のある香奈江に対する羨望の念が芽生えます。釈然としないまま、洋介は悶々とし、それでもはじめて恋人とくるディズニーランドを満喫していました。

 そんな気持ちで遊び疲れた頃、地球はすっかり廻り、太陽は洋介たちがいる所の反対側を照らしています。人が作り出した灯りだけが輝くこの国の夢は少しだけ醒めかかっているのです。二人は歩き疲れ、ベンチに腰掛けました。洋介は遊ぶことに集中している時よりも、来ているお客さんたちにいろいろな感想を抱きます。幸せそうな家族もいれば怪しい関係のカップルだったり、喧嘩して彼女の機嫌を取る彼もいれば、迷子と思しき子供の姿も見受けられ、日本の狭い一区画にあらゆる状況の人が押し込められているように思いました。

 『いろんな人がいるね、、、僕たちはどう写るだろうね』

 『高校生のカップルより少し大人びていて、不倫している人たちより少しだけは若々しいんじゃない?それくらいのことだと思う。』

 『少しだけ?不倫なんて自分の想像のつかないことしている人たちとは、、、、、僕たちもっとかけ離れている気がするけどな、、、、、。』

軽い気持ちで口にしたことの、さらに意識の及ばない所がうっかり出てしまい、そこに突っかかられました。

 『そうだよね、、不倫なんて、、大人だね。なかなか出来ないものね。。』

香奈江は狼狽しながら、洋介の純粋無垢な心に自分の汚さを見出すのでした。

 ぼんやりしていると、花火が打ち上がりました。疲れを忘れてしまうほど大きな音と光が、醒めかかっていた夢の中に二人をもう一度引き込みます。音と光にかこつけて、洋介は左隣にいる香奈江にキスをしました。一瞬のことでしたが、二人には少し長めに感じられたのです。花火に気を取られていた香奈江はびっくりする間も無く、洋介の唇を受け入れるのでした。香奈江はとても嬉しい反面、ものすごく汚い手で綺麗なものを握りしめているような感覚になり、洋介に見えないように一筋だけ涙をこぼしました。洋介はいっぱいいっぱいになっているためか香奈江の反応には気がつきません。気がついたらよかったか、これでよかったかは香奈江にはわかりませんでしたが、言うなら今日しかない、今夜中に自分でこの関係にハサミをいれなくてはならないかもしれない。そう思うと涙は一筋では収まらないのでした。

 夜がすっかり満ちたころ、二人は静かに家路につきました。二人の最寄駅は同じ駅で、大学のすぐそばです。いつも遊んだ帰りは最寄り駅で別れます。最終列車で帰って来た二人はいつも通り、『また明日』と別れるはずでしたが、今日は違います。香奈江には言わなくてはならないことがありました。

 『ちょっと待って、今日は話したいことがあるの。いや、話さなきゃならないって言った方が正しいかもしれないね。。』

 不意打ちのキスを決め込んだ洋介はすっかり帰る気でいて、家で一人悦に浸る心算でいました。

 『、、、なんの話?悪い話じゃないといいな。』

 『いい話では、、、ないかも。』

洋介の反応を見ないようにしながら香奈江は目をつぶってゆっくりと深呼吸をして、はっきりと切り出します。

 『私ね、初めて付き合った人は洋介くんじゃない。それは知ってると思うけど、実は前の彼は、、、人に言えないような人なんだ。』

洋介は少しこの言葉を飲み込むのに時間がかかりました。脳みその中であらゆる方向に考えが飛んで行っては跳ね返り、深いところまで邪推を巡らせました。

 『ヤクザと付き合ってたとか?』

 それでも洋介は一番浅いところにあった考えから香奈江にぶつけます。

 『ちがう。』

 『援助交際してたとか?そんなこと僕は、、気にしないのに。』

この程度であって欲しいと言う願望を込めて洋介は言いましたが香奈江は、『ちがう。』とさっきの言葉を録音して再生しているかのように思えるほど同じ調子の口吻でした。

 『私ね、高校の時から先生と付き合ってたの。それも最近までずっと。洋介くんと付き合うために別れた。それも結婚して子供もいるひとだった。私はその人の奥さんと子供の気持ちを踏みにじるようなことを平気でしていた女なの。。。。失望した?』

洋介は唖然としましたが、邪推の深さが作用してかそんなことを後ろめたく思っていたのかと、むしろ安心しました。

 『そっか、、、香奈江ちゃん、大人だね。失望なんてしないよ、、。』

 『これからも付き合っていてくれる?』

洋介にとってその時はまだ愚問とも取れるその質問に、首を大きく縦に振って、二人は長かった一日を終えました。


【コンプレックスに】

 時間というものは、人の味方になることもあれば人を苦しめることもあります。辛い思い出は時間が経って少しずつ辛さが和らぎます。最終的には時間のお陰でまた元気になれるのですが、時間が経ったことによって起こったことが辛いことであると認識してしまうのです。洋介は先月ディズニーランドでデートした時の、香奈江が別れ際に吐いたセリフが今になってモヤモヤと薄紫の煙のように心の中に立ち込めています。

 洋介は知らず知らずのうちに女性に対するものの見方が歪んでいたのです。何故知らず知らずだったかというと、これまで女性との経験があまりにも無かったからでした。香奈江のことを考えると、とてもじゃないけど正気でいられなくなるくらい、名前のついていない感情が湧き上がってきます。一番近いのは『嫉妬』になるのでしょうか。しかしそれだけではありません。嫉妬にあらゆるスパイスが混ぜ込まれています。それは今洋介の鍋の中でグツグツと煮え、『嫉妬』をベースにした別の感情になろうとしています。経験の少なさと少々狭い、四畳半くらいの心がそうさせるのかもしれません。学校の先生と高校生の時に不倫していた女など、初心者であり変に神経質な洋介には扱いが難しすぎるのです。そんなことはドラマや漫画の世界でしか起こっていないという、『自分でも気づいていなかった先入観』がものの見事に打ち砕かれ、その破片は彼の心のいろいろなところに突き刺さって抜けないのです。洋介は自分が女性と上手く付き合って来られなくて、しかしそれを気にしていないと自分でも思っていましたが、何気なく生きていた時間に同じ年頃の女がそんな大人びたことをしていたと考えると、何処か遠いところにいる人のように思えて、自分の生き方が味気ないもののように思われました。こんなに愛している人が遠い存在に感じてしまうのは、洋介にとって刺激が強すぎたのです。童貞を卒業したての男には。

 ベースになる『嫉妬』という感情は誰に向いているのでしょうか。これは少々複雑ですが、香奈江の高校の先生と香奈江自身、つまり二人に向くものでした。承認欲求がとても高い壁になっている洋介は、自分のことを嫌でない、受け入れてくれる女性という存在があまりにも自分の中で大きくなり過ぎていました。その存在の過去にチラつく汚れきった影に対する嫉妬と、ぼんやり生きていた自分の青春時代には眩しすぎる春を過ごした香奈江自身への嫉妬が遺伝子の螺旋のようにぐるぐると深層心理に絡みついてしまっています。不倫を羨ましがる彼の歪んだ倫理観は、彼をさらに生きづらくさせるのでした。

 『出かけよう、新宿あたりがいい。』

香奈江に電話でそういうと、二人はすぐに雑踏の一部になりました。とにかく行動したかったのです。元凶とでも一緒にいて自分の心の分析を進めたい反面、愛は消えておらずにとても燃え上がっていたのです。この愛の原動力が一体なんなのか全くわかりません。

 『行きたい所があってさ、、、アクセサリー屋さんなんだ。ペアの指環を作ろうと思うんだけど。。どうかな?』

 香奈江はとても喜びました。過去を感じさせない無邪気な笑顔と、歳よりも若く見えるあどけなく幼気な横顔が、洋介には何故か手放しに喜べませんでした。しかし喜んでくれているということは単純に彼も嬉しくて、自分とペアの指環を持つことに嫌悪感を抱かない女性が今ここに手を繋いでいてくれていると思うと、承認欲求は満たされて人並みの生活ができていると実感します。

 『新宿が似合わない人はいない。』洋介はそう思います。仕事熱心なビジネスマン、昼間から酔っ払っている中年、スタイル抜群の美人、黒人に白人、アジア系の留学生、可愛いけど汚い服を着た女、子連れの女に、高校生たち。オカマもいるし、金持ちも貧乏人も、募金を求めるアフリカ人と思しき人や、家族で来ている人も観光の老人たちもいて、ホームレスまでいる。こんな街に溶け込めない人など、この世のどこを探してもみつからないだろうと洋介は来るたびに思うのでした。いろいろな人が大勢いて、その一人一人が違う過去を持っています。人が縫いあって歩いている様は人々の歴史で縫い合わせた一枚の布きれになって『新宿』という街になるのです。洋介はその布きれにくるまっている気がしていますが、実は彼もこの布きれを形成する一本の歴史の糸なのです。彼の歴史も『新宿』に編み込まれています。

 人混みをかき分けたところに、落ち着いたアクセサリー店が口を開いていました。洋介はここに来ことがないのですが、事前に調べてありました。ここが一番落ち着いているアクセサリー店であると、軽く調べた限りでは思いました。チャラチャラした店に行くのが嫌だったという理由だけで、この店は選ばれたのです。

 店内には、クラシックが流れていてやはり見た目と口コミの通り落ち着いた店でありました。クラシックに詳しいというわけではないのですが、香奈江はこの曲を知っています。香奈江が付き合っていた先生は音楽の先生で、先生はこの曲が大好きだったのです。なぜ知っているかはしっかりと伏せながら、

 『この曲しってる。ベートーベンだよ。洋介くんも聴いたことあるでしょ?きっと知らない人は居ないんじゃないかって思うくらい有名だよね。でもクラシックは、聴いたことあっても誰が作ったなんていう歌かはみんな知らないよね。私もこれくらいしか知らない。』

先生と同じような口吻で今の恋人に話していることに気づいた香奈江は、少しうつむきながら洋介の方を一瞥しました。

 『香奈江ちゃん、ようく知ってるよね、本当に物知りだね。僕は音楽はからっきしさ、ベートーベンだって音楽室の壁に貼ってあったような気がするけど顔も思い出せない。そうか、、、、ベートーベンなんだこれ、、、、。曲名はなんて曲なの?』

 『喜びの歌っていうの。歓喜の歌ともいうけど、どっちでも通じるみたい。』

洋介は深く頷き、彼女の教養に感心しながら指環を選ぶのでした。それが先生に教えてもらった知識と知る由はないので、彼の精神衛生を脅かす言葉にはなりませんでした。

 洋介は案外自分の指が太いことに気づきました。その反面香奈江は子供のような手をしていて、店員も合うサイズを探すのに少々手間取った様子でした。あまり高いものではないけれど、指環を買うのは彼らにとって初めてのことでしたので、二人はとても満足しています。香奈江の初めてをもらうことができなかった洋介は、そのことでも幾ばくかの影を落としていましたので、彼女の初めてという言葉には少しだけ敏感になっていました。洋介は処女信仰があるわけではなかったのですが、香奈江の初めてを奪った男は学校の先生であり所帯持ちであったことから、ある種『穢れ』のようなものを見出していました。これが普通の恋愛をしてできた、何の後ろめたいことのない関係の上でもらわれていった初めてであったのなら、処女だとか、初めてだとかそんなことが彼に引っかかることも無かったのでしょう。しかし、全く自分の知らない世界である不倫という関係で、さらには先生と生徒という極めて後ろめたい非現実的な関係で起きたことでした。なのでもう別れたとは言え未だに洋介が立ち入ることのできない愉悦、悦びがそこにあったような気がして、その香奈江の初めてを超えた悦びを永遠に塗り替えられないような気さえして、先生と香奈江だけの世界が自分の前に真っ黒に拡がっていました。彼は最近こんなことをよく考えますがその時は途轍もない孤独が押し寄せて来るのでした。もうどんな言葉にも反応してしまい、二人でいるのに淋しくてなりません。新しい感情は鍋の中で煮詰まるのを待たずにコンプレックスになりました。指環は鏡のように全てを反射し、二人のそれぞれ違う指で同じ景色を映すのでした。


【喜びの歌】

 洋介の考えは甘かったのです。香奈江と初めてコーヒーを飲みに喫茶店へ行った日から丸々一年。彼はいくらか成長したように自分のことを思っていましたがそれは思い過ごしでした。この街に知り合いがいないかや、はたまたいるはずもない香奈江がいないかなど、そればかり心配になっています。背格好が似ている女が近くをすれ違うだけで脂汗は止まらなくなり、隣を歩く翔子に面白がってからかわれます。翔子は手を繋ごうだなんて言って来ますが、それは洋介の手汗まみれの手に触って面白がるために過ぎません。

 先月のことでした。高校のクラスメートたちが地元で集まるというので、洋介は一年半ぶりくらいに地元に帰ったのです。折角だからと実家に立ち寄り、家族に顔を見せました。彼女ができたとは言いませんでしたが、充実した顔を見て親というものは色々と悟るのかもしれません。実家に一泊したのち、同窓会へと向かいます。それが終わればまた実家でもう一泊し、朝東京へ戻る予定です。田舎の電車に乗る時は、時刻表を見てしっかりと時間に合わせて駅に着かないといけません。下手をすれば、小一時間の足止めはザラにあるのです。

 実家の最寄りの駅に来るのは、高校へ行っていた時以来でした。前に帰った時は両親が東京へ遊びに来た時で、車で来た両親と一緒に帰って来ました。なので電車で田舎へ帰るのはこれが初めてでした。高校以来のこの駅は、当たり前ですが何も変わっていないのでした。しかし東京に出て頑張っているという自負が幾ばくかあった洋介は目新しさを見慣れた風景の中に探します。

 午後六時、まだ日の残る町並みに見慣れた顔が連なりました。集合場所の居酒屋にぞろぞろと見た目以上に成長しているであろう同胞たちが入っていきます。席順は決まっておらず、入った順に奥から座っていきました。

 隣の席には翔子という少し地味だった子ですが、実は密かに洋介が高校時代に想いを寄せていた子が身を寄せました。

 『久しぶり!洋介くん元気にしてた?全然連絡くれないんだもん。』

 『ごめんね、、でもちゃんと覚えてたし、今日だって翔子ちゃんが来ると思って楽しみにしてたんだ、本当だよ。』

連絡先は知っています。しかし翔子は高校を卒業するときに、結婚したい人がいるなんて言っていたのでそのことを覚えていた洋介は気軽に連絡をすることが幾分憚られていました。

 『結婚したの?』

 『誰と?』

 『ほら、卒業するときに言ってたじゃない、彼と結婚したいって。』

 『そんな前のことおぼえてたの?そんなの高校生が言ったことだよ。若い時はみんな今付き合っている人がずっと側にいるって思うもんだよね。』

翔子は笑いながら言いました。たったの二年ばかり前のことを『若いとき』なんて言うことに、『若い』洋介は少し引っかかりました。やっぱり女の子の方が大人になるのがはやいのかなんてことを考えながら、香奈江が特別ではないのかもしれないと、少しだけ気持ちが軽くなったような気がしました。

 『結婚なんてまだまだ先かなあ。もっと遊んでいたいし、いろんな人と。』

 『遊ぶって?』

 『私たち大人になったんだからさ、遊ぶって言ったら、、まあ、、ね』

含みのあるぼかした言い方ででしたが、何を言っているかは東京に出て、ある程度『大人』になった洋介にもハッキリと解りました。自分には香奈江が初めてで、失恋なんて考えたくもないほど香奈江が大好きで、もちろん香奈江と結婚もしたくて、でも他の女の人も知りたくて。洋介はこれまた初めての気持ちになりました。経験を積めばこの慢性的な心の鈍痛が少しは和らぐのではないかという気持ちも生まれるのでした。

 酒の飲める年齢になった洋介たちは、若いとはいえ幾らか酒の飲み方は知っているつもりでした。そして酒を飲むとどうなるか、それもわかっていましたのであまり酔いすぎてハメを外してしまわないよう、洋介はこの時ばかりは冷静に、楽しく飲む事に徹して終電で実家へ帰るのでした。

 それからひと月経って洋介は東京の生活にまた慣れていき、香奈江とほとんど同棲のようになっているアパートの手狭さにも愛着が出ていました。何気なく携帯電話を見ているとこの間の同窓会のことを思い出すのです。連絡先にある翔子の名前は、同窓会の時に浮かび出たあの初めての気持ちを呼び起こし、邪な考えが脳みその真ん中にあるのがわかります。今日香奈江は就職が決まった会社の入社前研修で名古屋の支社にいると言う余計な情報も味方して、つい翔子と会う約束を取り付けました。性欲とは少しだけ違った欲が洋介を突き動かし、新宿の雑踏へと駆り出させました。

 遊ぶ場所を新宿にしたのにも意味がありました。翔子も東京に出て来ているのをこの間知り、お互いに手っ取り早いということ。そして、洋介は香奈江が先生と来たことのある場所で香奈江と遊んでいました。とても小さくて顕微鏡で見るくらいの復讐心でしたが、理由にするには大きいものでした。失恋をせずに経験を積みたいということが浅はかであり、大人になりたいがためにしているはずが子供じみた動機で、もはやこんなことをするのがバカバカしいのではないかと洋介は心の何処かで思ったのですが、心の中ですら言葉にはならず、立ち消えました。とにかく、モヤモヤした気持ちに折り合いをつけるには、彼のなかでは行動するということしか存在しないのでした。

 集合時間の十分ほど前に洋介は来ていました。西口の喫煙所の前で待ち合わせていて、集合時間の五分前に翔子はやって来ました。

 『早く来たつもりだったのに。』

 『大丈夫だよ、待ってないから。』

洋介は翔子を遊びに誘い出す時に、メールではなく敢えて電話をしました。翔子は電話に出ませんでしたが、すぐに折り返しが来てその電話で約束を取り付けたのです。その時に、この間の同窓会の時のことを話しました。メールでは伝わりにくいニュアンスを出す為です。

 『この間、、、いろんな人と遊びたいって言ってたよね?あれ、僕とも遊べるかな、、、?』

遊べるかなというセリフを強調したかったのです。文面ではただ遊びに行くという印象になってしまう為、通話である必要がありました。

 『、、、うん。、、、いいよ。それであんまり遅くならなければ大丈夫。』

洋介は自信というものは昔から全くありませんし、今もそれは変わらないのです。しかし、歪んだ愛憎と倫理観が香奈江によってむき出しにされてしまった彼は純朴な男であった時の見る影もなく狡猾になっていました。

 『じゃあ、新宿駅の西口に十三時で』

 香奈江との思い出しかない街に他の女との思い出を上書きすることによって、今度香奈江と来た時に翔子のことを思い出します。香奈江はきっとディズニーランドでも先生のことを思い出していたに違いないと洋介は思い、口は脊髄反射のように『新宿』と動いたのでした。

 二人は迷うことなくラブホテルへ向かいます。目的はハッキリと一つだけなので、ダラダラしません。翔子は幾分地味で歳よりも落ち着いて大人びた見た目と、高い身長が与える印象で少しだけ歳上に見えました。常に明るい女で、ひとしきり喋っていたようですが、洋介は気を張っていて空返事になることが多々ありました。いっぱいいっぱいになっている洋介は東京にいるはずのない香奈江や、事情を知っている大学の友人に会いやしないかと気が気ではありません。

 ホテルに着いて、部屋に入ると翔子は大人びた身体をいっぱいに伸ばし、アダルトビデオを再生しようとしていました。

 『先ずは気分からだよね。』

 笑いながら翔子は自分の体型に似た、細身の女優が出ている作品を選ぶと再生し、二人がけのソファでくっつきながらそのビデオを二人で笑いながら鑑賞します。笑っているとはいえ、気が気じゃない洋介は下腹部の膨らみに気づかれないように脚を組んだりして、雑談に花を咲かせながら興奮していました。

 『お風呂はいって来るね。』

 そういって立ち上がるとそのまま麻のシャツを脱ぎながら浴室へ向かいました。洋介のいる場所から翔子の胸の膨らみを横からうっすら感じ取れました。細身でありながらも、大きく弧を描いている形のいい上向きの胸でした。

 部屋には、昼なのに夜が満ちて行きました。そして彼らは快楽を貪り合うだけの時間を隅々まで泳ぎ回りました。想像していたよりボリュームのある翔子の胸や、手入れされてうっすらと生えている蒸れた陰毛など、視覚から得られる情報はもちろん刺激的でしたが、それよりも艶かしい匂いの方が洋介にとって興奮を何倍にも掻き立てます。シャンプーの匂いや服に使う柔軟剤などの匂いもその人とすれ違うだけで普段得られますが、こんな関係にならなければ嗅ぐことのできない、いわゆる『女の匂い』を翔子は醸し出していました。その匂いが顕著に立ち上る、彼女の粘り気を孕んだ雫が洋介の指に纏わりつきました。どんなに洗っても落ちない、女の遍歴が今、指先で糸を引いています。そして彼はその雫を自分がはめている指環に満遍なく、気が狂うほどはしたなく塗りたくりました。穏やかさの中にも激しさが垣間見得た時間の中を二人は泳ぎ切りました。

 驚くほど洋介は気が抜けてしまいました。普段感じる虚無感よりも数倍大きなものを感じている為です。大人になるってこんなことではない事にも薄々気が付いているようでした。

 『急に呼び出したりして、どうして私なんかと遊んだの?』

 ぼうっとしている洋介に翔子は声をかけました。しかし、翔子でなければいけないというわけではありませんでした。翔子は処女じゃないし、誰かの処女をいたずらに奪えるという状況でもありません。ただ自分が他の女を知らないことに対するコンプレックスが経験を積めば解消されると思ったのです。ただそれだけのことでしたので、いい加減な理由をつければ上辺だけでも翔子との夜にいくらでも意味を持たせられました。しかし妙に誠実になっている洋介は正直に話してしまいました。

 『ごめん。。翔子ちゃんじゃなくちゃいけないことなんてなかった。ただ自分のコンプレックスになってるんだ。』

 『コンプレックス?』

 『そうなんだ。今僕に付き合っている人がいてね。』

 『この間話してた人だね。』

 『うん。その子がね、処女じゃなかった。初めはそんなことどうでも良かった。でもどんどん好きになっていくうちに、昔の男がチラついて仕方ないんだ。それを考えると処女ってものにコンプレックスが出来た。』

 『へえ、でも私も処女じゃないよ?』

 『僕は彼女が初めてだったんだ。彼女には昔の思い出があるのが辛くて、僕にはそういうのなかったから、でも別れて彼女を思い出にするのは、、、どうしても出来ない。だから彼女と付き合いながら、いわゆる昔の女を、昔の思い出を今作りたくて誘ったんだ。そんな理由で本当にごめん。』

 『謝らなくてもいいよ。私も別に特別な気持ちがあったわけじゃないから。お互い楽しかったってことで、もっとドライに遊ぼうよ。』

 翔子は地味な顔をいっぱいに笑って見せました。洋介は翔子を身勝手で歪みきったコンプレックスの解消に巻き込んだこと、香奈江に後ろめたいことをした事で途轍もなく罪悪感を感じていました。そして、この行為はえも言われぬ興奮がありましたが、コンプレックスの解消には役に立たないことに、大人になれていないことにハッキリと気が付きました。

 帰りに新宿の駅へ向かう途中、洋介は来る時よりもずっと緊張していました。香奈江に背格好が良く似た女が通ると脂汗があふれ、翔子は面白がって手を繋いでこようとします。そして別れ際に翔子は、

 『洋介くん。女ってね、その時は大事なものと思うかもしれないけど、初めてってそんなに後から考えると大事なものじゃないんだよね。初めてセックスした人より、最期に死ぬ時まで一緒にいる人の方がよっぽど大事だよ。最初の男より、最後の男の方が。』

 そう言って脂汗にまみれた洋介の手をそっと掴んで『またね』とだけ言って自動改札機の向こうへ消えていき、人混みの一部になっていきました。

 洋介の考えは甘かったのです。翔子とのセックスには『悦び』はありましたが、本当の『喜び』は無かったのです。こんな事に振り回されている自分を思うと、得体の知れない笑いがこみ上げて来ます。ふと指環に目をやると、いつも通りの輝きを放っていました。とても重たく歪んだ愛を象徴する輝きに、一ページにも満たない洋介の女の遍歴が加わりました。『悦び』だけを追い求めることは自分の身の丈に合わないと、今まさに感じている洋介に、経験はこれで十分でした。

 改めて『喜び』だけを追求しようと洋介は思いました。これからは、張り付いた笑顔でなく、心からでるとびっきりの笑顔で香奈江と向き合っていける気がしています。おもむろにイヤホンをカバンから取り出し、作曲された背景もなにも知らないまま得意げに、音楽プレーヤーでベートーベンの喜びの歌を聴き始めました。電車が置き去りにする東京の景色に香奈江の顔を浮かべて、家へ帰ります。曲名の字面だけで聴いているとは思えないほど、洋介の心に顔も思い出せないベートーベンの曲がハッキリと響き渡るのでした。

                                    

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