91話 〝英雄〟対〝英雄〟(5)
撃ち出される火の玉を、走り回りながらひたすら避け続けます。
茂みや木の陰に隠れつつ視界に入らないよう気を付けているつもりなのですが、確かにミルシュカさんは、マイヤの位置がわかるようでした。
閃光がちかちかと目をくらませ、爆発の音が鼓膜を叩きます。
正直、怖いです。でも、足を止めるつもりはありません。
マイヤはリーン様のために、ただ時間を稼ぐだけ。
ひたすら走って、跳ねて、地面を転がって――やがて十何度目か、二十何度目か、火の玉をかわした回数も分からなくなったころ。
「……あ」
マイヤは小さく声を上げて体勢を崩しました。
木の根に足を取られたのです。
ちょうどその瞬間を狙ったように降り注いできた炎が地面をえぐり、マイヤの体を吹き飛ばします。
ぐらぐらする頭を振って顔を上げると、すぐ前にミルシュカさんの無表情がありました。
「……邪魔しないで、って言ったのに」
「ごめんなさいです。でも、マイヤはリーン様のメイドですので」
自分でも驚いたことに、マイヤは微笑んでいました。
「お役に立たないといけない――いえ、お役に立ちたいのですよ」
ミルシュカさんは小さく肩をすくめました。
「今回は、きっちり敵は殺す契約になってるの。お金のために処理させてもらうわね。恨むなり憎むなり、お好きにどうぞ。――《業火よ》」
ぼっと右手に炎が灯ります。
「……楽しくないのです? お仕事」
思わず尋ねたのは、ミルシュカさんの様子にどことなく疲れたような印象を覚えたからです。
「仕事って、そういうものだから」
そうなのでしょうか?
マイヤの考えは、おそらくミルシュカさんとは異なっています。
ただ、それを語り合う時間はなさそうですね。
もちろん最後の瞬間まで諦めず、マイヤはリーン様の元へ戻る道を探し続けます。
でも、そんな結末を容易に与えてくれるほどこの人は甘くないというのも、また確かなように思われました。
「それじゃ、さよなら」
ミルシュカさんは右手を掲げます。
マイヤはじっと精神を集中させます。
隙があるとすれば、おそらく攻撃に移る一瞬だけでしょう。
と、そのとき――
「マイヤ、よけなさい!」
響き渡るファリンさんの声。
同時に、マイヤたちの頭の上から巨大な木の幹が降ってきました。
◆◇◆◇◆
人間族を遥かに上回る腕力と振り回した巨大な槍斧で、ファリンは倒木を打ち出した。
斜面の上から、下にいるマイヤとミルシュカを目掛けて。
大人二人でやっと抱えられるほどの大木が、一本丸ごと土の上で跳ね、加速しながら坂道を落ちていく。
二人の背後は川に向けてほぼ垂直に落ちる急斜面。逃げ場はない。
それでも、マイヤならかわせるはず。俺はそう確信していた。
多少の手傷は問題にならない。
あいつにはそれを可能にするだけの反応速度と身体能力がある。
しかし、ミルシュカは違う。
彼女の運動能力は、ほぼ一般人の水準。
筋力も敏捷性も体術も凡庸なものだ。
だから危機が迫った際、単純に回避するのではなく己のもっとも信用する手段に頼る。
「《灼熱の刃は、穢れし巨木を切り刻む》!」
頭上から襲いかかってきた倒木は炎の剣刃によって微塵に刻まれ、まるで爆発したかのように火の粉を散らして四散した。
俺が待っていたのは、その瞬間だった。
声を出さず、ただ呼気だけを鋭く吐き出す。
練り上げた勁を両脚に込めて地面を蹴り、炎に包まれた木片が渦巻く中を正面から突っ切り――そして、ミルシュカの眼前に降り立った。
「よお。やっとお近づきになれたな」
刀を喉元に突きつけられながらも顔色一つ変えず、しかしその目にわずかな驚きを宿して、ミルシュカは俺を見た。
「今度は俺の気配、感じ取れなかっただろ?」
「…………」
「ネタが割れれば、いくらでもやりようがあるってわけだ。――お前、熱を見ることができるんだな?」
返答はなかったが、この場合沈黙は肯定と取って構わないだろう。
おそらくミルシュカは、温度の高低を視覚的に認識することができるのだ。
牢の偵察に行ったときファリンが見つかったのは、姿は隠していても体温は隠せなかったから。
ミルシュカは空気の温度が不自然に変化しているのを読み取り、その先に侵入者が潜んでいると判断したわけだ。
森の中に入ったとたん大規模な火炎魔術を控えるようになったのは、燃えるものが多く存在するから。
周囲の木や草が炎に包まれてしまうと、人間の体温が高温の中に紛れてしまって察知できなくなる。
身体的な意味での戦闘能力に劣るミルシュカにとって、隠れている相手の気配を読み取り損なうというのは致命傷だ。
極力避けるべき事態だったのだろう。
「自分の近くで炎が燃えてると、いわゆる目が眩んだような状態になるのかね。今は燃やされた木片が通常の視覚も温度感知も両方無効化してくれたってわけ――おっと、魔術は禁止だ」
ミルシュカがわずかに殺気を覗かせた瞬間、その首に刃を触れさせる。
傷はつけていない。いつでも斬れると教えただけだ。
「最初の一音節を口にする前に、俺はお前の首を落とせる。降伏しろ。お前の負けだよ」
敵意をみなぎらせたファリンと複雑な表情を浮かべたマイヤが、ミルシュカの左右を固めている。
逃げ場はない。
長めの沈黙を挟み、ミルシュカは口を開いた。
「降伏すると、わたし、どうなる?」
「牢に入るか、それとも首とお別れするか。ま、協力的なら、命は助かるだろうな」
イスカーチェの陰謀に協力し、戦闘では中心的役割を勤めたのだ。
護衛軍や獣人隊には死者も出ている。無罪放免とはいかないだろう。
しかしエルラ皇国にしても、イスカーチェの企みを裏付ける証言は欲しいところだし、減刑の可能性は低くない。
「あ、あの、マイヤもお口添えして、なるべく罪が軽くなるようにしますから」
マイヤは真剣な表情で言った。
ファリンの方は黙っている。思うところがないわけではないだろうが、判断は俺に任せるということらしい。
俺たちは、ミルシュカの結論をじっと待つ。
やがて彼女はぼそりと言った。
「……牢屋は、嫌だな」
「――――!」
その瞬間、殺気が動いた。
詠唱を警戒し、反射的に俺はミルシュカの口元に注意を向けた。
だが、攻撃は魔術ではなかった。
ふっと短く息を吐き、ミルシュカは動く。
踏み込んだ足から腰、肩を回して流れるように力を伝え、敵に向けてまっすぐ突き出される拳の一撃。
武術における基本中の基本。
(拳打、だと!?)
意表を突かれた。
鋭さはなく、達人の域には遠い動き。
技術的にいえばマイヤにすら劣るかもしれない。
しかし、俺の胸を目掛けて放たれたそれには――勁が込められていた。
まともに当たれば、俺の心臓を破裂させるに足る一撃。
――そう、まともに当たってさえいれば。
「……は、は、さすが、ね」
ミルシュカは力なく言った。
首を押さえたその指の隙間からは、赤い血が流れ落ちている。
最後の攻防は一瞬でケリがついた。
俺は軽く半身になって攻撃をかわすと、殺意の返礼として首筋を切り裂いたのだ。
彼女の拳は俺に触れることすらなかった。
「ああ残念、届かなかった。やっぱり、ダメね、わたし」
「……勁功を使えたのか?」
問いかけると、唇の端がわずかに持ち上がった。
「……あなたは、才能があったのね。うらやましい。ミナヅキ様も、さぞ、喜んだでしょう?」
「お前――」
ミナヅキを知っているのか?
あいつはどこにいる?
何を言うべきか、あるいは何を訊くべきか、言葉がとっさに出てこなかった。
その一瞬の隙に、ミルシュカは身を翻し背後へと飛ぶ。少し遅れて水音。
俺は舌打ちした。
「追いますか?」
駆け寄ったファリンが、指示を求めた。
「……いや、いい」
こちらにも、もう余力はない。
まずありえないとは思うが、ミルシュカがまだ反撃する力を残している可能性を考えると、マイヤやファリンに追わせるのも危険だろう。
ゲルトとマイヤは戻ってきた。
ミルシュカを追い払ったことで、イスカーチェ軍も街から手を引くはず。
成果としては十分だ。
(終わった、か)
俺は刀を収め、体の力を抜いた。
ようやくこの騒動に一段落ついたわけである。
だが、俺の中にあるのは満足でも安堵もなく、ただ虚脱感と疲労だった。
ミルシュカはミナヅキのことを知っていたようだ。
しかし、何一つ聞き出すことはできなかった。
手がかりは目の前でするりと逃げてしまったのである。
これでまた振り出しだ。
そのとき、マイヤがおずおずと口を開いた。
「あ、あの、だんな様」
「どうした?」
「その、捕まっているとき、ミルシュカさんと少しお話したのですけど――そのとき、ミナヅキ様について聞きました。数年前まで、東の小さな村にいたそうです」
俺は眉をひそめ、詳しく話すよう促した。
マイヤがミナヅキの行方を求めていることを知ったミルシュカは、部屋を出ていくときに振り向いて言った。
ミナヅキなる人物はミルシュカの故郷の村に二、三年ほど前まで滞在しており、ミルシュカ自身も彼女から『色々習った』のだと。
ミナヅキは――魔術にも精通していたはずだ。
かつて俺は、魔術師の才能がないと言われたことがあった。
ミルシュカは俺と逆、つまり勁の才能に恵まれず、だから魔術を教えられたのだろう。
「蛇族が多く暮らす貧しい貧しい村で、一冬の食料にも四苦八苦して飢え死にする人が出るくらいですけど……ミナヅキ様がいる間は楽しかったそうです。希望が見えた気がした、って」
「希望、か」
そうしてミルシュカは力を金に換え、貧しさから脱する道を選んだわけだ。
いずれにせよ、師匠へと繋がる細い糸は、途切れていなかった。
まだ辿っていくことができる。
そのときふと、耳の奥でミルシュカの声が蘇った。
腹を空かせた弟や妹が、二、三〇人くらいいる、と、そんなことを言っていた。
そのときは、適当なことを、と聞き流したのだが――
「……ああ、そっか、村一つ分の子供背負ってたんだな、あいつ」
呟きが漏れた。
そりゃ金が欲しかっただろう。
囚われの身になるわけにはいかなかっただろう。
俺は少しだけ苦い笑みを浮かべ、小さく息を吐く。
戻りましょう、とファリンが静かな声で促した。
次回で第二部ラストです。
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