皇太子
夏恵帝の子供…
「え、皇太子殿下?」
「そうだ紹玉蘭。って、おい!」
玉蘭はあまりの衝撃に皇太子と手を繋いだまま後ろにぶっ倒れた。
バシャンッと大きな水飛沫を上げてお互いびしょ濡れになる。
ハッと気づいた時には時遅く、遊瑧の額には青筋が出ていた。
「も、もももも申し訳ありません!!!!」
「………。」
「ゆ、遊瑧さま?」
「紹…玉蘭…」
その綺麗な見た目で何処からそんな声を出しているの?と言いたくなるほど遊瑧から出た声は地を這う野獣のような声だった。
「ヒッ!!ごめんなさい~!!」
立ち上がった遊瑧は滴で尚一層輝きを増している。
ポタポタと落ちる滴の音を聞きながら、玉蘭は必死に涙目になりながら土下座をした。
「もう、いい…」
溜息混じりのその言葉を聞いて、玉蘭の涙腺が遂に崩壊した。
ドバッと出てきた涙に遊瑧はギョッと目を剥き、どうしたんだよと大泣きする玉蘭を宥めるように言った。
「う、ううあぁぁぁぁ~」
「泣いてるだけじゃ分からないから…」
「わたくし…死罪ですよね…」
「…は?」
皇太子は未来の皇帝…。まず、対等を示すように握手を求めた時点で不敬である。その上、皇太子を池に引っ張り落とした。
地面にひれ伏しながら涙と鼻水と土でグショグショの顔になる玉蘭に遊瑧は苦笑いしか出ない。
「紹玉蘭…不問にするから泣き止め」
別に池に落とされたぐらいで遊瑧は人の命を奪うほど残忍な人間ではない。
この国の未来担う者として民には慈悲深くいなければという心がけが今の曹遊瑧という人物を造り上げた。
「姫さま~!!やっと見つけました~!!東の庭園の池に行ったのかと思ったらこちらの池だったのですね~。ってどうしたんですか!!その格好!!」
念珠があわあわと狼狽えながら、布巾で玉蘭の顔を拭いた。
「姫さま…折角綺麗なお顔でお生まれなられたのですから、せめてもう少し身なりに気を使って下さいませ…」
ズピー!!と鼻をかむ玉蘭に、まったく…と念珠は呆れながら視線を横にずらした。
「………。」
そこにはびしょ濡れの綺麗な少年がいた。
衣の豪華さから見てかなりの身分の方だという事は分かる。加えて、紹家にいる男児は二歳になる興暿さまだけ…。そして今日紹家には今上帝、夏恵帝の皇子が来ることになっている。
「あ、念珠。こちら皇太子の遊瑧さま。遊瑧さま、わたくしの侍女の念珠です。」
次の瞬間には先程の玉蘭と同じように念珠はその場にひれ伏した。
「で、でででで殿下に拝礼いたしますすすす!!!」
「あ、ああ…。早速で悪いが念珠。何か拭くものと着替えるものは無いか」
「は、はいぃぃぃぃ!!た、只今用意いたします!!」
念珠は二人をその場に残し、驚きの速さで走って行ってしまった。
「ゆ、遊瑧さま…」
「なんだ」
「本当に怒ってない?」
下から見上げられ、瞳を揺らす玉蘭はとても可愛らしく見え、遊瑧は不覚にもドキリとしてしまった。
「もう、いい…。お前も風邪を引くから早く着替えてこい」
「はい!!あ、遊瑧さまも一緒に行きましょう!」
そう言うと玉蘭は遊瑧の手を取り走り出した。
遊瑧にとって初めてであった。
ここまで皇太子である自分に敬意をはらわない人物は…。
遊瑧は玉蘭よりひとつ上の十歳である。
生まれたときから皇太子になることは決まっていたわけでは無かったが、武道にしても勉学にしても鍛練は嫌いでは無かった為、他の怠惰な皇子達よりも遊瑧に皇帝の期待が集まるのは自然な事であった。
民に求められる皇帝とは何か。
皆がひれ伏すだけの価値がある人物にならなければならない。
齢十歳の少年にとってどれだけの重責なのかを誰も分かってはくれない。
兄や弟たちは楽しそうに水遊びをしても怒られはしないだろうが、遊瑧はそうではない。少しの隙で皇帝には相応しくないと思われてしまうのだ。
そんなピンッと張った糸のような緊張が遊瑧のまわりにあるせいで、取り巻く人物たちも遊瑧に仕事以外では話しかけることは無かった。
「あ、そういえば!!」
回廊を歩いていると急に玉蘭は遊瑧の方を振り返った。
今度はなんだとうんざり顔で玉蘭を見つめ返す遊瑧。
「遊瑧さま好きです!!」
「は!?」
何を言っているんだこの女…。
さっき会ったばかりなんだぞ…?
だが遊瑧にとって初めての体験なのだ。告白というものは。意味不明と思っていても、嬉しいやら恥ずかしいやらの感情がジワジワと頬を赤くした。
「遊瑧さま!あなた皇太子なのでしょう!?皇帝になったら、わたくしを後宮に入れて下さいませ!!」
「………。」
「わたくし四の姫ではありますが、姉たちの方が美人でとても疎まれて育ってきました。醜女だの下品だの言われて」
「………。」
「ですから、姉上や父上をギャフンと言わせる為に後宮に入りたいんです!遊瑧さまが推薦してくれたら、わたくしでも後宮に入れるでしょ!?」
「…つまり、紹玉蘭…。貴様は父親や姉妹を見返したいから後宮に入りたいと?」
「はい!」
「余の事を好きというのは?」
「後宮に入りたいから言いました」
ニコニコと可愛らしい笑顔を向けてくる玉蘭に腹の底から怒りがこみ上げてくる。
遊瑧が純情が故の怒りであった。
「黙れ!誰が貴様のような端女を余の後宮に入れるか」
それだけ言い捨てて固まる玉蘭の横を通りすぎた。
ふざけた女だ!!
事実がそうでも普通隠すだろうが!!
そこに念珠が新しい衣を持ってきてくれたので、それに着替え広間に向かった。
先程の言葉があまりにもショックだったのか玉蘭は遊瑧が着替え終わってもまだ回廊で固まっていた。