コーヒー
コーヒーを飲んでいたら思いついた物語です。どうぞコーヒーと一緒に読んでください。
久しぶりに訪れた喫茶店は、あのころのまま何一つ変わっていなかった。少し暗い照明も、落ち着いた色味を見せる木材も、わずかに香るほのかなコーヒーの匂いも。ぜんぜん人がいないことも。
「来月には閉めようと思っているんだ。」
店の奥から出てきたマスターは、最後に訪れた五年前と何一つ変わっていなかった。
「久しぶりだね。君が最後に来たのはもう五年も前ことか。」
初めてこの店を訪れた時、私はまだ高校生になったばかりだった。まだ十五歳の子どもが、大人ぶって入ってみようとしたのがきっかけだった。あの時は苦くて結局飲みきれなかったっけ。
「そうですね。でも、このお店が閉まるなんて悲しいですね。」
「はは。そう言ってくれる人が一人でもいてくれるだけで十分に嬉しいよ。」
そう言って笑うと、カウンターへ向かって歩いて行った。
あの日この店を訪れて以来、私は次第に通うようになって、高校二年生になると常連客になっていた。最初はガムシロップや砂糖をいくつも入れていたのに、気が付いたら使わなくなっていた。それでもやっぱりブラックでは飲めなくて、結局ミルク多めのブレンドコーヒーを頼むのが日課だった。
昔から変わらないいつもの座席に座った。店の一番奥の壁際だ。どこか勇気のなかったあの時の私が選んだ席だ。それ以来ずっとこの席は私のお気に入りだった。
「注文はいつものでいいかい?」
訊いてくるマスターに、私は首を振って答える。
「いいえ、オリジナルブレンドをブラックで。」
羽織っていたコートを脱ぐと、窓の外に目を向ける。数日前に振った雪がところどころ残り、景色をわずかに白く染めていた。
ふと五年前の冬を思い出した。受験に必死だった当時は、学校が終わると毎日この店に来て、この場所で勉強をしていた。静かで集中が出来るからと、たった一杯のコーヒーで何時間も居座っていた。今思えば大変失礼なことをしたと思う。それでも嫌な顔ひとつせずに、私のことを応援してくれたマスターにはいくら感謝しても足りないなと思う。
大学に進学してこの街を離れて以来、一度も訪れてなかったのに、このコーヒーの香りだけで思い出がよみがえってくる。随分と遠くまで来た気がする。五年、たったの五年なのに。
誰もいない店の中を、コツコツと靴音が響く。
「お待たせしました。オリジナルブレンド、ブラックです。」
静かに、慣れた手つきでマスターがコーヒーを運んでくる。音もなくテーブルにコーヒーを置くと、またコツコツと靴音を響かせながらカウンターに戻って行った。
懐かしさを感じながら目の前に置かれたカップをそっと手で持ち、ひとくちコーヒーを飲む。
あのころはただ苦くて、不味いだけと思っていたコーヒーが、今日はやけに美味しく感じる。ほうっと息をつくと、ひとくち、またひとくちとコーヒーを飲む。やっぱり、今日はすごく美味しい。
コーヒーの味に、どこか懐かしさを感じる。あのころとは違い、苦味の中に美味しさを感じる。けれど、やっぱり私には苦くて。
空になったカップをコツンと小さく音を鳴らしてお皿の上に置くと、カウンターの方を向いた。
「マスター。やっぱり、いつものもらえる?」