第2話 パン、頭でっかち、おはよう
出逢って数時間も経たない相手との同居を決めるものではない。
たとえば、相手が身分不詳、住所不定だったりする場合は特に、だ。戸籍なんてもう機能していないけれども、名前しか分からない子供ならなおさらだった。
あと、相手がまともに生活できるかどうかは確かめておくべきだろう。
「やり方は知っているんです。出来ないだけです」
灯台ビル――周辺の廃墟の中では数少ないまだ機能している建物で、私の寝床だ――に帰ってきてから、少女は何度もこの言葉を口にした。
少女は、部屋の汚さをはじめ、私の寝床に文句ひとつ言わなかった。それはありがたい。ただ、少女の生活能力の低さは、文句と同じくらい対応に困るものだった。
「知っていると出来るは、同じ意味でしょう。とくに、生活上できなくちゃいけないことの場合は」
「伶、物事の知識を有していることと、物事を実践できることは確かに不可分ですけれど、何事にも例外はあるものじゃないですか」
一事が万事、この調子だった。例外と言い訳するには多すぎる。あと、私の名前を呼び捨てるのはいかがなものか。少女と私の歳は、少なくとも十は離れている。十歳かそこらくらいの外見と少女口調は、あまりに不釣合いだった。
口調と同じくらい、少女の外見と不釣り合いだったのは、その知識量だった。きっかけは、朝食の前の時間に、私が廃墟となった地下街で拾ってきた雑誌を少女が眺めていたときだった。
ちょうど、宙を飛んでいる人の写真が掲載されているページが開かれていたのを見て、私は少女に話しかけた。
「知ってる?重力に干渉して空を飛べるようにしてるんだって」
「四十一年前に、地球の裏側で小さなグループがはじめた学際的なプロジェクトが発端なんですよね。プロジェクトが実を結んで、誰でもお手頃な値段で自由自在に空が飛べるようになるって、ずいぶんと騒がれていたとか」
「知ってるの……?」
「ええ」
「あの、なんで知ってるの……?」
「知ってるからですよ?」
会話が途切れる。少女は、私が用意した卓上のパンの方に魅入っていて、それ以上言葉を紡ぐ気はない様子だった。
「物知りなのね」
「図書館まで足を運ぶ手間が省けるだけじゃないですかね」
少し不機嫌そうに少女は返事をした。怒らせてしまっただろうか。
「えっと、嫌なことを言ったなら謝るわ。ごめんなさい」
「……謝らないでください。あまり、物知りって言われるのは好きじゃないんです。それに、私は伶にお世話になってる立場で、伶は、いつ私を、追い出しても、いいんだから」
少女が不自然に区切った言葉を発したものだから、私は少女に自分の分のパンを1つあげることにした。
「私、朝はそんなに食べないから、これも食べて。足りなかったらまた取りに行けばいいだけだし」
「本当ですか?いただきます」
少女は、私の皿から移されたパンを細い右手で持つと、左手で小さくちぎった。そして、右手に持ったパンを皿の上に戻してから、ゆっくりと左手の欠片を口へと持っていき、長々と咀嚼していた。
「そんな馬鹿丁寧に食べなくてもいいよ?」
「でも、パンはこうやって食べるものでしょう?」
「いや、こうやって」
私がかぶりつくと、少女は得心いった様子で、皿に戻していたパンを右手で掴んでかぶりいた。口が小さいのか、かぶりつくというよりはかじりつくと表現した方がいいような不自然な動きだった。
少女のことを無理やり一言で表すのならば「頭でっかち」となるのだろう。ただ、これはしっくりくるような表現ではない。たしかに少女は、知識に沿って手順通りに物事を進めようとするために、あまりにも遠回りをしすぎていた。それに、やり方を説明できるのに、実際には出来ないこともずいぶん多かった。
しかし、「頭でっかち」なんて言葉で言い表すには、あまりにも遠回りしすぎていたし、出来ないことが多すぎた。それに、少女はちゃんと助けてやれば、すぐに正しいやり方を覚えてくれるのだ。
だから、私が少女に抱いたのは、「ズレている」という印象だった。
住んでいた場所が分からない。生活能力に関しては、いちいち指導が必要。少女にあるのはただただ膨大な知識だけ。私は、この少女を今すぐにどこかに押し付けるべきだと結論した。
考えてみれば、私がやっているのは誘拐まがいのことに他ならない。きっと、世が世なら、誘拐まがいではなく、誘拐だと私を責める者もいたはずだ。今なら、まだ保護と言い張れるかもしれない。私は今すぐ、彼女と縁を切るべきなのだ。なに、一夜の過ちのようなものだと思えばいい、たぶん。その相手がまだ幼い少女なのは、いささか印象深いが、きっと忘れられるはずだ。早速、少女とこれからどうするべきかを相談しよう。
机の反対側でパンにかじりついている少女に、声をかけようとする。けれど、私はまた、出逢った時と同じように少女に魅入ってしまった。私のぼろぼろの服の裾を両手両足折り曲げて、寝癖で頭を膨らませている少女は、私の眼をまっすぐ見つめながら、私の言葉をじっと待っていた。出逢った時に遠くを見つめていたような眼差しで、今度は私の眼を見つめていた。
ああ――今度こそ逃れられない。
離れられるなら、最初から声なんてかけるものか。昨日と同じように見つめられて、ようやく認識を改めた。否、向き合わざるを得なくなった。一晩の過ちだと思えばいいというのは、あながち悪くないアイデアだったらしい。ただ、この過ちはもうしばらく続きそうだ。そして、私は致命的な一言を発した。
「おはよう、偲」
「おはようございます、伶」
偲の口角が、上がっていた。
とてもとても、可愛らしかった。