名誉の負傷
この小説は完全なフィクションです。
目が覚めて、昨日飲みすぎたことを実感しながら、顔にかかった髪をかきあげると、右の頬から、ぺりぺりぺりぺりという不思議な音と、何かが剥がれ落ちる感覚に襲われて、思い出した。そういえば、玄関の前の段差で思いっきり転んだ。ちょっと、こめかみなんかを切ってしまったのだ。
自分の迂闊さにうんざりしながら、鏡を見た。流れて固まった血はそれほどの量ではなかった。一応、しばらくの間押さえて、ある程度血が止まったのを確認してから寝た記憶が薄っすらとある。右の眉の上が、二センチほど切れている。よく見ると、右の目の縁も、アイシャドーが残っているように、微妙な紫色をしていた。
「はあ……」
深いため息が、頭に響く。でも打ったせいではなく、明らかにアルコールのせい。三本目のワインを開けたことは覚えているのだが……
「そろそろ嫁にいきたいわ」
恒例のガールズトーク。完璧に負け犬三匹の遠吠え大会になっている。嫁に行きたいと吠えたのは、長すぎる春のナオである。最近彼氏にはお目にかかっていないのだが、学生時代から付き合っている彼は、確か一昨年、やっと医大を卒業したはずだ。
「私は嫁が欲しいわ」
そう吠えるユイはブライダル関係の仕事をしている。なぜかいつも長い「いい男リスト」を持っていて、デートの相手には事欠かないが、全員を『オトモダチ』と呼ぶ。
ワインバーというよりは、居酒屋に近い店の一角で、へヴィースモーカーな私たちは、煙をもうもうと吐き出し、ストレスも一緒に吐き出しながら、華の命を散らしていた。以前はこれが、食べ物もほとんど置いていない生粋のバーだったことを考えれば、飲み物がテキーラやウォッカでなくなったことだけが、ちょっと大人になったことかもしれない。
「で、マキはどうなのよ、そろそろ新しいオトコができたんじゃないの?」
ユイの目が好奇心でいっぱいになる。
「うん……多分」
「多分?」
ナオが片方の眉だけ吊り上げる。ユイは身を乗り出し、問い詰める。
「多分て何よ? おデートしたんでしょ?」
「うん……」
「キスなんかもしちゃったんでしょ?」
「……」
「やった?」
本人は小さな声のつもりで聞くが、隣の席のカップルが明らかに眉をひそめている。ユイのことを心底嫌いになりそうになったのをナオが引き止めてくれた。
「だめだよ、そんなこと聞いちゃ。マキはそういう話題苦手なんだから……」
「苦手って、三十五過ぎたいい大人が、オテテつないでオトコできましたとはいかないでしょう」
「そりゃそうだけど、そんな聞き方したら、マキはしゃべんなくなるよ。面白い話もきけなくなるじゃない」
「あ、そっか」
ナオのことも嫌いかも知れないと思って黙っていたら、癒し系全開のさすがは保育士さんの笑顔で、
「で、どうしたの? また言い寄られたのかな?」と聞かれて、少し心がほぐれた。
「……がう」
「え?」
「違う。一目惚れした」
二人は目をまん丸にして、顔を見合わせた。そして、もう少しで店員さんが注意するために飛んでくるんではないかというほど大きな声で、
「おめでとう!」やら、
「初恋じゃん!」やら、いいながら私の肩を両方からばんばん叩いた。当然、隣のカップルはまた怪訝な顔で、こちらを気にしている。
「でも……ふ、不倫なの」
二人の手が止まる。カップルの女は、まるで自分のカレシと私が悪いことをしているかのような、それはそれは怖い顔になっていた。
「いやぁ……」
二人は言葉を無くす。照明が一段落ちたような空気が流れる。
「デリバリー恋愛卒業が不倫か……」
ユイは私の恋愛をそう呼ぶ。自分からは好きにならず、言い寄られた相手からしか付き合う相手を選べないからだ。
「でも付き合ってるんでしょ?」
「……多分」
「オトナのおデートもしたんでしょ?」
「うん……」
「相手の女、どんな人」
二人は眉をしかめている。明らかに彼に対する怒りがふつふつと湧いているのがわかる。私は慌てて、両手を身体の前でぶんぶん振って見せた。
「結婚してるのは女じゃない」
「オトコ!?」
「そりゃ強敵だわ」
今度はカップルの男の方があからさまに汚いものを見るような目をしながら振り返った。私はさらに手をぶんぶん振っていった。
「違う、違う。仕事と結婚しているような人なの」
カップルは、『気持ち悪いけれど、面白そうな話』がたいしたことないのかと落胆した様子を見せ、自分たちの世界へ戻っていった。
それでも私たちのテーブルはさらに照明が一段落ちたように暗い雰囲気が流れた。
「ああ、それはさらに強敵だわ」
ナオは研修医の彼のことを思い浮かべたのか、背もたれに勢いよく身体を預けた。振動でほとんど空になったグラスが少しだけ揺れた。ユイは深く吸った煙草の煙を誰もいないほうへ吐き出すことで、顔を背けて言った。
「この歳で暇もてあましてる男とは付き合えないけどねえ……」
「オトコ版ユイでしょ?」
「私は誰とも付き合ってないよ、オトモダチなだけ……」
そう言い掛けたユイをナオが激しく睨むのが見えて、ちょっと涙がでそうになった。私の頭の中にもその考えはあったからだ。
押し黙ってしまった私に、ユイは優しく言った。
「でも、私だったら、マキみたいなタイプはオトモダチにはしないよ。だってあんたいい子だもん」
「そうだよ。相手の人だって、わかってるって。だって一目惚れするくらいいい男なんでしょ?」
こっくりと頷くと、また少し沈黙が流れた。BGMに流れていたのが七十年代のロックだと初めて気がついた。
「そういう男を攻略するのは、結婚が一番早いと思うけどなあ」
ナオは自分に照らし合わせたのか、テーブルの端を見つめながらいう。
「結婚は考えたことない……」
だって、彼はすでに仕事と結婚しているのだ。そりゃ、夜中に目が覚めたときに隣にいるなんていうのはとても魅力的なことだけど、私はすでに仕事と結婚している彼を好きになったのだ。
「重婚はできないでしょ?」
そう説明すると、二人はあきれたように、顔を見合わせた。
「完璧、愛人タイプだわ」
「うん。寸分の隙もない。今まで無事だったことのほうが不思議だ」
他にも理由があった。二人がいうように、多分初恋で、夜も眠れなかったり、食事も喉を通らなかったりするくらい、恋焦がれている。そんな恋をもし、失うことになったら、と思うと、今度は怖くて眠れない。
「だから、本当は片思いでもかまわない」
最初から一歩引いておけば、痛手は少ないかもしれない。
そう説明すると、今度はユイがテーブルの端を見つめていった。
「ああ、それ、わかる気がする……持っていないものはなくすこともできないもんね」
どんよりとさらに暗い空気が流れた。BGMで流れるハスキーな声が、
『自由っていうのは失くすものがないってことね』と歌っている。カップルは負のオーラを感じてか、絶え間なく吐き出される煙に気分を悪くしてか、まだ三分の一ほど残ったワインを置き去りに、席を立つ。ちらりとこちらを観察しながら、勝ち誇ったように男の腕に腰を抱かれる女の顔が印象的だった。
「なんにせよ、私たち臆病者よね」
「うん、負け犬でもない。敵前逃亡だから」
「……なんだか、いい歳になってからキャバクラにはまって身を崩していくオッサンになった気分」
私がそういうと、二人も笑った。
「そうだよ、マキは初恋遅すぎ。はまれ、はまれ、はまっとけ」
「オバサンって言われるのはムカつくけど、オッサンって言われると……吝かではない気がするわ」
ユイがパンと手を叩いて、もう一本ワインを注文した。
「じゃあ、乾杯しますか」
「マキの不毛な初恋に」
「オッサンという名の独身貴族に」
「あら、私は絶対一抜けさせてもらいますけど?」
ナオがそう宣言をして、グラスを合わせた。乾杯はかならず杯を乾かす。喉を鳴らし、染み渡るアルコールを「ぷはー」と言わんばかりに堪能すると、空気は一転。私たちは、灰皿にいっぱいになった吸殻が作る花のように上司の悪口で咲き誇った。
「げ……」
以前、コンタクトをしたまま眠って、起きたら黒目が真っ白になっていた、という怖い経験をした私は、流血してもコンタクトを外すのを忘れていなかった。安堵したのも束の間。買ったばかりのカラーコンタクトは、なぜか片方だけがケースにしまわれていた。その上、お気に入りの真っ白の帽子も、血染めの帽子になっていた。
(これ落ちるのかなぁ……)
ブルーな気分で、洗面所に向かう途中、運悪く母親に遭遇してしまった。手には、血塗れの帽子。まずいと思った私は、明るく笑っていいわけした。
「昨日、独身貴族飲み会で、ちょおっとだけ飲みすぎちゃって。玄関先で転んじゃった。ほら、ここ切っちゃって……この辺って怪我の割りに血がたくさんでるんだよねえ」
母親の顔が見る見る険しくなり、作戦がもろくも失敗したことを悟った。
「マキさん、ちょっと、そこに座りなさい」
「はい……」
「独身貴族かなんだか知らないけど、貴族なら貴族らしく、もうちょっと行動をわきまえなさい。あなた、今年いくつになるの? 最近は公園で寝るなんてことはしてないみたいだけど……」
三十分後、ようやく帽子を漂白し、戻った部屋の鏡には、いい年をして親に怒られた情けない、少女というには随分とガタの来た私の顔が写っていた。恋もお酒の飲み方も、まだまだ子供みたいだけれど、時間だけは確実に過ぎていく。オトナになりきるためには人生は短すぎる。遅すぎる初恋かもしれないけれど、ただのオッサンになってしまったかもしれないけれど、それでも私はがんばっている。彼のことを思えばせつないのにはかわりがないけれど、私にはオッサン貴族同盟もある。私はナオとユイに、ボクサーか私にくらいしかないだろうこのこめかみの傷をメール送信するべく、携帯電話のカメラを用意した。
「名誉の負傷」
そういいながら、シャッターを押した。
実は、冒頭の怪我の部分と、最後の親に怒られたところは作者の経験談です(公園で眠った前科あり)。飲みすぎには注意しましょう。