第15話 風呂場、石鹸、溺れかけ
浴場には、朝の澄んだ空気が満ち満ちていた。集落の中央同様、浴場は吹き抜けになっていて、頭上には青い空が顔を覗かせている。
まだ時間が早いので、陽射しがたっぷり差し込んでいるわけではなかったが、それがむしろ落ち着いた雰囲気を周囲にもたらしていた。
「行楽施設らしいというか。ずいぶん大きいお風呂ですね。プールみたいです」
「泳ごうと思えば泳げるわよ。サギリには、ここを水遊びの場にしている子供たちもいたはずだし」
「……私、泳げないです」
「そもそも、浮ける?」
「浮き方は知ってます。できないだけです」
着替えに苦労するほど動きの淀んだ人間が自由自在に泳げたら驚くぞ。
「そういえば、いきなり入るのって駄目なんだっけ」
「身体を洗ってから入浴することが多いですね」
「私たちしかいなくても?」
「どこで小さい子供が見ているか分かりませんから。手本になるようにしないといけないですよ」
小さい子供が何か言っている。目の輝かせ方からして自分がやってみたいだけに違いない。
「見ているか分からないっていえば、こういう造りって覗かれたりとかはないのかしら」
頭上の吹き抜けを私は見上げる。
「吹き抜けの上からは覗かれないはずですよ。下側からだけ覗けて、上側からはこっちを見られないようになっているんです。それにサギリの人たちが使っているなら、そのあたりは心配しなくていいんじゃないですかね」
「いや、覗かれるのが心配ってわけでもないんだけれどさ」
単純に、武器になるものを1つも持たない状態で、誰かとか何かとかに曝されたくないだけだ。
「じゃあ、私の心配ですか?」
「偲、あっちの方、深くなってるはずだからあとで一緒に泳ぐ練習をしましょう」
「あ、そこの床みたいにひび割れたりしているところがあるかもしれないので、気を付けて下さいね」
偲が部屋の端、普通に使っていたら絶対に踏み込まないような床を指さす。共倒れになる気はないので、ここは話題を打ち切ってやろう。
部屋の一角に置かれていた桶のうちの1つを手に取って、湯をすくい、身体を流す。首から床まで伝った湯は、そのまま石の模様をなぞりながら、浴場の隅へと流れていった。
「あ。石鹸、忘れたからとってくるわね」
たしか入り口のすぐ横に石鹸の詰まった容器があったはずだ。
「石鹸なんてあるんですか?」
「アラガで手作りしているのよ。このままアラガとの交流が途切れたら、ここの人たちは使えなくなるでしょうね」
「水酸化ナトリウム……は使わなくてもできますか。そういうのって全部旧暦の遺物に頼りっきりなんだと思ってました」
偲が考え込んでいる間に石鹸と布をとってきて身体を洗う準備をする。
「大抵はね。でも、アラガみたいに複数人ファンブルを抱えているようなところだと、その分余裕ができるから、自前でいろいろ作ってることがあるの。――じゃあ、そこ座って」
偲を床と一体化した腰掛けに陣取らせる。
身体がすさまじく固いせいか、偲はろくに自分の身体を拭けない。手が届く部分ですら、二回に一回は身体をひっくり返す。仕方がないので、偲の身体を綺麗にするのは、私の仕事になっている。
偲は身体を現れながら、じっと部屋のあちらこちらに視線をやっている。
「床、全然汚れてないのはすごいですね。でも、狭霧モールってそんな素材を使えるほど、羽振りのいい施設ではなかったはずなんですけど」
身体を洗われつつ、少女は、目を輝かせながら首を傾げるという器用なことをしている。
「大戦のときのシンソザイってやつらしいわ。圭の受け売りだけど。一次大戦と二次大戦の間、ファンブルが工業にいろいろな形で関わった結果だとかなんとか」
「新素材ですか。ううん、どうやってるんでしょう」
「さあね。よし、洗い終わったわよ」
偲の身体に湯をかけて、泡を洗い流す。
「先に入ってていいわよ」
けれども、偲は、一向に風呂の方を向かおうとしない。
というか、一歩も動く気配が感じられない
「どうかした?」
「伶、手を繋いでください」
「――ああ、床、滑るものね」
私が身体を流したときに湯が飛び散ったものだから、動くに動けないらしい。それにしたって注意しすぎだ。もうほとんど湯は流れてしまっていて、濡れている程度でしかない。この状態の床を歩けないのであれば、動物園まで一人でたどり着くことも、そこからの探索もできやしなかっただろう。
だとすれば――
「もしかして、水怖いの?」
「だって!だって、ビルにいるときも、濡れた布で身体を拭くくらいだったじゃないですか!」
偲がまくしたてた。灯台ビルでは、濡れた布で身体を拭いて済ましていた。昔ビルに立ち寄った旅人に木桶風呂をつくってもらっているので、その気になれば風呂にも入れるのだが、滅多なことでは入らない。偲が来てからは、少なくとも一度も使ったことはないはずだ。
「しょうがないわね」
仕方がないので、要望通り手を繋いでやった。
「でもこれじゃあ、お湯をかけられないと思うんだけど」
「そうですね」
「自分で湯をかけてから入浴するように言ってたわね」
「子供相手に大人げないですよ、伶」
「偲、子供げないわよ。すぐに洗っちゃうから待ってて」
私が大人なのかどうかは別として、偲の前では、大人らしく振舞いたい。
「それじゃあ、今度こそ」
ささっと自分の身体を洗い流した後、私は偲の手を取る。そして、ゆっくりと風呂の方へと向かう。一度も転ぶことなく、風呂のへりまでたどり着けた。
浅いところを選び、脚を下ろし、浸ける。身体と湯との温度差のために、刺すような感覚が来た後に、心地良い暖かさがまとわりついてくる。
風呂の底と浴場の床の高低差は大したものではなかったが、私に体重を預けたり、しがみついたり、支えにしたりしながら、長い時間をかけて偲は湯の中へやってきた。
「偲、どう?お風呂は?」
「……うん!温かいです」
少しのあいだ、湯の感覚を味わうように目を閉じた後、偲は、目を輝かせながら勢いよく顔を上げて、感想を口にした。
あまりにも急に頭を動かしたせいだろうか。感想を口にしながら、偲は思い切り足を滑らした。
掴んでいた手はいつの間にか離されている。全力で手を伸ばして、偲の腕を掴む。
「――ッ!」
抱き寄せるには、もうお互いの身体が傾きすぎていた。偲には悪いが、少し辛い目に遭ってもらおう。頭をぶつけるよりはマシだろう。
倒れながら、偲の身体を思いきり湯の中心へと放り投げる。結果を確認するより先に、私の頭が水中に落ちていく。
……ぶうんと、遠くから機械音が聞こえてくる。機会の整備をできる人間がサギリにいた記憶はないので、たぶん整備不要かつ自動化された機械がどこかで生きているのだろう。
そんなことを考えてしまうくらい、ずいぶんと長いこと沈んでいたような気がした。立ち上がるまで、大した時間はかからなかったろうに。
急いで起き上がると、湯の中心で、ばしゃりばしゃりと、景気よく水しぶきが舞っている。
「伶!伶!ダメですムリで……」
少女は見事に溺れかけていた。
「ひっく……いや浮き方は知っているんです。べっほ……できないだけです」
急いで助け起こすと、偲は泣いているんだか咳き込んでいるんだか分からない声でお決まりの台詞をいう。普段なら混ぜ返すところだが、さすがにこの状況で追い打ちはできなかった。