角部屋
訓練に身が入らない……。
ドガッと投げられ、後ろに思いっきり吹っ飛んだ。
「おい!黒烏!てめーやる気あんのか!!」
「…………。」
「顔洗ってこいタコ!!」
タコって……。
ふらふらと立ち上がり井戸の方に向かった。
「大丈夫か?お前らしくねーぞ?隊長に易々と投げられるなんて」
「……るせーな…」
井戸から桶を取り、頭に中身の水を全てかけた。
勢い良すぎたせいか、後ろに立つ彗翔にもかかった。
「ちょっ!は~……濡れたんだけど……ったく、何だよ…イライラしてさ~…」
「………………。」
「件の姫さまといい感じだったんじゃねーのかよ」
「…………別に」
奧さまに言われたことが脳裏に反響して仕方ない。
分かっていた……。
一瞬彼女の姫さまに向けられた笑顔と声色に安心してしまったが、紹澪鮮という人物は姫さまが言っていたような人では無いのかもしれない。
『澪鮮さまはどんな人にも優しく希望を与えてくれる方なの!わたくしに色々なことを教えてくれたわ』
『きっと黒烏の事を凄く気に入ってくれるわ』
『いつかちゃんと話したら、わたくしたちの事を認めてくれるわよ』
笑顔でそう話した姫さまに俺も小さな期待をしていた。
だからこの前の奧さまの言葉はかなり堪えた。
『いずれはあの子を幸せにしてくださる方に嫁がせるつもりじゃ』
ああ……分かってるよ…。
『それは他の誰かであってお前ではない』
分かってる…………。
『玉蘭の気持ちも一時の迷いよ』
そうかもしれない…だけど……。
『すぐに終わりにしなさい』
姫さまは奧さまが俺たちの関係を認めてくれたと思っているのだろう。
姫さまのいる目の前で敢えて言わなかったという事は暗に"お前の方から別れを告げろ"と言っているも同然だ。
「姫さまとの関係が奧さまにバレた」
「は!?マジかよ!!あ、でも奧さまだろ?寛容な方だし玉蘭さまには甘かっただろ?案外簡単に許してくれそうだけどな」
「……現実はその逆だったよ」
俺は先日の事を彗翔に話した。
「…………驚いたな…」
「ああ…」
「玉蘭さまは意外と積極的なんだな………って冗談だよ!本気で殴ろうとするな!」
人が信頼して話したってのに…コイツ…。
「でも……そうか…。奧さまって裏の顔があるんだな…。美人で慈悲深い良き母は姫さまの前だけってか…」
「まぁ…そんなとこ…」
いつか来る別れの事を考えるなら傷の浅い内に終わりにした方がいいのかもしれない……。
何度もそう考えたが出来なかった。
それは既に傷が深くなると分かっているからなのだろう。
目を閉じれば出会ってから今日までの姫さまの姿が瞼の裏に映る。
照れると色づくあの肌が、艶めくあの唇が、ふとした瞬間に潤むあの瞳が他の誰かのものになると思うと気が狂いそうになる。
手放せない……手放したくないと思えば思うほど彼女がどれだけ掛替えの無い存在なのか思いしる。
「黒烏!!」
声がして目を開けるとそこには愛しい人がこちらに向かって走って来る姿が見えた。
「お~姫さまじゃん。何か前より色気増してね?………ぃたいたいたい!!足踏むなよ!!」
「彼女をそんな目で見るな」
「あの色気はお前のお陰だろって!イタイタイタイタイ!!!」
余計なことしか言えないコイツとは即刻親友をやめたくなった。
「黒烏、今は休憩中なの?あら、彗翔もいたのね。あなたはサボり?」
「こんにちは姫さま。俺はこいつの相談を聞いてやってるんでサボりでは無いですよ」
「相談?何か悩んでいるの?」
姫さまが上目遣いで小首をかしげながら尋ねてくる姿は本当に可愛い。
隣にいる彗翔もその姿に少し頬を赤らめていたので殺意が湧いた。
「いえ……大した事ではありませんから…」
「大したことかどうかはわたくしが決めるわ。話してみて。力になりたいのよ」
姫さまに事実を言えば姫さまが哀しむことは目に見えている。
信じていた人が自分の恋を応援してはくれていないのはきっとつらい。
何か言おうと口を開いたその時だった。
殺気に近い視線を感じそちらを見ると、角部屋にある大きな窓の障子の隙間からこちらをじっと見つめる目とぶつかった。
ゾクリと悪寒が全身に走るほどの不気味な光景にサッと視線を外したが、目が合ったことはあちらも気づいたからかすぐに障子が閉まった。
「姫さま奧さまがお呼びですよ」
「澪鮮さまが?どうしたのかしら?」
念珠殿が現れ、姫さまにそれ以上言及される事はなかった。
軽く挨拶をすると姫さまは行ってしまった。
暫くの沈黙が残された俺たちの間にはあった。
それを破ったのは彗翔の方だった。
「俺見ちゃいけないもの見たかも……すげー怖かったわ……」
さっきの視線に気づいてあの光景をこいつも見たのか…。
最近、姫さまと会うときはいつもこの視線が付きまとっていた。
はっきりと姿を見たのは今日が初めてだったが予想はだいたい当たっていた。
「奧さまの玉蘭さまに対する執着は狂気的だな…」
障子の閉じられたあの角部屋はこの邸の女主人の部屋である。




