第3話 スプーン、フクリコウセイ、散歩
偲がシチューをすくうたびに、スプーンと皿が、がちゃがちゃと音をたててぶつかっていた。偲のスプーンの扱いが丁寧すぎるからだ。エンドウ豆みたいな形をした安皿からシチューをすくうときに、正式なマナーに沿ったスプーンの扱い方をするべきではない。手前から奥へすくおうが、奥から手前へすくおうが、右から左へすくうようにできた皿相手ではどうやったって上手くすくえるわけがない。
はじめて一緒に食事したときもこうだった。その次も、そのまた次もこうだった。偲は食事をするたびに、適切で非の打ちどころのない食べ方をしてみせた。正しすぎる食べ方だった。
水と空気から作られる模造食を地下で埃をかぶっていたのを拾ってきた皿で食べるときに、大昔の高級店でするような食べ方をするべきではないのだ。食事のたびにきっちりみっちりと、偲の食べ方を修正してきて、だいぶましになってきたとは思っていたのだが、固形物以外はまだまだ手直ししてやらなければなるまい。
「偲、どろどろしたものだって適当な食べ方でいいよ。ほら、私がやってるみたいに」
「あ、そうか。じゃあ、もしかして息を吹きかけて冷ますのも大丈夫なんですか?」
「そうね。飛び散らない程度に調整するのを忘れずにね」
「流石にそれくらいはできますよ」
最初、偲は手抜きのできない性分なのだろうかと思っていた。しかし、どうやら本当に手を抜くことができないらしい。それとも手の抜き方が分からないらしいと言ったほうがいいのだろうか。
なんとかかんとか食べ終わった偲は、結局、口の周りと服のあちこちを汚していた。
「ほら、これでふいて」
「ありがとうございます」
偲が今着ているのは、近場の地下街――正しくは地下街跡か――で見つけてきた子供用の服だ。これまで自分用の服しか探してこなかったから気づかなかったが、ずいぶんと保存状態のよいものがそろっていた。着る以外にも何かと役立つはずだから、折をみつけて取りに行った方がいいかもしれない。
私が拾ってきた服は、どの服も偲がはじめて逢ったときに着ていた服にくらべれば、安物もいいところだ。だが、使い潰せるという点だけみれば、私たちの生活、というか私がこれまでおくってきた生活にはこちらの方が適している。
「そういえば、この布もそうですけれど、伶はどうやって生活用品諸々を工面しているんですか?」
偲が、服と同じところでみつけてきたカラフルなハンカチで口を拭いながら尋ねてきた。
「基本的には拾ってきてるの。あなたにはじめて逢った歩道橋から少しいったところに、廃墟になってる地下街があるから、そこで。崩落もしていないし、動物も出ないし、必要なものはだいたい見つけられるのよ。私しか出入りしてないから、なくなる心配もしなくていい」
「食べ物とかは?流石にその地下街にはないでしょう?」
「このビルの地下に四角い機械――自販機だったかな――があって、そこでいくらでも手に入るわ」
「……自販機は、そんな施しの精神を持ち合わせた機械じゃないはずですけれど。あ、福利厚生の設備か」
「フクリコウセイ?」
「そう。このビルを使ってた人たちのものだと思います。自販機ってお金と物を交換する機械ですし」
「ふうん」
偲と話していると、こんなふうに偲の方で勝手に納得してしまうことがある。ここで、説明してくれるように言えばちゃんと説明してくれるのだが、言わなければ会話は途切れてしまう。
「まあ、自販機のような機械のことは置いておくとして。つまるところ、伶はお仕事をしていないんですね」
痛いところをつかれた。別に、仕事をしてないわけではない。生活用品だって、全部拾ってきているわけではなく、仕事の報酬で何とかしている部分もある。
ただ、この子にあまり自分の仕事の話はしたくはない。
「ええ、たまにどうしても必要なものがでてきたら、それを手に入れるために持ち主の手伝いをする程度かな」
「どんな手伝いをするんですか?」
偲が私に興味を持ってくれるのはうれしい。本当にうれしいのだが、こればっかりは本当のことを言うわけにはいくまい。本当のことをいったとき、偲がどういう顔をするのか、考えたくもなかった。
「配達とか。あとは、廃墟の中から物を拾ってくるとか。そんなところ」
嘘はついていない。主な仕事のことに触れずに、稀に持ち込まれる雑用を答えただけだ。この子相手に嘘なんてついたら、きっと顔に出るに決まっているので、嘘はついていないというよりは、嘘はつけないと言った方がいいのだが。
偲は、ほんの少しだけ間をおいてから、そう、とだけ答えた。違和感を抱いているようだが、追及しないでいてくれるらしい。バツが悪いことこの上ない。
「私、散歩がしたいわ」
朝食を終えてしばらくしてから、偲は唐突に言い放った。
同居をはじめてこちら、偲は私のためこんだ本やら雑誌やらを読んで時間をつぶしている。そうでないときは、私の本棚を勝手に整理している。だが、いい加減飽きてしまったらしい。
「散歩っていっても、この辺りは廃墟ばっかりよ。見るものなんてないと思うけど」
「気晴らしがしたいんです。本に目を通すのは楽しいですけれど、流石に嘘か知ってることのどっちかしか載ってないんじゃ飽きがきます」
「嘘か知ってることって……」
「ねえ、お願いです、伶。今度地下街に行くときでもいいから連れて行ってください」
困った。一度駆逐したので、この辺りにはもうほとんど『獣』は出ないが、万が一ということもある。いざというとき、私一人なら逃げ切れるが、他人を連れてとなるとやったことがない。
「少しだけ、ビルの周囲を歩くだけでもいいんです。これじゃあ、施設にいたころと変わらないんですもの。一日中、分かりきったことを話すか読むかしかしないのなんて、もう沢山」
「そういう言い方をするのは卑怯じゃない?」
「こういう言い方をすれば伶は私の言うことを聞いてくれるでしょう?」
こういう風に私に何かをさせようとするときに、偲はとても可愛らしい笑みを浮かべるのだと気付いた。
どうしたものかと思案していると、どこか遠くから、ぐるるるると、唸るような低くて耳障りな音が響いてきた。だんだん近づいてくる。誰かの訪問を告げる音だ。
「乗り物の音ですか?」
「そう。誰か来たみたい」
タイミングが最悪だ。ここに来るのは、私に仕事を持ちこむ者に限られている。ごくまれに通りすがりの旅人が立ち寄るのだけれど、光を灯している夜ならともかく、昼間ならこのビルは保存状態のいい廃墟とそう変わらない見た目をしている。十中八九、仕事の依頼人だろう。
仕事がこの近所ですませられるものでなかったら、偲は着いていきたいと言いだすに決まっている。そうすれば私の仕事も露呈する。最悪だ。
「偲、応対してくるからここにいて」
そういって、私はビルの階下へ向かった。
「お邪魔してます、伶さん」
ビルの一階で私を待ち受けていたのは、見覚えのある男だった。