第1話 ヒトガタ、桜、少女
どこからか、遠吠えが聞こえてくる。
私は、迷彩柄の仕事着に手早く着替えて、灯台ビルの外に出た。
昼間に降っていた雨は止んでいたが、道路のひび割れや穴に水がたまって、ところどころに小さな川や池ができていた。霧が出ているせいで、まだ生きている街灯の明かりも、手持ちの電灯もあまり頼りにならなかった。
遠吠えのした方向へ早足で向かっていくと、空気がぴりぴりと張りつめてくる。
いつもの感覚だ。私が始末しなければいけない怪物が、近くにいるときの気配だ。
今さらになって、一度ビルに戻り準備を整えるべきか思案する。ナイフはあるが、皮を貫けるかどうか分からないし、少し装備を整える方がいいかもしれない。
ビルの方向へ足を向けたところで、唸り声が聞こえてきた。振り向くと、黒々とした狼頭のヒトガタが、爛々と輝く目をこちらに向けていた。
――たいして大きくはない。ここで十分迎え撃てるだろう。
そう判断したところで、こちらに向けて狼頭が駆けだしてきた。
「たいして、速くもないな」
わざわざ声を発したのは、事実確認というよりは、自分自身への鼓舞だ。
残り十歩。ナイフでは勢いを殺しきれないと判断して、半身に構える。
残り七歩。背負っていた袋を右手に持ちつつタイミングをはかる。
残り五歩。接近のペースは変わらない。このまま振り抜いて問題ないだろう。
残り三歩。近づいてくる狼頭が口を大きく開けて、飛びかかってきた。
――瓦礫のつまった背負い袋を、思い切りよく横に振りぬく。
一瞬の交錯の後、悲鳴を上げて、狼頭が私の右側に吹き飛んでいった。
体勢を整えられる前に走りこんでいって、瓦礫入りの袋を、今度は上から叩きつけた。飛び散る朱色を横目に、そのまま袋を握る手を緩めて、三度腹につま先をねじ込んだ。
狼頭が、もがきながら背負い袋を自身の頭の上からどかす。と、同時に、思い切りよく、袋の下から出てきた頭部を踏み抜いた。踏み抜いた足を下げる勢いで、そのまま、後ろに跳ぶ。
……しばらく待っても、『獣』が立ち上がる気配はなかった。どうやら、息絶えたようだ。
背負い袋を確認しにいくと、袋は赤黒く濡れていた。使い物にならなくなっても仕方がないとは思っていたが、頑丈で大きかったので、いざ本当に使えなくなると、洗えないかどうか思案してしまう。臭いを嗅ぐと、生き物の血とは思えないひどい臭いががした。
ため息をついてから、私は背負い袋を捨てていくことに決めた。
不意打たれなかった幸運の対価だと思えば安いものだろう。幸い、まだ同じものが寝床にはいくつか残っている。
それにしても、普段に比べて、ずいぶんと楽な相対だった。とはいえ、それでもだいぶ体は火照ってしまっている。汗もかいているし、はやく帰りたい。最後にもう一度『獣』が動かなくなっていることを確認してから、私は早足で帰路についた。
帰り道、霧がすこし晴れてきたところで、空を見上げる。月が綺麗に見えるし、明日は雨を心配する心配はなさそうだ。霧のせいか、道路の脇に乱立している桜の色がいつもと違って見えていた。
視線を進行方向に戻そうとすると、少し離れた歩道橋の上に人影が立っているのが目に入ってきた。
――目をこらす。
先ほどのように空気も張りつめていないので、『獣』ではないことは間違いない。けれど、こんな時間に屋外にいるなんて何者だろう。
一瞬、霧が薄くなる。周囲で生きている光を灯している街灯は一、二本で、たいして明るくもなかっただろうに、不思議と人影の正体は、はっきりと私の目に焼き付いた。
どこか遠くを見つめる、人形みたいな少女だった。
少女は、黒くて可愛らしい服の上に、黒くて裾長の上着を羽織って、黒くて丈の長い靴を履いていた。どれも、廃墟だらけのこの場所には似合わない。そのせいか、少女の立つ歩道橋はまるで、展示台のようだった。その上に立つ少女も人間と言うよりは人形めいていた。
あんな綺麗な服、たとえ手に入ったとしても、二、三日であちこちに引っかかってぼろぼろになってしまうだろう。いよいよもって不思議だった。ただ、何よりも不思議だったのは、気付いたときには自分が少女の隣に立っていたことだった。
冷たい風が吹いてきて、人形の黒髪がなびく。黒一色の少女に、私はなぜか、ひどく真っ白な印象を抱いた。きっと、彼女の服装にほつれも汚れも1つとして見つからなかったからだったと思う。
「寒いですね」
人形が微動だせずに発した声で、自分の身体が、ひどく冷たくなっていたのに気付いた。黒くて白い少女に、どれほど魅入っていたのか。それは、1秒だったようにも、数時間だったようにも思える。
「心臓がうるさくて気づかなかった。何処を見ているの?」
「そういうセリフを初対面の女の子に言える人って、現実にいたんですね」
私が尋ねた後、少女はクスクスと笑っているようだった。
そんな風に、私と少女は益体のない話題をいくつか交わした。その間、少女は一度もこちらを見なかったので、途中から私も少女と同じ方向に顔を向けることにした。
「どうして、こっちを見てくれないの」
「今はまだその時じゃないからです」
「じゃあ、いつ?」
「今日は無理だと思います」
「ねえ、いつからここにいるの?」
「いつからでしょうね。あなたは?」
「キミを見てから」
「ここっていうのは歩道橋じゃなくて、この廃墟だらけの街のことですよ」
私と少女の会話には、本当、中身なんてまったくなかったことは断言できる。私は少女の声を聴くのに精一杯だったから、自分が何を言っているかなんて気にする余裕はなかったのだ。精一杯だったからこそ、歯の浮くようなセリフを次から次へ言えたのだと思う。
ふと月を見あげて、もう真夜中か、と呟いた。
「そうですね、そろそろ行かないと」
「どこへ?」
「どこかへ」
「どこから来たの?」
「いたくない、場所、から」
彼女がそのとき発した言葉は、不自然に区切れていた。私が馬鹿なことを言い放ったのは、きっとそのせいだった。
「うちに来る?」
少女が息をのむ音が聞こえたような気がした
「あなたさえ、よければ」
「もちろん。歓迎会は、いつになるか分からないけれど。――私は、伶っていうの」
「偲です。人を思う、と書きます。どうぞ、よろしくお願いします」
そこではじめて、少女は私の方を見た。身長があまり高くはないから、大して年齢を重ねていないと見積もっていたのだけれど、こちらを見た少女の顔は想像以上にあどけい。けれども整うべきところはきちんと整っていて、数年先には、美しく成長することが予想できた。
だけれど、その眼は、まるで人形のよう。空虚で、深くて、落ちてしまいそうな少女の眼から逃れられたのは、少女が細い手を差し出してきたからだった。女の私の腕でも、用意に圧し折れてしまいそうなその腕は、やはり人形めいていた。少女の眼をまた見ないようにしながら、私はそっとその手を握った。
長く外にいたせいか冷え切っていた少女の手は、とても柔らかかった。そこでようやく少女が人形ではないことを確信する。
――これが、私と少女との邂逅。あれから随分と時間が経ってしまったけれど、それなりに細部まで思い起こせるようでよかった。
これからの物語に、このときのやりとりはまったく関係がないのだが、ここから話さないと、私自身の収まりが悪いので許してほしい。
けれども、真夜中に初対面の少女相手に、いい年をした女が、恰好をつけて絡んだなんて話をしておけば、これから私が変に恥ずかしがって嘘を吐くこともないだろう。そういう意味でもやはり、この夜の出逢いは、私たちの物語になくてはならない一幕なのだ。